朱熹の考え方についての疑問

このQ&Aのポイント
  • 朱熹が「無極よりして太極をなす」という表現を使い、なぜ「無極にして太極」としているのか疑問です。
  • 朱熹は「無極的な無」を嫌い、「無極にして太極」という言葉を使っていますが、なぜこのような表現を選んだのか理解できません。
  • 朱熹の考え方について、「無極から太極へ」という言葉を無理やり変えた理由が知りたいです。
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朱熹の考え方についての酷く拙い愚問です。

どういう理由で、朱熹は【道教的な無】を嫌い、「無極よりして太極をなす」を「無極にして太極」と無理やり置き換えているのでしょうか(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97#.E5.84.92.E6.95.99.E3.81.AE.E6.B0.97)? 確かに、【原初の混沌】の状態の中では、認識の主体者と其の客体とが峻別され得ない以上、それ「だけ」に拘りますと、『(始まりの前と離散の後との両方で)1つの太極で纏まる』、という見方もが有り得るのでしょう。 でも、そもそも、【生前】と【死後】との状態への『認識』は違うのではないでしょうか? つまり、【死】は認識対象者の消失の後で其の【存在】との比較によって示されるので、【死】は「相対無」に属する、と思われますが、「【存在】の開始の前」には、其の比較が成り立ち得ない故に、【生前】の状態は「絶対無」なのでしょう。 従いまして、私の厳密な理解の為には、情報の追加が必要になりましょうから、畏れ入りますが、【無極】と【太極】とを朱熹が纏めたがった理由を教えて下さいませ。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

「無極よりして太極をなす」は「太極よりして無極に滅す」の観点を排除していること,また無極と対極の区分は冗長であるからだと思います。あくまで浅学な者の私論ですが。  【生前】は,無極「絶対無」よりして太極「相対無」をなす。気が集合して他の気との境界を持つことで相対化される過程です。太極が完成して境界付けられた内部領域と外部領域の気が陰陽に分かれます。この辺りが【生】「陰陽としての相対無」でしょうか。  陰陽の相互作用が境界に認識を生みます(認識の【獲得】)。この辺りが「相対有(境界)に対する認識主体の相対無」。そして主体が「絶対無」から「相対無」に成る過程の説明がくどいため,「無極よりして太極即両義をなす」といわなければならぬように思えてしまいます。それならば「無極即太極よりして両義をなす」というのもよいかと。  【死】はなるほど両義と太極の淵にあって,相対有を相対無から認識されるかもしれません。しかし【死後】認識主体は集合状態から離散して相対無の領域は消滅すると思うので「相対有」は認識されないでしょう(認識の【喪失】)。そして陰陽の二気はやがて「絶対無」に消滅還元されるでしょう。認識の【喪失】,一元への還元過程の冗長性をまとめて,「両義よりして太極即無極に滅す」というとよいでしょうか。  【生前】も【死後】も,混沌たる一元の気で矛盾は感じられないのです。おそらく【生】【死】に対しての認識の【獲得】【喪失】の時間差を考慮する価値があるか否かで論が分かれるのだと思います。このタイミングのずれは不可知であり,朱熹の表現は妥当なものであるように思えます。

JidousyaGaisya
質問者

お礼

http://okwave.jp/qa/q6748269.html 此方にも連動させています。

JidousyaGaisya
質問者

補足

有り難う御座います。 因みに、私の謬見もが含まれていた様ですので、此の枠の中への入力で畏れ入りますが、追記を致します。 そもそも、【死後】の「相対無」を認識する行為の動作主は、【死】を迎えた当事者ではなく、「シュレディンガーの猫」の事例が諭してくれています通りに、外部の他者達です。 でも、そうしますと、【存在の誕生】がそれよりも前の「無」の状態を類推させてくれ得ますので、若しかしますと、【生前】の状態もが事後的に「相対無」になるのでしょうか?

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