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島崎 信也(@zakky74)の回答

回答No.18

zakky74でございます。 かつて聖人たちが言っている事には、とても共通する事がございます。それは、有る・・・と思っていた事を打ち消して一旦は、無い!・・・という領域に力強く踏み込んでいるんですね。 ソクラテスの無知の知は、知に対して、無知をぶつけています。同様にして、他の聖人たちはどんな事を言っていたのでしょうか? 例えば次の様なものがございます。 無我・無為・無念・無想・無常・無刀・・・ 一つひとつを深く掘り下げる事はしませんが、ソクラテスの無知の知とは、そうした無我・無為・無知・無念・無想・無常・無刀・・・に準えて理解出来るものでございます。 彼も、悟りを得ておりました。 >おもしろい回答だと思いました。ソクラテスから引用した無知の知について言及され、一層興味が持てました。 興味を持ってもらえて嬉しい限りです。 >知の不完全性、無知の完全性と言う辺り、おもしろいなと思いました。確かに無知といったときには無限の可能性が広がるように思います。知っていると頑なに思っていては本当の知には到達できないのかもしれません。 知の不完全性、無知の完全性に関心を持たれるのは、何とまぁ本質的なのでございましょう。一般的には、知は完全なものだと思っておりますので、知の完全性で留まってしまいます。 知っている事が、良い事とされているんですね。 >4番目の知の不完全性を補うのが、疎通、交流であるという点が対話の重要性を物語っているのかなと思いました。対話によって争論を生じる人もいれば、対話によって知を導く人もいます。 知の完全性をそのままにしておいたまま交流する一切の事は、必ず摩擦や衝突が起きる様になっています。残念ながら、知の完全性のままでは補う事は絶対に出来ません。 一旦は、知の完全性から離れる事です。 それが、知の不完全性、無知の完全性によって為されます。人間は、知の完全性に関心が強いですし、それが価値がある事だと思っているので、知の不完全性、無知の完全性のプロセスを飛ばして、知の不完全性を補おうとします。 ところが、矛盾ですよね? 知の完全性であるならば、もはや補う事など必要としませんし、それだけで十分に幸せなんです。ところが、自分の知を補ったり、相手の知を補ったり、或いは集団知性の知を補おうとする時点で、知が不完全である事に気付けば良いのですが、そこに気づかないまま、補おうとします。 結果的に、知の完全性と知の完全性が摩擦・衝突します。 知の完全性が解除されない限り、知の不完全性を補う事は土台からして無理な事です。ソクラテスは、この事をよく分かっていました。彼が実践した事は、知の不完全性と無知の完全性について踏み入る事だったんです。 すると、後はオートで追及が始まるでしょう。 結果的に、その追求によって知の不完全性を補う領域に突入します。 >賢者は後者であると思います。対話によって知を導くのは何であるかと問われれば、それはその人々が何を求めているのか、その求めるところによっていると思います。自分の真実が常に正しいという頑なな人は争論を起こしやすいでしょうし、ただ真摯に真実を求める人は静寂の中で互いに知を導くのであると思いました。そのような姿勢はまた、善性のよすがになるのではないかと思います。 仰る通りです。 知の完全性が解消されないままですと、つまり知の不完全性を悟る事がありませんと、争論となりますでしょうし、知に発展性はございません。 知ってる事から自由・・・ たったそれだけの事で、全ての争いは実はなくなります。 それだけではありません。知の不完全性、無知の完全性、知の不完全性を補う・・・という循環が起きる事となり、終わり無き進化発展の道へと進む事となります。 誰か一部分の人だけがそうなるのではなく、誰もが皆、知の不完全性、無知の完全性、知の不完全性を補うサイクルに乗る事を通して、人類は全く新しい文化文明を創建する事となるでしょう。 知の完全性⇒知の不完全性。 知の不完全性⇒無知の完全性。 無知の完全性⇒知の不完全性を補う。 これが、人類が次のステージへバージョンアップする大きな課題です(500万年間、この課題がクリアされていません)。lightwave8さんとの疎通・交流も、そこに向かって行ければ嬉しい限りです。 ところで、実は僕はlightwave8さんの主題・ご質問に対して、直接的な回答のスタイルはとっておりませんでした。ですが、間接的にお応えする事を通してlightwave8さんにも主題・ご質問に対する理解が少しは変化したのではないかなぁと予測しております。 僕が共有した知の完全性~知の不完全性を補うという観点を踏まえますと、現段階ではlightwave8さんは、ご自身の主題・ご質問には、ご自身でお応えになるとしたらどの様に応えますか? 逆質問となり恐縮ですが、とても興味がございます。 ぜひ、お聞かせ下さいませ。

noname#144995
質問者

お礼

>僕が共有した知の完全性~知の不完全性を補うという観点を踏まえますと、現段階ではlightwave8さんは、ご自身の主題・ご質問には、ご自身でお応えになるとしたらどの様に応えますか? 今のところ不定形の善と言うものを思いついています。無形とまでは言いませんが、常に可能性を持っておる自由度の高い善という意味です。つまり善く生きるとは、自由且つ柔軟に生きるということではないかと思いました。既存の言葉を借りれば、善軟の心で生きるということです。 そこから続いて、善悪の超克についてですが、そのような自由度の高い善性が獲得できたならば、相反するもの同士の対立、善悪の対立をも転じたり、それらそのものからの脱却と言うことが可能であるのかなと思ったりしました。善悪の超克が目標になるのは、それらの起こす葛藤や束縛から自由になりたいという欲求が起こるからだと思うのですが、その意味でも、自由度の高い善というのは、求められたところに応じているのではないかと思います。

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