自我を捨てる方法とは?

このQ&Aのポイント
  • 自我を捨てることができない人間にとっては、死と逃避の間で揺れ動く日常が続く。
  • しかし、自我を捨てることができれば、罰や後悔から解放され、新たな自己を見つけることができる。
  • 自我を捨てるためには、自分自身と真剣に向き合い、過去を受け入れる勇気が必要である。
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自我を無くす

悪い人間に対して、 「死んで欲しい」と思う人と、「死んで逃げるのは卑怯」と思う人がいますが、 自分は正直、「死にたくない」と思い、また、「もう逃げたい」とも思っています。 きっと、「死にたくない」と思っているときに私が死ぬことが、『罰』として成立し、皆の気も僅かでも晴れる(かもしれない)と、わかっていながら結局、自我が出てきて行動を起こせません。 自分は、本当に「反省」したと思っていたのに、結局は、自我を優先させており、今まで費やしてきた時間や後悔は、「真」の「反省」ではなかったこと、そして、 こんな自分はどこまでも悪魔的な人間、であることを認めざるを得なく、 本当に嫌気がさし、もう、つくづく自分から抜け出たい。 でも、それは自我ですよね。 四の五の言わず、私が苦しむことに越したことはないのですが、 どんな時にも、自我が付きまといます。 『自我を捨てきれない』 これを解決する方法は何かないでしょか? 結局、私みたいな人間は、 事流れ的にどうにかなるしかないのかもしれません。

noname#164568
noname#164568

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noname#149158
noname#149158
回答No.2

あなたは、あなたの存在をどう思っているのですか? あなたをとりまくもの、環境ともいいますが、それなくして あなたが在ると思っているのですか? 自我が在るならば、貴方の自我は、他に頼り悪いものばかり じががありならば、貴方の自我は、自分から喜ぶ自分を創る。 ありがたいことです。あなたが持つことを許されているのです。 さすれば恨みも、在る苦しみも無いのです。 創る体をもっていきることがだいじなのです。 自我という意味を貴方にまかされた選択として考えましょう。 わがまま、と、我が儘(自らを尽くす)は違います。 これで回答に成るでしょうか?

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回答No.1

人を人たらしめているものが「自我」です。 人間である以上自我を捨てることはできません。 精神が壊れたり脳の一部が損傷してマトモに思考できなくなる。 そういう状態が「自我が無い」という状態ですが、それは普通の状態とは言えないでしょう。 また「反省」というものは最終的には本人が判断するものではありません。 反省する対象、周囲の人間が判断するもので、自分で「反省した」と過去形で言ってる段階では反省してるとは言えません。 罪を犯した人間が自分で自分を許すことなど許されません。それはただの自己満足であり罪からの逃走です。 罰の成立もまた本人が決めることではありません。 自分が罰を受けたと思っても被害を受けた人が認めなければ、それは罰を受けたとは言いません。 ハッキリ言えば自分でそういうことを言ってる時点で卑怯であり反省しているとは言えませんよ。 罰は相手が納得しない限り成立しません。 本当に悪いと思っているのなら相手に判断を委ねましょう。 もしくは相手が納得する方法を模索することです。 自己完結は最低の行為です。

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  • 哲学における自我の話を持ち出してみました

    悪夢の葛藤は今、君たちに何を回顧させるか? 過去からの亡霊。 Primeape 〈オコリザル〉だ。 今回は自我論に関してだよ。 自我論、自我説は宗教、哲学、心理学、IT技術系、様々な分野で課題の一つとして取り組まれている。 学問というのは、一定の習熟をして全体が見渡せるような視野に立って展望できれば先生だ。 ところが、自我論は多様な学問で扱われていることが災いして、特定の高い視野から全体を展望するという事が、学問としてほぼできない。 自我とは自己の核心の研究だ。 ひとまず、人格の解説をしよう。 人には他者と共感したり、心を通わせることができる。 心理学では、客観の原型となる客体が、心理の奥底に観察されている。 客体とは自己に内包した誰か他者で、考えてみよう、他者に配慮する人間存在は、親しい他者からの助言や、社会的関係から他者への配慮を続けている。 この他人の気持ちが客体だし、欲望とは、自分の望みではなく他人の望みを預かって自分の望みと取り違えることだ。 社会性は人間の総括的資質の一つであり、このように人格が他者の影響を受けることは避けられない。 その精神の全体像の中で自己の核心を自我というのだ。 さて、仏教における無我、日本の伝統について語ろう。 無我は自我が無いという意味ではない。 人格として総括した「我」という自己のうち、他者の影響などを取り払って、安定した自己の本質、すなわち自我を仏性という特別な言い回しで表現して、我=人格を構成する要素は心惑わす煩悩であり、仏性を発見しない限り仏陀にはなれないという論調を強引に無我としたのだ。 そもそも自我という研究は何を目指しているか? 人間玉ねぎ論だ。 物資を細かく砕いた結果について、紀元前西洋哲学は原子を予言していら。 それド同一の手法で考察された、学問上の論理が自我論で、人格を砕くと自我になり、自我を砕くと霊になり、とかなんとか、どんどん細分化していく性質の論理だ。 という事はだよ、 研究しても自己の全体像からかけ離れていくという事だ。 さて、今回はPrimeapeという8年ほど前に退会した旧IDでさんざんやっていた仏教研究を久しぶりに引っ張り出しました。自分で納得していたんでわざわざ続きをすることはなかったんだけど、まとめてみると何か研究を先に続ける意見でも集まるのではないかと思って質問しました。 学問カテゴリーの研究会として、自由にご回答ください。

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