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カントにおける内官の場所

初心者なので、基本的な間違いがあったらすみません。 カントにおいて、外官(感性)【感覚器官】というのは理解できておりますが、内官(感性)とすれば、感官としての内官はどこに存在するのでしょうか。純粋理性批判を一応通読したのですが、直観がカントにおいては悟性と繋がっておらず、他のこころの働きの内容を見ても、ちょっと繋がる場所が見いだせませんでした。

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noname#156094
noname#156094
回答No.3

内官と直観が同義語である、というのは正しいと思います。 しかし、直観を重視するあまり、直観が感覚を包括するかもしれないという考えには無理があるように思われます。 それは、五感の内の一感覚が他の感覚を包括してはいない、という事からしても明らかに推測できます。 直観は五感と密接なものであっても、それ自体においても独立した感覚であると考えることができます。 感覚によるすべての情報の照合を担うという働きを持ちながらも、単独でも情報を把握できる働きを持つものです。 五感と直観が密接であることが包括的であると解釈されがちですが、むしろ意志による感覚や直観の制御こそ包括的といえると思います。 五感と直観をハードとするならば、意識はソフトに該当するでしょう。 ハードを包括的に制御するのがソフトです。 ハードの一部が他のハードを包括的に制御することは有り得ない、と思われます。 悟性とは、意識における概念確定の作業をさすものと思われます。 そこには、あらゆる情報の照合と選択が含まれていることから、分析的とも表現されるのでしょう。 感性における直観の働きが重層的・複合的に、意志によって制御されている状態ともいえそうです。 その場合、意識が感性的符号を用いて直観の働きを促しているのかもしれません。 放った符号を基に、返って来た符号から、また符号を放つ・・・というように 悟性とは、意識に基ずく情報処理による概念確定の作業、というものなのでしょう。 大きく見れば、意識や感性を含めた心全体の働きが悟性であるという表現も可能と思います。 感性が情報処理を担うハードならば、意識は感性の情報処理を用いて概念確定をおこなうソフトだともいえそうです。

pantaberu
質問者

お礼

自分なりに整理してみました。 外官ーいわゆる五感の器官 内官ー精神や意志とされている心的領域に存する、「はたらき」そのものを、「外官」に対応させて「器官」的呼称としたもの。 としてみました。もともとの質問の意図は(「内官」はどこにあるか) という事でしたので、とりあえず上記の解釈で一段落しました。 hetanosuke様のご説明から導出する事が出来ました。 ありがとうございました。

pantaberu
質問者

補足

詳細なご回答、誠にありがとうございます。 そうすると・・・ 悟性(心)     ーー意識     ーーーー感性ーー内官(直観)           ーー外官(五感) なのか、とも思いましたが、図示すると逆に難しくもなります。

その他の回答 (3)

  • sibat0901
  • ベストアンサー率10% (1/10)
回答No.4

純粋理性批判は通読したことはないのですが、カントがいわんとしていたことを勝手に想像して回答させていただくことをお許しください。 内官とは”魂 → 心 → 精神 → 理性”の一連の流れのことだと思います。 はじめに感情を説明します。 感情は、(1)魂の言葉 (2)理性がつくったまがいもの の2種類があります。 ある出来事に遭遇した場合、それについて人はなんらかの感情を生み出すと思います。 ある程度素直ならば、(1)のようにその感情をうけて、その次に善悪の判断などを理性でしますが、(2)の場合のように、感情があるのにそれを捉えきれず、理性だけで判断してしまう場合もあります。 理性で判断する場合、まず最初に感情を捉え、それを理性につなげていかないと自分にとっていい結果には成り得ないと思います。 ”こころ”とは、魂の言葉とそれを自覚する精神をつなげる廊下のことであり、魂の言葉がこころという廊下を通って、精神がそれを捉え感情として自覚して、最後に理性で何かを判断するのです。 ですので、内官とは三位一体(魂・精神・理性)のバランスがとれた状態の感覚のことをいうのではないでしょうか。

pantaberu
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 僕の考えでは、内官という「器官」としての呼称は、バランスの達成という状態までを含められるものではないように思いました。 しかし、魂ー理性への流れというのは、内官がどこにあるか、という理解への導きになりました。ありがとうございます。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.2

説明の仕方がわかりませんので勝手ながら短絡的にまとめますと、「内観とは未来」です。 到達していない場所。しかし未来が過去に影響を及ばせている。

pantaberu
質問者

お礼

ご回答頂きありがとうございます。 質問の意図は、 カントにおける意味での 外官の対語としての内官(内部感官)について、 でした。

noname#156094
noname#156094
回答No.1

推測です。 >感官としての内官はどこに存在するのでしょうか。 五感に付随する直観の働きを指すものでしょう。 五感を通して入ってきた情報は、直ちに既存の情報との照合が行なわれます。 それは意識の介在を要しない素早い働きです、瞬間的といってもよいと思います。 情報を感性的符号として瞬間的に照合できる働きが直観です。 照合の結果を意識に基づいて選択するのも直観だと考えられます。 意識とは、直観による照合と選択を経たものに対して、さらに確定の働きを担うものです。 概念化という確定のためには、選択された感性的符号と言語との照合も必要です。 それらの働きも直観が担っていると考えられます。 感性とは、感覚(五感)と直観の働き全体であり 悟性とは、感性と連動して働く意志の確定の作業であると思われます。 感性による直観的把握と、悟性による分析的思惟によって認識が成立するという、カントの認識論ですが 感性と悟性の働きの実像を深く示さなかった点には確かに疑問があります。 あえてそこまで踏み込まなかったのには相応の理由があったのかもしれません。 思うに、直観の働きを定義づける事が出来なかったことによるのではないでしょうか。 意識は直観の働きの全てを制御できるものではない、という点を暗示しているのかもしれません。 私は、直観というものは無限のレーダー、だと考えています。 しかし、そのレーダーの仕組みは? と問われれば、やはり言葉が詰まり気味になってしまいます。 認識論や精神科学といったものは限りなく奥が深いのでしょう。 私の推測も拙いもののようにさえ感じます。 少しでも参考にしていただければ幸いです。

pantaberu
質問者

補足

大変参考になります。ありがとうございます。そうすると、 意識外の心的領域=感性/直観=(内官)→外官も包括 意識としての心的領域=悟性 という仕組みでしょうか・ 内官と直観が同義語だとするとすんなり入ってくるように思えます。

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