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釈迦が行った生殖行為に対する憎悪

mmkyの回答

  • mmky
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回答No.2

第一の質問として、これは事実でしょうか?釈迦には実子がいた。 ○ 釈尊が出家する前は奥さんも、長男、ラーフラもいましたよ。後に両方とも出家して釈尊の弟子になっています。長男ラーフラは優秀な弟子の一人でしたが若くして亡くなっています。 当時のインドでは、跡継ぎができれば悟りを求めるために出家しても良いという風習がありましたからね。 第二の質問として、それでも釈迦は開き直り、節制を勧めるのは一体どうゆう訳なのでしょう? ○ 出家僧は五戒(不殺生戒、不偸盗戒、不邪淫戒、不妄語戒、不飲酒戒〕を守って精神修行していましたから妻帯や女性との交わりなどは許されていませんね。布施で暮らす修行僧ですから当然ですね。 弟子の中には女性にふらついた者もいたようですが、その場合は一度還俗して在家、つまり普通の暮らしに戻れば、妻帯も自由でした。在家にもどり、財を成し、跡継ぎを残してから再度出家するということも許されていました。 つまり、布施で暮らす修行僧に与えられた五戒ですから、特に女性に関して守れなければ還俗し結婚して一般の在家弟子として修行すればよかっただけですね。祇園精舎、竹林精舎、鹿母子精舎などで釈尊の説法はいつでも聞けたのですね。釈尊は出家僧も在家弟子にも分け隔てなく説法してますよ。精舎を寄進したスダッタやカランダカ長者は当時の有名な商人ですが弟子としても立派だったようですよ。 在家弟子にも同じように五戒が与えられていますが、在家の場合は妻帯者ですから不邪淫戒は不倫してはいけないという意味ですね。 釈迦仏教では出家と在家の両方があったので無理な節制を強いるという考えはありません。 これは苦楽の中道という考えの一つですね。性欲の弱い人は出家僧に向いていますが強い人はそれが煩悩になって精神修行できませんので、妻帯し在家弟子として修行したというだと思いますよ。 まあ、後代の僧は釈尊もいませんので、自分や他人にに厳しいかたもいたでしょうが、釈尊は悟りの道は「苦楽の中道」にありと明快に教えを残されていますので、そこにあなたへの回答もあるということでしょうか。

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