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真田昌幸の決断-天正10年の選択-
- 天正10年春、真田昌幸は甲州武田家の命運を左右する重要な決断を迫られました。彼は自身の知行地上州岩櫃への下向を進言しましたが、結果的には実現することはありませんでした。代わりに小山田信茂の持ち城郡内岩殿へと赴き、彼の裏切りによって武田滅亡は早められました。
- 一部では「勝頼は選択を誤った」と言われていますが、真田昌幸が上州に赴いたところで結果は同じだったかどうかは疑問です。真田も自分の領民を守るために勝頼の首を差し出す覚悟があったのかもしれません。
- 歴史上のIFは推測することが難しいですが、皆さんは真田昌幸の本気度や勝頼への忠誠心についてどう考えますか?証拠文献にはそのような記録が残っているのでしょうか?
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小山田茂誠と真田昌幸娘の婚姻ですがこれは誰の意向でどういう流れで行われたのでしょうか? 通常武田家としては、真田と小山田は外様四台巨頭?の両家ですので連合されて家中で要らぬ強大な発言権をもたれたくないように思います。きちんと勝頼の決済がなされたのでしょうか?
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本州のほぼ中央に位置し8県と境を接する長野県ですが、この立地条件と険峻に囲まれた可住面積の少なさ故に、信濃と呼ばれた古来より大勢力の出現と蟠踞を許しませんでした。 当地を旅する時、関東の沃野とは明らかに違った風景を散見する事となる・・、そんな信州に育まれた小豪族の1つが六文銭で世に名高い真田一族。 さて年明け早々に始まったNHK大河 「 真田丸 」 、御存じ三谷幸喜氏脚本のドラマですが、彼の前作 「 新選組 」 は正直疑問符が付く出来栄えだった、さあ今回はどうだろう・・と2~3回観た感想を申し上げれば、どっこいこれが結構面白い、安易に笑いを取ろうとするのはまあ彼の癖でそれはいいとして、久し振りに1年間お付き合い出来そうな大河ドラマに出会えたとの印象です。 そんな当作でスポット・ライトを浴びる中の一人が幸村の父真田昌幸、まあこの昌幸という武将ほど食えぬお方も少なかった、ただ戦国期を通じ恐らく有数の局地戦の名人といって差し支えない、他方武田家滅亡後四方を大国に囲まれたあの状況下に於いて、上杉を欺き・徳川を翻弄し・北条を手玉に取った他、ありとあらゆる手立てを尽くして遂に本領を守り抜いた ( 勿論関ヶ原以前の話です ) 、その手腕は高く評価されて然るべきでしょう。 その一方で、武田2代・・特に落ち目となって以降の勝頼に尽くし抜いた忠義と、その後巡り合い終生その肖像画を拝んだとされる豊臣秀吉に見せた可愛げもまた、彼のもう一面を表す本当の姿だったろうと思います。 ところで何故真田ばかりが特別なのか・・、その疑問に私としてはこう答えたい。 1つには関ヶ原・大坂の陣を通じ今に至る歴史とロマンに名を遺した事、次いであの大乱世を生き抜き真田の名跡を遥か後世にまで脈々と伝え続けた点、言わば昌幸・幸村そして藩祖信之の分業であったそのどちらか一つが欠けても、或いは真田の高名は無かったのかも知れません。 そんな信濃路に思いを馳せる時、苛烈な気候・地理的条件の厳しさと同時に、神から大きな恩寵を受けた素晴らしい大地に或る種の羨望を禁じ得ない私もおりまして、ちょっと思い付くだけでも安曇野・上高地・軽井沢に木曽、それ以外にも数々のスキー場に温泉、これほど観光資源に恵まれた都道府県も少ないでしょう。 前置きが長くなりましたが、信濃路・真田一族に関し、皆様の御意見を賜りたいと存じます。
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武田勝頼軍が長篠城を包囲攻撃した際救援要請のため鳥居強右ェ門が脱出し浜松に走り、主君家康に救援を要請しました。 このとき織田信長は救援のため鉄砲数千丁をそろえて急行中でそれを待って家康も出陣の予定でした。 これを知らされた鳥居は止められたのを振り切って城に知らせるため帰ろうとして武田軍に捕らえられ偽の情報を城兵に告げるよう強制されます。 一旦承知したふりをして磔姿で城近くに進み城兵に救援が間近いことを知らせたので怒った武田兵に突き殺されました。 その時武田兵の一人が鳥居の忠誠心に感服しその磔姿を絵に書き自分の旗印にしたといいます。 この人の名前を失念しました。 だれでしょうか? またかなり名のある人と思いますが、武田滅亡時のその後はどうなったのでしょうか? ご存じの方ご教示ください。
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お礼
ご回答どうも有り難う御座います。 私は、昌幸が勝頼のために館を造営していた事実を知りませんでした。 だとすると、昌幸は本気だった可能性が高いですね。 それが例え自己の野心を満足させるためだとしても、真田の名の高感度を後世に上げるに十分なエポックの一つに成り得ると思います。 判官贔屓と忠臣家も相まって、真田一族が現代まで日本人に好かれている由縁でしょうか?