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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カインは なぜ・どこが わるかったのか?)

カインの心の闇とは?

このQ&Aのポイント
  • カインの心の深い闇について、具体的な解釈は読む者に委ねられています。
  • カインが怒り、顔を伏せる理由についても、読む者の解釈に任せられています。
  • 農民と遊牧民の違いが心のやましさに関わるのかは明確ではありません。

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回答No.1

弟を殺したことがやましかったのでは?  信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。

bragelonne
質問者

お礼

 やり方をおしえてさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。  ☆ 文脈をも交えて引いてみます。  ▼(ヘブライ人への手紙11:1-4) ~~~~~  1: 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。  2: 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。  3: 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。  4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあと エノクやアブラハムやヤコブ・イスラエルらあるいは ヨセフやモーセなどなどのことがらをめぐって 信仰とは何か・その見えない力のことが語られています。  ここで なお分からないのは こうです。  ▼(同上) 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。  ☆ アベルが信仰の篤い人であったことは そのまま受け容れるしかありません。分かります。ですけれども   ▼ アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ  ☆ たからと言って その《いけにえの優れ具合い》によって・あるいはつまりカインのいけにえは劣っていたということによって   ▲ (創世記4:5) カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。  ☆ ということなのでしょうか?  つまりまづ  ★ 弟を殺したことがやましかったのでは?   ☆ という理由は ちがいますよね? なぜって やましかったあと ころすまでに到ったのですから。  整理しつつ考えてまいりますが:  (1) カインも 神にいけにえをささげているということは 事実である。    ▲(創世記4章) ~~~~    3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として     持って来た。    4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。     主はアベルとその献げ物に目を留められたが、    5: カインとその献げ物には目を留められなかった。    ~~~~~~~~~~~~~     (2) 《土の実り》は 《羊の群れの中から選んだ肥えた初子》よりも劣っていた。あるいは絶対的にまちがっていた。もしくは いやしいものであった。ということなのか?  (3) あるいは――いまのつてで言えば―― その農作物だとか羊の初子だとかのモノの問題ではなく いけにえをささげるときの心の問題なのであろうか?  (4) おそらくヘブル書にしたがえば それら全体としてのその人の《信仰》のあり方やその中身の問題であったということであるらしい。そういうことなのか?  つまりは 人の気持ちや心の問題をも超えて 否応なしに 〔ひょっとして心の目にも見えないところの〕信仰のあり方として決まっている・つまりは 神の目から見て 決まったということであろうか?  (5) つまりは もしそうだとすれば 信仰とは ひとつに人間の心や意志のあり方を超えて すでに神のほうから見て 決められていると取るべきか?  つまりいちおう人間はその自由意志で考え動くのであるから その意志による自由選択が どうなるかを神は予知していて その信仰のあり方がけっきょく決まっている(分かられている)というかたちになるのか?  (6) もしそうだとすれば カインは    ▲(創世記4:5) ~~~~   カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。   ~~~~~~~~~~~~~  というのであれば そのときただちにその信仰の問題だということが――つまりは 人間の側の自由意志によるのではなく そうではなく 神の側の予知の中におさまる自分の信仰のあり方が問題だということが――すでに分かっていた。ということだろうか?   (7) カインは アベルにくらべて(もしくは比べるという問題ではなくかも知れないが) いけにえに何をささげたかではなく そもそも信仰のあり方が おかしかった。そしてそのこと自体について 神が《そのいけにえに目を留めなかった》そのことによって ただちに納得した。こういうことなのか?  (8) すなわち カインとアベルとそして神とのあいだで すべては――最終の決定的な要因としては―― それぞれの信仰のあり方が決めるということなのだろうか?  (9) そうしますと むしろこうなりますまいか?  すなわち 《いけにえに何をささげるか》にかかわらず・あるいは もっと言えば たとえ《いけにえに何をささげるにしても・ささげなかったにしても》 それにはかかわることなく 信仰のあり方が 神に見られていた。分かられていた。――したがって 初めからカインは弟のアベルをけっきょくにおいてころすようなことになると分かられていた。ということなのだろうか?  (10) だとすれば この一般化して《ひとごろし》ということの意味は どういうことなのか?  なぜアベルという人間は――あるいはアベルでなくとも 人が―― ころされることになったのか? そのことにどういう意味があるのか? という問いに成って来ませんか?  (11) それは 弟をころして《呪われる者》となったから カインはわるいのではなく そうではなく もともと信仰のあり方によって わるいおこないをする人間であった。となりましょうか?   (12) そしてそれでも カインは 神による守護をも得て 生き抜く。生き続けるということにつながりましょうか?   (13) こういう物語なのでしょうか?  (14) でももし こういった広く捉えて《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。こう取ってよいでしょうか?  (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?  (16) もしそうだとしたら    ▲(創世記4:8) ~~~~~     カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、     カインは弟アベルを襲って殺した。    ~~~~~~~~~~~~~~  というようなかたちで いま現代において 襲われるときには 人は抵抗するということでよろしいでしょうか? なぜならカインの問題はすでに済んでいる。ゆえに 二番煎じを演じる謂われはない。と考えられましょうから。  ヘブル書の記事をおそわり 一気に考えてまいりました。  このようでよろしいでしょうか? どこか間違えましたでしょうか?

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その他の回答 (36)

回答No.7

神学や聖書の解釈について、ほとんど何も知りませんが、素人理解でもかまわないのでしたら、、、   1)創世記第1章では、神が作ったものすべては、はなはだ良かったとのことですから、林檎の樹も蛇も神の思い通りのいいものだったのです。   2)その後、創世記第2、3章では、神は林檎を食べるなと人(アダム)に指示して、その後でイブを作ります。さらに蛇にイブをそそのかせ、イブにアダムをそそのかせて、アダムが林檎を食べてから、叱責しています。 ☆ 神は人(アダム)を神に似せて作り、はなはだ良かったとしながらも、アダムの思考や行動を試して、出来損ないだったことを確認して、作り直すのではなくて、追放し、新たな追加責任を課しました。 3)創世記4章のときには、神に何をささげるべきであるかの律法は、アダム、エバ、カイン、アベルには、まだ示されていません。レビ記やヘブル人への手紙は気にしなくてもかまわないと思います。 4)カインとアベルがそれぞれ捧げものを持ってきたとき、神はカインの捧げものを軽く扱います。それで、カインは激しく怒って顔を伏せました。   5)神は、カインに「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」と言います。 神学ではどう解釈するのか知りませんが、カインの捧げてきた土の実りは、良い捧げなのか/or/良いとは言えない捧なのか、の識別をカインが自分で考えるように求めているように思います。忸怩たるところがあるから、顔を伏せたのだろうというロジックでしょう。犠牲や捧物についての律法を神はカインなどにまだ示してはいないので、捧もの神が無視した事に対するカインの反応で、カインの神に対する姿勢、誠意を試したのでしょう。 神がどういう行為をしたにせよ、人が何かに対して(神に対してでも、アベルに対してでも、その他のことにしてでも)激しく怒ったり、相手の顔を見ていられないような状態になるのは、カインは、神が作るつもりのパーフェクトな人間ではなかったことが、これで判明します。(カインの直接の両親がアダムとイブでも、それを作ったのが神で、アダムとイブが創世記第3章の神の指示でカインを生んだ)(この状況は、林檎、蛇、エバを使って、アダムの出来具合を確認し、失敗作だったのがわかったのと同じです)   6)神は、カインに「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と言います。 神学ではどう解釈するのか知りませんが、神は、それでもまた新たなためしをします。 カインがアベルを憎むようなことやアベルに対する害意を抱かないように、カインが自分をセルフコントロールすることを求めているようです。仮に、アベルに対する嫉妬のような気持ちが湧いたにしても、そのような低次元の心理や感情を自分で抑制せよと、カインに言ったようです。   7)カインは、アベルに言葉をかけ、野原でアベルを襲って殺す。(ここでまた、神の作ったカインは神の期待を破ります。神の人間作りは欠陥だらけで、大失敗作であったことが確認されます) 6)の神のためしは、ものの見事に、人間が失敗作だったことを示します。仮にカインはアベルを殺さないで、恨んで暴力を振るっただけなら、今度は神はアベルを対象に何かのためしを仕掛けて、アベルも出来損ないであることを神に示し、神はがっかりするストーリーになっているのでしょう。 聖書は、人間は神に似せられて作られたが、失敗作であることを繰り返して記載してると思います。    ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽ ~~~~ ▲☆▽  6: 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。  ~~~~~~~~~~  ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら カインの心中にやましく動きがあったのかと推察されますが、それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか?    ☆★  ★☆ ※ ストーリーの流れから、カインにやましさがない(神に対し誠実で、最高の捧ものをしたと昂然といていられる)ことはないでしょう。 ストーリーは、いかに人間は出来損ないであるかを、一貫して述べています。 ※ 何がカインのやましさであるかであるかは、どうでもいいのだと思います。だから、そこは省略されていると思います。読むものが、自分に引き戻して、やましいことを考えてもかまわないでしょう。それであたりではなくて、自分の反省に使えればかまわないでしょう。 例えば、農産物は大量にできたので、一番いい部分は自家消費用に残して2級品を持っていたとか、あまりを捧ものにしたとか、、、。 捧ものそれ自体の良否ではなくて、神から自分が軽く扱われたことに対する悔しさ屈辱感かもしれません。どれであるにしても、神から見れば、神に似せて作った人間としては失敗作だったことを示す反応です。 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来たとの表現から、一番を選んで捧ものにしたとのイメージで、カインは土の実りを持って来たとの表現ですから、二番目かあまりモノか最高のモノかはわかりません。カインは神に無視されたことで嫉妬か恥ずかしさか何かの反応をしただけです。 創世記3章では、神は、人をエデンから追い出して、人が土を耕すようにしたことが明記されているので、羊を飼うのでも、農耕するのでも、どちらも、神の指示に従ったことで、どれを仕事にしたのかで、やましさが生まれるとは思いません。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。――まづは もとこうこうせいさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――できるだけ経験合理性によって判断しうる論理と感覚において 応答してまいりたいと考えます。《信仰》のことを避けてとおるわけには行かないでしょうが。  ★ 聖書は、人間は神に似せられて作られたが、失敗作であることを繰り返して記載してると思います。  ☆ これが基本的な見方だとおっしゃっている。こう受け取りました。  この命題について考えてまいります。  個々のご指摘については 質問者ながら 〔ほかにも同種のご回答を寄せてもらっていますが 特には〕回答No.1およびNo.2を基軸としてわたくしなりの答えを得ましたので 〔個々のご指摘については〕いま上の命題についてお応えすれば おおむねお応えできるかに思えるほどですから。  問題は  ★ 神に似せて  ☆ という表現をどういう内容として解釈するか。だと思います。  《似ている》のなら その神のごとく もっとしっかりしていなさい 人間よと言うのか。それとも 《似てはいるが 片や経験存在であり 片や非経験の領域なる存在であるのだから その隔たりは はなはだしい。有限と無限との違いがある》と捉えるのか。  とうぜんこの選択では 後者になるのですが それでも問いはつづくようです。  ★ 1)創世記第1章では、神が作ったものすべては、はなはだ良かった  ☆ ならば 隔たりの絶対性にもめげずに 人間はそれなりの  ★ 神が作るつもりのパーフェクトな人間  ☆ であってよいし そうであるはずではなかったのか? それなのに  ★ 神は人(アダム)を神に似せて作り、はなはだ良かったとしながらも、アダムの思考や行動を試して、出来損ないだったことを確認して、  ☆ といったことがどうして起きるのか? こういった問いに行き着きましょうか。  そうですね。――と余裕をこいて お応えしますが―― どうなんでしょう? たとえば アダムは エワにさそわれて禁じられた善悪を知る木から採って食べたあと 風のそよぐ或る夕べ 神から    アダムよ きみはどこにいるのか?  と問いかけられます。つまりその声を――たとえば良心の声を――聞くだけの耳は持っていたのでした。そうして ただし 女がすすめるから食べたと理由にならない言い訳をもしています。エワも同じように言い訳をします。  おそらく これでよいと神は見たのだと思います。よい答弁ではないのですが 勝手に木から採って食べたというその自由意志について まちがったかたちだとは言え 答責性を持って答えようとはしている。  この説明責任をともなった自由な選択としての自己表現 この形式でよいと見たのだと考えます。  言いかえると 神であるなら 自由意志による選択は すでにその同じ時点で責任もともなわれています。責任を含んだ行為がぜんぶ実行され そのままぜんぶ自由な意志行為が成ります。ということは この神に似せてつくられた人間の場合には この《選択における自由》と《自由にともなわれる責任》とは 時間的なずれをともなって おそらくけっきょくにおいては 一体となって成ると考えられるというわけです。  後半の議論は 希望において《一体である》かたちですが――つまりほんとうに一体であるかどうかは分からないのですが―― それでも 神においては 意志行為がその結果や責任についても 最初の行動の時点ですべて完成されている。ところが 人間の場合は もし完成されうるとしても それは 時間的なずれをともなってである。こういう《類似点》と《似ても似つかない点》とがある。と考えられます。  つまりひと言で言って 人間は この自由と責任といった主題について《出来損ない》であって それで《よし》なのだと受け取っています わたしの場合。  すなわち アダムらがエデンの園を追われても それがふつうだという意味です。  カインは――わたしはこれまで考えつかなかったのですが―― 神への信仰において それを曲げたりゆがめたりすることがあった。これでも よし なのだと見ます。  弟をころすこと この点については おそらくこの世において人びとは殺し合うことがあるといった経験事実を捉えて その言わば起源をどうにかして捉えようそして描いておこうとしたのだと受け取ります。  アダムらの子どものあいだに歴史事実としてそういう悲惨な出来事があったかどうか それには関係なく 聖書記者は すでにこの第二世代においてそういう事態を取り上げ取り扱った。こう捉えます。  どうでしょう?  個々の事例について見てみます。  ★ 4)カインとアベルがそれぞれ捧げものを持ってきたとき、神はカインの捧げものを軽く扱います。それで、カインは激しく怒って顔を伏せました。  ☆ ですから この表現には 隠し玉があってそれは 《信仰》のあり方なのだと暗に言っていると見るわけです。表面の文字や表現には気を遣っていない。  ★ 6)神は、カインに「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」と言います。  ☆ これは ただひとつのこと すなわち のちのこと(つまりアベル殺し)をもすでに含めて 《それでも 生きて行け》という意味だと見ます。    ★ ~~~~  ※ 何がカインのやましさであるかであるかは、どうでもいいのだと思います。だから、そこは省略されていると思います。読むものが、自分に引き戻して、やましいことを考えてもかまわないでしょう。それであたりではなくて、自分の反省に使えればかまわないでしょう。  ~~~~~~  ☆ ここは重なるところもあるようです。いづれにしましても やましさは それがあっても《信仰のゆがみ》にかんするそれのみが問題になっていると取るわけです。  ★ ~~~~~  創世記3章では、神は、人をエデンから追い出して、人が土を耕すようにしたことが明記されているので、羊を飼うのでも、農耕するのでも、どちらも、神の指示に従ったことで、どれを仕事にしたのかで、やましさが生まれるとは思いません。  ~~~~~~  ☆ これは 趣旨説明に触れたことと呼応していると思います。  セルフコントロールですとか ささげ物がどうであるかですとか 述べていただいていますが どうもそういった心理的なことがらや比較としての程度問題などにかんしては 聖書記者は まさにそのように表現しておいて まったく関心がない。どうもこのようであると読みました。  果たして どうでしょうか。

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  • hakobulu
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回答No.6

> 7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。  ~~~~~~~~~~  ☆ こういう声を聞いてカインは 否まなかった。のなら 何か心の中にやましく心苦しい動きがあったのかと推察されますが それが何かは 読む者の解釈に任せられていましょうか? : 男児にとって父親は乗り越えるべき存在であると同時に尊敬したい対象でもあるわけなので、主の言葉はアベルへの嫉妬を掻き立てるに充分であったことでしょう。ゆえに、 >(主が) カインとその献げ物には目を留められなかった。 : のなら、 >  カインは激しく怒って顔を伏せた。 : のは(カインが神ではなく人間であるならば、という前提でですがーーーとお断りするのは全く知らないからですが)当然のことでしょう。にも拘わらず、 >「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。 : と主が尋ねたのだとすればいかにも間の抜けた問いではないでしょうか。 むしろ、そのことがアベル殺害の直接的動機となったとしても不思議ではないでしょう。 つまり、全くの独断的解釈によれば、アベルは主の身代わりとして殺されたことになります。 あるいは、弟を殺すことによって父からの愛を渇望していることを知らしめたかった。 代替的にエディブスコンプレックスが実現された、とでも言いましょうか、側面から捉えると極めて明白な展開だろうと思われますが、聖書を読んだことのない素人の戯言と受け止めていただいて構いません。 しかし、いやしくも神であるならば、なぜ贈り物の中身で差別する必要があったのか、そのあたりのほうがむしろ興味があります。 また、嫉妬心を掻き立てることになるという単純な事実にすら気づかなかったのだろうか・・・などについても面白いなという印象を受けました。 あえて試練を与えたのだということであれば、完全な出来レースですから聖書自体が無意味になってしまうでしょうし。 素直な印象としてですが、聖書というのはなかなか面白い読み物のように感じました。 というか、面白く紹介していただいた、と受け止めるべきなのかもしれませんね。 なんか的外れな回答のようで申しわけありません。 聖書に全く興味ない者が回答してはいけませんでしたね。 適当にスルーなさってください。           

bragelonne
質問者

お礼

 これはですね。――はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。――これは 回答No.1を受け取ってから そしてそれをべストアンサーだと内心では決めたにもかかわらず まだなお回答を受けつけていた質問者がわるいと言えばわるい。まづこうお断りしなければならないと考えます。  おおきなあやまちだとは しょうじき 思いませんが――なぜなら 多くの方々のいろんなご見解をうかがうことはよいことだと思うからですが―― 考えるには回答No.1の《ヘブル書の解釈》より以上の見方が現われるとも ちょっと思いつかない。そういう状態ではいるものですから その回答No.1との兼ね合いでは 申し訳ない気持ちもあります。  なるほど 精神分析の典型的な解釈が成り立つではないか。とおっしゃる。わけですよね。  ヘブル書の解釈をあらためて――特には回答No.1およびNo.2のそれぞれにおそわりつつ――わたしなりに のべてみます。そこでは 嫉妬という事象や そして語弊のある言い方ですが 弟殺しといった事象を完全に超えているということ。まづ あらかじめながら これが 答えの鍵になると考えます。       *  カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人間として登場しています。ただし これを曲げた。ゆがめた。どのようにかは なかなか分からないのですが その現象面としては 神へいけにえを捧げるというおこないをめぐって 現われた。  そして このくだりでは 聖書記者は いっさいこの主題となっている肝心の信仰問題については 触れていない。  信仰の問題でありつつ 信仰として触れないまま 事態が進展する。むしろ肝心のことは書かずに アベルとの関係やあるいは神との関係において どうしたこうした どうなったこうなったと 淡々と書いてゆく。  たとえば  ★ ~~~~~~   >(主が) カインとその献げ物には目を留められなかった。  :  のなら、  >  カインは激しく怒って顔を伏せた。  :  のは(カインが神ではなく人間であるならば、という前提でですがーーーとお断りするのは全く知らないからですが)当然のことでしょう。にも拘わらず、  >「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  :  と主が尋ねたのだとすればいかにも間の抜けた問いではないでしょうか。  ~~~~~~~~  ☆ といった頓珍漢な書き方をしている。堂々と 阿呆な書き方をしています。  つまりは そのとき同時に     読者よ 問題は 信仰なのだ。    あなたの心と意志そのものなのだ。さとれ。  と行間において ふてぶてしくささやいている。ようなのです。  ささげ物などは 極端に言えば どうでもよい。どちらがすぐれているのか これもどうでもよい。弟に嫉妬したかどうかなども どうでもよい。神が 間抜けだと思われても それもどうでもよい。       *  こういったところだと考えます。  わたしが趣旨説明に《心の葛藤なり悩みなり》を出してしまったために はこぶるさんのような解釈に発展したかも分かりません。とにもかくにも いまの状態においては いま述べた見方を持つに到っています。  そうして こうなりますと さらにほかの多くの方々のご見解を聞いてみたほうがよいとも考えられます。聞いてみなければならなくなったように思います。  というお応えにて けっきょく分析された内容について触れずじまいでしたが あらためてそこらへんについても ご主張がありましたら お寄せくださいますようお願いしておきたいと思います。     

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回答No.5

土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。 生かす事が自らが生きる事につながる。 この耕す知恵は猿からは生まれない知恵でして、神様が人に教えてくれたものです。 英知は全てそうです。 カインの故事は、神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。 私がその物語の作者なら「お前は私のために生きる事を怠った」そんな一文を添えます。

bragelonne
質問者

お礼

 ふられおんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  むつかしいですね。むつかしくお考えなのですね。  ★ ~~~~  土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。  生かす事が自らが生きる事につながる。  ~~~~~~  ☆ ここの《他者》とは 麦なら麦 米なら米というその栽培植物のことですか? それとも ほかの人のことでしょうか? 家族のことでしょうか? となり人でしょうか?  でもほかの人びととの共生は 狩猟・採集・漁労の生活においても 課題であったと思われはします。  ★ ~~~~  この耕す知恵は猿からは生まれない知恵でして、神様が人に教えてくれたものです。  英知は全てそうです。  ~~~~~~  ☆ たしかに――わたしも思うにですが―― 知恵は知識を活かすコツのようなものだと考えます。それは ヒラメキ(ないしインスピレーション)において得られるというように思います。そのような意味で 神とかかわっていると捉えます。  ★ ~~~~~  カインの故事は、神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。  私がその物語の作者なら「お前は私のために生きる事を怠った」そんな一文を添えます。  ~~~~~~~  ☆ ううーん。待ってください。このカインとアベルの物語の前の世代は アダムとエワ夫婦の話です。そしてかれらについては 《神の言いつけに隷従することが求められていたところ これに逆らった》という話ですね。そこで 自由意志の存在がたしかめられた。  そのあと カインの世代において  ★ 神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ち  ☆ が出て来るのですか?   この場合 言ってみれば 弟のアベルは すぐれたささげ物をそなえて 言わば《隷従》していたわけです。はっきりとは書いてないと思うのですが カインはその内心では《神への隷従を嫌って よく分からないけれど 劣った供え物をささげた》というようにも読めます。  そう考えると 合点が行かないのですが どこか読み落としていましょうか?    ★ 「お前は私のために生きる事を怠った」  ☆  これは そのように神が言うということですよね? ううーん。これも 微妙ですね。  なぜかと言えば 神はそこまでは 服従を強いるものではないのではないか? こう考えるゆえです。  ちょっと よく飲み込めませんでした。どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄のおぎないです。  ★ 神様のすすめにただ隷従するのみで理解することを怠った過ちではないでしょうか。  ☆ ひょっとしてこの《あやまち》は カインがおかしたのではなく そうではなく 神に隷従していたアベルが その《隷従するのみで神を理解することを怠った》ということなのでしょうか?  ひとつの見方をかたちづくるようにも思いますし その反面では 《神を理解する》というコトについて そのままではやはり飲み込めないものがあります。  そもそも《神を人間が その理性によって経験合理性に合った妥当性のある内容として 理解する》ことが出来るとは 思わないからです。  仮りの説明をして 神を指し示そうとする努力はおこなわれますが 《理解しえた》という認識はないと考えます。つまり 神は 基本的に《理解する》対象であるとは思わない。  そういう難点もあるかと思うのですが。

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回答No.4

 今回は無知な私でも何とか読み通せる質問でしたので“仏教目線”ですが答えてみようと思います。  主題は「信仰心は正しく堅固でなければならない」という事だと思います。  主が“妻エバ”に男子(カイン)を産ませたということは、その「主題」をカインを通して示したかったから。  主は、献げ物に引け目を感じるカインの心の弱さを批判し、修行の為にノド(さすらい)の地に住まわせました。  だから“主の使い”で修行中の身であるカインを、出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだと思います。    

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 主題は「信仰心は正しく堅固でなければならない」という事だと思います。  ☆ やはり 主題は 《信仰》ですか。  聖書の信仰にかんして わたくしの思うところをひと言つけ添えますが それは《ただしく堅固である》ことも すべて ナゾの何ものかから与えられるという捉え方になるとは思います。  ★ 主が“妻エバ”に男子(カイン)を産ませたということは、その「主題」をカインを通して示したかったから。  ☆ 次の新しい世代をとおしても 信仰という主題を示そうとした。わけですね。  ★ 主は、献げ物に引け目を感じるカインの心の弱さを批判し、修行の為にノド(さすらい)の地に住まわせました。  ☆ そうしますと カインはすでにささげ物をしたときすでに 自分の心にやましさを感じていたという解釈ですね。  つまり けっきょく いきなり信仰という主題が入って来ているのですね。回答No.2のてふてふさんに言わせると それゆえにこそ当然触れなかったのだそうです。そこまで言われると そう受け取るしかないように思います。  弟殺しをおこなうまでに到ったカインであるけれども それでも  ★ だから“主の使い”  ☆ として扱われるのですね?  ★ だから“主の使い”で修行中の身であるカインを、出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだと思います。  ☆ 生かされているけれども つぐないもしなければならない。あるいは 遠くイエス・キリストの歴史的な登場までその完全な癒しとしてのすくいは またねばならないということを示すものか?  信仰とそのゆらぎと 悪行とそれでもそれの自治を最後までつらぬきとおすこと などがさらに付随した主題となっていましょうか?  ところで  ★ 出会い人に殺されぬよう「しるし」を付けられたのだ  ☆ このしるしとは 具体的に何だとお考えになりますか? そんなしるしが ありますか? 雰囲気でしょうか? かえって相手には カインは なごみをもたらすのでしょうか? うんぬん。・・・

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  • poomen
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回答No.3

 難しいですよね。私の解釈です。 ・神の「御心」を人が知ることは出来ない。  信仰を持っていても様々な不幸に人は会いますが、その時必ず「他の誰でもなく、なぜ自分が?」という問いを持つと思います。しかし、結局はそれを受け入れるしかありません。  結局、信仰とはすべてを神にゆだね、受け入れること・・その比喩ではないかと思っています。

bragelonne
質問者

お礼

 ぽおめんさん こんばんは。  ★ 難しいですよね。  ☆ この質問の主題はむつかしいです。むつかしかったです。  まづ  ★ ・神の「御心」を人が知ることは出来ない。  ☆ これは おっしゃるとおりだと思います。  ★ 信仰を持っていても様々な不幸に人は会いますが、その時必ず「他の誰でもなく、なぜ自分が?」という問いを持つと思います。しかし、結局はそれを受け入れるしかありません。  ☆ これも そのとおりに受け取ります。或る程度 あとでそのわけが分かる――主観において納得が行く――場合もあるかと思います。  ★ 結局、信仰とはすべてを神にゆだね、受け入れること・・その比喩ではないかと思っています。  ☆ ここは 表現として 微妙なのではないかと考えます。  一方で《信仰》は何だと問うならば 《すべてを神にゆだね 受け容れること》と言えると思います。  他方で その定義のままに思いを持ち行動をおこなっているかと言えば 必ずしもそうではない。  すぐ上で捉えたように おのれの自由意志で振る舞っていたとき 或る種の不幸に出会う。そうしてその場合に《すべてをゆだね 受け容れる》という姿勢になるとは思います。思いますが つねにそういう態度を採っているかと言えば むしろやはり――心の底においてゆだねているという感覚を持ちつつ―― けっきょくかなり好きなように振る舞っているのではないかとも考えます。  別に道をゆがめようと思ってではなく ゆだねているという感覚の上でなのだけれども 自由な選択をおこなっていると考えます。  それは したがって ひとつには確信の問題だと思われます。必ずしも《すべてをゆだね 受け容れている》というその確信ではなく そうではなく ヒラメキを受けたような確信です。  言いかえると 《すべて みこころのままに》という祈りは すでにすべてをゆだねていますが それによって行動を起こすと考えるのも きつい。ように思うのです。  その《ゆだね》は 言葉によって成るのではなく やはりあたえられるものだと考えるからです。  でも微妙なようです。述べ切ってはいないかも知れません。  ★ その比喩ではないかと思っています。  ☆ とおっしゃるならば このいまの微妙さをも含めて言っておられるようだとも思いましたが。

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  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.2

こんにちは、ブラジェロン子爵。 私は、聖書は読んだことはないのですが。カインとアベルは二人とも信仰の深い人だったと思います。 主は、二人の献げ物を見て、率直にアベルの羊の初子が優れていると思われたのです。そこで、カインは、もっと努力して来年優れた献げ物をするべきでした。しかし、彼の心には、弟に対する妬みの心が生まれてしまったのです。弟殺しにまで至ったカインに対して、主は償いとして、罰を与えられた。彼は、其の信仰心からあまんじてさすらいの地へ住んだのではないでしょうか?当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。この物語は、信仰心が憎しみになることもある、しかし、主はそういう人も生かす者であると言われているのです。カインには、知恵により生きる試練を与えられたのです。 私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★( a ) 私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。  ☆ このくだりだけが 見解を異にしました。  てふてふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  なかなか信仰の篤い見方ではないかと思いました。  ★ 当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。  ☆ このように《信仰》の問題に帰して捉えるというのは 回答No.1の方のヘブル書での記事についてのご指摘がなければ分からなかった。つまり 忘れてしまっていました。  このヘブル書で触れられていなかったら どうなっていたか。とも考えます。  たしかに信仰が一にも二にも主題であったはずなんです。ただアダムとエワから次の世代へ移って 何も明らかにせずに――つまり 献げもののよしあしを言うだけで――信仰の問題を表現していたとは 思いつけなかった。気づかなかった。  ★ 弟殺しにまで至ったカインに対して、主は償いとして、罰を与えられた。  ☆ ここまで行くと もう事態ははっきりしている。とは思います。ただし  ★ しかし、彼の心には、弟に対する妬みの心が生まれてしまったのです。  ☆ ということが事実だとした場合 それでも《妬み》によって 相手をころすまでに到るか? 信仰の中身が ゆるがせになるほど ねたみ切ったりするだろうか? あるいは そもそも先に信仰のあり方がゆらいでいたのか? それゆえ ねたみが出たのか?  つまり 信仰は 切り札であると同時に それだけで何もかもを切ってしまうと なかなか納得がすんなりとは行きがたい。ところもあると思ったりします。  でも   ★ 当然、カインの罪の深さゆえ、カインの信仰心については何も記せられてはいないのです。  ☆ てふてふさんにとっては 《当然》なのですね? 恐れ入りました。完全に イッポン。  最初の( a )の命題は わかりにくいように思います。それほどはっきりと決まっているとは いまのところ 思えないでいます。いろんな場合があるのではないかという意味です。  すなわち後半の部分:  ★ 主は、いかなる人にも安らかな死(天国)を与えるのです。釈尊が言ったことと同じだと思います。  ☆ については もし主観においてそう思われるのであれば そういうことかなと思います。  前半の部分:  ★ 私は、人の過ちこそが自然淘汰=人口抑制機能であると考えます。  ☆ これは 死ぬという事態が含まれているというコトですよね? だとしたら それほど簡単に言い切ってよいものか 自問しつづけます。答えは出ましょうか? むつかしい。と思います。――宙ぶらりんですが。

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  • イザヤ書53:1-7

    イザヤ書53:1-7  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 ◆ (私訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《アース役の最後の人》という主題および《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 《屠り場に牽かれていく小羊のように・・・》

     『イザヤ書』 53章:1-7節です。  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。  ◆ (試みの訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《誰にとってものアース役で そのアース役の最後の人》という主題は読み取れますか?  この人を最後としてアース役は その対手のガミガミ役とともに やがて消えて行くと読み取れますか?  《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題はあり得ますか?  これらの感じ方にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 甘えの哲学は 忘れていないか

     1. 《甘え》の歴史をとおして セクハラ問題を考えます。そして 事実と真実は ディスクロージャー原則に従うのがよいはずだと考えます。  2. 甘えと言えば 基本的に赤子が母親に身も心もゆだねる聖なる甘えを言うと見ますが この母子関係から離れた人間としての依り縋りなどを甘え一般と ここでは します。  3. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思っていたところ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮してまづいのに おいしいわと言ってしまった。  4. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 遠慮なくおいしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えていた。  5. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではないか。――勝手に自分の考えで遠慮するのなら それも 甘えではないか。  6. ふたりは知った。わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由自在なのだ。  7. 光も曲がるのか。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあるということだ。でも こわいほどにわが意志は――思考や想像においてだけとしても―― あたかも限界を知らないかのごとく 自由自在だ。  8. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て 甘えるタイプだった。アマエについて遠慮しない。少しは遠慮せよと何かにつけカインは思っていた。  9. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルにはまづい食べ物だった。  10. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。  11. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。  12. かれらの子孫の一人でアブラハムなるぢいさんは まっすぐ行くのも曲がるのも同じ光だと思った。遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。愛も憎も 人間の甘えなのではないか。  13. その後さらにモーセという男は 人びとのあいだでこの《甘え》について共通の取り決めをするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。  14. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせよ 《いつはる(偽る)なかれ》と。  15. モーセ自身は アブラハムと同じく独りなる人間の主観そしてその内面を重んじる人であったが 人びとの生活共同にとっては 倫理規範が必要だと思った。  16. 甘え合戦をめぐる交通法規であり交通信号である。  17. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》ということがである。甘えていない者はいない。  18. のちにイエスという男は ふたつ言った。:  アブラハムの言う《同じひとつの光》は その同じはらから(同胞)の内に閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。  そうして モーセの交通信号は 人びとそれぞれの心根の中にすでに植えつけられている――アートマンまたはブッダターとして――と。  19. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをさえつらぬきたまえ。ちぢこまることなかれと。  20. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由に!   21. アヤマチをおかしたその同じ思考の形式と過程を 人びとの生きる環境としての情況あるいはナラハシについて捉えるかぎり――外に開きつつだが―― むしろそのまますすみゆくことで あたらしい・よき考えがわが心におとづれるのだ と。  トンネルを出るのだと。  22. 個人としては われがわれに還ることだ。  23. S 記者も F 前次官も 財務省も報道局も 甘えの哲学のもとにあるのか ないのか。みんな 互いにそれぞれ《われがわれに還る》そのヒラメキを俟っている。それは むしろ甘えてこそ湧き出るのでは?  24. 事実と真実は ディスクロージャー原則に従ってよいはずだ。あとは あまえてもよいのでは?  25. あまえのもとでこそ たがいにゆるしあえる。  ☆ 思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • あなたは 自由を持て余しているか

     1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。  2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。  3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。  4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。  5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。  6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。  7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。  8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。  9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。  10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。  11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。  12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。  13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。  14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。  15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。  16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。  17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。  18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。  19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。  20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。  21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか?  22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。  ☆ あなたは 自由を持て余しているか

  • 《金の仔牛》に罪はない!?

     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?