- 締切済み
自分の為に、誰かを犠牲にすることは多い。
自分の欲望の為に、家畜は、犠牲になりますよね。 野菜も。 人は、誰かの犠牲で生きている。 正論です。 感謝はしてますが、やもえない それでは、野望の為に、誰か犠牲にしても、仕方ありませんよね? 消費税も、お金の為にも。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
みんなの回答
- usagiminnto
- ベストアンサー率14% (167/1191)
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7194/21844)
関連するQ&A
- 自分を犠牲にして、誰を助けますか??
親、兄弟、友人、恋人、夫、妻、子・・・・など、 大切な人って沢山いると思います。 (1)自分の命を捨ててでも助けたい人は誰ですか?? (2)またその人達が同時に危機に陥ってたら、どの順で助けますか?? 私は、 (1)家族、親友T (2)1→お母さん、2→お兄ちゃん、3→親友T です。この三人の為なら自分の命を捨てることができます。 お父さん、おばあちゃん、彼氏の為には自分を犠牲にはできないと思いました(汗。 最近ふとこんな事を考えて、皆さんはどうなんだろうと思ったので質問しました。 「お父さんは丈夫だから後回しで・・・」 とかいう回答ではなく、 自分がこの順で助けたいと思う回答をお願いします。。 あと年代性別も教えて頂けると嬉しいです☆
- 締切済み
- アンケート
- なぜ公務員は自分たちの給料が高くないというのか?
消費税上げる前に公務員の給与を削減しようと国民が正論を唱えると公務員は自分たちの給与を下げたくないといいます。 どうして年収400万で満足しないのでしょうか?
- ベストアンサー
- その他(就職・転職・働き方)
- 恋愛や結婚(同棲)には、犠牲がつきものですか?
恋愛や結婚(同棲)には、「犠牲」というものは 絶対つきものなのでしょうか? しかたがないものなのでしょうか? あたりまえのことなのでしょうか? 私の彼が、ある試験に向けて勉強しているのですが、 それが受からないかもと言っています。 私と付き合っているのが要因だと言っています。 でも原因とは言わないそうです。 私との時間が必要だし、私といるのが大前提だから、 試験に受からなくてもしかたがないと言います。 でも私はその試験に受かってほしいです。彼の夢のはずだから。 それが私のせいでだめになるくらいなら別れたほうがいいのかと思いましたがそれでもまだつきあっています。 なにかを「犠牲」にしなければ、 付き合う事は無理でしょうか? 私は自分の人生のなにかを「犠牲」にするなら 付き合う事はしないほうがよいのでは、と思っているのですが。 彼は「犠牲」はしかたがない、と言っています。 どうも価値観の違いが現れていて動揺しています。 いろんな人の意見が聞きたいです。 よろしくお願い致します。
- ベストアンサー
- 恋愛相談
- 自分の為に闘うことを相手に伝えるには ソフトテニス
インハイ予選前に打てなくなった人がいます 周りの期待の為に、良いボールを打とうとしてミスが続くと焦ってしまうとのことです。 私は、周りの期待の為に闘うのではなく、その周りの期待に応えたいって思った自分の為に闘ってきました。 自分を犠牲にしてまで、自分のプレーが出来ないなら、人の為に闘うのではなく自分の為に闘ってほしいと思います。強要はしません。こういう考え方もあるよと伝えたいのです。 インハイに行くのは親でも監督でも仲間でもない、自分自身なんだ こんな風に思ってもらうにはどういう話をすればよろしいでしょうか?
- 締切済み
- 友達・仲間関係
- 欲望の為に何でもできる人が、幸せに笑える理由って?
欲望と快楽と勝利の為なら (性欲、お金、名誉や権力、贅沢) 犯罪以外なら何でもできる人、 (嘘、演技、人を騙す、自分の利益の為に人をコントロールして利用する、 人情を捨てる、思いやりの崩壊) それも、全く平常心で、かつ、一切の罪悪感もなく、 むしろ「嘘をつくのは才能。人を騙しぬく自分は凄い」という、 勝利と喜びを帯びてできる人 更に、騙されている奴らを馬鹿だと思い、 むしろ、騙されている様子を愉快に思うほどの人、 こういう人がいます。 こういう人は、なぜ、それで幸せに生きていられるのですか? それで笑っていられる理由が分からなくて、苦しいです。 気になって仕方がありません。 何故ですか? なぜ、そうやって、自分の利益のためだけに生きているのでしょうか? あと、もし、あなたなら… 女とやれる、10億円稼ぐためなどの利益のため、 一生遊んで暮らすためなら、あなたなら、やろうと思いますか? そして、それらが達成出来て、10億円築けたら、 更に、笑って幸せで生きていられますか? 人間性や善意の心を捨てて、 肉欲と金の為に生きるという意味です。 そして、騙されて利用されている相手を面白いと感じ、 騙している自分を勝者だと感じますか? 他でも似た質問をしたのですが、 あいまいな質問の仕方をしてしまったので もっと端的に知りたくて、投稿しました。 よろしくお願いします。
- ベストアンサー
- 恋愛相談
- 自分の為に生きるという事に興味が持てません
【求めているもの】 考え方・アドバイスが欲しいです。 【生い立ち】 当方、30代半ば、独身の男性、会社員で高齢の母と暮らしています。 兄が数名いますが、どの兄も母の事は蔑ろにした生き方をしています。 幼少の頃から、金の無心をする親戚や 自分勝手に欲望のまま、無計画に買い物をする父・兄に囲まれ そして人は良いが要領が悪い母が必死にパートをしては 自分の僅かな楽しみさえも行わず、金の無心をする彼らを助け 感謝もされない姿を見て育ちました。 兄は母に、もっと家が金持ちだったら幸せだったと言いましたが・・・ 恐らく、その環境も一因だと思いますが。 自分の好きなことをする、趣味に没頭する=悪という考えが 心のどこかにあるような生き方をしています。 【現況】 最近では、自分が引き取った母に 父や兄が蔑ろにした分、孝行をして・・(といっても美味しい食事をしたり、旅行くらいですが) 母が死ぬ時に少しでも良い人生だったらと思えれば・・と そんなことばかり考えています。 そしてその後は、私自身はひっそり誰の目にも触れず死ねばいいと。 理性では、過干渉であり、自分の人生を生きるべきだとは考えることもあります。 又、それと関係があるのはわかりませんが 幼少の頃から、自分だけは迷惑をかけるような生き方をしてはいけないと (社会において不可能ですが) 考えて生活していたせいか、他人との距離感がわからず よく人を不快にさせては結果、疎遠になることがよくあります。 自己肯定感が薄いのか、 知人・友人が立派になったり、知らないコミュニティで上手くいっているのを見ると もう私とのつながりは必要ないだろうと勝手に判断して距離を置いてしまいます。 相手からは恐らく私が避けているように感じるはずです。 装飾品や服装・嗜好品も 一緒に行動する人に恥をかかさない為に購入しますが 自分の好みで買ったことはありません。 自分の行動原理を他人に依存して選択することが多いですね。 かといって献身的かと言われれば違いますが。 最近では毎晩 苦しく、誰にも打ち明けられないのですが 今自分は何の為に生きているのかと考え眠れなくなります。 皆さんのお知恵をお貸しください。
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 自分の利益や幸せの為に、努力する方法を教えて下さい
とても面倒くさがりです。努力ができません。 自分の幸せや、利益の為に、どうしたら努力できるのか、分かりません。 欲があまりないのかもしれません、何をしていても、基本楽しくないです。 どうしたら、努力できるのか教えてください。 ・お風呂なども面倒くさいです。 ・外出や、起床も面倒くさいです。 ・自分に利益のあることを、努力することが面倒臭いです。 ・自分の為に、頑張れません。 ・本を読む集中力がありません。 ・テレビも、最近飽きてきてしまいました。 自分の欲望の為に、努力している人が、羨ましいと気が付きました。 明日、死んでも、基本構わない感じです。 仕事はしていません。貯金が少しあるので。 誰かの為にも頑張れませんが、 「好きな人を作れば」という方法以外で、お願いします。
- ベストアンサー
- 人生相談
- 他人の為に行動する事
皆様はどれくらい他人の為に行動することができますか? 私は自分が犠牲にならない程度にしか行動できません。 この場合の犠牲とは「自分が非常に不快な気持ちになる」ということでお願い致します。 もちろん人の為に行動することは良いことだと理解しております。 皆様がどの程度他人の為に行動出来るのかを知りたいと思います。 宜しくお願い致します。
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 自己犠牲に対する強い嫌悪感は投影?
自己犠牲に対する強い嫌悪感は投影? 自己犠牲に対して強い嫌悪感が有ります。 思い返せばそれは幼い頃からのようです。 「人魚姫」の物語を読んで、王子の為に泡になる人魚姫に、強い苛立ちを覚えました。 主人公が苛められる物語とかも嫌いでした。 全く、美しいだなんて思えません。 相手を傷つけてでも、自分を守るべきなのに、なんて少々攻撃的に考えてしまいます。 (現実には気弱な方ですが。そんな自分にまた強い嫌悪感なのですが。) 自ら犠牲になって人を救ったような素晴らしい人達には、苛立ちなどは全く感じません。 素直に尊敬します。 少しでも自己犠牲を強いられたり、侵害されるような事を、強く憎んでしまいます。 嫌悪感は投影だと言いますが、自己犠牲を嫌悪するというのは、私自身が自分を犠牲にしているということなのでしょうか? 幼い頃から無意識にそうせざるを得ない状況にあったとゆうことなのでしょうか? そもそも自己犠牲とはどうゆうことなのでしょう。 そんなものはこの世に必要ないものだ、位思うのに、どちらかの自己犠牲無しには他人との関係は成り立たないような気がします。 散文すみませんが、心理学にお詳しい方、考えられる原因と、考えの改め方を教えて頂きたいです。 私が自己主張することは相手の権利を侵害するような気がしてしまうんです。 だけど、自己主張出来ないと非常に強いストレスがたまり、相手を嫌いになってしまったりします。
- ベストアンサー
- 心理学・社会学
- イエスは 犠牲にされたあと 聖なるものとされたか
《第三項排除――犠牲を作り出す――の理論》があります。 自分たちの集まりの中から 《異質〔と見なした者〕を排除する》といううごめきについてです。 今村仁司が理論づけました。『排除の構造――力の一般経済序説』(1992)です。 この理論とそして その中でイエス・キリストがその排除された第三項であるという見方 これらについて問います。 § 1 まづ人には《承認欲望》があると言います。 人は 存在としてまたその人びととの関係として 社会的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかもその自由の実現を 特に社会集団としては まちがって追い求める傾向があると。 簡単に言うならば 集団の中の一人だけを例外つまり除け者にして あとは互いにひとしく自由や平等をたのしむといった傾向であり むろん間違った道筋であるというものです。 一人ひとりは独立した主観であっても基本的に人間は 社会関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。人からみとめてもらえれば うれしい。そのときややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つ。たとえ一定の一人の人を除け者にしてでも。・・・ § 2 承認欲望が 模倣欲望をうながす。 この承認欲望が衝動のごとくにさえおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。みんなと同じであれば 安心するという習性。つまり 承認されていると思うことがたやすくなる。 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性つまりは《全員による同じ歌の大合唱》という情況だけではまだ 相互の承認が完成したとは見なさない。こういう気難しい一面もあると言う。 § 3 模倣欲望は 承認欲望が満たされていちど安心したのもつかのま なおまだ不安が潜んでいるようなのだ。 そこで これなら安心しうるという一定の判定基準を持とうとする。 この誰れにとっても見やすい共通の基準となるものが 《第三項》である。具体的には 《のけ者》と言えば早い。 除け者を除け者とする同じひとつの態度を共有するなら もう何が来ても安心だということであるらしい。 § 4 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。 追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。 このときその〔小単位としての〕社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項は たしかに《除け者》として扱われる。 つまりは第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 人としての互いの承認が実現するというわけだと言います。そうしてこそ 人びとは安心して 安定した《仲良し》状態となり 《秩序》を楽しむと言うのだそうです。 このような傾向を人類は 悲しいかな 残念なことに持っているのだと。 § 5 もっとも そもそもにおいて《自由》を前提していたように その自由への変身を人びとが成しうるとも説いています。 それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。 また 模倣欲望を実行している最終の過程で その互いに互いを模倣するという《流行や ファッション》の現象においてもその反面にはつねに起こると思われるように それつまり 《みんなと違いたい願望》が これもじつは同時に はたらいてくれるとよいし はたらくだろうと考えられてもいます。 非模倣ないし反模倣つまり みんなと違っていたいという欲望 そしてそれと並んで 《異者》を受け容れるという行為 これらによって 自由への変身を人びとは勝ち取れる道はのこされると。 § 6 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを人びとは《聖化》すると言います。 人びとからは呪われて去ったと見なされたその除け者を 今度は排除の成功のあとにはぎゃくに偉大な生け贄と見なし それに聖性を付与する。 それによって なお人びとは 安心するというその仕組みなのだと。 つまり 十字架上に去って行った者を 絶対の聖者として こんどは一転して崇めるようになるのだと。 したがってつまり今度は 除け者の第三項を《聖なる第三項》として みなであがめる。 このことを通して あらためて集団ないし社会における秩序と安寧をたしかなものにするのだと。人びとは安心するということらしい。 たとえば菅原道真は 聡明で真面目な人間だったらしくしかもワケもなく左遷されたらしく その死後には 天神様として生前における《のけ者の第三項》扱いが《聖なる神》としてまつられるというからくりであるらしい。 § 7 言いかえると イエス・キリストの事例に見られるような《聖なる除け者(第三項)》といった扱いは これも まちがいであると考えられるのに かなり有力なかたちで続けられる。 なぜならそこでは 死後に一たん評価がひるがえって《聖なる者》と見なされるようになったあとでは この《聖化》――つまりは そういう通念ないしクウキ――に対してもし否定するような動きがあったなら今度は あたかもすでに条件反射のごとくに 反動のチカラがはたらくということらしい。 前からもうしろからも オモテからもウラからも 《第三項排除》の歴史は 完璧を期してつづけられる。 反動のチカラは 出る杭を打つとなって現われる。つまりその――今度は 聖化されたイエスを悪く言うかたちで――新たに現われた異端分子を やはり第三項と見なしてその排除にかかる。 異端分子が 人びとの《心の――じつはただうわべにおける心理的な――安心と安定のみなもと》としていだかれたキリストなる観念の共同に ただ否定的なだけではなく 真っ向から敵対するかたちとなり ひとつの勢力さえ形成してきたときには 当然のごとくそれを 単に除け者とする手段では間に合わなくなれば 明らかに迫害や戦争にまでも発展させる。ときに社会はこぞって容易に その戦争に飛びつくことができる。 § 8 《自由への変身》は 異者の受容によるか? ひとりの偉大な《聖なる者》をいただくひとまとまりの社会 これも じつは そのまま間違いである。 その《聖なる者》をいただくか否かで区分した規定じたいがすでに 除け者をみづから作ろうとしている。ただちに排除しようとして 異端分子の起きることを待ち構えている。 だから他方で《ひとと違っていたい》という欲望においては 外の異者を受け容れよと言うのであるが おそらくそれは――その今村理論に逆らってでも―― まだコトの本質には迫っていないように思われる。(異者の受容そのことが わるいわけではない)。 内外の区別ということ自体が そしてそもそも《偉大なる聖なる第三項》をいただくという方式じたいが どこまでも除け者を作り出そうとする模倣および承認の欲望のなせるわざである。世に言う《宗教》なるものの何たる自己欺瞞 ! § 9 どこまでも《話し合い》によるしかない。 模倣は 反模倣の動きがあるように 安心感のよりどころではない。承認されたいという欲望は おそらく強いのであって 人間にとっては 或る種の仕方で根源的なものであるかも分からない。 ならば とことん互いに話し合うことではないだろうか? 話し合いによるしか道はないのではないか? 仲間意識の感覚 あるいは それの判定の基準は あくまで一人ひとりのこころにある。ここでは 《主観》が主役である。あてにならないおのおのの主観が それでも 主役である。 ならば互いに だめでも話し合う。それでも話し合う。いやでも話し合う。(ただし 待ったなしの障害があるときには 別である。相手の状態が 話し合いに耐えない様子であるなら しばらくは無理である)。気長に話し合う。もっと話し合う。まだまだ話し合う。もういやというほど話し合う。 自由なご批判をあおぎます。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学