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言葉を勉強しています。

1つ目は「感性」です。 1 物事を心に深く感じ取る働き。感受性。 2 外界からの刺激を受け止める感覚的能力。カント哲学では、理性・悟性から区別され、外界から触発されるものを受け止めて悟性に認識の材料を与える能力。 と出ていましたが、どういう意味ですか?もう少し噛み砕いて教えていただけないでしょうか? と「感受性」です。 外界の刺激や印象を感じ取ることができる働き。 外界つまり、外の印象を感じ取るとは「自意識過剰」という意味なんでしょうか?こう理解すると2つがリンクしないので分かりやすく教えてください。お願いします。 最後に2つの使い方を教えてくれますでしょうか?よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Trane37
  • ベストアンサー率51% (460/888)
回答No.4

>同様に【感受性】も「感受性が強い」=「頭の回転がはやい」とか「相手が何を言いたいのかが分かる」という解釈でよろしいでしょうか? 「感性」のほうはいいと思います。が、「感受性」はあまりそういう使い方しないのでは。例えば「お笑い芸」に対する「感受性が高い」という場合、ちょっとのことで笑いころげてしまう。というニュアンスが強くなるのでは。だから感性=感受性ではないと思います。意味的に重なる部分は多いですが。 その調子で、とにかく言葉を使ってみて下さい。で先生とかご家族に訂正してもらいましょう。

donteitan
質問者

お礼

何度にも渡り、ご回答していただき本当にありがとうごいますw回答を締め切ってから、気になってしまったんですが、最初にTrane37さんがお答えした「こういう言い方にキズつくようであれば、あなたは感受性が高いということです。」という所です。今となっては、遅いですけどねwありがとうございましたw

その他の回答 (3)

  • Trane37
  • ベストアンサー率51% (460/888)
回答No.3

うーん、ある言葉を同じ言語で”説明”するのはほんとうにむずかしいのです。 1.感性は英語でいえばsensitivityに近い語感です。 2.感受性はsensibilityでしょうか。 「感性」は一般に知覚されたものを受け止め、自分のものにする能力。なんじゃないでしょうか。「音楽に対する感性」とかいいます。内側にその人自身の力があるとき使いますね。外側から入ってきた感覚刺激だとか、抽象的な話や身の上話などを内側に取りこんで、自分のものにしたり、共感したりする力です。「音楽の感性が良い」など、より抽象的につかいます。 「感受性」は、「感性」より、外面的で外側からの刺激そのものを受け止める能力ですね。「音に対する感受性が高い」というような、具体的な、物理的刺激に対する応答性について形容する場合に使います。 感性は良い、悪いという形容のしかたをして 感受性のほうは高い、低いと形容することが多いですね。 「センスあるね」と言う場合、「感性が良い」と同義です。「光に敏感」は、「光に対する感受性が高い」ということです。 以上のことを頭において、国語辞典をもう一度読み直して見てください。自分で使ってみると、違いがわかった気になりますよ。ご家族に使ってみて、間違いを訂正されたり笑われたりすると、もう一段、言語に対する感性が鍛えられます。

donteitan
質問者

補足

とても詳しく書いていただき、ありがとうございましたw 早速、読みましたところ、最終的に僕の解釈が合っているかをお答えしていただけますでしょうか?お願いします。 【感性】は、お笑いで言うのであれば「感性が鋭い」=「頭の回転がはやい」とか「相手が何を言いたいのかが分かる」という解釈でよろしいでしょうか? と、同様に【感受性】も「感受性が強い」=「頭の回転がはやい」とか「相手が何を言いたいのかが分かる」という解釈でよろしいでしょうか? 何度もすいません。よろしくお願いします。

  • hatikou2
  • ベストアンサー率31% (19/60)
回答No.2

 「感性」の1は、要するに、感性と感受性は同じ意味として用いられるということです。  「感性」の2は、外界からの刺激を受け止める感覚的能力という意味をまず押さえて下さい。そして、受け止めたものを材料の一つとして、他の経験をも合わせ、合理的に思考し判断することを「悟性」という、と考えるとよいと思います。さらに「理性」とはより感覚的な要素をなくし、論理性を重視して判断する能力のことだと思います。  外界の刺激を感じ取ることができる働きは「自意識過剰」とは異なるでしょう。自意識過剰なら外界の刺激を感じ取る働きは鈍り、自分のことをより意識するでしょうから。

donteitan
質問者

補足

hatikou2さんも、お答えしていただきありがとうございます。 hatikou2さんのも早速、読みましたところ、最終的に僕の解釈が合っているかをお答えしていただけますでしょうか?お願いします。 【感性】は、お笑いで言うのであれば「感性が鋭い」=「頭の回転がはやい」とか「相手が何を言いたいのかが分かる」という解釈でよろしいでしょうか? と、同様に【感受性】も「感受性が強い」=「頭の回転がはやい」とか「相手が何を言いたいのかが分かる」という解釈でよろしいでしょうか? よろしくお願いします。

  • Trane37
  • ベストアンサー率51% (460/888)
回答No.1

1. 「君は良い感性をしているね」、センスが良いの気取った言い方。 2. 「私は光に対する感受性が高い」、光に敏感です。 「感受性が低い」鈍感。 という感じでしょうか。これでわかれば、あなたは感性が良いということです。こういう言い方にキズつくようであれば、あなたは感受性が高いということです。

donteitan
質問者

補足

すいません。こういった形で理解させようというのは、非常にうれしかったですwですが、感性が鈍いみたいです。。。すいませんが、1つずつ分かりやすく教えていただけますか?お願いします。

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