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天輪聖王とは?四輪とは?

こんにちは。 たまたま釈迦に関する本を読んでいたとき、天輪聖王という言葉が出てきました。 釈迦が生まれたとき、 「この子は将来、出家をして人々を救う釈迦になるか、この世を統べる天輪聖王になるであろう」 と仙人に言われたという行だけで、天輪聖王とは如何なる者か、わかりません。 近所の図書館でも調べるましたところ 「天輪聖王の分身として四輪=金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王がある」 という文を見つけ、また疑問が増えてしまいました。 どなたかご存じの方がいらっしゃいましたら、 1)天輪聖王とはどういう存在なのか 2)四輪とはどういう関係なのか お教えください。

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みんなの回答

noname#161749
noname#161749
回答No.1

天輪聖王(てんりんじょうおう)とは、 世界を統一する支配者で武力を用いず正義だけで世界を統一する理想の帝王、 転輪聖王には四種あるといわれ、 一つを金輪王といい、 二を銀輪王、 三を銅輪王、 四を鉄輪王といいます。 そのなかで最高の徳をもった存在が金輪王で、 慈恩大師の「法華玄賛」には、 『金輪ハ風ヲ望デ順化ス、銀輪ハ使ヲ遺シテ方ニ降ス、銅輪ハ威ヲ震テ乃チ服ス、鉄輪ハ戈(ほこ)ヲ奮テ始メテ定ル』 とあり、 徳のみで全地を順化する存在とされています(自信無いからアンマリ聞かないでね)。

nono_ko
質問者

お礼

ありがとうございました。 天輪聖王に4種類あるんですね。 読み下し文を作って、考えてみます。

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    こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。 wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」 と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。 それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます) そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。 この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。  天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。 長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

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    シャカの行った悪事について説明しよう。 死の燎原とは、立ちすくす者には真実であり、いかなる苦難も歩み乗り越える者にはぼろしだ。 私は世界は苦に満ちているといったシャカに背き、私は世界に幸福を見ると立ちはだかる。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 う~んっ、プリキュア仕事が長く続いたが、久しぶりの男仕事だ。 シャカが仏陀であることとは、彼が人間存在の中心になるだけの資質があったからこそで、人々の群れの中で特別に仏陀の称号を獲得した。 彼の教えの中心は「無」だ。 人が自らの存在に完全な自覚を持つと迷いはない。 それは自己の境地なので、他者に直接語る(悟らせる)「言葉は無い」 神の存在証明という哲学の命題は有名だが、仏陀型の賢人の特徴は、「自己の存在証明」ともいえるだろう。 証言をすると、仏陀に到達すると意図していなくても神様とお友達になれる。 人格神を地上に降臨させる強力なシャーマンの一人になるのだ。 文明勃興の熱気に満ちたバラモン僧たちは、神について多くを語る。 それは社会に秩序をもたらす効果があり、職務上の必然だ。 人間としての完成を成立させ、神と直通対話可能な仏陀の立場では、「バラモンらは何も語っていない」だ。 したがって、 君たちは何も語っていない。 私は何も語らない。 ならどっちにしろ無だという事にしましょうや。 そして、仏陀である幸福を語りながら、「あ~ら、かわいそうね~、君たちは虫けら以下ではいつくばって、何をするの苦しそう」「美しい世界すらも、苦痛がゆがめるのね~ン」(だからこそ地面を這いつくばる虫けらを人間にあてはめむやみに踏みつぶさないように配慮することが美徳だ。)ここにしかりと答えるものあれば「じゃあ、世界って全て苦痛なのね~ン、でも私は幸せよ!だってブッダだも~ン」このようにやらかした。 このように娑婆世界観というのが形成した。 そして、仏陀を所詮理解していない者たちだけが、シャカの伝承を語り継いだ。 そして、救いを祈願するという習慣が宗教に取り込まれる。 そして、無の論理が完全に喪失して、仏教の経典の編纂時期には実質的に信仰信への到達を意味する「空」に変容していた。 さてと、物語は今回以上です。 研究要素について検証のために質問していまして、基本的な募集回答は「読書感想文」ですが、ここは変人のたまり場で、ほぼ制限なしに好きな落書きをしてくれてかまいませんよ。

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    スサノヲだけがなぜ自由か  それは はじめに スサノヲのミコトに生起した。  スサノヲは 父のイザナキのミコトによって ウナハラの統治を任せられた。ウナハラは 死の世界であり これをつかさどるというのは 宗教の祭司となることである。この職務を嫌ったというのは その呪術的な宗教の拒否を意味した。スサノヲは 泣きいさちるばかりであった。泣きいさちることによって 宗教の拒否をつらぬいた。ここに 第一に 神の国が現われた。  宗教の拒否によって 神の信仰が生まれたというのは 不思議な歴史であり 体験であり 人間の謎です。  スサノヲは 第二に 姉のアマテラスオホミカミから この宗教の拒否の姿勢を疑われた。おまえは おまえに任された死者の世界をまつりごつのではなく わたしと同じように生の世界の祭司となりたいから 泣きとおしたのではないか。  わたしたちは 自分のものを確かに自分のものだと証拠づけることは出来ても 自分でないものを それは自分ではないと証明することは 容易ではない。アリバイ(不在証明)の立証は 時としてそのものじたいとして 不可能であります。不可能な証明が不可能であると分かると 疑う人であるアマテラスは みづからの身を隠した。検察官が 容疑をそのままにして 黙秘権(?)を使った。  ここでスサノヲは アマテラスに対して 泣きとおしたのではなく ちょうど狂を装ってのように やりたい放題のことをしたのです。登校拒否ではなく あらゆる非行を――天つ罪として考えられたそれを――おかした。  ところがアマテラスは 疑う人でした。とうとう姿を現わさなくなりました。スサノヲの非行を その権威をもって むしろ容認していたのですが とうとう黙秘権を最後まで行使しました。人びとは――人びとも――アマテラスの権威に従って スサノヲを責めず ただ身を隠してしまったアマテラスのお出ましを願わざるを得ず その方策を思案しました。  アマテラスは出て来ざるを得なかったのであって それは みづからの権威の消滅をうたがわなければならなくなったから。ここでスサノヲに 第二に 神の国が生起したのです。  宗教の拒否の肯定をも拒否するというかれの意志が証明されたから。あえて破廉恥なことまでおこなうことによって 破廉恥ではないところの神の国が出現したというのは 不思議なことであり 人間の謎です。  アマテラスのお出ましを迎えた人たちは 権威者であるアマテラスに代わって ここでスサノヲの罪を裁きました。スサノヲをこのアマテラスの世界から追放したのです。  かれらは 宗教(呪術の園)が大好きなのでした。宗教を拒否してはならないわけではなく 宗教の拒否を肯定してはならないわけでもなく しかし泣きいさちっているばかりではいけないと考えられた。スサノヲは人びとによって その良心が問われたのではなく その泣きいさちりと非行とが 人びとの裁判にかけられました。スサノヲは 《千位(ちくら)の置き戸(罰金)を負わせられ また ひげを切られ 手足の爪も抜かれて 追放される》こととなった。  アマテラスは その権威ある主宰者の位を守りました。かのじょ自身 呪術の園にいたのではありませんが 宗教(だから そのような日常のおこないとしての)によって生活する人たちを統治することに長けていました。かのじょは この世に・日の下に 新しいものは何もないとよく知っていました。この知識の中にないものに対しては 疑うことしか知らなかった。だから疑うこと――疑うために疑うこと――をもって 呪術の園にある人びとの共同生活を統治していたのです。かのじょは この世の生 人間の世の中をよく知っていました。  このゆえに神の国が生起しました。言い換えると 死の世界と 宗教によるその統治とが 克服されたのです。原理的に。本質的に。人間の存在のあり方として。あるいは同じことで この世の生――それが行き着くところは 死の世界だから――が 克服されたのです。  この世で 時間的に歴史的に 神の国(ほんとうの現実)が見られることとなった。スサノヲに神がここで王となった。この世の権威たるアマテラスの疑いが克服されたから。この世〔のアマテラスの世界〕から追放されることによって この世に勝つことが出来たというのは 不思議な人間の歴史であり 謎です。  スサノヲは 追放され この世から そして神からも 見放されたのですが ちょうどこの神から見捨てられたというそのこと自体において 神はスサノヲを見捨てていなかったのです。  スサノヲはこの世に死ぬことによって 復活しました。ここで神の国が現われたのです。すなわち日本人のそもそもの歴史のはじめ。  ☆ 自由なご批評・ご批判をたまわりたく・・・。

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • 日蓮と釈迦の大予言

    この文の内容は正しいですか? http://mujaki666.seesaa.net/s/article/123587636.html 日蓮と釈迦の大予言 釈迦の弟子が記した経典『月蔵経』20番目の「法滅尽品」は、「ヨハネの黙示録」と酷似した終末を予言している。 そして『観弥勒下生経』は、救世主の誕生を予言したものである。 釈迦は「釈迦如来」として祀られ、左右に「観音菩薩」と「弥勒菩薩」が配置されていることがある。 釈迦とイエスの類似性を考えると、「釈迦如来=イエス・キリスト」、「観音菩薩=死後復活したイエス・キリスト」、「弥勒菩薩=再臨のイエス・キリスト」を象徴していることになる。 釈迦の予言で最も有名なのが「正法の世が500年、像法の世が500年、末法の世が1000年続く」というもので、釈迦の没後2500年後に弥勒菩薩が下生して、人類を救済するという予言である。 釈迦の生没年は諸説あり一定しないが、一般的に紀元前560年~480年とされている。 そうすると、現在は「末法の世」の最終段階に突入しており、約2020年頃に弥勒菩薩が降臨することになる。 これはあくまでも大ざっぱな目安であり、前後20年くらいを考慮して、西暦2000年~2040年くらいの間に終末が訪れると判断するべきだろう。 チベット密教の最高権威であるダライ・ラマは、「2040年頃から人類の黄金時代が始まる」と述べている。 釈迦と同時代の預言者に、『旧約聖書』の「ダニエル」がいる。 ダニエルは、時の王ネブカドネザルの見た夢を解読するにあたって、「メネ、メネ、テケル、ウバルシン」という謎の言葉を語った。 ある聖書学者によると、この言葉は数字を表し、その合計は2520になるので「2520年」を示すという。 これは釈迦の預言した「2500年後」と20年の誤差しかない。 この誤差は、釈迦が語った年数がアバウトなことによるものか、またはダニエルの語った時が釈迦入没の20年前だったとすれば一致する。 「ヨハネの黙示録」や聖徳太子の予言には、「1260年」という時代周期が示されているが、そのジャスト2倍が「2520年」となり、これらは全て「60年」という火星・木星・土星のトリプル・コンジャンクション(惑星の合)が形成される最小周期の21倍(または42倍)なのだ。 そして、釈迦・イエス・マホメット・ノストラダムス・聖徳太子は、この火星・木星・土星のトリプル・コンジャンクションの時に生まれ、この3惑星の配置の影響力が預言能力に深く関係しているという。 占星術研究家の高橋徹氏によると、火星・木星・土星のトリプル・コンジャンクションュンは、特定の人物に、歴史に確固たる位置を残すような使命を与えるそうだ。 (参考「201X年終末大予言の秘密」日本文芸社) 「マタイ伝」に登場する、イエス出生を知らせに東方から来た3人の賢者とは、この3惑星の比喩だとも考えられる。 釈迦の具体的な終末予言は、チベット密教の『カーラチャクラ・タントラ』に継承されたが、それによると、シャンバラの大王が「12軍団」を率いて北の果てから降臨するという。 これと全く同じ表現が、「マタイの福音書」にイエスの言葉としてある。 「私が父にお願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送って下さるだろう」 12軍団とは……アルザルに住む「イスラエル12支族」を指しているのだろうか。 アルザルに入ったのは初めは10支族だけだったが、後にイエスの12使徒(2支族)の一部も、イエスの勅命で10支族の後を追ってアルザルに移動している。 だが、これがイエスの時代であることを考えると、イエスの使徒ではない。 また、「12軍団以上」ということは、イスラエル12支族以外の者もアルザルにいると解釈できる。 だとすると、ノアの大洪水前にアルザルに移住した「ムー人」が考えられる。 そう考えると、イエスの時代に「12軍団以上が今すぐ出陣可能」ということは、約2000年前に既にUFOが存在したという根拠の1つにもなる。 ちなみに、チベットのヘーミス寺院の古文書によると、イエスはチベットでの修行中、ムー帝国の聖典『聖なる霊感の書』を学んだという。 釈迦は「56億7000万年後に弥勒菩薩が下生する」と予言したが、この数字は象徴であり、実際に弥勒菩薩が降臨するのは釈迦の死後2500年後の「末法の時代」である。 これが聖書でいうところの「イエス・キリストの再臨」であることは言うまでもない。 法華経を広めた日連は、「末法の世に地涌菩薩が現れる」と予言した。 という事は「弥勒菩薩=地涌菩薩」となるが、「地涌菩薩」とは文字通り、地底から涌くように出てくる弥勒菩薩としか読めない。 地涌菩薩の正体は、シャンバラの大王率いる「12軍団」なのだろうか。 つまり、イエス・キリスト率いるイスラエル12支族が地上に帰ってくるという事なのだろうか……。

  • イエスなる愚か者の無能は後世にいかなる禍根

    さて、自らの推論が不愉快で仕方ない。 今回は初めに言っておこう。 継続中の哲学研究での質問だ。 あえて、過去質問は締め切らないでおくよ。 テーマに差異があり広範囲に証言を収集するためだ。 2500年ほど前、人間が人間であることを自覚すると、人の群れの中で特に仏陀といわれた。現代語訳すると「まさに人間である!」とでもいうところだ。 シャカはその手法で解脱した一人だ。 仏教研究で標語的に注目される点は日本人ならいくつか挙げられるだろうから問うまい。 現代哲学に焼き直すと総論は「観念への昇華」だ。 これは私が認識する限り「死の儀式」だ。 自らの生を差し出し、死を学ぶことだ。 私は今、腹が立っている。 この難易度の高い人間としての生存の自覚は、太古は簡単だったのに愚か者イエスが死の儀式として定着させた。 さて、予言者? イエスに予言能力があるか? 実のところ私は人に備わる予言能力を実証した。 その点は、任天堂に犯罪集団審問しろ。 予言能力とはすなわち、自分自身で未来を手にすることだよ。 これは運命を手にするといえるだろう。 社会性において、確立した自己の運命が周囲の人々に波及することでもあり、したがって予言まじない師の言葉をうっかり聞いてしまった人々の運命を取り込み自己が所有する。 これが予言者の資質だ。 さて、イエスは死ぬ必要があったのか? したたかに生き残ってユダヤ王復興すれば、後世に甚大な被害を与えなかった。 マザコンイエスは「死せる神」の伝承で、観念への到達と生存の自覚を、シャカの開拓を覆し「死の儀式」に逆行させた張本人だ。 予言能力のある私は、9.11スポンサー企業任天堂を出し抜いてしたたかに生き残っているぞ! すげ~迷惑だよ。 イエスは無能だ! なぜ?殺人鬼集団につぶされることを望んだ? ユダヤ人を全うした? あるかもしれない。 しかし、殺人鬼集団に栄華を与えたじゃないか! さて、質問文は以上です。 何か慰めてください。 美女は期待しません。 オカマを踏みにじるのが好きです。

  • なぜ図書館というものは存在するのでしょうか。

    そのままでは、意味不明の問いだとおもいますので、曖昧な問題意識を、曖昧なままだらだら書いてみます。 ▼Wikipediaによれば、図書館というのもは歴史をさかのぼれば、紀元前七世紀頃のアッシリア王アッシュールバニパルの宮廷図書館までさかのぼれるそうです。ですが、そもそも、この制度は一体、なぜ、なんの必要性があって、つくられたのだろうか、ということが少し疑問に思いました。社会にとって「役に立つ」知識を集積・流通させるための基地なのかしら?しかし、そういう生産競争力のための基地という役割よりも、最近だと、憲法第二十五条の生存権「…最低限の文化的な生活」みたいな意味合いのほうが強い気もするが、そこのバランスとかってどのように考えられているのだろうか、と。 ▼わたしは、本読みですが、ここのところ図書館にアクセスが微妙にしにくくて、amazonで本を買いまくっています。わたしにとっては、たぶん、いま、図書館がなくなるより、amazonが潰れる方がつらい。 ▼あと、ゲームやマンガや映画、アニメといったコンテンツも人並み以上に見まくっておりますが、こうした図書館には「入ったり、入らなかったり」で、「誰かが入れるべきかどうかを判断」している。その判断の基準は、どこのどいつが何を考えながらやっているのか、と。その判断の妥当性って何を根拠に参照されているのだろうか、と。わたしにとっては、その種の「オタク系」コンテンツと、バルザックやドストエフスキーといったものは大して差がなくて、どれも素晴しい人類の残したエンターテインメントだと思っているので……まぁ、差別されているのは知ってはいますが、差をつけるとしたら何を名目にしてるのだろうか、と。 ▼あと、国会図書館は、ISBNとかISSNの付いたものについてはある程度きちんとカバーしてるけど、そうじゃないものだと、どんなに伝説的な価値があると言われている同人誌も保管してないし、保管する気もなさそう。あれ、国会図書館とか、国の予算で超レア本とかある程度アーカイブしてくれればいいのになぁ、とおもうのだけど。なんでやらないんだろう。先進的な一部の取り組みとしてやっている話とかは確かに聞くし、特殊なアーカイブをつくってる機関もあるにはあるが、特殊なアーカイブを作ろうとしたときに、国とか地方自治体の金を使うのに何が問題になるのだろうか?アーカイブの公共性?それともアーカイブを作ることによって期待される日本の国際競争力とか?何考えて作るんだろうか。 ▼何よりも、インターネットのことを図書館はどう考えているのだろうか。知の集積も、文化的な生活も、いまや図書館よりもインターネットのほうがパワフルに機能してくれる可能性がある。図書館のデータの全pdf化がおわったときに、図書館はどうするのだろうか。*もちろん、pdfよりもアナログの本のほうが今のところ圧倒的に読みやすいけど。 ▼少なくとも、勉強に関して言うと、いま近所のしょぼい市立図書館なんかを利用するよりかは、インターネットで調べた方が専門性も高い情報が手に入る率がたかい。有料のデータベースに接続できればなおさら、インターネットのほうがすごい。大学図書館とかを日常的に利用してた頃は、さすがに図書館のパワーは勉強するのにありがたかったけれど、地方のそんなにすごくない図書館とか、ぜんぜん役に立たない。ちょっとマニアックなものを読もうと思うと、amazonパワーのほうが100倍役に立つ。金がかかるから公共性の面では限界があるが……。近所の図書館が、岩波でアリストテレスとか、論語とか揃えてくれてるのはありがたいのだが、ベストセラーの駄本購入とかにかける予算はどーにかならんのかなぁ。確かに「多くの人がアクセスしたいと思う最大公約数的なコンテンツ」かもしれないけれど、『女の品格』とか複数冊買う予算があるんだったら、もっとまともな古典教養を完璧にそろえてほしいのだが…。みたいな。 ▼そういうわけで、ふと思いついた「なぜ、図書館というのものは、存在するのでしょうか」。もしかしたら、デジタルアーカイブ論とか、図書館情報学とかの専門の人とかに聞いたら、いい答えが返ってくる質問なのかもしれませんが、上記のようなぼんやりとした疑問をもちつつ、ふと聞きたくなってみた次第です。 回答の方向も、なんとなーく問題意識を組んでいただければ。 ひまなときにご回答下さい。

  • 立派な人間とはどんな人を指すのか?

    私は子供のころから本を読むのが好きだった。小学校低学年のときは、金さえあれば(なぞなぞ)の本を買って読んだ。小説を初めて読んだのは小学4年だと思う。風呂屋の息子が江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを全巻持っており、それを借りて読んだところ、クセになって全部読んだ。30巻以上あったような気がする。 その次に、はまったのが芥川龍之介だと思う。そして同時に太宰治も全部読み、次に気に入ったのが、大江健三郎だった。大江健三郎はまだ一般的に知名度も低いため、私は図書室にあった本の中から(死者の奢り)というタイトルが奇妙だったので読んだのだ。 「この男は将来きっと大物になるな」と私は思った。 大江健三郎を読みながら、同時進行でプラトンから始まる(哲学者・思想家)の有名どころを網羅していった。最も読み終えるのに時間がかかったのは、ハイデガー(存在と時間)だ。1行1行が難しいので、2行読んでは1行戻るの繰り返しで、その本を読むのに1年かかった。時間をかけた分、愛着もありで、好きな本の堂々3位である。1位はニーチェ(善悪の彼岸)2位はニーチェ(道徳の系譜)だ。 そんな私から一言。 「本は読んでも読まれるな!」である。たとえば私の姉。 「関西大学は無理だ」と進路指導に言われながらも、辛くも合格した。凶暴だが、男を知らない姉。大学でできた初めての男に最終的にはふられ、大学を中退して家に帰ってきた。数年後、大手鉄鋼会社の社員と結婚して1女をもうける。 父親に似て、性格も顔立ちもとても良い。(あやのみや)の娘のブスじゃない方(写真参照)に、やや似ていてカワイイ。姉の遺伝子が、ゼロであることを願うのみである。姉が中学生のときに見ていた本が、漫画(ベルサイユの薔薇)であることも、付け加えておこう。 立派な人間とはどんな人を指すのか?ココロ(この質問文を書くのに時間を取られ過ぎて、明日遅刻しそう)な私に誰か教えて置いてください。 https://www.youtube.com/watch?v=NwY1jN1kqhA

  • 灼眼のシャナってコンテンツについて

    なんか今アニメをやっていますが。 昔もやっていて、3回目でしょうか?数えていないけど、その程度ですか。 原作がSFイラスト付文字本(ライトノベルなんて言葉は小説を愚弄すると思っていますので使いません) 10年位継続していて、800万部程度売れていると言うことで、そこそこの人気があるのかなとは思います。 私の生活や人生には1nmも影響のないどうでもいいコンテンツなんですが、いくら調べても意味がわからないので、詳しい方がいましたら教えてください。 wikiは読みましたが 世界設定 本作では現実と同様の性質をもつ「この世」と架空の異世界“紅世”(ぐぜ)とが設定され、物語は日本の架空の都市である御崎市を中心に展開する。“紅世”から渡り来た住人“紅世の徒(ぐぜのともがら)”は、人知れずこの世に存在するための根源的なエネルギー“存在の力”を人間から奪う(喰らう)。喰われた人間は元々いなかった事になり、人間を喰らうことで得た“存在の力”を使って“徒”は本来起こるはずのない出来事を引き起こす(自在式・自在法の利用)。“徒”の中でも強い力を持つ“王”たちの一部は、こうして生まれた存在の欠落や矛盾が世界のバランスを崩し、いつか決定的な破滅が起きることを危惧して人間と契約を交わし、フレイムヘイズと呼ばれる異能力者を生み出すことで、人を喰らう“徒”を討ち、この世と“紅世”のバランスを保とうと、戦いを繰り広げている。 あらすじ 御崎市で平凡な日常を過ごしていた高校生の坂井悠二は“燐子”(りんね)と呼ばれる怪物の出現と共に非日常の世界に巻き込まれ、名も無き少女と出逢った。その名も無き少女は、人知れず人を喰らう異世界人“紅世の徒”を探し討滅するフレイムヘイズの1人。彼女は、悠二が自覚のないまま死んでいることを告げ、訳あって“紅世の徒”から狙われるようになった悠二を護る様になる。そんな彼女に悠二は、彼女の大太刀『贄殿遮那(にえとののしゃな)』から「シャナ」という名前をつける。2人は反発しながらも、少しずつ惹かれ合っていく。 日本語なのか、全然理解できません。要は、なんか怪物が出てきて、ツルペタのロリコンヒロインとハーレム状態の主人公が戦うって言うのは理解できますが、いまいち間違っているかなと。 まず1つ目 この作品をわかりやすく日本語で簡潔にどんなものなのか教えてください(当方センター国語は180点程度は取れる国語の学力ありました、昔ですが) 3行程度でお願いします。 世界設定と登場人物の性質とかです。 2つ目 敵が仮想の町に現れては悪さするということですが、その目的はなんでしょうか? 田舎町一つ占領して、なんか得する事あるんでしょうか? 他の町には行かないのでしょうか? あと、襲うならなんか学校行っているらしいので、授業中に襲えば、学生に多大な被害も出るし、効果的と思いますが、なぜか放課後とか夜とかしか戦っていないようです。 寝込みでも襲えばいいと思うんですが。 敵にも営業時間あるんでしょうか? 「夜中なんて残業手当でないからヤダ」とか、週休2日はほしいとか。 アメリカとかイギリスには出ないのでしょうか? ヒロインが相手するんですから、ヒロインがいない場所で侵略計画進めれば簡単だと思うんですが。 それとも裏設定で世界各地にこういうヒロインと同じ少女がいて、同じように男を連れまわして戦っているのでしょうか? でもアマゾンの奥地とか、サハラ砂漠とかに拠点作れば、誰も邪魔しませんよね? 非常にどうでもいいことですが、人気作品の秘密が知りたいので、よろしくお願いします。 売れている作品なら、それなりの設定なりちゃんとあると思うのですが。 ただ、知りたいだけで作品を買うとか、アニメ見るとかはありません。 まぁネットに転がっている作品のエロCGをオカズに使うことはあるかもしれませんが、ツルペタは趣味じゃないんですよね。 よろしくお願いします。