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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人は 人のあやまちを赦すことができるか)

人は人のあやまちを赦すことができるか

UtaShioriの回答

  • UtaShiori
  • ベストアンサー率30% (4/13)
回答No.5

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という表現が御座いますが、 たとえ本音では加害者達を許したく御座いませんでしても、 社会生活上の建て前の都合で相手達を許さざるを得ない、 という状況は今後の日本にも残り続けるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 うたしおりさん ご回答をありがとうとございます。  そうですね。特にはNo.2(もしくは3)のひがしの端さんのご回答内容と同じおもむきだと理解してよろしいでしょうか。  ただし そのいまの  ★ 状況は今後の日本にも残り続けるでしょう。  ☆ というように つよくいまの常識を支持なさっている。  そうですね。  ★ ~~~~~  たとえ本音では加害者達を許したく御座いませんでしても、  社会生活上の建て前の都合で相手達を許さざるを得ない  ~~~~~~~  ☆ というように    ○ ホンネとタテマエの使い分けは いわゆる伝統と呼ぶに近い     文化のかたちを成しているので 一朝一夕にはくづれがたい。  といった事由を挙げておられる。  ひがしの端さんへのお応えに述べたと思いますが いまここでの問題は 出発点にあります。  もし――それはここでの仮説ですが――初めにひとは能力によってひとのあやまちを赦すことも赦さないことも出来ないというその能力を 自然本性としてのごとく保つならば そのアヤマチそしてそのマチガイであることの中身についてきちんとしっかりと分析し問題点を抜き出しこれをどうあらためるかを哲学として考えるほかには 相手とのかかわりをもうそこで終えるという。これが 出発点であると見ています。  ここから 考え方や常識(共同主観)が分かれて来ている。とは見るものです。  おそらく ホンネとタテマエの使い分けは――その文化は―― これらを使い分けるというときの《わたし》の総合的な視点 これが《真実》であり〔――「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というようなホンネを抑えてあるいは避けて 或る種の偽善をも帯びつつ空想や虚構をも伴ないつつそれでも《真実》として持つものであり――〕 そこに迷惑行為や加害行為という《事実》を合わせて 全体として《現実》を表わしている。ならば ひとつの交通論としての文化形式を確かなものとしてかたちづくっている。  と確かに考えられます。このような常識――共同主観――は それとして認めなければならないし いま現在において従わねばならないところだと考えます。  哲学は 反逆児であり たとえ異端児の烙印を押されてもその反逆をつらぬく場合もあります。  そのような問い求めをしっかりとしておきたいというこの質問になります。  ここでひとつの主題――あるいは論点――を取り出すなら 次の問題にならないでしょうか。   ○ もし《社会生活上の建て前の都合で相手達を許さざるを得ない》と    すれば これをむしろホンネとして捉えるほうが わが主観の真実    に合っているのではないか?   ○ なぜなら――趣旨説明にもあるいは最初の回答からのやり取りにも述    べましたように―― やはり《ひとは自分のあやまちについては 遅か    れ早かれ赦してしまうものだ》ということが 真実であり事実である    ならばというかたちです。  ひがしの端さんもおっしゃっていましたが お互いさまでありあるいは 思いやりというのも 日本人の文化です。おのれの――ここで敢えて出せば――罪については早々と赦してしまうのに 他人のそれについては いつまでもどこまでもその《赦す・赦さない》にこだわる。  つまり 相手を赦さない。ホンネでは 赦さない。タテマエで赦す。というかたち。  もしタテマエとしての常識(共同主観)が 歴史的伝統として確かな文化を成しているとしたなら それが端的に人間の真実であり 全体として現実であるのではないか。  そしてそこから 例の出発点に戻ってみて やはり赦さざるを得ない・つまり赦すというかたちを採るよりは 初めから赦す・赦さないといった判断を迫られてはいないし もともとその資格も能力もないのだという見方にまで戻れないか。戻るといった考え方は まちがっているか。  そのあたりのことを ここでは問うています。あらためて いかがでしょう。

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