• ベストアンサー

tumaritou1の回答

回答No.11

善く生きるという意味は、自分自身を『生かしきる』と言う意味と思います。では何を生かしきるのかと言うと、すこし難しい所が在りますが、『自分の命』と云う事かと思います。 人間には『生まれる前から備わっている働き』が在ります、その働きを先に書いてみます。 人間の『意識』は人間の心の片方でしか在りません。人間には、各種の動物や植物が『学校に行かなくとも。或は習う事がないにも拘らず、『その個体』としての、記憶を持っています。 ソメイヨシノは、習わなくともソメイヨシノです。八重桜の花は咲かせません、花の色にしてもそうです。その種固有の色と形を保っています。昆虫にしても皆そうです。 蜘蛛が同じ種なら、同じ巣を作るように『蜘蛛の脳にはその記憶が刷り込まれていると考えられます』 脳の大きさがかなり大きくなった、人間の脳にも同じように『人間を人間たらしめている、記憶(働き)』が存在しています。この事が判り難い事から、人間は『悩みや障害』が始まっています。 この働きを少し書いてみたいと思います。 この働きは、基本的に三つの面から説明した方が良いと思います。ですが現実問題として、それらがそれぞれ組み合わさって、働いていますので、簡単には説明が出来かねる部分が多々在ります。 『1』  身体機能として生命維持をしている働き。 この働きは環境における、その場その時に応じて、生命が維持できるようにする働きです。酸素が必要なら心臓の速さと呼吸数を増やす働きです。そうして必要に応じて脳内ホルモンでさえ分泌する働きです。暑い時には汗が出る働きです。遡った時には、『生命として働き始めた瞬間から働く』働きとも言えます。生命として芽生えた瞬間から『細胞分裂』することも、知っている働きです。 『2』  身体を働かせて、生命維持を図っている働き。 この働きは、人間が緊急な出来事に遭遇した場合、『我が知らない内に』身体が反応する場合です。この場合『思わずに体が動いていた』と言う場合です。まばたきなどもこの中に入ります。給ブレーキを踏む場合などもこの中に入ります。火事場のクソ力という場合にも言えます。 『3』  心を働かせて生命維持をする働き。 是は人間の『自我意識』のその場その時の必要な事を、脳梁を通じて『言葉に拠らない情報』として、意識に、生きてゆくための必要な事として『情報を提供しています』その一旦を書いてみます。 納期が来た場合、時間が迫った場合。高い所にいる場合。狭い所の場合。好きな人といる場合では、その情報はもっと細かくなります。相手の人を本心からか?遊びとしてか?或は欲得がらみで好きなのかという細かい所まで教えています。 この場合『我=自我意識』が『真実のみを見る目を持っていない場合』どんな情報も読み誤ってしまうかもしれません。その時は『結婚に失敗した』と言う言い方になるかも知れません。 反対に『我=自我意識』がその情報を正しく読み解く場合『幸せな結婚』が約束された事を意味します。 人間は一生の内には、深刻に悩む時や深く苦悩する事があります。そういう場合、今言ったその働きと折り合えなくなった事を意味します。 健常者と言う場合、『その働きと順調に協調』出来ている事を意味します。 自分の命の働きと『1』の意味で強調できなくなった場合『自律神経失調症』と言っています。 自分の命の働きと『2』の意味で強調できなくなった場合、『神経症』或は恐怖症、或は、脅迫行為と言っていると感じます。 自分の命の働きと『3』の意味で強調できなくなった場合、『心を病む』と言っていると感じます。 『1』にしても『2』にしても『3』にしても、意識の根底には同じような『違和感や疑惑や不安』を抱えています。 それは『心の矛盾』を何処に感じているのかの相違と感じます。この三つの場合、医学的に検査をした場合『何処にも異常が見つからない』事が共通点となっています。 自分が自分を恐れている事を意味します。自分の心同士が争っていると言う意味です。そうして持てる自分の力を『内部抗争に使い果たしているために』絶えず、心がへとへとになっています。何時も何も『現実的には』たいした事をしていないにも拘らず、疲れを感じています。 人間の心の内側が分かったソクラテスとしては、『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と云う言葉に繋がっています。その理由は『汝自身を知れ』と云う言葉が結びの言葉担っています。 この意味は『意識の根底で、二つの意識は、内部抗争をしていて』現実には『妄想のみが一人歩きをしている事から、生き難い想いを断ち切るために』 『汝自身を知れ』と云う言葉になっていると想像できます。『汝自身を知れ』と言う意味は『人間の障害を完治させよ』と言う意味です。人間の障害が完治した姿が、『只生きるのではない、善く生きるのだ。』と云う言葉になっています。 その訳は、『自身の働き=全てを真実として見ている働き』と仲良く生きなさい、という意味になります。この事が『人生を有意義なものに替える』からです。意識の根底からの『二つの意識の和解』が成立する事によって、それ以後『心はもう二度と争う事がなくなるからです』 意識の根底からの不安が解消すると言う意味です。全ての違和感の原因が『自分の心の中に』あった事が分かるからです。この場合『今までは絶えず緊張のために』身体中に無駄な力が入っていました。 その原因を『意識の根底から』了解する時、身体中の緊張が一気に抜け落ちます。それ以後『心には争いがなくなります、当然強迫観念もなくなります。』 もう一つの心のままに、生きてゆく時、その障害を抱えたままで、天国にいる事が分かります。自身の心の内部には『良心、神、仏』が、自分が生まれる前から同居していた事が分かるからです。

noname#144995
質問者

お礼

有難うございます。なかなか興味深い解答でした。 確かにストレートな感情の流れが阻害されていて、どこか引っかかり、恐怖感のようなものも感じられます。『3』に問題があるのかもしれません。 しかし、逆に言えば、今よりも若い頃は、『夢だけ見ていた』のであり、今は、『厳然とした事実』を意識し始めている故に怖気づいているのかもしれないと思いました。

関連するQ&A

  • 善悪と善行悪行は違う(続き)

    http://qanda.rakuten.ne.jp/qa4598442.html で、後日の投稿をお願いしながら閉じてしまいましたので、 続きとして、開きます。よろしくお願いします。 質問は同じです。 善悪を徹底的に探究(哲学)する時、直ぐに善行悪行にすり替えてしまうのは、間違いではないかと気付きました。 善なる者である時、善行だけしていて、悪なる者である時、悪行だけしている?こんな単純モデルで充分理解しているとは、思えません。 「悪意の在る善行」、「善意の在る悪行」もあるかもしれないと思うわけです。何か分かりやすい例示があれば、教えてください。 (補足説明)前回、人は善であると言っても、独善なのだという方向に傾きました。そして、善悪の判断は、絶対的でも普遍的でもなく、まったく恣意的なのであるという点を確認できました。ゆえに、善悪は、独善的かつ恣意的な判断基準であることを前提にして、面白く・興味深い例示を教えてください。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか

     この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。  それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。  趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。  人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。  さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。  この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。  だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。  さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。  その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。  現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。  長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?  以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

  • 捻くれた自分を直したい

    20歳大学生です。私は自分と合わない考え方をする人に対して斜に構えてしまいます。 例えば私は「外国に行って新たなものを見る、経験する」という事を重要視していないため、外国に行ったという話を聞くと、「なぜわざわざ外国に行ったのか、日本じゃダメだったのか、ただ外国に行ったというステータスが欲しかっただけではないか」のように考えてしまいます。 また、TwitterやFacebookで前向きな発言をしている人を見ると「なぜわざわざ発信したのか、そういうことは自分の胸の内に秘めておくことだろう、ただ自分は意識が高いんだ!とアピールしたいのか」と思います。 (言い訳なのですが「田舎で雪かきなどをして老人を助けた、今後もここで暮らし人々の役に立てる事をしたい」と言った話を聞いたとき、このような感情が沸かず、とても素晴らしいと思いました) 具体的な目標もなく、ただ惰性で過ごしている私よりも彼らは遥かに立派な人間だろうと思っているのですが、どうしても考えてしまうのです。この感情が嫉妬なのか軽蔑なのか、私自身よくわかりません。 このせいで自分の見方や考え方が狭まり、更に小さい人間になってしまうことに恐れを感じています。 どうしたらもっと素直に他人を賞賛できるのでしょうか。 どうしたら捻くれた自分を治せるのでしょうか。

  • 善は善にして常の善にあらず。「老子」

    受け売りでし。 (ヒマな時にでも)

  • 善と悪、どっちが勝つと思いますか?

    高校の時の友達、中学時代での友達とそれぞれグループでよく遊んでいます。 中学時代のグループはお互い悪口もなく、一緒に飲んだり遊んだりしても安心感があります。 高校友達のグループは、結構悪口が多くてある一人に対して嫌っている側と仲が良い側に分かれています。私はその子のことはすごく好きでしたがその子がみんなの悪口をいうのと私も言われたことで今は大嫌いです。その子はよく意地悪を言いますが、言い返すとその言い返したことだけをみんなに言いふらしたんです。「こんな風に言われたー。」みたいな感じで、それを聞いて少しでも私が悪者に思った子もいると思います。 よく自分は言うだけ言って被害者ぶるのですが、そんなやっかいな人どうしたらいいでしょうか。 あんまり関わりたくないんですが、会わないと「どうして会ってくれないのかな」と自分に原因があるにも関わらずほかの 友達に泣きついています。 私と同様その子に疲れている子もいますが、その子は頭も切れるしなんか、同情をかうのがうまいんです。 しかも集まりを仕切っているし。 その子は根がすごく悪いですが、ほとんどの子は直接被害にあっていないためけ、あっても気がついていないためか、その子をそんなには意地悪に思っていないように思います。。 ほかの子を見方につけようとして私が理不尽に悪く思われるのはすごく嫌です。 でも過去に実際私もその子がほかのこの一方的な悪口をいうのに同調してしまったことがあります その子の悪口の風潮に少し染まった感じの子もいて、グループ全体が悪い考えの人が仕切るほうに傾いたらとおもうと本当嫌です。 私自身何が正しいのか、そもそも正しい人が勝つことができるのかわかりません。もしかして先に悪口を言ったもの勝ちなんですかね?

  • 善と悪

    生まれつき善良な人間は成長していくうち生き苦しくなり悪に染まりやすい気がします。逆に悪で生きてると徐々に改善され善人になる感じがします。 というのも子供の頃暴れん坊が大人になり落ち着いたり、優等生が大人になりすれたりします。 性善説とか性悪説とかありますが人によって生まれつき悪と善がいる気がします。因みに生まれつき悪の方が善人になり生まれつき善が悪人になるような気がします。どう思いますか?

  • 善・善という人がいて困っています。

    善・善という人がいて困っています。 他人をたしなめようとなさる方が、よく  意思は良いものであるというような論旨で物事をかたっているかと思います。 「意思は、善である」と断言するのは問題ではないでしょうか?というのも「アレコレイズム」が、全て善となってしまうからです。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?わかる方お願いいたします。

  • 「善」について

    私は大学で哲学を学んでいます。 それで今道徳についていろいろと研究しているのですが、その中で「善」や「善い」と言うものがしばしば出てきます。 皆さんは「善」とは一体どういうものだと考えますか?