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釈迦が行った生殖行為に対する憎悪

meinyuuの回答

  • meinyuu
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回答No.5

お釈迦さんが 生殖行為を否定したのでしょうか? 『すべてのことに理由がある』と説かれたのもお釈迦さんだと思っていました。 善悪の判断基準は種の保存に適しているかどうか! と自分ながらに結論付けていました。 交尾ができなければ私の存在もない 先祖には犯された者も 犯した者もいたのではと考えています。 それを悪と否定することは 自分の存在を否定することにつながります。 人はすべて いや生物はすべて自己中と思っています。 幾ら 善人ぶっても 冷蔵庫には 牛や豚 魚介類の死骸を転げているのが 人です。 白菜やキャベツの晒し首まで保管しています。 浅学な私にとって 生殖行為の否定には驚きました。 お釈迦さまも自己中で 他の者に美人を取られたくなくそのように説かれたのかも知れませんね! また不倫・婚姻と区別されておられる方も見えますが、何故に本人の意思までを否定しようとされるのかも不思議に思えます。 雄の不倫は種の保存に有効です。雌のそれは逆効果になります。 長い年月の間に淘汰洗練されて 雌雄の習性として残っています。 雌雄の差だけでなく貧富の差によって裕福な者は複数の対象を持っているということも事実です。 一夫一婦制の方が選ばれる側からすると不平等かもしれません。 愛は! 不倫は! 文学が作りだした創造物に過ぎないのではないでしょうか? ブランドに価値観を抱くのと同じように思います。 それに執着心を抱くことの方が 生殖行為を行うことより疑問を感じます。 お釈迦様の生殖行為に嫌悪感を抱かれている事は潔癖な生き方を目指されていらっしゃると感激です。 しかし、長い人生いつかは傷つく時が訪れることと思います。 相互の感情は種の保存にとって適しています。 相互にムラムラっときて 交尾して私が存在しています。 お釈迦様が 方便として説いたとしても それを心底否定してるとは思いませんでした。 どちらかと言うと 初女から生まれたイエスの方が私は嫌いです。 種の保存行為を否定できる人などいるはずがないと思いますがいかがでしょうか? 想像にすぎませんが、私も父母に おむつを変えてもらっていました。 いつのころからか 開き直って口答えをしています。 お釈迦さんも人です。 おむつを変えてもらっていただろうに いつの日からか開き直って 偉そうに講釈を述べ出したのだろうと思います。 町を歩いている人たちも偉そうなふりをしてるかも知れませんが 昨晩かいつかは分かりませんが二人で密かに励んでいるのだろうと思います。 昨晩!私は!彼と!・・・という振りで 正直に街を歩く女性がいたら楽しいですね! その事実を認めた上で 子孫がより良く生活できる社会ができると良いな! と 思います。 しかし、現実は政府関係者の独裁によって 良い社会形成に向かってると思えないことが残念でなりません。

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  • 私の考えについて意見してほしいのですが。

    特に哲学について大学などで学んだことは全くないのですが(経営学部)、自分の身体操作技術論の発展過程で、東洋武術的身体論に、釈迦の至った「悟り」と最近の国際的なマルクス論の展開とに共通性を感じています。 具体的に 1 物事全般における三次元性 人の物事に対する視点や認識は二次元的であり、平面的である。また、それはスポットを当てたかのような範囲的な狭さも含んでいる。 2 釈迦の「悟り」と身体操作技術的観点から見た身体論 身体操作において身体の分割を考えた場合。それを分割していき中国武術(意拳)の王郷齋が至った細胞レベルまでの意識的身体分割そしてその統合。その延長線上に釈迦の「悟り」、(私の解釈では)宇宙との同化であり、具体的には素粒子レベルでの意識的身体分割によって宇宙という存在と釈迦自身との差異がなくなったのではないか。そして統合=宇宙との同化を「修行」(=おそらくは呼吸法やヨガ的なもの)を進め、「宇宙=自身」というものを「体感」し得た。 3 最近の国際的なマルクス論の展開 身体の分割=分業であること。そして、資本主義(ネグリの帝国)において内部でうごめくグローバルとローカルの二元的対立は、=輪廻。最終的な「共産主義」(でなくても現在の資本主義という枠からパラダイムシフトしたポスト資本主義社会)とは釈迦の至った輪廻から抜け出ること。 (今のところ)以上から 4 我々は宇宙(=自然=神)の一端 その一端である限り現実にそれを超越することはできない。すなわち終局的には、宇宙との同化。「宇宙との同化」をピラミッドの頂点としたとき、人間の行動や思想はそこへいたるプロセスに過ぎない(中でうごめく物事について人間というフィルターを通してみたときの是非はあるが)。 自分でもまだ淀んだイメージなので非常にわかりにくいと思いますが、こういった考えに意見してください。

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