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amaguappaの回答

  • amaguappa
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回答No.17

ソクラテスの主題はソクラテスの主題であって、魂を善くするということだけれども、 古代ギリシャの死生観、神、霊魂をめぐる思想の図式、思考の形式と切り離したら、その内容はスカスカになってしまいますね。輝きのない、形骸化した言葉になってしまうと思う。 中世のキリスト教社会なら、鑑みという行為が自己の琢磨であるよりはイエスに委ねる心性を示していたし、また、生産共同体が生の存続の証立てであったから、鑑みるということの内実は、共同体をとおしての万物の調和を尊ぶことであったと言えます。 わたしたちは近代以後の社会に生きているわけで、それは、さまざまなモザイク状の合意形成の集団を抱えている社会です。個人はその何らかに所属している存在です。わたしたちの多くは当然のように家庭に生まれ、集団教育を受け、集団労働に直接ないし間接的に関わって、国家を成立させています。 わたしたちが善く生きるということは魂の鍛練や神の意に沿うことや共同体の調和を尊ぶことでは済まされず、社会的な人間であることの成熟についても考えなければならないでしょう。 もはや、ただ善といってそこにあるイデアかなにかのように、抽象されたかのように、それについて語りあえるものではなくなり、わたしたちの思想の図式や思考の形式が錨をおろしている要所要所を見ながら、善と判断する仕組みは何か、また、人が胸のうちで鑑(かがみ)とするものは何か、大きなロゴスも小さなロゴスも掬い取っていかなければならないでしょう。 古代ギリシャから遠く離れて、善は、人を個人たらしめている構造の内部に生成したり消滅したりする概念になってしまったと思います。外部で神に属する問題ではなくなりました。善は、代替物もあり交換可能でもあり値踏みされ相対的な変化にさらされ局所的な出来事であって、善に生まれるのではなく善になるのだ的な、一様相なのだといえるでしょう。

noname#144995
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど確かに時代がずいぶん変わったのは事実に違いないでしょう。ギリシャ時代を知っているわけではありませんが、当時の善が持っていたポジションと、現代の善が持っているポジションはずいぶん異なっているのも確かだと思います。しかしどうでしょうか。こだわる訳ではないですが、善の究極と言うものがあるのではないかと考えもします。おっしゃるように、モザイク状の合意形成の集団の中で、善も多様性の一つとなっており、極論すれば、善は、必ずなければならない要素、ではなくなったのかもしれません。それにもとより、究極の善が、善へのアプローチによって到達できるものではないかもしれません。山に登っても星には届かないように。 そのような中で、一様相としての善へのアプローチは、ダイナミズムこそ欠けるが、新しい期待、希望につながっています。   ソクラテスの善を知るためには、当時の思想の基盤を知らねばならない、もっともなことでしょう。 しかし普遍性を問う以上は、ギリシャ時代と現代とでは善は異なるのだよ、背景が違うから、というだけでも善としては物足りない。我々人間の本質はそれほど変わったのだろうか、2500年の間に、、とも見えます。 実は自分としては、雨合羽さんのおっしゃるような、今の一様相になっている善の方が、かつてのイデア的善よりも好ましいと思っています。おっしゃられた、大きなロゴスにも小さなロゴスにも、光を当てる機会に恵まれているからです。色々な善があってよい。それぞれに究極があってよい。道は一つではない。完成に至る道は一つかもしれないが、それは各々の人間に存在するのであって、外部的に与えられる一つの道ではないでしょう。満天の星の如く、善が輝けばよいと思うのは賎しいでしょうか。 >古代ギリシャから遠く離れて、善は、人を個人たらしめている構造の内部に生成したり消滅したりする概念になってしまったと思います。外部で神に属する問題ではなくなりました。 それは、神が衰退してしまったからでしょうか。瞬く星のように、胸の虚空に埋もれてしまっているのが、現代人の善性であるのは本当かもしれないと思いました。しかし同時に、善が神へ通ずる回路によって示されうるのではなく、個的に涌出するオリジナルのものになったとも見れます。その方が、素晴らしくないですか。  

noname#144995
質問者

補足

>善に生まれるのではなく善になるのだ的な、・・・ 善に生まれるとは一体どういうことでしょうか。よろしければ補足お願いします。

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