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信仰の継続の価値を偽装する詭弁

自分側の宗派の信者達を増やす布教の成果が自分達の教義の正当性を証明している、と訴えたがる教祖達が新興宗教には少なくない様ですが、それを既存の信者達が疑わないのは建て前を無心で受け入れようと試みているからなのでしょうか? たとえ自分達からの浄財が自分達に還元されず、大袈裟な設備投資の結果に現れましょうとも、其の事情を建設的に受け止めたがる、という信者達の振る舞いを見た際に上記の内容が気になったものですから、畏れ入りますが、御教授を御願い申し上げます。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

 こんにちは。  ★ 信者  ☆ という規定と  ★ 信仰の継続の価値  ☆ というときの《信仰》とは 同じ概念でつながっていると まづ哲学の議論としては 考えられますが こと《組織宗教》の話になると それは 定かではありません。  つまり信仰者が集団を成す場合 これが組織という形態を採ると そこでは《信仰》は二の次にされると見なければならない。  個人の信仰という動態が 信仰において個人がヒラメキをとおして得られた命題から集団にとっての教義がつくられこれを教団における規範としたときから 死にます。  信仰によってあゆむのではなく そうではなく 規範に従おうとして・またそれの違反を罰するかたちにおいて進もうとするからです。  あとは 何をやろうと すべてが  ★ 偽装  ☆ であり  ★ 詭弁  ☆ です。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

本来的な信仰は自己目的的に行なわれていく故に、其の本質が共有され難いのでしょうか?

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 自由な信仰による対立を制御する為に、「建て前」上の規範の遵守を信仰と混同させているのですね。

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その他の回答 (9)

回答No.10

 ANo.8  での補足とお礼のコメントを有り難う御座いました。  やはりこのような本格的な哲学質問は私には境内にも入る資格がなかったようですね。  戴いた両コメントも読みこなすことはできませんでした。    その中で一つだけ、言い訳をさせてもらいます。読み違えもありえますが、敢えて、・・・ 【それを宗教の範疇に貶めますと、非常に勿体無いと貴方は感じませんか?そういう判断は蓋し真理への冒涜になるでしょう。】  というコメントに申し開きを致します。  “宗教の範疇”における“宗教”ですが、これも“宗教の範囲”をどう取るかの問題ということに尽きるという陳腐な言い訳をさせていただきます。  私自身は私たちの修行精進と教えを最高だとは無論、思っております。  しかし森羅万象、万物を唯一者の化身、化生と思い、どのご信仰も私は大切にしたいと存じます。  その世界においてはその世界はやはり最高だと、みんなの中に存在している私、そして私の中にいるみんなは思っていますので。  そして私どもはみな唯一者の化身化生ですので、大事にしたいし上下の区別やそこでの価値判断はしたくありません。みな私でありみんなである。平等だと思います。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6894405.html http://okwave.jp/qa/q6894168.html http://okwave.jp/qa/q6892297.html 是等のページへの参加をも御待ちしております。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

すいません。此処の質問がそれ程にややこしい内容になっていましたのでしょうか? そもそも、習慣的な意識確認は、『火事場の馬鹿力』の様な突破的閃きを鈍らせてしまいやすいものです。 従いまして、【無心】になって間身体的に大自然と関わり合っていく『梵我一如(天人合一)』の有り方は、信念の自覚からの脱却さえをも要求していますでしょう。

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回答No.9

 No.4&6&7です。  うまいことをおっしゃいますね。  ★(No.7補足欄) 教祖候補者達の個人的な直接体験を信者予備軍に共有させるべく、其の体験を教義への翻訳によって再現させた時点で、其の内容は「建て前」へと堕落するのでしょうか?  ☆ と。  《教義と教祖と教団とから成る組織宗教》を始める時点における問題 こういう捉え方をすれば 基本的なそして理論としてもの分析・診断・処方が得られるものと思います。  ★ タテマエ  ☆ の問題は 別のご質問を もうけておられますので そちらで 考えがありましたら 考えてみたいと思います。  回答者からも おつきあいいただきありがとうございましたと申し述べます。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 翻訳の為に用いられ得る諸手段の全てが、蓋し【記号】の範疇に留まり続けざるを得ないのでしょう。 従いまして、個人的な直接体験の共有不可能性を組織宗教の代表候補予備軍が偽装し続けていく為にも、無知な信者達の増員が望ましいのかも知れませんね。

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回答No.8

 ANo.5:回答のつもりで書いたのですが、単なる経験の報告に受け取られましたか。  それは申し訳ありません。一般的な理論という表現ではありませんが、信仰とのかかわりの一例をご参考に書いてみました。  要するに仰せのように偽装の詭弁は許し難(がた)いことですね。  しかし宗教や信仰にはそういう側面はありがちです。信者一般大衆とはえてしてそういうものですね。  そういう安直さは人の常ですね。  しかし信仰、そして宗教にはそのようなことを認めないものもありえます。  そういうことを伝えるつもりで拙く投稿したものがANo.5でした。単なる小さな経験談ですが、ご参考にもならなかったとは後悔しています。  躊躇して、敢えて訪問をしたのですが。申し訳ありませんでした。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

デジタル的に諸要素を切り離しますと真理が分かり難くなりますが、各存在の挙動が周辺環境からの総合的な反作用に起因しているアナログ的な相即関係の価値を悟れますと、組織宗教への無邪気な依存から開放され得るのでしょうか? 貴方の場合には、こういう質問の方が遣りやすいのではないですか?

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 確かに修行による間身体的な交流の技術には非ルサンチマン的な要素もが含まれ得ますので、仰る通りに直接体験は無心の没頭が必要になるのでしょうけれども、それを宗教の範疇に貶めますと、非常に勿体無いと貴方は感じませんか? そういう判断は蓋し真理への冒涜になるでしょう。

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回答No.7

 No.4&6です。  きわめて細かいところを くどいように述べます。  ★(No.6補足欄) 少なくとも一部の新しい組織宗教の代表者達は、其処の内部の派閥の利己的な対立を防ぐ抑制の為に、外部に仮想敵達の存在を想定して【救済】の名目で団結させてきたのではないでしょうか?  ☆ ここからは すでに個人の信仰の死んだ姿として 話が始まっているという見方を初めにNo.4にて提出しました。  ★ 少なくとも一部の新しい組織宗教  ☆ というよりは すべての組織宗教について当てはまると考えるのですが 信仰により得られた観想や理論をすでに教義としてしまうなら その教義が規範として持たれ  ★★(No.4補足欄) 「建て前」上の規範の遵守を信仰と混同させているのですね。  ☆ という事実が 必然的に起きると考えるからです。  ☆☆(回答No.4) ~~~~  信仰によってあゆむのではなく そうではなく 規範に従おうとして・またそれの違反を罰するかたちにおいて進もうとするからです。  あとは 何をやろうと すべてが   ★ 偽装   ☆ であり   ★ 詭弁   ☆ です。  ~~~~~~~~~~  ★ 其処の内部の派閥の利己的な対立を防ぐ抑制の為に、外部に仮想敵達の存在を想定して【救済】の名目で団結させてきたのではないでしょうか?  ☆ といった分析をおこなっておられますが そのすべては初めの――個人の信仰を教義と教祖と教団に還元してしまう組織宗教の設立において――ボタンが掛け違ったまま推移していると言った上で 分析および指摘をなさるのがよいと考えます。  * さらに細かい事情を指摘して答えとしなければならないように感じました。  《教義と教祖と教団に還元される組織宗教》というとき これを仮りにたとえば《道徳実践集団》ですとか《倫理学研究会》ですとかの名のもとにその実質的な活動の中身としてもそのようである場合には むしろはっきりと《個人の信仰を問うていない》という前提が置かれていますから――あるいは いるのでしたら―― その場合には いまの批判はあてはまらない。こういう事情もあると考えますので ひとこと添えます。  たとえ《救済》ということを掲げていても 個人の信仰を問わないという前提があるのならば この信仰の蝉の亡きがらという見方は 当てはめることは出来ないことになります。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

下記のページに話題を発展させて頂きました。 http://okwave.jp/qa/q6892297.html

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 教祖候補者達の個人的な直接体験を信者予備軍に共有させるべく、其の体験を教義への翻訳によって再現させた時点で、其の内容は「建て前」へと堕落するのでしょうか?

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回答No.6

 No.4です。お応えをありがとうございました。  いくらか反論としてのおぎないがあります。よろしかったら聞いてください。  ★(No.4お礼欄) 自由な信仰による対立を制御する為に、「建て前」上の規範の遵守を信仰と混同させているのですね。  ☆ ここの目的は 勘違いをされているように考えます。その前提にかんしてです。  すなわち前提は ふたつあります。組織宗教の内部における問題とそしてそうではなく広く社会一般における問題〔があるとするならそれ〕とであり 質問者は前者の問題を前提のすべてとして扱っておられないか? です。  ★ 自由な信仰による対立を制御する為に  ☆ 仮りにそうだとしましょう。つまり 《自由な信仰》が現われているところには それ《による対立》も見られるとしましょう。  そうすると その《対立》を《制御》しなければならないという考えがなにゆえに起きるのでしょう?  表現の自由が大前提です。  ですから 確かに結社の自由もあり わたしが批判している組織宗教にしてもその存在がその限りで認められています。認められていますが そうであればなおさら同じくこの組織宗教のあり方についての批判も その内外において 自由におこなわれます。  ということは すでに組織宗教の存在を前提しなくても 《自由な信仰によって 仮りに対立が起きるとすれば その対立をめぐって やはり同じく互いに自由な批判をやり取りして解決を図っていけばよい》だけだと考えられます。  どうして《制御》しなければならないのでしょう?  それは あくまで組織宗教がすでに存在していてしかもその中での秩序と言いますかその秩序を保つためにという目的を持ったときの発想でしかないはずです。  広く社会一般においては――鬼と鬼との戦争のような昔のクリスチアニズム内部における対立の馬鹿さ加減はいざ知らず 現代民主主義の社会にあっては―― 一人ひとりの自由な信仰がおこなわれていて そこでたとえ対立があってもやはり互いに自由に批判をし合いその違いについても相互理解を図って行けばよい。こう帰結されませんか?  どういう《制御》が 必要でしょう?  ★ 「建て前」上の規範の遵守を信仰と混同させているのですね。  ☆ このご見解じたいは いわゆる組織宗教のかかえる問題点をそのままずばり指摘されたものと賛同しつつ考えます。

BuffaloAndJtp
質問者

お礼

因みに、下記のページにも関連の質問を提出させて頂きました。 http://okwave.jp/qa/q6896380.html http://okwave.jp/qa/q6895607.html

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 少なくとも一部の新しい組織宗教の代表者達は、其処の内部の派閥の利己的な対立を防ぐ抑制の為に、外部に仮想敵達の存在を想定して【救済】の名目で団結させてきたのではないでしょうか?

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回答No.5

 私も実は、信仰という者くらい胡散臭い際物はないとアレルギー的でした。  学齢以前から高校卒(一応現代、1955年)くらいまで。  健康のためにハタ・ヨガ(ストレッチや美容に取り入れら手居るが、わたしは本格的に)始めました。  それもラディカルな革新的労組(小さな大学の全学労組)の書記長をしている、1960年代です。  肉体のことの効果から、ヒンドゥの思想に入っていきました。  そして矛盾を感じることなく、信仰の世界の考え方にもアレルギーなく対面するようになりました。  大分経って、あのオームの事件が取り上げられました、いろんな新宗教があることがどんどん判ってきました。  私は今は、自分の理屈と経験でまだ長くヒンドゥの思想の勉強と精進をしています。  でもそうではない人と隔絶してはけっしてよろしくないと存じますし、排他的や独尊的も私たちの団体では戒めています。  無論、何かに依拠したりその団体や仲間がどうであろうと、自分であることを大事にすることになっています。  そういう中での私は質問者さんや#1~#3までのご回答者さんの視点と見方を理解し見失うことのないようにしながら、なお信仰の世界に対面していきたいと存じます。  所謂る漬かりながらそこを出ている自分を保持したいと存じます。  今はパラマハンサ・ヨガナンダのSelf-Realization Fellowshipで勉強しています。  実は宗教は私もきらいだし、ここ30年くらいはどなた様ともお会いしていません。本部とは連絡し合いますが。

BuffaloAndJtp
質問者

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回答ですと有り難いのですが、是は回答ではなく、 御自身の現状の報告なのではないですか?

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noname#156094
noname#156094
回答No.3

私は昔、信仰という言葉が嫌いでした。 信じるという言葉も嫌いでした。 自分が盲目的であるという事を認めたくなかったのです。 教義には疑うべきところもなく、その教えを受け入れる事は正しい事であると・・・ 正しい事を受け入れる事は、盲目的ではないのだと・・・ 教えも正しく、自分も正しいのだと・・・ それは賢いことなのだと・・・ 何という愚かさでしょう。 教義の正統性を説く言葉にあやつられて、それを信じる事は、賢いのだと思い込ませられていたのです。 信者のほとんどが、自分は他に勝っているものを得ている、という自己確認を与えられる事によってコントロールされていたようです。 そうした集団の中では、自己確認の競争が激しいものです。 信者の中でも、自分はこうであるとか、このような現象を起こす事ができるとか・・・等々 無心どころではない、愚かなプライドを与えられる事によってコントロールされていたのです。 新興宗教が排他的であるのは、以上の理由によるものです。 新興宗教の乱立した時代も終焉を迎えつつあるようです。 これも自然な流れかもしれません。 現代は、無宗教の立場である事が最も賢いように思われているようです。 ですが、その思い込みすら、果たして正しいと言えるのかどうか疑問もあります。 無宗教という立場は、賢いのではなく、出発地点である、というような謙虚な姿勢であるべきだと思っています。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 「信仰の価値を訝る心が未熟な精神状態に起因している」、と見做させ得る洗脳のカラクリは、プライドに関わっているのですね。 因みに、宗教への依存からの卒業は、精神的な基盤のパラダイムシフトの切っ掛けに過ぎないのでしょうか?

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noname#144675
noname#144675
回答No.2

どっかの党派をよく観察すれば自明なのではないでしょうか? 根本的にプラス面のある + そして目に見える者として残る「投資」より、 投資しないときの振る舞いを観察するといいでしょう。 そういう非国民は、何もしないことがすばらしいこと と定義して 失敗は、 自分をたしかめているということ だ とか 間違いだらけの俺様は勇気がある! とか  自己正当化・延命に必死ですよ。 たとえば スポーツ予算を削減しておきながら、 さも自分はスポーツ支援をやってきたというジャスチャーをする。 安全対策費を削減していながら、 対策ができていないけしからん! と筋違いの批判をする。 開発費を削減しておいて、 コンピュータは大事・世界一は大事 と そしらぬかおで よろこぶ ふりをし、  「私は純粋に喜んでいるのだ」と こえをあらげながら 付け加えて述べる。 それだけではありません。 同じような人はどこにでもいます。 民死の一味を 支持したもの(唯物論者)であって かつ 一人をつるし上げて犠牲にすれば 自分が投票したという事実が 隠せる と信じているやつらです。 ときはくる!わかっている!www だって (早く任期満了して消えてほしいな)

BuffaloAndJtp
質問者

補足

有り難う御座います。 確かに、「行なって失敗した場合」よりも「行なわずに成功を見逃した場合」の方が、後悔を覚えさせやすい、という研究結果が報告されていますね。 従いまして、其の失敗を共有する為には、スケープゴートの祀り上げが必要だと見做されやすいのでしょうね。

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  • shubal
  • ベストアンサー率20% (402/1958)
回答No.1

答えではありません。信者はみんなマインドコントロールされているので教祖のすること言うことは真理なのだと考えているのだと思います。たとえばエホバの証人などは、もうすぐハルマゲドンがやってきて人類は死滅してしまうと考えています。それを回避できるのはエホバの証人だけだと信じ込んでいます。ですから彼らの布教はエホバの証人でない私たちを救うための活動と考えています。

BuffaloAndJtp
質問者

補足

回答は有り難いのですが、マインドコントロールが可能になる仕組みを此処で私は伺っております。

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