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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:カインは なぜ・どこが わるかったのか?)

カインの心の闇とは?

このQ&Aのポイント
  • カインの心の深い闇について、具体的な解釈は読む者に委ねられています。
  • カインが怒り、顔を伏せる理由についても、読む者の解釈に任せられています。
  • 農民と遊牧民の違いが心のやましさに関わるのかは明確ではありません。

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回答No.1

弟を殺したことがやましかったのでは?  信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。 とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。

bragelonne
質問者

お礼

 やり方をおしえてさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ とヘブル人への手紙11:4にあるので、信仰がないこと=正しくないこと がわかっていたとか。  ☆ 文脈をも交えて引いてみます。  ▼(ヘブライ人への手紙11:1-4) ~~~~~  1: 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。  2: 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。  3: 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。  4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあと エノクやアブラハムやヤコブ・イスラエルらあるいは ヨセフやモーセなどなどのことがらをめぐって 信仰とは何か・その見えない力のことが語られています。  ここで なお分からないのは こうです。  ▼(同上) 4: 信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました。神が彼の献げ物を認められたからです。  ☆ アベルが信仰の篤い人であったことは そのまま受け容れるしかありません。分かります。ですけれども   ▼ アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ  ☆ たからと言って その《いけにえの優れ具合い》によって・あるいはつまりカインのいけにえは劣っていたということによって   ▲ (創世記4:5) カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。  ☆ ということなのでしょうか?  つまりまづ  ★ 弟を殺したことがやましかったのでは?   ☆ という理由は ちがいますよね? なぜって やましかったあと ころすまでに到ったのですから。  整理しつつ考えてまいりますが:  (1) カインも 神にいけにえをささげているということは 事実である。    ▲(創世記4章) ~~~~    3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として     持って来た。    4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。     主はアベルとその献げ物に目を留められたが、    5: カインとその献げ物には目を留められなかった。    ~~~~~~~~~~~~~     (2) 《土の実り》は 《羊の群れの中から選んだ肥えた初子》よりも劣っていた。あるいは絶対的にまちがっていた。もしくは いやしいものであった。ということなのか?  (3) あるいは――いまのつてで言えば―― その農作物だとか羊の初子だとかのモノの問題ではなく いけにえをささげるときの心の問題なのであろうか?  (4) おそらくヘブル書にしたがえば それら全体としてのその人の《信仰》のあり方やその中身の問題であったということであるらしい。そういうことなのか?  つまりは 人の気持ちや心の問題をも超えて 否応なしに 〔ひょっとして心の目にも見えないところの〕信仰のあり方として決まっている・つまりは 神の目から見て 決まったということであろうか?  (5) つまりは もしそうだとすれば 信仰とは ひとつに人間の心や意志のあり方を超えて すでに神のほうから見て 決められていると取るべきか?  つまりいちおう人間はその自由意志で考え動くのであるから その意志による自由選択が どうなるかを神は予知していて その信仰のあり方がけっきょく決まっている(分かられている)というかたちになるのか?  (6) もしそうだとすれば カインは    ▲(創世記4:5) ~~~~   カインとその献げ物には〔主は〕目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。   ~~~~~~~~~~~~~  というのであれば そのときただちにその信仰の問題だということが――つまりは 人間の側の自由意志によるのではなく そうではなく 神の側の予知の中におさまる自分の信仰のあり方が問題だということが――すでに分かっていた。ということだろうか?   (7) カインは アベルにくらべて(もしくは比べるという問題ではなくかも知れないが) いけにえに何をささげたかではなく そもそも信仰のあり方が おかしかった。そしてそのこと自体について 神が《そのいけにえに目を留めなかった》そのことによって ただちに納得した。こういうことなのか?  (8) すなわち カインとアベルとそして神とのあいだで すべては――最終の決定的な要因としては―― それぞれの信仰のあり方が決めるということなのだろうか?  (9) そうしますと むしろこうなりますまいか?  すなわち 《いけにえに何をささげるか》にかかわらず・あるいは もっと言えば たとえ《いけにえに何をささげるにしても・ささげなかったにしても》 それにはかかわることなく 信仰のあり方が 神に見られていた。分かられていた。――したがって 初めからカインは弟のアベルをけっきょくにおいてころすようなことになると分かられていた。ということなのだろうか?  (10) だとすれば この一般化して《ひとごろし》ということの意味は どういうことなのか?  なぜアベルという人間は――あるいはアベルでなくとも 人が―― ころされることになったのか? そのことにどういう意味があるのか? という問いに成って来ませんか?  (11) それは 弟をころして《呪われる者》となったから カインはわるいのではなく そうではなく もともと信仰のあり方によって わるいおこないをする人間であった。となりましょうか?   (12) そしてそれでも カインは 神による守護をも得て 生き抜く。生き続けるということにつながりましょうか?   (13) こういう物語なのでしょうか?  (14) でももし こういった広く捉えて《原罪》関係の問題なのだということでしたら かのイエス・キリストの十字架上の死とその後の復活〔という物語に沿うかぎりでその内容〕によって購われ 赦されてあると考えられるからには もういまでは カインの罪の問題は 忘れられてある。こう取ってよいでしょうか?  (15) つまり その後の経過をもふくめて 全体として カインの問題はすでに――理論上は―― 解決済みである。こう捉えるかたちのお話としてあるのでしょうか?  (16) もしそうだとしたら    ▲(創世記4:8) ~~~~~     カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、     カインは弟アベルを襲って殺した。    ~~~~~~~~~~~~~~  というようなかたちで いま現代において 襲われるときには 人は抵抗するということでよろしいでしょうか? なぜならカインの問題はすでに済んでいる。ゆえに 二番煎じを演じる謂われはない。と考えられましょうから。  ヘブル書の記事をおそわり 一気に考えてまいりました。  このようでよろしいでしょうか? どこか間違えましたでしょうか?

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その他の回答 (36)

  • hakobulu
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回答No.17

#13です。 >(ヒラメキは)どこか非経験の場 ないし それをみづからの内に受け留めたところの我が心の《非思考の庭》において現われると見る。 : 「受け留める」という述語の対象と、「現われる」の主語がよくわからないのでなんとも言えませんが、どこから来るにせよ、一旦自分の中に取り込むわけですから、それをヒラメキと言おうが無意識と言おうが構わないでしょう。 取り込んだ事柄を記憶はしているが、現時点で意識しているかいないかだけの違いです。 すでに脳にインプットされている点では同じことだと思います。 雷に打たれたように閃いたとしても、それは、雷に打たれることによって無意識領域に眠っていた記憶が浮かび上がってきたというだけにすぎないわけですから。 > ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。 : 受け止め方次第ですが、これはいわゆる「思い込み」だろうと思われます。 なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。 にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。 イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。 思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。 >あるいは なぜ信仰ということがあるのか こういった問いを突き詰めて行くなら 誰れもがすでに信仰を持っているという結論に到るでしょう。わが心に成った非思考の庭 しかもそれとしての動態 です。 : 闇雲にいわしの頭でも信じたくなることは誰にでもある、といった意味となんら変わるところがないような気がしますが。 > おもしろいことに 信仰の対象つまり ナゾゆえに非対象 なる神は じつに無根拠です。  ところが ムイシキも それが想定されるのは 無根拠においてなのです。しかも経験世界の現象だという理論内容となっています。 : たしかに面白いご見解ですね。 無根拠のものをなぜ信仰可能なのか。 (いわゆる救い足り得る要素を兼ね備えていることを否定するわけではないので)その心理作用自体を否定するつもりはないのですが、やはり、そこからなんらかの誤謬が発生してくるのは理の当然であるような気がします。 つまり、わたしに言わせれば、信仰とは救い号という汽車の乗車券であると同時に、誤謬という名の駅を通過、あるいは終点とする運命にあるわけです。 なぜかといって、乗客は、乗車すること自体に価値を見出すよう勧められ、且つ行き先は告げられないままに切符を買わされるからです。 運転士を信じてさえいれば良いのだ、という説明書を右手に。 そこにあるのは現状を脱するために、ただこの汽車に乗って「どこかに」旅立たなければならない、という、ある種の強迫観念であろうと思われます。(くどいようですが、そのこと自体を否定しようとするものではありません) 無意識の想定も同様に無根拠である、ということですね。 たしかに、それを見た人はいませんし、摑んだ人もいません。 ただ、人は意志の動物ですが、意志というだけでは説明の付かない自分というものを自覚することもまた可能でしょう。 無意識の場合、その気づかない部分すら自らの心的作用として認識しようとするベクトルになると思いますが、神となるともはや他律的としか言いようがなく、それが本質的な相違点になるのかもしれません。     

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ムイシキは 経験世界を超えたところ・つまり非経験の領域を想定しているのですか?  していないはずです。  あくまで 人間の存在あるいはつまり身と心の場に限られるはずです。  つまりは それに対して 非経験の場と接触するという想定において ヒラメキが得られるという捉え方です。(ここでは 経験的なモノゴトとして 勘がはたらいたといったようなヒラメキは 別としています)。  ムイシキとヒラメキとは その源泉となる場所が違います。ですから  ★ どこから来るにせよ、一旦自分の中に取り込むわけですから、それをヒラメキと言おうが無意識と言おうが構わないでしょう。  ☆ とはなりません。  ヒラメキは そのまたたきをする一瞬の出来事です。それで消えます。  ★ 取り込んだ事柄を記憶はしているが、現時点で意識しているかいないかだけの違いです。  ☆ 別に取り込むことはありません。ヒラメキが起こったという記憶は残りましょうが。ヒラメキとして得られた一般に情報を活かしたなら もうその一つのヒラメキは おしまいです。お役御免となります。  ★ 雷に打たれたように閃いたとしても、それは、雷に打たれることによって無意識領域に眠っていた記憶が浮かび上がってきたというだけにすぎないわけですから。  ☆ この表現はおかしいですよ。最初には比喩で雷を出しておいて 次には実際に雷に打たれたと言っているように受け取られます。  それと 眠っていた記憶は ただ意識していなかったというだけのことです。潜在意識としてあったとも言えます。別に  ★ ムイシキ領域  ☆ があるとは証明されていません。ただあると想定しているだけのことです。  それに 記憶は つねにその情報を全部意識しているはずはないのですから 眠っているのは あたりまえです。わざわざ ムイシキを持ち出すこともありません。  それに――感覚の問題として言えば―― ヒラメキは それまで何ら知らなかったし むろん意識してもいなかった知恵のようなものがあたえられることです。それゆえ 想定として 非経験の場と言いますし それをわが心で受け留めたその場は 仮りにでも非思考の庭と言います。それは 心の伸びあるいは明けないし志向性のことです。  だからと言って 伸びならどこまで伸びるのかとか 明けならその言わば窓を明ければ何があるのかとか そういう問題ではないわけです。比喩であって 肝心なところは わが心が閉じられていないということです。これが 信仰ないしヒラメキの起こる場所です。つまりは 非経験の場との接点とも言えます。  ムイシキは あくまで勝手にそれがあると想定しているだけのものです。勝手にとか だけのものとか いうのは それが 経験世界のことだというゆえです。経験世界の中にあるのなら きちんと特定して見せなければウソです。    ★ ~~~~~~   > ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。  :  受け止め方次第ですが、これはいわゆる「思い込み」だろうと思われます。  ~~~~~~~~~  ☆ ひょっとして トラウマは消えると言っておられるのですか?  ★ なぜなら、過去というもの単なる記憶でしかありえず、現時点での生に対して、実はいかなる影響を及ぼすことも不可能なものだからです。  ☆ 過去は思い出しうる現在として 記憶にありますが それが 現在の生に対して 何ら影響はおよぼさないというのは 違うと思いますよ。記憶がよみがえるなら それとして感想を持ち感慨にふけることもあり なかんづくそのいまいましい過去のことであるなら 過ぎ去ったことであっても その現在の自分にとってつらい思いをさせます。どうして この事実を否定されるのですか?  トラウマはあり得ます。ただし それが どこやらで蓄積されたというそのムイシキの所為だとは思わない。記憶として過去が活きている。ただそれだけのことです。  ★ ~~~~~~  にも拘わらず拘らざるを得ないことからトラウマは形成されます。  イラショナルビリーフ(不合理な思い込み)を解消するためには、思い込みであることを認識する必要が出てくる。  思い込みは意識領域で花を咲かせていますが、その根は無意識領域に張っています。  ~~~~~~~~  ☆ 記憶において過去がまだ活きている。ただこれだけのことに 思い込みがどこからか付いてくるのですか? なんで?   思い込みがあると勝手に 要らぬ説明をつけ加えているだけではありませんか?   ★ その根はムイシキ領域に張っています。  ☆ ですって? そういう精神分析の存続のための一段上の思い込みなのではないですか? そうでなければ 精神分析は 砂上の楼閣のごとく崩壊してしまうからでしょう。  どうしても トラウマは永続して欲しい。思い込みだが それは存続するのだと 人びとをだましつづけている。だけだと考えます。  仮りにいま言ったことが当たっていなくても けっきょくムイシキ領域に根を張ったトラウマが 人びとを死への旅路にいざなうという段取りになっています。ただちには死なないから その死までのあいだ 患者として医療事業の顧客として自分たちをうるおすという仕組みです。    ★ 無根拠のものをなぜ信仰可能なのか。  ☆ 無根拠のものでなければ 信仰はあり得ません。根拠のあるものなら 経験思考で捉えられます。非思考の信仰とは言わない。非経験の場についてのみ 信仰があり得ます。  ★ その心理作用  ☆ ではありません。あり得ません。非思考なのですから 知覚もおよびません。心理とは何ら関係ありません。《志向性》と言ってしまえば すでに思考において捉えた概念になっています。その最初のほんの一瞬における心の明け これが ヒラメキとして信仰の現われになりましょう。心理以前のことです。  汽車にも船にも乗るわけではありません。  船に乗って言わば巡礼の旅路をあゆむといった比喩の表現があり得ますが つまり一般に人生は 信仰においても試練であるといった内容ですが これは 一人ひとりの主観の問題です。  ★ 無意識の場合、その気づかない部分すら自らの心的作用として認識しようとするベクトルになると思いますが  ☆ 死の国行きのソファ列車ですよね。トラウマは 永遠について回る。観念しなさいという宗教でもあります。心的作用だとかベクトルだとか言っても すべては 完治せずという名の列車に乗るようになるための促しであるに過ぎません。死の宗教 それが 精神分析です。

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回答No.16

 物質と精神  物質は、大きさ、重さ、温度、形状、など。  精神は、喜、怒、哀、楽、これらは情。そして記憶、意識、などの働き。  なぜ物質としての(空間をも含んで)宇宙が存在するのか。  その中に現れた、人間はなぜ「精神」を意識するのか。  こんな不思議なことはない!  “カイン”は精神の中の人。  神は精神。  だから“カイン”には“神”が存在する。  だから“神”は万人に存在する。  ・・・・・なんてことも、考えてみました。  

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ だから“神”は万人に存在する。  ☆ ここは いいんぢゃないですか。  ただし  ★ 神は精神  ☆ これは 多くの人が落ち入る勘違い。  ○ 【Q:神は 何でないか?】 ~~~~~~    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7295152.html  (趣旨説明欄)   15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ こんなことを考えて来ています。

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回答No.15

 なぜ苦手なのか。  それはブラジュロンネさんが理性の人だから。  聖書は心の世界。  そしてその主は神。  神とは=信仰。  信仰は理性に非ず。  信仰は感情。  聖書は感情を持って読むべし。  ・・・・・なんてことを思ってしまいました。  カインに対する神の情を感じます。  

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 信仰は感情。  ☆ ここは違う。  ここも 信仰は理性に非ず また 感情に非ず。ですよ。  非思考の庭がわが心に成る。これが しかも動態として 信仰というコトです。どうでしょう。

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noname#148976
noname#148976
回答No.14

なぜ議論が進まないのか。まず、ここは基本的には議論をする場ではありません。少しなら補足質問ということで応答できます。だが、矢継ぎ早に大量に書かれても応答しきれないのです。ましてや、指摘する箇所があまりに多い場合には、手間を惜しんでしまいます。ところで、 >わたしは モンテスキューは知りません。 それを確認して安心しました。というのも、それなら、落ち込んでも仕方ないではありませんか。知らないことについてテキトーなことを書いてしまった結果、相手にされなかった。それだけのことです。しかし、似た事態は、今度も繰り返されております。たとえば、 >わたしが 聖書記者の心つもりにまで分け入って 読解を示したので それは無理ですよ。聖霊が書いたものでしょう? 「聖書記者の心つもりにまで分け入る」ことがおできになるというのなら、あなたは自ら、自分が聖人だと言っているようなものです。普通の感覚からすれば、「なんか嘘ついてら」と思ってしまうでしょう。要するに、私があなたの「お城」とやらに入ってまで攻める労をとらない理由は、こういう議論の基盤を作る手続きが手抜きだなと感じるからなのです。 カインのお話しについて、私としては、いろいろ指摘もしてあげられますが、あとはご自分でお勉強できると思います。言語については、あなたの説明がやはりテキトーだと思うが、私は説明する手間を惜しんでいます。あなたが気になるのなら、キッテルを読んでもらうことにしましょう。 アウグスティヌスの解釈については、一元論という説をあなたがお持ちであることは理解しました。しかし、アウグスティヌスが自分で二元論としか言いようがないことを書いてしまっています。なぜなんでしょうね。あとはあなたが、自分で検証してみてください。 No10の補足欄は読みましたが、面白いと思った箇所は、ご自分で進展させてください。私が書くべきことは既に書き終えていると感じました。結局、どこまでも、無限に、あなたの問い求めに応じるわけにはいきません。ではこれにて。

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。  マッチ‐ピンポンダッシュ 方式ですな。  議論を経て対話が実りのあるものになる。    押し売りはしないと言っておいた。  こういう手合いだとは ちと気づくのがおそかった。  順番をわざと変えた。こんなところで アディユー。

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  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.13

#6です。 > カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人間として登場しています。 : どのように信仰するか、ということなのですね。 なぜ信仰するか、という疑問を持ってはいけないと。 >   読者よ 問題は 信仰なのだ。    あなたの心と意志そのものなのだ。さとれ。  と行間において ふてぶてしくささやいている。ようなのです。 : なるほど。 信仰と論理が相容れないものであることが、改めてわかりました。 にも拘わらず信仰が定着しているという場合は、無意識によるものであることが明白でしょうから、その意味でやはり興味深いと思います。     

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ ムイシキとヒラメキとの違い。  ☆ これは ムイシキがあくまで 人間存在の中に属する。つまりは 身と心のどこかにあると想定されている。しかし そこから起こってやがて意識されうる動きとしてあるものとしてしか分からない。  ヒラメキは 人間やこの経験世界の中からは――いま 信仰の問題にかぎるならば―― 出てくるものではない。どこか非経験の場 ないし それをみづからの内に受け留めたところの我が心の《非思考の庭》において現われると見る。要するに 神からの声です。  ムイシキは このじんるいの経験世界とその全歴史の蓄積とかかわっているのでしょう。むろん 個人としての意志行為の蓄積つまりその意味での歴史がおもなものでしょうが。  ところが ムイシキの理論は けっきょく人を死にみちびくしか能がない。あるいは 死を待つしかない生に押し込むことしか出来ない。トラウマは消えないのなら。  ヒラメキは これを超えます。トラウマを突き抜けるようにヒラメキます。生きることへとつなぎます。    ヒラメキのあり方はやがて脳の動きが探究され 解明されましょうが ムイシキにかんしては そのような将来の解明の気遣いはありえません。  ほんとうはムイシキなどはなく 潜在意識しかないと言っていいでしょう。あとは 身と心とにあたかも備わった欲動などが起きるというだけのことだと考えます。  ★ ~~~~~   > カインは この場合 神への信仰という動態にあります。信仰とはどういうことかが 分かっている人 間として登場しています。  :  どのように信仰するか、ということなのですね。  なぜ信仰するか、という疑問を持ってはいけないと。  ~~~~~~  ☆ けっきょく  ★ なぜ信仰するか  ☆ あるいは なぜ信仰ということがあるのか こういった問いを突き詰めて行くなら 誰れもがすでに信仰を持っているという結論に到るでしょう。わが心に成った非思考の庭 しかもそれとしての動態 です。  これを否定する場合には この世界が 経験合理性によって分かるその経験世界からのみ成っているという或る種の信仰をいだく場合です。言いかえると 非経験の世界は すべて 経験存在である人間のムイシキという場にあたかもおさまっていると主張する思想でありましょう。  おもしろいことに 信仰の対象つまり ナゾゆえに非対象 なる神は じつに無根拠です。  ところが ムイシキも それが想定されるのは 無根拠においてなのです。しかも経験世界の現象だという理論内容となっています。  どうでしょう。

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noname#148976
noname#148976
回答No.12

批判は結構ですよ。しかし、神と信仰について、ご自分の定義を持ち出して反例となさるのは、客観的な議論ではありません。あなたは書いてらっしゃらないが、あなたの原点は以下の文章ではありませんか。 >人の国に属する悪しき者カインは、嫉妬にくるって、神の国に属する善き者アベルを殺害したのだ(「神の国」、第十五篇1、5)。 アウグスティヌスの見解は、ユダヤ教・及び初期キリスト教における見解を集約したといわれているが、ごくごく単純なものです。カインは悪者であった。だから神に退けられた。それだけのことです。 しかし嫉妬に狂うとは、アウグスティヌスはカインにも神への愛があったことを認めているということにはなります。彼の愛が報われなかったのはなぜなのか。これはすでに示したように、新約聖書では、「信仰」と呼べるものではなかったからだ、という解釈になっています。この見方を整理すると、嫉妬に狂う類の愛情と、信仰は別物だというわけです。信仰とは恋人を愛するようなやり方とは異なるというわけです。エロスとアガペーの差だと言えば、あまりに当たり前すぎて、今更、綿密に議論する必要もないでしょう。 こうした点は既にNo1のお礼欄でふれてらっしゃるようですね。カインの信仰は歪んでいた、と指摘しているのですから。「カインが生き抜く物語か?」と聞いていますが、そういうお話しでしょう。信仰の持ち様がダメなカインが生きて行けるように取り計らったのですから。 しかしそれではあまりにキリスト教的な解釈で、批判精神がないではありませんか。「学問として」であるのなら、新約聖書の記述をあれこれと批判検討し、客観的な視野を獲得するようにしなければ、おもしろくありません。そうした一案を示しましたが、あまり真面目にお考えくださる気はないようです。 反例は、最初に書いたように、ご自分の定義を持ち出していると感じられたので、私としては応答しようがありません。強いて言えば、上記に記したように、あまりにアウグスティヌス的な見解である、と感じました。そして、その他の考えは許容なさらない態度だな、とも感じました。 それからSaddiqとdikaiosについては、私は納得できませんでした。というのも、誰も二つの語のニュアンスが全く異なるとは言っていないからです。したがって、接点があっても全然不思議ではありませんし、反例になりません。反例を挙げるのなら、ギリシア語に「義」を示す語がいくつあり、Saddiqに該当する語がない、だから便宜上、似た意味をもつdikaiosを用いたのだ、と検証してみせなければなりません。あなたの反例はそこまでに達していらっしゃいませんね。そういうわけで、論理的に納得できません。 モンテスキューについてですが、私はたとえば、以下のような記述であれば、納得したと思いますよ。 http://dictionnaire-montesquieu.ens-lyon.fr/index.php?id=377 どうです、モンテスキューの他の文献から詳細に引用してきているでしょう? これと比べても、ご自分は立派な記述をしたと思いますか。私が要求している論述の水準と、あなたが十分と思う論述の水準には隔たりがあって、いくらあなたが言葉を費やしても、私には届かなかったのです。次第に私は煩わしくなり始めた。他の方との議論に割り込んでこられて迷惑だと感じた。あなたの言葉で言えば、「うるさい」と感じた。――それだけのことです。あなたにしてみたら、ごく首尾一貫したことを理路整然と語っていたおつもりでしょうが、私は何とも雲をつかむ話をしているな、としか感じなかったのでした。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。―― どうも進展のほどが うまく行きませんねぇ。なぜでしょうかねぇ。  だいたいあなたは 議論を途中まで引っ張って行って 放り投げる。  あるいは 城の堀のまわりに兵隊さんを幾重にも張り巡らし 議論が始まるかと思いきや あとは お結びでも食べて 昼寝している。  こちらが 信仰の定義を書いて ちょうど城の中の図面まで見せた格好になったら 攻めやすしと見るのではなく 《反例》だとおっしゃる。反例なら 原案がなくてはおかしい。  わたしが 聖書記者の心つもりにまで分け入って 読解を示したのでそれを読んだら もう腰が引けたのだろうか。  だが 文面はいまだに食ってかかって来ている。    ★ それから Saddiq と dikaios については、私は納得できませんでした。  ☆ じゅうぶんに納得の行く議論だとなおうったえます。  ★ というのも、誰も二つの語のニュアンスが全く異なるとは言っていないからです。  ☆ なら どうして 次のような新しい考え方が起きて来たというのか?  ★★(回答No.9) どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。    ★ ~~~~~~  あなたの原点は以下の文章ではありませんか。  >人の国に属する悪しき者カインは、嫉妬にくるって、神の国に属する善き者アベルを殺害したのだ(「神の国」、第十五篇1、5)。  アウグスティヌスの見解は、ユダヤ教・及び初期キリスト教における見解を集約したといわれているが、ごくごく単純なものです。カインは悪者であった。だから神に退けられた。それだけのことです。  ~~~~~~~~  ☆ この図式はおかしいですね。あまりにもたとえばマニケーイズムだと見られます。つまりは グノーシス主義とほぼ同じです 善悪の二元論としては。  ただし アウグスティヌスの場合は むろんさんざマニケイストたちと議論を闘わせて来ているのであって 二元論ではありえない。悪は善の欠如というかたちで 善(むしろ 存在ないし生命)の一元論です。  それは たとえば次のような文章にもとめるべきです。  ◆ (アウグスティヌス:神の国と地上の国) ~~~  この天の国は地上を寄留している間に あらゆる民族からその市民を召し出し あらゆる言語の寄留者の社会をつくる。そして 地の国の平和をもたらして保存している習慣や法律や制度の相違においては何ら意を用いず それらのうちの何ものも廃止したり 破壊したりせず むしろそれらは異なる民族においてさまざまではあっても 地上の平和という一つの同じ目的をめざしている限り もしも唯一の最高の真なる神が崇拝されるべきだと教える宗教が阻止されないならば これを保持したり追求したりするのである。  それゆえに天の国すら地上において寄留している間は地上の平和の用い 死すべき人間の本性に属する事物に関しては 敬虔と宗教とを妨害せぬ限り 人間の意志の結合を保護しかつ欲求し 地上の平和を天上の平和にもたらす。  天上の平和こそは真の平和であって 厳密にはこれのみが理性的被造物の平和 つまり神を享受し神において相互を享受するもっとも秩序があり もっとも和合した社会であって またそう呼ばれてしかるべきものである。   (『神の国』 第19巻 17章 松田禎二・岡野昌雄・泉治典訳  1983)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かりづらいと思うので 解説をも引いておきます。  ■ (R.A.マーカス( Markus ):Saeculum ) ~~~~  世界( the sphere of politics )とは 相対的で有限なものである。この有限の領域において 世界は 自律している。ただ 神の国の市民にとっては まさにこの世界の自治ということにおいて それ(世界)とは 無縁ではありえない。  人間という存在の・世界とのかかわりを見つめることを通しての そしてそれが もっとも熟した段階でのアウグスティヌスの考察の一部を成すものであり これはまた 世界( saeculum )というものを 《互いにあたかも相い容れない神の国( Civitas Dei )と地上の国( Civitas Terrena )とのあいだの 中間地帯( no man's land )として》ではなく 《これら二つの国が互いに入り組んでいて むしろその国境は分ち難く組み入っており その見分けがつけられるのは 人がただ終末を見通しえた時のみであるという そのような現実の中に位置する或る時間帯( temporal life )として》見るというかれの理解から 発しているものである。  (§ 3 私訳 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言いかえると カインのその後に建てた地上の町も その秩序においては アベルの・神の国と同じ基礎に立ちその基盤じたいを共有している。  ★ 一案を示しましたが、あまり真面目にお考えくださる気はないようです。  ☆ No.10補足欄を参照のこと。  ★ そして、その他の考えは許容なさらない態度だな、とも感じました。  ☆ 許容する姿勢を見せているようですが けっきょく相手にあなたは許容しないのですね? と尋ねておけば 許容しなくても済むとでも思っているとしか見えない。    ★ 友情論  ☆ については ふたつつけ添えておきます。  わたしは モンテスキューは知りません。  もうひとつ。友情もけっきょく じんるいの次元で捉えないと つねに破綻に瀕していると言わざるを得ない。同胞が どれだけ 志を持つ青年らを失望させたか。ゆえに 実行や実現の現実性がなくても なおおのれの心の中では――閉じないで――開かれているというその境地に〔友情は〕還元されていくものと思われるということ。雲をつかむ話をしているのです。

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回答No.11

 「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」  これは、カインの“弟殺し”を「主」が予言したものであると、ようやく解かりました。  また14:のカインの言葉からは「主」に見放されてしまえば生きていけない、と訴えていて、だからこそ15:で「主」は、カインを見放してはいないという意味を込めて、「カインを殺す者は七倍の復習をうける」と言ったんですね?  「主」はカインを正しい信仰心を持つ者と見ていたんだと思います。  わたし「主」を信じるものは見捨てない。だからわたし「主」を信じなさい。  ・・・・・と、言っているようにも思います。        独り言(神様も出来の悪い子ほどかわいいのかもしれない)

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「主」はカインを正しい信仰心を持つ者と見ていたんだと思います。  ☆ カインが聞いたら 涙を流してよろこぶ? かも知れません。  ★ ~~~~  わたし「主」を信じるものは見捨てない。だからわたし「主」を信じなさい。  ・・・・・と、言っているようにも思います。  ~~~~~  ☆ そうですか。そうですね。つよい信仰をお持ちなのですね。  こういう表現についてうんぬんするのは 苦手です。なぜでしょうかねぇ。信仰が強いとか弱いとかにかかわるからでしょうか。個人的になるからですかねぇ。  ★ 独り言(神様も出来の悪い子ほどかわいいのかもしれない)  ☆ のですが 考えてみれば じんるいのすべての人びとが 子どもなのですよ? その内《出来の悪い子》は どれほどいましょうか? 一割? 二割?  もし信仰をお持ちなら その神の意志と心に合わせて あなたも同じように出来の悪い子がかわいいというかたちになるということですが だいじょうぶですか? わたしは 何人も何人もは むつかしいと思ってしまいます。

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noname#148937
noname#148937
回答No.10

前に随分と落ち込ませてしまったようですから、お詫びを兼ねて、投稿してみることにしました。一応、あなたをご満足させようと、調べてまいりましたよ。 まずアベルとカインのお話しに触れた一節は、新約聖書で、六ケ所あるそうですね。念のために列挙しておきましょう。マタイ福音書23、ルカ福音書11、へブル書11と12、ユダ書、ヨハネ第一書。これらが、旧約聖書のアベルとカインの箇所を解釈する上での手掛かりになると、従来は思われてきました。まず新約聖書に沿った先行研究をまとめることから始めましょう。 注目するべきは、マタイ・ルカでは、アベルの扱いは「義人アベルAbel tou dikaiou」となっていることです。この義人dikaiosはユダヤ教の文脈で出てくる義人saddiqとは異なる意味だそうです。 キッテル新約聖書神学辞典の「義」の項目によれば、Saddiqが「神の裁定により己の権利を擁護されたもの」であるのに対し、dikaiosは「己の義務を神に対して果たす一方……神の要求に答えて、神の御前で義人と認められるにふさわしき正しさを自ら保有する者」であるそうです。どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。 実際、すでにNo1の回答で指摘がありますが、「へブル人の手紙」には、「信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を捧げた」とあります。問題は、カインの態度に、信仰がなかったことであるという風に思えてきます。 だが、ここからが、実は思案のしどころです。上記はあくまで、新約聖書の記述であり、後世の者による一解釈であるとも言えます。すなわちマタイ・ルカ・「へブル人の手紙」の成立時期を考慮すると、どうやらこれは、ローマの迫害にあったキリスト教徒らが信仰を固める必要に迫られていた時期に書かれたことが明らかになります。義人アベル像を一つの比喩として、信仰を失う危機にあったものに対し、忠告するという意図があったようです(シュトラートマンの説)。 以上のように時系列を整理して考えると、いくら新約聖書であると言ったところで、一解釈に過ぎず、あまり新約聖書の記述に引きずられてしまってはどうしようもないことになります。結局、義人―アベルvs非・義人―カインという構図にしかなりません。そして、もっとも極端な例では、シュナイダーのように、カインは本質的に悪であり、当初から神に憎まれていた、などという単純な解釈に落ち着いてしまいます。いやはや、これでは世界には、生まれおちてから、神に嫌われる絶対的な悪がいることになってしまいます(というより、シュナイダーはユダヤ教的な解釈に行ってしまったと言える?)。それでは、カインがあまりにも不憫というものでしょう。新約聖書の記載にだけ頼った先行研究は、新約聖書の解釈の偏りを、図らずも、明らかにしてしまったと言えるのです。 おそらく、あなたはそういうことはご存じなのでしょうね。だが、それではよいと思わない。そこで、また別のモノの見方を求めているわけです。以下、私の分析を書いてみることにします。 すでに他の投稿者から指摘があるように、特に第七節は、間抜けなことを書いています。あたかも神がカインを挑発してしまったかのようです。これは神が悪いかに思えます。しかし、神は「どうして怒るのか(……)おまえが正しいのなら」云々と言い出すのです。これが私には二つの意味で、不思議なことに思えるのです。 まず、正しさを決めるのは、神ではないのか?神ではなく、カインが決めてもよいことなのか?という疑問が浮かびます。カインは神の喜びの度合いをみて落ち込んでいるが、正しさを決めるのは、神の笑顔では必ずしもない、おまえが自分で決めてよい、と読めるのです。 次に奇妙なのは、神が自らの失態を記録したと考えられるのです。結局、聖書は精霊が書いたものなのでしょう? 神は自らの失態を、自ら記していると考える他ないのです。これは何かしらの、神からのメッセージでしょう。あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます(※現実には、神の代理人である法王や、教会の高位のものが汝を優遇しないからといって、拗ねてはならぬ、正義は別にある、という意味にも思えてきます)。 こう考えるのなら、結局、カインは、どう振舞うべきであったのか? 神によろこんでもらうことを考えるのではなく、正しいことをしたという矜持を持っていればよかったのです。カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります(もっとも、そのような力は、アベルにもなかったかもしれません)。しかし、このように考えるのなら、神の範疇を超えた正しさを措定することになります。これは一体何か? 信仰では少なくてもないようです。だが、そもそも神を超えて「正義」が成立するのかどうか? これはまた、別の哲学的な問題になりそうです。 もっとも、神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは、グノーシス的な解釈だと批判を受けるかもしれません。しかし実際、「ユダの手紙」では(グノーシス派を意味する)「異端者ら」asebesはカインになぞらえて批判されているのです。新約聖書の義をめぐる解釈に対抗してカインを擁護する限りにおいて、結局はグノーシス的な物言いにならざるを得ないとは考えておくべきなのかもしれません。 アベルとカインの問題は、こうやって考えてみると、単なる信仰の問題であるという以上に、新約聖書の解釈の世界から外へ出る「綻び」であると捉えることができるでしょう。ちなみに私自身は、この問題について、特に信条はありません。グノーシス的な見解は、あくまで「分析」であり、私自身の意見とは異なりますので、ご留意ください。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 前に随分と落ち込ませてしまったようですから  ☆ 昨年までなら やり取りが途中で切れても(つまりは 相手が途中でとんずらしても) まだ起こり得る事態であると受け止めていました。局面が変わったのです。そこへ 以前と同じ事態が現われた。このことに出遭って《落ち込んだ》のです。じゅうぶん分かるはずである説明をしているのにこれが伝わらなかった。この非力に蒼ざめたのです。それ以外に問題はありません。  言いかえると 今回つまりこの今のご投稿から見れば前回のやり取りの断絶については 途中での切れが しかもブロックされるという事態であったこと これも 予想していないことゆえだからです。  今回は おかしな動きがあれば ただちに断ち切ります。草鞋の底の埃をもきれいに払って 引きます。押し売りではないのですから。    さて何はともあれ ご回答に感謝もうしあげます。  全体として 残念ながら 批判を内容とするこちらからのお応えになります。  § 1 《信仰》の定義が 必要です。  ★ アベルとカインの問題は、こうやって考えてみると、単なる信仰の問題であるという以上に、新約聖書の解釈の世界から外へ出る「綻び」であると捉えることができるでしょう。  ☆ この《信仰の問題》とは何であるか? これが必ずしも明確ではないと受け取らざるを得ないからです。  むろん ご自身のそれがどうであるとか そういうことではなく哲学としての定義です。議論をすすめるための作業仮説でもいいわけですから 明らかにしておかないと 空回りの部分が出て来ましょう。    さらにつまりは あなたが《単なる信仰の問題であるという以上に》とか《新約聖書の解釈の世界から外へ出る》とかいうときに そこで捉えられている内容が わたしの見方からすれば やはり信仰の問題であったということがあり得るからです。  § 2 前章の言い分について 例証します。  § 2-1  ★ 神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは  ☆ これは グノーシス主義が問題になる以前の問題です。そもそも  ★ 神を超える  ☆ という概念が 分かりません。おそらくそのように言えると思って疑わないのであれば こうでしょう。すなわち そのように超えられ得る神というのは 誰れか人間が想像し思考し作り上げた《神にかんする観念 ないし 観念の神》であるということです。(そして このことは グノーシス主義に確かに当てはまります)。これなら いくらでも よりすぐれた内容の観念神が作られ得るかも知れないからです。  § 2-2 そもそも 神についての説明はこうです。    ○ (神についての一つの説明)~~~~~   神は――神と想定されたならば―― 《絶対》です。《無限》です。   その上も下もなく(超える超えないということは あり得ず) 並び立つものもなく ひとり満ち足りている存在です。   正義や慈愛や遍在や不可変性や全知全能などなどの言わば属性が添えられるのは この《絶対ないし無限》についての――人間の思考における――派生です。  ~~~~~~~  § 2-3 あるいはさらに反証として  《義 ツァディーク ディカイオス》なる言葉をめぐってですが:  ★ ~~~~~~  どうやら、マタイ・ルカの時期には、ユダヤ教の時期と比べて「義」の新しい考え方が起きてきたようです。すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。  ~~~~~~~~  ☆ これは この説について承知した上でではありませんが・それでも言えることには もともと旧約聖書について 新約聖書の出る前にギリシャ語訳(セプトゥアギンタ)が出ていますから そこでは 上の言葉は そのように互いに呼応しているということがあるからです。  言いかえると ギリシャ語には ヘブル語のツァディークの意味を忠実に伝える言葉がなかった。ただそれだけのことであるはずです。当てた言葉がやがて外延として 同じ意味を持つことはあり得ます。日本語には 渇愛とか愛欲といった意味での愛という言葉しかその昔にはなかったのが 別の意味に用いられるようになっています。そのようにです。  ちなみに キッテル新約聖書神学辞典を疑うわけではありませんが 次のような情報もあります。  ● ( dikaios ) ~~~~   http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=G1342&t=KJV1)  righteous, observing divine laws  : in a wide sense, upright, righteous, virtuous, keeping the commands of God  1) of those who seem to themselves to be righteous, who pride themselves to be righteous, who pride themselves in their virtues, whether real or imagined  2) innocent, faultless, guiltless  3) used of him whose way of thinking, feeling, and acting is wholly conformed to the will of God, and who therefore needs no rectification in the heart or life  3-a) only Christ truly  4) approved of or acceptable of God  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり最後のほうで ヘブル語の意味に合わせたかたちになっているということだと見ればよいはずです。  § 2-5 カインは 信仰がなかったのではなく それがゆがんでいたのだ。  ★ 実際、すでにNo1の回答で指摘がありますが、「へブル人の手紙」には、「信仰によって、アベルはカインより優れた生贄を捧げた」とあります。問題は、カインの態度に、信仰がなかったことであるという風に思えてきます。  ☆ 同じく回答No.1へのお礼欄にて このことは触れました。文面には書いてないのですが カインにしたところで 神への信仰の中にあった。神の声が聞ける境地にあった。ただし反抗し遠ざかろうとしていた。だけなのだと。単純に言って 滅ぼされなかったからである。  § 2-6 上記§ 2-3 の引用文についてあらためて問う。  ★ すなわち、アベルが義人であるというのは、神に好かれているからではなく、神の前で信仰を持っているからだ、とマタイ・ルカは解釈したようです。  ☆ 人が《信仰を持っている》ということは 事実としてあり得ますので 間違いではありませんが それだけでは 信仰を取り間違えます。    ○ (信仰とは 定義の二) ~~~   信仰は あくまで神からあたえられるものです。   あたえられたものを受け取るのは 人の意志行為であり 経験行為ですが ――もし神秘になってもよいとのゆるしが得られればと断った上で言いますが――この意志行為として受け取るという経験行為も じつは あたえられるものだと見ているのが 信仰である。  人間の思考や判断など一切の経験行為はもとより その存在じたいも 神に先行することはない。  神がすべてに先行する力でありハタラキであると見るのが 信仰である。    これは 恩恵(恩寵・賜物・めぐみ)と言われますが むろんそれは 《ただで(無料で gratis )》という意味から来ています。《絶対》〔との関係〕とは 人間にとってそういうことであり 言わば《無根拠》である。  ゆえに 《神の前で信仰を持っている》と言ったところで・あるいはそれが まぎれもないその人の真実であったとしても なお信仰は 神に先行しない。という信仰でなければいけない。こう言えると思います。  それゆえに むしろ《神に好かれている》といった表現のほうが 信仰をあらわすのにふさわしいと考えられます。  ~~~~~~~~~~  一たん休みましょう。このあとは 補足欄につなげるつもりです。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄からつづきます。  § 3 あなたご自身の分析をわたしが分析します。  § 3-1 神は失態を演じたか? そのことを間抜けのごとく書かせたのか?  ★ ~~~~~~~  すでに他の投稿者から指摘があるように、特に第七節は、間抜けなことを書いています。あたかも神がカインを挑発してしまったかのようです。これは神が悪いかに思えます。しかし、神は「どうして怒るのか(……)おまえが正しいのなら」云々と言い出すのです。これが私には二つの意味で、不思議なことに思えるのです。  ~~~~~~~~~  ☆ 次の考え方を導入すれば その《不思議なこと》を見てみる前に 疑いは晴れましょう。  ▲ (コリント前書 1:25) ~~~   神の愚かさは人〔の賢さ〕よりも賢く、   神の弱さは人〔の強さ〕よりも強いからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 3-2 ★ 《正しさを決めるのは、神ではないのか?》  ★ まず、正しさを決めるのは、神ではないのか? 神ではなく、カインが決めてもよいことなのか? という疑問が浮かびます。カインは神の喜びの度合いをみて落ち込んでいるが、正しさを決めるのは、神の笑顔では必ずしもない、おまえが自分で決めてよい、と読めるのです。  ☆ これは 表現の問題です。文学の手法が入っているとして読むべきです。  どういうことか? たとえば次のように神がアダムやエワに問いかけるとき 神はその答えを知らないわけではない。いえ じゅうぶん知っていて尋ねています。そういう手法です。そうして 人間に対して あやまちうる判断でよいから自分で考えて決めなさいと言っているのかも分かりません。  ▲ (創世記 3:9-13) ~~~~  主なる神はアダムを呼ばれた。    「どこにいるのか。」  彼は答えた。    「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れて    おります。わたしは裸ですから。」    神は言われた。    「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じ    た木から食べたのか。」  アダムは答えた。    「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から    取って与えたので、食べました。」  主なる神は女に向かって言われた。       「何ということをしたのか。」  女は答えた。    「蛇がだましたので、食べてしまいました。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~  § 3-3 神は失態を演じたか?  ★ ~~~~~~~~~  (あ) 次に奇妙なのは、神が自らの失態を記録したと考えられるのです。  (い) 結局、聖書は精霊が書いたものなのでしょう? 神は自らの失態を、自ら記していると考える他ないのです。  (う) これは何かしらの、神からのメッセージでしょう。あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます。  (え) (※現実には、神の代理人である法王や、教会の高位のものが汝を優遇しないからといって、拗ねてはならぬ、正義は別にある、という意味にも思えてきます)。  ~~~~~~~~~~  ☆ (え)は おもしろいですが ならば もっと先へすすんで欲しい。組織宗教の自己解体を勧めるというまでにです。  (い)の《精霊》は 聖書の神としては――《神の意志・愛》に相当するものとしては――《聖霊》と呼びそう書きます。(年寄りゆえの物言いでしょうが)。  ○ 〔(い)を厳密な表現に言い直すとしたら〕 ~~~  聖書はあくまで 人間が書いたものです。聖書記者が ヒラメキ(インスピレーション)を得て書きました。ヒラメキは 神の聖霊のしわざだと見る場合があります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (う)の《メッセージ》は もしそうであるならば  ★ あまり神の笑顔を信じてはならないという意味に思えます。  ☆ というふうに遠慮せずに さらに進めたほうがよいと考えます。この経験世界に起こる現象としてはすべて いかに神につなげられて捉えられるとしても その現象じたいは 仮りの姿であると。神そのものとして受け取ってはならないと。  《失態》かどうかは すでに前二節において基本的な見方を明らかにしました。  あるいはまた その時代その地域の人びとの信仰をめぐる境地のあり方に従って 神の言葉や振る舞いが 記者によって書き記されたと考えられます。境地が低ければ それに合わせて語ったり振る舞ったりする姿が描かれることになります。(これは 旧約の範囲にとどまると言うべきでしょうか)。  § 4 ★ 《結局、カインは、どう振舞うべきであったのか?》  一挙に引用します。  ★ ~~~~~~  (お) こう考えるのなら、結局、カインは、どう振舞うべきであったのか?  (か) 神によろこんでもらうことを考えるのではなく、正しいことをしたという矜持を持っていればよかったのです。  (き) カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります(もっとも、そのような力は、アベルにもなかったかもしれません)。  (く) しかし、このように考えるのなら、神の範疇を超えた正しさを措定することになります。これは一体何か? 信仰では少なくてもないようです。  (け) だが、そもそも神を超えて「正義」が成立するのかどうか? これはまた、別の哲学的な問題になりそうです。  ~~~~~~~~~  ☆ (け)の《神を超える》問題は すでに§ 2-1および§ 2-2で述べました。ありえないという立ち場です。神を超えたら そこも神の領域です。そういう想定です。これで(く)にも応えました。    (お)から(き)までの三つの事項では カインの信仰に対する態度は如何に? という問いを発してその答えからおのづと解決策が出て来る問いだと考えます。  現代人なら 一たん神とは切り離されていると考えます。たぶん宗教改革のころにおいて 少なくとも教会の説く神とは切り離されたのだと。非キリスト教圏に住む人びとにとっては もともと〔聖書の神と特定したかたちにおいては〕結ばれていないでしょう。  どういうことかと言えば ここでカインは まだ――まだです まだ――神と結ばれていたと見るという意味です。と同時に 神から離れたい・あるいは神に反抗したいと思っていたのではないでしょうか?  けれども あろうことか 弟のアベルをころすまではそのことの是非について分からなかった。そのあと 神との結びつきに目覚めた。(ここは 議論の分かれるところかも知れません)。  ですから 現代人のごとくに神を一たん別の場所に置いて(もしくは 放ったらかしにしておいて) 《どう振る舞うべきか》というような問い方は カインは しないのではないか?  ★ (か) 神によろこんでもらうこと  ☆ なら いまのまだ曲りなりにも保っている神との結びつきに従って生きればよいということくらいは 知っている。それが ――主観の問題でもありましょうが――《ただしいこと》だとも知っている。ですから むしろこの神の道から離れたかった。  ★ (き) カインにはそのように判断するだけの力がなかったという問題になります。  ☆ の《判断する力》は 別の意味になります。つまり 神との結びつきを解くための思惟および判断のことです。そもそも基本的に神に逆らうということについては 父親母親の事例で知っているはずなのですが。そしてその楽園から追われた状態については すでに受け継いでいると思われますが さらに神に《造反》するには どうすればよいかを考えていたかも知れません。  § 5 『ユダの手紙』は カインを全否定しているか?  ★ ~~~~  もっとも、神を超えた絶対的な正義の存在を措定するなどとは、グノーシス的な解釈だと批判を受けるかもしれません。しかし実際、「ユダの手紙」では(グノーシス派を意味する)「異端者ら」asebesはカインになぞらえて批判されているのです。新約聖書の義をめぐる解釈に対抗してカインを擁護する限りにおいて、結局はグノーシス的な物言いにならざるを得ないとは考えておくべきなのかもしれません。  ~~~~~~  ☆ ユダ書簡は 《さばき》について書いています。それは 神のおこなうことです。ほんとうのところは 聖書記者としてのユダにとっても分からない。《警告》のような役目を持つ書簡だと見ます。  その《異端者たち》あるいは《神のさばきを受けるはずの不信心な者たち》は 《カインの道をたどる》と言うのでしょう? ですから 上に見たようにそれは 神の道から外れることを考えているということだと思います。  外れないなら 神の道であり もしそうならば《絶対的な正義の存在》は そこに初めからあったし いまもこれからもありつづけ どこへも行かず 移ろいゆくものでもない。こう考えられます。  《神を超えたものの存在の措定》は なぜ必要か まだ納得が行きません。  荒削りもあったかとおそれますが。  

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回答No.9

A5です。 過ちを犯したのはあくまでもカインであるとする物語に沿って進めてみます。 >土を耕すと言う行為は自らが生きるために他者をまず育む行いです。 この場合の他者とは麦やコメの類です。 命を育み実りを産むとはいかなることか、殺して奪うだけとは違うでしょう。 食べる事は殺し奪う事でなく生かし育むことであるのが農耕です。 この発見と知恵は神の英知が助けとならなければなされなかった。 何故ならいまでも判ってない事が証拠だ。 生きると言う事が生きとし生ける者同士がつながることであるが実のところカインとアベルと言う物語の登場人物はどちらもそこまで英知を咀嚼し得なかったであろう。 話は仏教に飛びますが、生かすために死に、生きると言う行為のみがつながっていくのが輪廻です。 無邪気に殺しを働いた(羊)アベルの方が物語の読者に同情される野蛮な時代の物語です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづけてのご回答です。ありがとうございます。  ★ 食べる事は殺し奪う事でなく生かし育むことであるのが農耕です。  ☆ 分かりません。  稲や麦の栽培というのは 野生のままに放っておくのではないわけですから もちろん 種を蒔いて肥料をやり害虫や草を取り除き 育てるわけです。育つのをたすけるわけです。《生かし育む》。  そして《たべる》ことは その実あるいはほかには茎も根も花(?)も われわれ人間のからだのために栄養として摂ります。  このことについて なぜわざわざ   ★ 殺し奪うことでなく  ☆ と言うかというと それは どうもこの農耕との対比として 遊牧ないし牧畜における生活の様式が そうであるかららしい。つまり 遊牧畜におけるその獣や家畜に対しては《殺して奪う》ゆえに  ★ 命を育み実りを産むとはいかなることか、殺して奪うだけとは違うでしょう。  ☆ と。  どうもおかしいですよ。  (1) 遊牧や牧畜においても 羊などに草を食ませ また家畜には餌をやります。つまり 生かし育てます。  (2) だとすれば あとでこれを殺し自分たち人間のからだのために摂取することは どちらも同じことです。動物と植物の違いがあるだけで どちらも同じ生物です。  (3) けれども そもそも 羊を飼っているのは ころされたアベルであり 土を耕していたのは 兄のカインです。カインが弟のアベルをころしたのですよ。  勘違いがありませんか?

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回答No.8

 7: もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。の、次の文「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」が、私にはわからない。  ブラジュロンヌさんはどう解釈してますか。  カインに付けたしるしは、ありきたりな思いつきですが、額に十字の痣だと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 わいわいえいとさん つづけてのご回答をありがとうございます。    ★ 「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」が、私にはわからない。  ☆ これは のちのことになりますが けっきょく弟のアベルをころしたあとにも 《それでも 生きて行け》と言っているのだと見ます。前回 つぎのように ちらっと触れました。  ☆☆(No.4お礼欄) ~~~  信仰とそのゆらぎと 悪行とそれでも ≫それの自治≪ を最後までつらぬきとおすこと などがさらに付随した主題となっていましょうか?  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《悪行を犯したあとの それでも 自己経営つまり自身の自治をつらぬけ》という意味ではないかと。  ★ カインに付けたしるしは、ありきたりな思いつきですが、額に十字の痣だと思います。  ☆ これは ご愛嬌だと思います。わたしが振っておいて何ですが よくは分かりません。  たとえば カインのこの《前科》を知ってそういう非行について思いを馳せる そうして言わば反面教師として 人びとは自省する よってカインをころすことはなくなる。といったことかとも思いますが まぁ 愛嬌としての問いであるかも知れません。  今回は 意外と多くのご見解に接することが出来て よろこんでいます。うれしいです。

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     極端な仮説を提出して 再考をのぞみます。  まづやはり先に そのくだりをかかげます。  ▲(創世記 4:1-16) ~~~~~~~  1: さて、アダムは妻エバを知った。   彼女は身ごもってカインを産み、    「わたしは主によって男子を得た」   と言った。  2: 彼女はまたその弟アベルを産んだ。   アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。  3: 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。  4: アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。   主はアベルとその献げ物に目を留められたが、  5: カインとその献げ物には目を留められなかった。   カインは激しく怒って顔を伏せた。  6: 主はカインに言われた。      「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。  7:   もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。      正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。      お前はそれを支配せねばならない。」  8: カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、    カインは弟アベルを襲って殺した。  9: 主はカインに言われた。      「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」     カインは答えた。      「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」  10: 主は言われた。      「何ということをしたのか。      お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。  11:  今、お前は呪われる者となった。      お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも      なお、呪われる。  12:  土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出す      ことはない。       お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  13: カインは主に言った。       「わたしの罪は重すぎて負いきれません。  14:   今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたし       が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となって       しまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺す       でしょう。」  15: 主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」     主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。  16: カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《4:6 どうして顔を伏せるのか》は 内面の暗い重い闇に落ち入った感じをつたえそうな表現であり じっさい原文は 《どうして顔が落ちているのか》という言葉で表わしているのだそうです。    →【Q:カインは なぜ・どこが わるかったのか?】No.36お礼欄    http://okwave.jp/qa/q7308621.html  ですが 今回は 形式的なこと・表現技法にかんすることがからんでいるのではないかという・ちょっと人を食ったようなとさえ見られる見方を提出します。  (あ) このカインの物語は カインがどうだアベルがこうだという問題では必ずしもなく そうではなく ひとえに《ひとごろし》という主題を アダムとエワの物語のあとに提示してみせたのだという解釈です。  (い) すなわち聖書記者は 天地創造が終えられたあとの初めに 《善と悪とを知る木から採って食べた》という・おそらく人間の自由意志の主題をあつかった。そのあと ただちに――エワとアダムとは その自由意志を おのれの心にさからったかたちにおいても 発揮することがあると物語ったからにはそのあと ただちに―― 人が人をころすという主題を取り上げた。  (う) だから アベルが遊牧民でカインは農耕民だという違いを要因として取り上げたり あるいは一にも二にも 信仰の問題であってそれは なかなかオモテには出て来ないのだと信仰論で済ませようとしたり さらにあるいは けっきょくカインは 神がアベルの供え物を喜んだが 自分のそれには目を留めなかったところから アベルに嫉妬したのだと説明したりする議論は 解釈に失敗するか もしくは タメにする議論に落ち入るのではないか。  (え) すなわちつまり エワとアダムの事件では 《自由意志には すなおな心とへそ曲がりの心とがある》と理論づけたのだし ここカインの事件では 《その自由意志が みづからのであれ・他人のであれ同じ自由意志を・つまりは自由意志の主体として人間という存在そのものを抹殺することがある》と論じすすもうとしている。  (お) エワとアダムとは へそ曲がりの報いとして エデンの園を追われた。カインは  ▲4:12 お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」  ▲4:15 ~~~~~~~~~~~~~~   主はカインに言われた。        「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といったように捌かれた。この結果をもって ひとが人をころすことがないようにとされた。      *  ブレインストーミングのごとく 思いっきり自由なご見解をどうぞ。  言わなくてもよいと思われますが フルボッコのご批判をどうぞ。

  • カインとアベル

    カインとアベル ある日2人は各自の収穫物を神ヤハウェに捧げる。 カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げ、神はアベルの供物に目を留めたものの カインの供物は無視した。嫉妬にかられたカインはその後、野原で弟アベルを殺す。 しかし、大地に流されたアベルの血は神に向かってこれを訴え、その後、ヤハウェに アベルの行方を問われたカインは「知りません。私は永遠に弟の監視者なのですか?」と 答え、これが人間の吐いた最初の嘘だという。カインはこの罪により、エデンの東に追放され、 この時ヤハウェは、もはやカインが耕作を行っても作物は収穫出来なくなる事を伝えた。 ウィキペディアからの大まかな引用です。 ヤハウェにアベルの行方を問われ、 カインが答えたことが人間の吐いた最初の嘘だと記されているらしいですけど、 ならばカインはアベルの監視者なのでしょうか。 ヤハウェはカインが耕作を行っても作物は収穫出来なくなる事を伝えたそう ですけど、この後カインはどのような食事をしたのでしょうか。 こういう記載で正典に書かれているのかはわかりませんけど、嫉妬で殺したというのなら、 なぜ耕作を妨げるようなことをわざわざするのでしょうかとおもうのですけど。 ご存知の方よろしければ教えてください。

  • カインとアベル

     素朴な質問です。「宗教」の分野が見つからないのでここに質問します。 旧約聖書の中でアダムとイブの子どもであるカインとアベルがいますが、神の貢物をめぐって嫉妬が生まれ、カインは弟のアベルを殺してしまいます。その後神の怒りでカインは追放されてしまいますが、結婚します。その相手となったのは誰なのでしょうか?神はアダムとイブ以外に人間を作ったのでしょうか?  もし僕の理解が足りなかったらすいません。気になったもので。

  • ヘブライ聖書における人間洞察

    ユダヤ教的解釈または議論では人間心理は対象とされるのでしょうか? されるとすれば、以下の解釈は適切でしょうか? また、人間洞察をテーマにしたヘブライ聖書の書籍などの情報を知りたいです。 よろしくお願いします。 ”カインは農作物、アベルは子羊を一匹殺して捧げたところ、神様はアベルの貢物の方が良いと言ってカインを馬鹿にしたのでカインは怒って弟のアベルを殺した。” 弟を殺した兄の心のうちはなんだったのかを自らに問うと ・兄特有の我慢と弟特有の自由さ ・農作物を得るための地道な労働を否定された ・尊敬する神の不当な評価(≒可愛さ余って憎さ百倍)に対する憤り

  • 聖書は 《ひとごろし》をどう見ているか

     たたき台をしるしますので お考えを述べてください。  【§1】 エワとアダムの自由意志から始まった(創世記3:1-24)  (1) 生まれつきそなわった自然の自由な心にその心に背く自由もあった。:食べるなと言われた木の実から採って食べた。  (2) アダムよ きみはどこにいるのか? という心の声を聞いて 自由のおそろしさを知った。  【§2】 その子カインは 自由は自由ではないかと心に思った(承前4:1-17)  (3) 弟のアベルは おのが心に背かないみたいだ その能天気はマチガイではないかと兄はうたがった。  (4) 背かないのはおかしいではないかとカインは或る日 野原でアベルに迫ると アベルはその従順をとおした。これをカインは ころした。  (5) あらためてカインも 自由のおそろしさを知った。知ってみるとそこで《顔が落ちた》。  (6) 自由という畏れには 仕返しという観念がなかった。そのこともカインは知った。  ▲ (創世記 4:15) ~~~~~~~~~~~~~    主はカインに言われた。       「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の       復讐を受けるであろう。」    主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインに    しるしを付けられた。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (7) のちに:  ▲ (申命記19:21) あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。  ☆ というふうに復讐をすすめてもいるが:  ▲ (申命記32:35) わたし(=神)が報復し、報いをする  ☆ とも言っている。  (8) イエスの出たあとでは こう言う。:  ▲ (ローマ書12:17-21) ~~~~~~~~~~~  17: だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。  18: できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。  19: 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。    「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』    と主は言われる」(申命記32:35)  と書いてあります。  20: 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。    そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」  (箴言25:21-22)  21: 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§3】 神のためならば《ころし》もありなのか? (創世記22:1-19)  (9) あなたの息子イサクをささげなさいと言われたアブラハムは 気のくるうばかりに悩み苦しみ考えた。  (10) ひとは おのれをもほかの人をも ひとをころすことはしない。という答えを得た。  【§4】 《なんぢ ころすなかれ》とモーセ (出エジプト記20:1ff.)  (11) これは 禁止命令である。アブラハムの主観内面における信仰とヒラメキを人びとのあいだに共同化したのである。  (12) モーセその人は個人としてアブラハムと同じくおのが心における内面の信仰にしたがっていたが 集団・社会としてはこの倫理規範を持った。律法と呼ばれる。法律である。  (13) 主観の内から言わば外へ出たのである。《カインにつけられたシルシ》に発するごとく。  【§5】 《文字はころし 霊は生かす》とパウロ (コリント後書3:6)  (14) 律法は 禁止命令としての倫理規範である。つまりは 禁止を犯したことの罪を自覚させるシルシとしての文字である。つまりは 《法律〔やオキテやナラハシ〕》を超えて 主観をおもんじるアブラハムの信仰に還る。と言う。    (15) ▲ (コリント後書3:2-8) ~~~~~~~~~~~  2: わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。  3: あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。  4: わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。  5: もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。  6: 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。   文字は殺しますが、霊は生かします。  7: ところで、石に刻まれた文字に基づいて〔* 罪の自覚をうながし その罪がけっきょくあたかも人をそこへみちびくところの〕死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、  8: 霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【§6】 イエスの後の現代  (16) 法律や思想が 有限のものであり相対化されたなら もう神は要らない。神という観念は要らない。主観内面におさまる。  (17) ひとの意志を踏みにじる《ころし》は ウソ・イツハリをもゆるすような自由度を持つ自由意志に発していると知ったし その自由についてのおそれをも知っている。その自由は 仕返しから 自由である。

  • イザヤ書53:1-7

    イザヤ書53:1-7  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 ◆ (私訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《アース役の最後の人》という主題および《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 《屠り場に牽かれていく小羊のように・・・》

     『イザヤ書』 53章:1-7節です。  ▲ (新共同訳 1988) ~~~~~~~~~~~  1:わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。   主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。  2:乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように   この人は主の前に育った。   見るべき面影はなく   輝かしい風格も、好ましい容姿もない。  3:彼は軽蔑され、人々に見捨てられ   多くの痛みを負い、病を知っている。   彼はわたしたちに顔を隠し   わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。  4:彼が担ったのはわたしたちの病   彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた   神の手にかかり、打たれたから   彼は苦しんでいるのだ、と。  5:彼が刺し貫かれたのは   わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。  6:わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。   そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。  7:苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。   屠り場に引かれる小羊のように   毛を刈る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。  ◆ (試みの訳) ~~~~~~~~~~~~~~~  1:だれが信じたか われわれの耳に届いたことを   だれに現わされたか ヤハヱーの腕は  2:        けれどもかれはヤハヱーの前に   若芽のように伸びた   水のない土に自らを張る根のように   かれには形がない   飾りもないのにわれわれはかれを見ている   見えてもいないのにわれわれはかれを慕っている  3:蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者   痛みの人であって 病いと知られる   われわれが顔を覆う時のように さげすまれており   われわれはかれのことを思わなかった  4:        けれどもわれわれの病いはかれが担った   われわれの苦しみはかれが担いだ   われわれはかれのことをこう思った     神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると  5:そしてかれはわれわれの咎によって身を刺し貫かれ   われわれの過ちによって砕かれた   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである  6:        ただわれわれは皆 羊のように道に迷い   一人ひとりおのが道に突き進んだ   ヤハヱーはかれの中にわれわれの過ちを見させた  7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったから   屠り場に牽かれていく小羊のように   毛を切る者の前に黙っている羊のように   口を開かなかった  ■ (別の史観によって試訳したもの) ~~~~~~~~  1:誰れが信じたというのか このわれわれの聞いたことを   誰れの上に現われたというのか ヤハヱーの腕が  2:かれはヤハヱーの前で若芽のように伸びたなどということを   それはまるで水のない土の中の根のようではないか   かれには形などない   飾りもないのにわれわれはかれを見たというのか   見えてもいないのにわれわれはかれを慕うのか   3:蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である   痛みの人である 病気と知られる   われわれは顔をおおうべく蔑むべきものを   われわれはかれのことなど気にかけていない   4:まったくわれらの病いをかれは運んでいる   われらの苦しみをかれは身に帯びている   われらが思うには     かれは神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ   5:かれはわれわれにもある咎のために身を刺し貫かれ   われわれにもある過ちのために砕かれたと言っても   その懲らしめは われわれの健やかさであって   かれの上にある   かれの傷の上にあって それはわれわれの救いである   6:われわれは皆羊のようであり羊のように道を迷うにしても   一人ひとりおのが道に向かってすすむ   ヤハヱーこそがかれの中にわれわれの過ちを捉らえさせた   7:かれは虐げられ 苦しめられたが   口を開かなかったではないか  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ 《誰にとってものアース役で そのアース役の最後の人》という主題は読み取れますか?  この人を最後としてアース役は その対手のガミガミ役とともに やがて消えて行くと読み取れますか?  《このうたを持ちつつ現実主義に立ってすすむというそのユダヤ人の行き方》という主題はあり得ますか?  これらの感じ方にからめつつ お考えになるところをおしえてください。

  • 甘えの哲学は 忘れていないか

     1. 《甘え》の歴史をとおして セクハラ問題を考えます。そして 事実と真実は ディスクロージャー原則に従うのがよいはずだと考えます。  2. 甘えと言えば 基本的に赤子が母親に身も心もゆだねる聖なる甘えを言うと見ますが この母子関係から離れた人間としての依り縋りなどを甘え一般と ここでは します。  3. エワは 光が陰の部分にも入り込んでいるのを見て 光も曲がると思っていたところ或る日 夫アダムのつくった料理に対して なぜか遠慮してまづいのに おいしいわと言ってしまった。  4. その以前では アダムもエワもそれぞれ互いのつくった料理に対して 遠慮なくおいしいとか・まづいとかと思ったとおりを言っていた。甘えていた。  5. だが まづいものをまづいと言うのを遠慮することも 甘えではないか。――勝手に自分の考えで遠慮するのなら それも 甘えではないか。  6. ふたりは知った。わが自由意志はその自由度がまさに縦横無尽に自由自在なのだ。  7. 光も曲がるのか。曲がり得るということは まっすぐに行くこともあるということだ。でも こわいほどにわが意志は――思考や想像においてだけとしても―― あたかも限界を知らないかのごとく 自由自在だ。  8. 子どもたちの内 弟のアベルは 兄のカインから見て 甘えるタイプだった。アマエについて遠慮しない。少しは遠慮せよと何かにつけカインは思っていた。  9. カインのつくった畑の野菜は 羊を放牧しその肉を食べるアベルにはまづい食べ物だった。  10. 或る日カインは ついに頭に来て弟アベルをなぐり殺してしまった。  11. 甘え合戦の結果 ついにここにまで来てしまった。  12. かれらの子孫の一人でアブラハムなるぢいさんは まっすぐ行くのも曲がるのも同じ光だと思った。遠慮のあるのも無いのも 同じ甘えだと。愛も憎も 人間の甘えなのではないか。  13. その後さらにモーセという男は 人びとのあいだでこの《甘え》について共通の取り決めをするのがよいと考えた。世の中の秩序のためである。  14. 《なんぢ ころすなかれ》と。そして遠慮するにせよ・しないにせよ 《いつはる(偽る)なかれ》と。  15. モーセ自身は アブラハムと同じく独りなる人間の主観そしてその内面を重んじる人であったが 人びとの生活共同にとっては 倫理規範が必要だと思った。  16. 甘え合戦をめぐる交通法規であり交通信号である。  17. 自由意志の自由な想像力の問題であるとも考えられる。《甘え》ということがである。甘えていない者はいない。  18. のちにイエスという男は ふたつ言った。:  アブラハムの言う《同じひとつの光》は その同じはらから(同胞)の内に閉じ籠るのではなく そうではなく 外に開くのだと。  そうして モーセの交通信号は 人びとそれぞれの心根の中にすでに植えつけられている――アートマンまたはブッダターとして――と。  19. 世界の人びとよ。自由に互いにあまえたまえ。自己チューをさえつらぬきたまえ。ちぢこまることなかれと。  20. もっと自由に! もっともっと自由に! もっともっともっと自由に!   21. アヤマチをおかしたその同じ思考の形式と過程を 人びとの生きる環境としての情況あるいはナラハシについて捉えるかぎり――外に開きつつだが―― むしろそのまますすみゆくことで あたらしい・よき考えがわが心におとづれるのだ と。  トンネルを出るのだと。  22. 個人としては われがわれに還ることだ。  23. S 記者も F 前次官も 財務省も報道局も 甘えの哲学のもとにあるのか ないのか。みんな 互いにそれぞれ《われがわれに還る》そのヒラメキを俟っている。それは むしろ甘えてこそ湧き出るのでは?  24. 事実と真実は ディスクロージャー原則に従ってよいはずだ。あとは あまえてもよいのでは?  25. あまえのもとでこそ たがいにゆるしあえる。  ☆ 思いっきり自由なご見解をどうぞ。

  • あなたは 自由を持て余しているか

     1. どういう自由か? ―― 一連の歴史をつうじて明らかになった次のような自由である。  2. アダムとエワは 善と悪とを知る木から採って食べた。そうするのは 胸の動悸で告げられるヤマシサ(恥づかしさ)反応があったにもかかわらず。  3. これは 自由意志のおこないであり わが心にさからうことも その自由度の範囲内だ。この自由度は 人間の思いや考えや想像力の行き着くところまで行き着くらしい。  4. アーリア民族の高貴な血を守るためには 或る異民族の血をことごとく抹殺するというところにまでも。  5. あるいは アダムらの子のカインは 弟のアベルが気に喰わないというので 抹殺した。  6. かれらは楽園を追放されたし 人殺しのシルシを額につけられた。が 自由意志のハタラキについては神にとっては織り込み済みなのであって 人間には ゆるされている。  7. カインを殺す者は七倍の復讐をしてやろうと神自身が言ったという。  8. アブラハムはこの神を心に どういうわけか 受け容れた。  9. 百歳でやっとさづかった嫡男のイサクをも神にささげるというほどの《自由意志におけるその意志の神へのゆだね》をよしとした。  10. イサクを屠ろうとしたとき神が止めた。《わたしが望むのは愛であって いけにえではない》と。  11. モーセは 社会における人びとの間の秩序のためにこれを《なんぢ 殺すなかれ》という倫理規範かつ法律とした(石打ちの死刑など 罰則がある)。  12. イエスはこのいわゆる律法を・そして民族の神をも揚げて棄てた。  13. 律法はその倫理規範に背いたヤマシサ(罪)をおしえるだけのものであるゆえ このオシへ(宗教である)による自己経営を棄てた。  14. 石板に書かれた十戒ではなく 心の胸板に書かれているものであることを指し示した。  15. ヤハヱー神についてはそれを 民族の外に開くことによって棄て 民族神からじんるいにとっての普遍神へと〔イエスが〕揚げた。  16. 揚棄される前の神についても 《わたし(神)は憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ》とか《わたし(神)は双子の兄弟の兄エサウを――母の胎内にあるときから――憎み 弟のヤコブを愛した》と言う場合がある。  17. エコヒイキはある。《風は気ままに吹く》。  18. 義人ヨブもが艱難に遭う。神などはオサラバしてしまえと言われるほどにゴミ屑同様の状態に成り得る。因果応報説は 人間の知恵どまりだと言わざるを得ない場合がしばしばである。  19. 原罪は 人間がウソをつきイツハリをおこなうということだ。ウソとはヤマシサ反応に逆らうこと。その自由度が われわれの自由意志にはそなわっている。ということらしい。  20. 原罪説(オシヘ)が――あるいは 不殺生戒や不邪淫戒が―― 人びとの意志の自由を抑えて秩序が保たれるという社会と時代は去った。その自由を 人びとは どう受け取っているか? ――持て余しているのか。  21. 人びとは オシヘ(つまりシュウキョウ――それは 人間の言葉で書かれているからには 信じるものではなく 考えるためのものである――)を 心の主人としてその奴隷に成り下がっている時代が過ぎたというのに ただただなお慣性の法則に従ったままである。――のだろうか?  22. あたまとたましひが――シュウキョウとつるんだマツリゴトによって――鈍ってしまったのだろうか。  ☆ あなたは 自由を持て余しているか

  • 《金の仔牛》に罪はない!?

     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?