私の自我論とは?

このQ&Aのポイント
  • 私の自我論は、人々が持つ「自我」の存在とその意味を考えたものです。
  • 「自我」は人々の内にあり、それを他者と隔てる強固な殻として存在しています。
  • 私は自らの欲望や幸せの追求が他者への思いやりや善行に繋がることを考えています。
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私の自我論です。 ご意見をお願いいたします。

私は「自我」という言葉をこのように解釈しています。  自分ひとりで考えてきてしまったもので  別に矛盾とかは いろいろな体験からも無いと思えるのですが 皆様のご意見をお聞かせいただければと思いました。 視点が違えば こうした考えは それによってさらに豊かになるという期待もあります。 よろしくお願いします。 ↓↓↓ 私の人生(現在63歳ですが)からは 誰もが「自我」は、持っているという観察結果が 狭い視点なのかもしれませんが 出てきます。 しかも、それを 人と隔てる殻とすると かなり強固な殻として表現可能なものとして「自我」は存在してしまっています。 そこを 私はまず、 卵の殻ではなくて 鉄のような堅固な殻を持ったの球や円を 便宜的説明図として ここに想定させていただきます。 それは、まず そのへんをこのように考えるからです。 人を助けたいという気持も 多くの場合、 自分の満足や 自分の名誉  人から善い人と思われたい心からとか、 それによって信用されたいから あるいは感謝されるのが気持いいから あるいは見返りがいつかは期待できるからとか とか なんらか 自分のためであったりするところ  そのへんを冷徹に見つめるとなのですが、 自分をまず、大切にしたり 自分にまずゆとりを作らなければ どうせ人へのなんら助けにならないことからも   また さらには ほんとうに気持にも生活にもゆとりがなければ 人は 人を押しのけてでも まず自分の欲望を 人を助けることより優先します。 普通は こうして ゆとりさへあれば 自我の堅い殻の中にても、法律は守りますし、 人助けもします。  それが常識の範囲というものでしょう。 戦争のような極限状況で無い限りの 私たちの神経は 自分のためにも 平和を望んでいるからです。 しかし平和であっても この自我を知ってしまうと、 人の存在すら認めない考えの人も出てきます。 ただ のけものにされたくないから、いい人のふりをしているだけとなったりします。 善人でありたい 道徳心とかも強い人は多いですから これはとてもきつい冷たい見方でしょうが  私は まず このへんは冷徹に しっかりと 自我の構造を見つめておいて 真実の追及してゆくべきところと思えてしまっているということです。 そうすることによって それでも崩れない 他の人へのあたたかい思いやりの気持の所在はどこにあるのかをより明確にあぶりだしたい気持からの 冷徹さでもあると思っていただいていいところでもあるのですが、 ともかく 最初は この鉄のような硬い殻の ボールをイメージしてください。 次に、何故、 その殻は それほど硬いのか?  それは 欲望の存在がそのエネルギー 出発点では必ずその殻を持った円や球体のうち側のエネルギーを持ってしまい それに覆われるような形で その殻が形成されているからです。 そういう便宜上のイメージの話ですが、 そういうふうに表現することができると私はですが思っています。 「人はみなそれぞれ絶対弧」という哲学言葉があると聞いていますが それは又別の意味合いの「弧」の世界の表現でしょう。 むしろ人の存在を認めるからこその尊敬とう文字の裏返し その基点のようまものの表現であるのだろうと感じます。 そうではなくて、 死が絶対的別れであることを知る時のような深い奈落の孤独の世界が 見えにくくてはあっても そこには あるということです。 誰もが その「巨大な」とさえ言えてしまうような殻の硬さの中に置かれているという図、 しかも欲望が故という理屈、 ここまで 文意は理解できましたでしょうか? これは 左脳(論理脳)で捕らえると そのようにも表現できるという意味合いでもあるのですが、ともかくまず 論理的には そのような図が考えられることを念頭の置いておいてください。 しかし 欲望は さまざまなニーズの総合、 その重複性の奥に 時に無意識的にかもしれなくても《幸せを願う》という究極へと向かいます。(ここも反論があるかもしれませんね) 幸せは 音楽への感動や この大地への感動 大自然への感動、その中での安らぎや新鮮な気持といったことを心に見出す時にやってきます。 ある意味欲望は そのへん ほんの薄皮をむけば その心の故郷と一体となった美の世界をともないます。(この欲望自体の構造については、 別に質問したいとおもっていますが) いずれにしても  その「幸せ」感と一体となるようなエネルギーが希求の中に入り込むと(その実感が命に宿り始めると)その中からは 他の人の幸せも 自分と同じ様にせつせつと願う気持も 同時に生まれると私は思っているのです。 もっと単純な話が 人って ほんとうにうれしい事があると 人に伝えないではいられない気持になります。 そういう気持を知らない人はそれだけうれしいことがあまり無くて 記憶に残っていないからだと思いますが ともかく その延長線にある 人間性の必然だと思っていただけると解りやすいかと思います。 つまり ちょうど 磁力線のように それはなんと いとも簡単に 鋼鉄のように固い殻を突きぬけてしまいます。   それがどんなに硬くてもです。 別に それで 聖人とかになれるとか言いたいのではなくて、 かならず そこには、これも誰もが、少なくとも心の奥は 暖かい気持になってしまうということです。 これを卵に仮に例えるなら 黄身の部分がそれかもしれません。  偉いとかかいいとかのえらい違い^^は考えないで下さい。 自分のことのように 相身互いの気持にはなれるようになるということです。 この自我論が意味しているものは、 誰もが まあそんなものではないでしょうか、という大局的意味合いです。  誰を低くみたり 誰を英雄視したりすることもなく もっとみんなが 自分を見つめ 信頼し、  相手を認め 信頼しあい、 語り合えるようにするための図のつもりなのです。 しかし 私は わりと幼い頃から こうした人間についての考えを真剣に考えてきた者ですが、 本とかをあまり読む機会がないまま 忙しい人生を生きてきました。 他の人の心理学とか 哲学とかで すでにこうした自我論というのがあるのかないのかもわかりませんし、 他と比較できないので 自信とかも沸いてきません。 それは、それでいいのかもしれませんが、 やはり 対話は 勇気や力を私に与えれくれると思うのです。 もしよろしければ、 この考えの欠点、 間違っていると思える点、 感想、その他 ご意見をお聞かせいただけると ありがたいのですが、  どうかよろしくお願いいたします 人生観から生まれた論の一つですので、この紙数ですべて書けるものでは無い論文となっているところ もしご意見をいだだけましたら そのつど お一人お一人に 補足文を書かせていただこうと思います。 よろしくお願いいたします。

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noname#155689
noname#155689
回答No.16

自我や自由意志の問題については 哲学よりも神経科学の方が ずっと先に行ってしまっているだろうとの認識から 脳科学のトピックを拾ってきたのですが http://www.freeml.com/bl/8065070/48398/ ご質問者さまの関心に上手くヒットできたかなと思います。 芸術に関しても彼らの仮説は大変刺激的です。 先駆けたのはピンカーでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%83%E3%81%AE%E4%BB%95%E7%B5%84%E3%81%BF~%E4%BA%BA%E9%96%93%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%AB%E3%81%A9%E3%81%86%E9%96%A2%E3%82%8F%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%BC/dp/4140019700 > 今 貧しくて^^、本とかすらも買えない状況なのですが ありがたいことに彼らの講義は一部、ネットで見られます。 (しかも日本語字幕つき!) ●スティーブン・ピンカー 「心は空白の石版か」 ttp://www.youtube.com/watch?v=nVlifuHzeAA ttp://www.youtube.com/watch?v=H3WaTvSZnIU ttp://www.youtube.com/watch?v=a-pHPe1UOiY ●ヴィラヤヌール・ラマチャンドン「文明を形成したニューロン」 ttp://www.youtube.com/watch?v=aH7VpqZp46o ●ヴィラヤヌール・ラマチャンドン「意識・クオリア・自己」 ttp://www.youtube.com/watch?v=v_ialfm5TOg ↑特に「クオリア問題」はご質問者様の関心の核心をつくのではないでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2 ラマチャンドランの本は最近文庫化され こちらなどは↓620円で買えるようになりました。 http://www.kinokuniya.jp/05f/d_01/back36/no34/book34/book04_34.html http://booklover.at.webry.info/201107/article_2.html 大変リーズナブルだと思いますがいかがでしょう。

iwamahico7
質問者

お礼

なんどもご回答ありがとうございます。 ご紹介のURL 急いでですが、すべて観させていだだきました。 youtubeで そこから 脳科学に関する講義をどんどん追いかけてゆくことが出きるところ、 今後、さっそく、じっくり学習させていただこうと思います。 たしかに そちらのご指摘のとおり、 特に 面白かったのは ラマチャンドンの「意識・クオリア・自己」の講義のあたりです。 「クオリア(感覚質)」という言葉については、 以前から疑問を持っていました。 その概念の発見(気づき)は 面白くはあるのですが、 当たり前のことでもあり、かつ その言葉単独では 意味がない言葉と思っていたところ、 それを 「意識」と「自己」とに関連させて語る表題にまず惹かれ期待して その講義映像を観させていただいたのですが、 これだけでは 詳しいことは解りませんが このラマチャンドンという方(かた)も 同じ様に この少なくともこの3つの要素を組み合わせて総合的に考えないと 「クオリア」という言葉には意味が無いことを理解していると思われ、 さらに ラマチャンドンの脳科学の世界に興味が惹かれました。 ですので、 ご紹介の ラマチャンドンの本は 是非できるだけ早く手に入れたい本の第一候補にしたいと思います。 実は 今回 OKウェブに 久しぶりで戻ってきて いくつか質問させていただいた中で  他にも 候補となる本を紹介してくださった方(かた)がおられましたが、 その本とともに 最有力候補とさせていただくこととなるかと思います。 脳の中の「ニューロン」の数は わかってきた星の数よりもなお多いそうですね。  その組み合わせで 脳の作用が生まれていることはそれ自体なんとも神秘的で、なんとも魅力的な知的好奇心の対象ですね^^。 しかし、  私が ここに求めているのは クオリアのさらに先にあるものなのです。 クオリアの 質の深さや高さを問題にしているからです。 そのへんが 右脳とか 「へんとうたい」とか、 海馬領域(記憶をつかさどるニューロン関係)」への興味と結びついているのですが、 おそらく ラマチャンドンのような脳科学者の 興味もそのへんにあるのでしょう。 わたしの自我論の中では、 この変の質こそが 「幸せ感」と私が書いた便宜的図の中の 卵に黄身あたりで書きたかった内容にあたります。 まさに 自我が変質し 消えてもゆくような(左脳も必要ですから 正確には消えるのではなくて 《上位概念、上位感覚の形成によって 完全に楽にコントロールできるようになる》ということなのですが)、 どうやら ニューロンの研究は 今では そのへんまで 何かを明らかにしているのではという期待が起こってきています。 ただ、  そのあたりの実験検証のあたりで、  歌や舞踊や絵画の実際の本質部分の心の世界と 脳科学のあたりが また 東洋医学から生まれた気の流れの世界の解明と どのように結びついているのかのあたりが   ラマチャンドンの本の解説のあたりからは 気にかかります。 もしかしたら まだまだ その開拓は始まったばかりなのかもしれませんね。 実際の 舞踊の心の世界の追及をしてきました私のそのへんの苦悩のようなものはかなり大きなものがあります。 一人で追求してきただけなので 自信が持てなかったりするのです。 CUE009さんの 脳科学のトピックのご紹介は ほんとうに勇気付けられるところがあります。 私たちの神経(手先に伝わってそれが絵画藝術となったり リズムの拍子の静と動を生み出して舞踊芸術になったり 音声を生み出して音楽の中で歌の藝術となったりする 根源でもある神経)の中には さまざまな物質が細胞を突きぬけて 脳のニューロンと結びついた形で 何かとても生き生きとした形で動いているはずです。   そして それはまた 体の表面を主に流れている気の世界とも結びついていたりもするでしょう。 あと 少しで おそらく《脳の科学≒人間の科学》は、 幸せ感の本質を科学的に解明するところまで行くのだろうと思います。 そして  私が興味を持っている  愛の世界、慈愛の世界 慈力線の世界も そこから解明し、   文明が再び いや今度こそ崩れない形で  言葉とともに、   素朴で明るいすみやすい しかも力ある世界へと 変わって行くのだろうと思います。 また 私たち 情報化社会の庶民にこそ、その使命があるかとも思います。 実は 次の もうひとつだけ 「欲望」についての質問、 欲望の上位概念、上位感覚さへあれば、欲望はむしろ価値のあるものにのみコントロールできるようになるはずという私の論理への 同じ様なご意見の場を設けるつもりでしたが、 実は すでに私はこのあたりについての 心理学の世界には失望していたりします。 結局同じ、この脳科学の世界に期待するしかないのでしょう。 ここで 私には 他にもやるべきことはたくさんありますし、 しばし OKウェブから、特にこの哲学カテへの質問等 お休みしたいと思っています。 この場をお借りして 他のご回答者の皆様にも 深く感謝を述べさせていただきたいと思います。 期待はしていましたが それをはるかに上回る豊かな質のご回答を 今回はすべてのご回答者様から得ることができました。 なんともありがたいところです。 ありがとうございました。 では、 このへんで 失礼致します。 みなさま ありがとうございました。

その他の回答 (15)

noname#155689
noname#155689
回答No.15

ANo.14です。 先の回答の最後にリンクした ラマチャンドンの講義のビデオを見直していたら ttp://www.youtube.com/watch?v=PnFsUzfv5so ttp://www.youtube.com/watch?v=o2bANldEBwE 自分の記述の間違いを発見しました。 大筋には関わらないので、あらためて説明はしません。 それよりも、もうひとつ。 重要な部分の「抜け」がありました。 > 人は群れをなす動物ですから > 「共感」に関連する能力は発達していると思います。 この後に入れた筈のこの文が抜けてました。 ●共感の発達については「ミラーニューロン」が非常に注目されているようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%B3 (これを抜かしてしまっては伝えたいことがちゃんと伝わりません・・・) 脳の中に1000億個の神経細胞があり それぞれが繋がりながら個別の機能を担っており 中にはミラーニューロンのように 「他者を真似よう/同化しよう」とするらしきものもある一方で 他者を排除しよう/攻撃しようとするニューロンたちもあるのでしょう。 聴覚を通じて音楽を受信して発火することで感情(喜び/不安/etc.)を 刺激するものもあるでしょう。 むしろこれらが「自我」に先立って活動しているのでしょう。 「自我」は人と隔てる殻などではなく むしろネットワークのほんの一部をモニターして あれこれ解釈しているようなセクションのようなものではないでしょうか。 もしそうだとすれば ご質問者さまの自我論に何か新しい視点をもたらすことは出来るでしょうか。

iwamahico7
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。 》大筋には関わらないので、あらためて説明はしません。《 のところなのですが、 たしかに 「へんとうたい(扁桃体 )」も、 右脳も 情の認識と関わっているところだと思いますので、   写真や音声では認識できた母親を 実際にあったときには「似ているけれど」と 母親であることを認識できなかった 実験?(ラマチャンドンの実験では 「へんとうたい」のあたりの実験)は、右脳が働かない場合にも 同じ結果となりそうです。 ただ、 「へんとうたい」も 右脳も 人の感性と深くかかわっていながら、 その性格は 右脳の方がもっと内面的(感じる心の体制が関わる)であり 「へんとうたい」は 実際に快い物質的な面を直接感じる脳の領域という感じのようです。 例えば  自転車で 眺めのいい緑濃き平原をさっそうと走っていたり、 そんな時、その緑の中からの太陽の光が はっとする美しさだったりする時、 まず、 そのさわやかさを捕らえるのが「へんとうたい」 それが 即記憶領域(海馬に入り込み) さまざまなその人の人生などとモンタージュ(映画では 場面場面の組み合わせによって表現効果を高める機能や技術のことを言いますが、 ここではイメージが 無意識的に脳の中で組合されてゆくことを意味します)され、  感じる側の心が 安定化を生んだ時に それが右脳となんらか関わる形で  《美》の認識が そこに起こっていったりするのだと思うのです。 いろいろな 脳科学者のご紹介ありがとうございます。 上記のあたりの 考察や推理で(これは舞踊の心の追及からのものだったのですが)  右脳左脳だけでなく ちょうど、私は その間の交流を生む神経経路としても「へんとうたい」や海馬の働きにも興味を持っていたところです。 ですので ラマチャンドンの講義を観れたことは 大きな刺激となりました。 今 貧しくて^^、本とかすらも買えない状況なのですが、 少しでもゆとりが生まれしだい、どうやら脳科学は 是非詳しく調べてゆきたい課題となりそうです。 また ご紹介の「ミラーニューロン」も 同じ認識と大きく関わっているようですね。 ただ、 例えば お酒の好きな人が 美味しそうにお酒を飲んでいる人の表情を観て 自分がお酒を飲んでいるときと同じような鏡のような反応が脳のある部分(前頭葉と側頭葉の下部とかに)起こるといっても  これは その記憶と「へんとうたい」との関わりも当然関わっていますので、  そのへんが 総合的にどのように繋がっていたり 交流しあい流動しあっていたりするのか  これもまたさらなる未知の世界に心をそそられたりするところです。 》むしろこれらが「自我」に先立って活動しているのでしょう。 「自我」は人と隔てる殻などではなく むしろネットワークのほんの一部をモニターして あれこれ解釈しているようなセクションのようなものではないでしょうか《 たしかに、 人間の感じる心の世界は 深いと思います。 ちょっとした理屈ではなんとも言えないところがあったりします。 私は 実は子どもの頃何度も死の床をはいずるような体験があったのですが、 そのうちにあるときに、もう死ぬかもしれないと思った瞬間 親が買ってくれて乗り始めたばかりの自転車が頭に浮かび しかもそれに乗って さまざまなところを旅している自分が頭をよぎり始め  死にたくない気持= 自転車で世界中を駆け回りたいとなってしまったのです。 いつ何が どんな時に その人の命ほどもの重みで 何を感じるか 理屈だけでは何もわからない体験の世界があったりします。 ただの自転車が 全命ほどもの重みを持ったり?^^。 これ さきほど 「へんとうたい」からの 感性の成熟へのお話をしましたが、   たしかに これはさらに 例えば自転車で旅をしているさわやかな顔を見るだけで  それが深くこころの入り込んできたりする場合もありますよね。 自転車は ほんの例ですが、 たしかに そうした世界も含め 何が どこで何を感じさせるかわからない世界が私たちの人生であることを考えると、 その実態は たしかに、 そちらの言われるように 人と隔てる自我は その実態の一部という視点、観点も立ち上がってくるでしょう。 おもしろいですね。   こんなにも 豊かなさまざまな視点からのご回答が たくさんいただけるとは  期待はしていましたが そこまでは予想していませんでした。 いろんな人生からの 心に関する言葉の世界ですから 豊かなご回答群になるのは 当然なのでしょうが、  なんとも うれしいかつ豊かな気持になります。 そろそろ こちらも 締め切りたいと思いますので  他のみなさんにも この場を通じて こころよりお礼を申し上げたいとおもいます。 みなさん ありがとうございました。 また ほんとうにちょうど 的を得た 脳科学のご紹介をくださったCUE009さんにも 感謝の気持でいっぱいになります。 ありがとうございました。 こちらの補足質問がおそくなってしまった方(かた)もおられますので あと数日後になるかと思いますが  新たなもう一つ(さいしょから予定していましたので)の質問へと移るためにも 締め切らせていただこうと思っています。 ありがとうございました。

noname#155689
noname#155689
回答No.14

個人的な感想で宜しいでしょうか。 > 人って ほんとうにうれしい事があると > 人に伝えないではいられない気持になります。 人は群れをなす動物ですから 「共感」に関連する能力は発達していると思います。 ただ、これを「黄身」と例え その外側を強固な殻が覆っているという考え方は 個人的には違和感を感じました。 スペリーに触れられている方がいっらしゃいましたので さらにガザニカ、サックス、ラマチャンドランらの知見を含めて http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%B6%E3%83%8B%E3%82%AC http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%BBS%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3 自分なりに考えてみたいと思います。 (素人考えですのであんまり信用しないで下さい。) +++++++++++++++++ 目の前にボールが飛んできたとする。 目から入った視覚情報は大きくふたつの経路に分かれて処理される。 ひとつは「それが何であるか?」(→ボールである)を解釈する。 もうひとつは「それをどうするか?」(→よける、掴むなど)のアクションにつなぐ。 解釈の際に、左脳の一部が活性化する。 左脳の右脳をつなぐ(左脳と右脳の情報をやりとりする)「脳梁」に損傷を受けた人 (左脳と右脳が切り離された人)の左視野(左視野は右脳につながります)に 「歩け」と書いたカードを見せると、彼はカードに従って歩いた。 しかし彼に「なぜ歩いたのか?」理由を尋ねると「コーラが飲みたかった」と答えた。 右脳の情報が届かない彼の左脳は 他人の行動を解釈するがのごとく 自分の行動を事後的に解釈したのである。 左脳の解釈装置は常に解釈しまくる。 自分自身ではそれを不自然とはちっとも感じない。 右脳の、情動を感じる回路に損傷を受けた人に 母親の写真を見せると、彼は「この写真の人は母親です」と答えた。 しかし、彼が母親本人に会ったとき「この人は母親に似た他人です」と答えた。 母親本人に会ったときに感じる筈の情動(暖かさや懐かしさなど)が感じられなったために 左脳の解釈装置が「母でない」と判断したのだと見られている。 左脳の解釈装置は主に記憶を参照しながら 刻々と入力されてくる情報を解釈する。 この解釈が「自我」と呼ばれるものの多くを占める。 脳内ネットワークを損傷し 左脳の解釈装置に情報が上手く入力されなくった人の中には 身の回りの出来事を自分の都合にイイようにしか捉えなくなる~周りから見て 自分勝手でわがままな人格に豹変するケースが出てくる。 左脳の解釈装置は主に記憶を参照しながら パターン、規則性、規律などを読み出していると考えられる。 (よって言語や論理といった思考内世界につながっていく。) なぜこんなことをするのか? 階段を駆け上るとき 私たちは一段ごとの高さをいちいち確認しない。 (いちいち確認していたら鬱陶しくて上るのに手間取るだろう。) 私たちは目の前に「階段があるな」と解釈すると それは均等の段差の連続だと見なし その「見なし」を頼りにすばやく上っていく。 それによって脳の作業を省力化するのだと考えらている。 階段の8段目の角が欠けていたとする。 そのままだと8段目で躓いてしまうかもしれない。 しかし左脳は読み出したパターンを信じ、角の欠けを認識しようとしない。 そのとき右脳は左脳に「異論」を唱える。 右脳は左脳の解釈装置に常に疑いを掛ける。 +++++++++++++++++ 自我は脳内の複雑なネットワークの一部の認識であって 黄身を覆う硬くて外部と隔たれた殻のようなものは(自分には)イメージできません。 ttp://www.youtube.com/watch?v=PnFsUzfv5so ttp://www.youtube.com/watch?v=Urt5O_PQf6A (↑頭にhを加えてください。)

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 hを加えたURLのページも含めすべて読ませていただきました。 確かに 上の方の「h加URL^^」のラマチャンドランのお話しの内容と そちらのAno14のご回答内容とでは 食い違っている点があり  すぐ気がつきました。 これは「へんとうたい」には、 素人ながら 昔から記憶領域の海馬領域との関わりのあたりで 深く興味を持っていたからです。 それで、すぐ気がついたわけです^^。 したがって お礼文 その他 Ano15の方へ  そのへんも含めて 即、移動させていただきます。 この時間差移動 ご理解御了承ください^^。 よろしくお願いします。 ありがとうございました。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.13

おはようございます。 昨日、逆に問いかけた答えがわかりました。 端的に言うと、誰もが共通してもつ潜在的心理的プログラムまたは潜在的心理的シナリオにとって、外聞を気にせず踊ったり、自我に感謝することは想定外であり、それ故に 私たちはそのことでカルマ的惰性を乗り越えることも可能であるということです。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 瞑想は やはり 普通の哲学以上に 一気に 本質を捕まえようとする世界なのでしょう。 それを文章化すると 今までのご回答の流れが無かったら とても理解が出来ないところとなってしまったと思います。 哲学カテは やはり 難しいですね^^。 》カルマ的惰性《   私は カルマとい考えには 疑問も持っていますが、  このスピリチュアル用語には なんとも言えない重みがあります。 たとえば、 なぜ「わたし」という人間は 現代という時代に生まれ かつアフガニスタンや ビアフラではなく 日本に生まれたのか? この運命の謎は  カルマ以外に想像は出来ないわけです。(詳しくは略させていただきますが) そして そのカルマを想定するならば、  その限り、確かに私たちは 誰もが共通して潜在的心理的プログラムや潜在的心理的シナリオを持っていることにもなりますよね。 大きな心理的 (輪廻を含んだ) 因果関係 、 そこに 無心な踊りや  自我にさらに感謝の念をプラスする心の世界は  「想定外」、とする気づき、   まさに瞑想哲学的だと思います。 また 想定外の津波を知った今、 それは 瞑想時に おそらくまさにさらに重みのある何かだったのかもしれません。 いずれにしても 私も  無心な踊りの道、や(感謝の心」の道を  自分にとっても 日本にとっても、人類にとっても 大事な扉を開く鍵だと 思いますし、 そのへん、さらに精進してゆきたいと思います。 お互い さらに進んでゆきましょう。 ありがとうございました。

回答No.12

 No6です。補足質問をいただきましたので再度回答させていただきます。「身体観念」は,心の中の象で,私の体というべきものの総体という意味で用いました。  熟練の職人が道具を体の一部のように扱うときは,道具を支配しているという思いから,道具に身体感覚があるかのような錯覚を覚えるのではないでしょうか。この場合,肉体を越えて,身体は道具の先にまで拡張します。熟練の職人は,道具に自己の魂が宿ったかのように,肉体と一体として扱います。使用後も道具をわが命であるかのごとく大切にするように思えます。  これに対して,素人がその道具を扱えばぎこちなく,体が道具に振り回されているかに見えます。道具と体が一体となって動いているようには見えません。  熟練の職人の「身体観念」は「道具は私の身体の一部である」と言わしめるものです。しかし,素人の「身体観念」からは「道具は私の身体の一部である」という思いは決して生じないでしょう。その道具は,職人にとって我が命,我が魂の一部でさえあるかもしれませんが,素人には,ただの物体です。どちらの表現行為に美意識が触発されるかは言うまでもありません。  ところで,表現行為に美意識が触発されるというのは,こういうことだと思います。表現者の心を観察者は直接見ることはできません。形となって現れた行為を見て,表現行為の調和を受け止めるのです。熟練の職人の場合,身体と道具が一体となって滑らかに,あるいは律動的に動いている様子が自然であるというような調和です。繰り返しますが表現者の心は観察者には直接伝わらないのです。  観察者は心地よい調和感覚を受け止めた時には,まだ美を感じていません。ただ気持ちがいいだけです。そのうち,この気持ちよさを生みだしている表現行為者の心への想像力が働きます。その他者の心の想像は,自身のうちにある(無意識的な)心と共鳴します。そこで自身の(無意識的な)心と調和感覚が結びつくことで,心の調和が自覚され美意識が生じるのです。  さらに感動するというのは,そこに自他の一体となった予期せぬ心に気付かされるからです。自他一体感は観察者の幻想なのでしょうが,それは表現の調和感覚の中に自らが溶け込んでしまったかのような幻想です。表現者のほうは観察者との心の一体ということでは感動しません。観察者は表現者に対してなにも表出していないし,自らの表現の調和は期待されているからです。表現者はただ冷静に表現行為の調和に意識を集中しているだけです。しかしそれは普遍的な他者への一体感に至る行為となります。その行為は自然に溶け込んでしまいます。

iwamahico7
質問者

お礼

再度ご回答 ありがとうございます。 やはり 電波の例え、 そちらのご回答は 具体的な表現の世界と結びついたお考えだったのですね。 何かの 表現行為を実際になさっておられる方(かた)なのでしょうか。 長い それぞれの人生を歩んで現在に至って (今)という時間が私たちの間に共有されているわけですから、 どこでどのような表現をしても 受け取りからは それぞれの人生に影響されてしまいます。 今 私自身 実際に ある舞踊を人前でも踊り始めています。 理由があって しばし 公開練習はしていませんが、 方向は人前での勝負のようなものになっています。 その時に 今回書いてくださった ご回答は  「やっぱりそうだった」という補足質問してよかったという思いと、あとは感動あるのみです。 コピペして 何度も読み返しさせていただくつもりです。 ありがとうございました。

  • MOG56222
  • ベストアンサー率12% (6/50)
回答No.11

お礼ありがとうございます。 踊りは少し参加したときの経験からで、スポーツは全くしないです。多くは座禅や瞑想の経験から述べたものです。 ところで、今日瞑想で感じたのは、自我というのは憎むべき対象ではないということです。自我があるから、虫の音にも圧倒されることもないわけですから。 あと、この事と庶民の誇りを感じながら踊ったエピソードが繋がっている感じがするのです。どう感じますか?

iwamahico7
質問者

お礼

何度も、ご回答ありがとうございます。 哲学カテでの文にも 少し慣れてきた感じはあるのですが^^、 やはり、森羅万象を扱う学問、 それを すばやく、時には専門用語も交えながら あっちに飛び こっちに飛び ツーカーで話される形の 文には  まだ 戸惑ってしまうことが多いです^-^; 踊りは 表現のあたりが 現代では複雑ですのでここでは 私の専門ですが、できるだけ略しています。 しかしその観点からのスポーツブログを書いている者でもあるのですが、スポーツの哲学は もっと具体的です。  スポーツにも哲学は必須で、、そしてそれ無しには せっかくの大勢の人が参加しているその世界も 曲がっていってしまうのです。 そのための スポーツブログですから 哲学は必須かつ重要です。 しかし、 応用スポーツ心理学にしても スポーツでの道具の条件についての哲学にしても すべて具体的な闘いとなります。 道具の条件としては 今回陸上でバネ付きの補助義足で準決勝まで進んだ選手がいました。 これは たしかに 多くの不自由者たちを勇気付けたでしょう。 しかし、バネの基準が どのように 公平に作れるのか? そのへんが明確でないなら それは 永久に認められる形とはならないわけです。 おなじことは 野球のバットの世界にも言えます。 水泳の水着にも言えます。 水着やっバットが勝負をするわけではないわけです。 あたりまえですが^^。 でも 改良されたバットで 王選手の記録をつぎつぎ破る選手たちが出てきたとして  それはほんとうに記録を塗り替えたことなるのか?   道具の条件というのも けっこう深い必須哲学となってゆきます。 瞑想と似ているのが  感謝とか 謙虚さ、 尊敬の心とかを 今に生かすといった世界。 このまえ ご回答くださった内容と重なる応用スポーツ心理学の哲学の世界ですが、 これもかなり具体的であるわけです。 今回 書かれています。 瞑想によって 引き出された新たな気づき、 》自我があるから、虫の音にも圧倒されることもないわけですから《 というところですが、 この》虫の音《 という言葉は  《周囲の雑音といった意味あいの例え》として使っている言葉ですか? 虫の音(今ならセミの声が 圧倒的な地域、場所はあるでしょう)のような 騒がしさにも 圧倒されない心という意味でです。 それですと 意味合いは具体的にも解ってきます。 でも その場合の 「自我」は やはり 私の「自我論」の図で言えば 黄身の部分が美味しい卵、つまりなんらか(しあわせ感」のともなう 自然な人間性が生まれることからの  《人間としての誇り》と同義語の「自我」   人間色に質的に転換した後の(自我」ということになるかと思います。 スポーツでも 相手を同じ人間として尊敬し、お互い人間として認め合い、 そこに誇りを抱いて 試合などに臨むことで、 最高に思いっきりどうどうと あがったりせずに試合に挑んでゆけるというところがあります。 まわりの 雑音は 聞こえていても その心があればシャットアウトできるわけです。 おそらく そのへんを 瞑想で感じた ということろが すばらしいところ まさに新たな豊かさを伴うところなのかと思います。 踊りについては あまり触れないようにしたいのですが^^、 あのエピソードのディスコでの優勝の時には まだ若くて  庶民の誇りとまで言えるような 心で踊れたわけではありませんでした。    ただ 夢中で 若いなりに 心をこめ 心のままに踊っていたら、 周り中に人の踊りが 最後の方に全員 とまってしまい 踊っているのは私一人となり 生バンドでも最高に盛り上がり フィナーレとなったのです。   そして 舞台に呼ばれて 表彰^^されたというお話し^^、  良かったのは それで何か 踊りがつかめたとか思わなかったことです。  天狗になる前に  それよりも、自分の至らなさの方に心が向いていた点でした。   そうでなかったら  その後の長い踊りの求道の道は始まっていなかったでしょう。 ともかく スポーツでも踊りでも 無心さとか無我夢中さは、多きなパワーかと思います。 座禅や 瞑想、 いいですね。 がんばるというのとも違うかもしれませんが、 無心に取り組まれていってください。 ありがとうございました。

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.10

>それを 人と隔てる殻とすると かなり強固な殻として表現可能なものとして「自我」は存在してしまっています。 そのとおりだとは思いますが、そもそも自我は必要なものなのでしょうか。 小さな子供は自我を持たずにコミュニケーションをとりますし、 最終的に人の精神は自我の解体を目指すんじゃないでしょうか。 人の現状としてはおっしゃる通りだと思いますが、それで終わりではなく続きがあるという気がします。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうござます。 実は すでにお二人の回答者の方(かた)から それぞれ独自の視点で 指摘を受けたところなのですが、 自我が硬い殻のままにても 感性が深まり 大自然などを心から愛せるようになり しあわせ感といえるような感性が 内側に成熟してくれば   簡単にその硬い自我を突き抜けてしまうような磁気ならぬ、慈気エネルギーが生まれるという図が 私の「自我論」だったところ、 考えてみれば その慈と気のエネルギーが出るようになれば、その殻自体が 豊かな人間味ある色に変わってゆくことも 見えてきました。 私自身も、 固い殻は そのまま深く観察できるようになれば、 消えてゆくという感覚は持っていましたが、 殻自体が変化してゆくイメージは 質問した時点では 描いてはいませんでした。 そちらのご指摘の視点は これはまた 新鮮な視点だと思います。 無邪気な 子どもたち (とくに大自然の中の素朴な子どもたち)は まさにそこに悪意を持ちません。  動物としての恐怖とかで極限状態にては 子どもでもまったく変わってゆきますが、それはあたりまえのこと、  通常は 平和な大自然の中の子どもたちには邪心が無いと思います。 キリストが そういう子どもたちを抱き上げて「このような人たちが天国に入るのだ」と言ったのは、 そうした純粋さの大切さを語っているのだと思います。 言葉を獲得したことで人間は 進歩をさらに加速させました。 さらに多くの物事を 見つめ比較し検討し反省の材料とする可能性も手に入れました。 しかし その純粋で新鮮な感性の方は むしろ失っていってしまったところもありますし、 また 言葉での嘘もつけるようになったため それによっても 心が曲がってしまったところも有るかと思います。 しかし、 たしかに、そちらの言われるように、 それで終わりではないです。 その言葉を通して  実は 今度こそ もう崩れない純粋さを勝ち取る旅路をも 文明は歩き始めていると私は思っています。 キリストの言われる天国への道も 仏旅も たぶん その同じ旅なのでしょう。 》続きがあるという気がします《 私も、そう思っています。 いっしょに、 さらにさらに 旅をしてゆきましょう。 ありがとうございます。  勇気付けられます。 ありがとうございました。

  • uekido
  • ベストアンサー率44% (35/79)
回答No.9

ANo.2です。ご丁寧なお返事いたみいります。再度拙論を書き込ませていただきます。 おっしゃる通り、人間には矛盾した欲求がたくさん含まれている訳で、認識できない部分をも含んだ複雑系です。 そして、性善説と性悪説は実は大して矛盾していないし、より良い社会を目指すという同じ目的を持っていて、補完関係にあるというのも私が常々思っているところと同じです。 善と悪の定義も難しいところではありますが、善というのが人に良い事をする事、悪というのが害をなす事と考えるならば・・・。 私は30代で三児の母ですが、経験的に言って、赤ん坊というのは邪悪なものです(笑)。 いきなり人の目をつついたり、かみついたり、ひどいものです。彼らは人のことを食料かおもちゃ扱い。力がないから問題ないだけで、精神性は快楽殺人犯、通り魔と同じだと思いますよ。 生まれたてで信頼関係が築ける前は、何をされても「何しやがる!」という態度で信用してくれてません。人との共感能力などもありません。 そういう意味では、人間は、生まれたばかりの時点では、凶悪かつ孤独なものです。 ただ、数ヶ月経つ内に、つながり欲が表れて来るように思います。その時は「構ってくれ」などと利己的な出方をしますが、おそらくこの人へのつながりたい欲が、後に見返り求めぬ思いやりにもつながるのではと思ってます。 ですから、大人を見て「それぞれの人にどのくらいの割合で善悪が棲んでいるのか」はあまりにも多様だから考えても仕方なくて、単に、邪悪の塊(笑)だったものが、だんだんに精神を獲得し、矛盾を含んだ欲求や本人なりの善悪判断を身につけて行くんだと思ってます。 強いて傾向を言えば、今の標準的な日本人なら、本当に自分の命か他人の命かを迫られれば自分をとるかも知れないが、それすら状況にもよるし、その直前ギリギリまでは人を優先する事ができる、という感じじゃないでしょうか。どっちみち割合で示すのは適切でない気がします。 良くも悪くも、日本は平和ですね。何だかんだ言って、そんなに住みづらい国じゃない。 お答えにあたりますでしょうか?

iwamahico7
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 》お答えにあたりますでしょうか?《 なんと言ったらいいのか? 私は このような実の体験からの豊かさを 回答に求めているところがあります。 文学を志している者ではなくて 実は舞踊家(プロではないですが)の端くれですし、 63歳の今こそ 技術的にも何jかを完成したいなんて、 エベレストを70歳から 再挑戦し始めた三浦雄一郎さんみたいなことを考えていたりするおじいさんなんです^^。 文学は駄目です 想像力が貧しいからです。 もしかしたら その面を補いたい希求がわたしの中にあるのかもしれません。 文学は駄目でも その欠陥を 踊りの面では補いたいのかもしれません。 uekidoさんの 生きられたご体験に基ずくお話は このような私には おおいにパワーになるところなのです。 ありがとうございました。 そちらのお母さんとしての赤ちゃんご観察体験^^は、しっかりとしたご観察だと思います。 よく 性善説とかいうことで、  赤ちゃんでのこんな実験の話が出てきます。 確かこんなふうな実験です。 丸と三角と四角の形をした おもちゃで遊ばせておいて、 次に  映像で 丸が三角をいじめている映像をアニメで見せ、 その次に四角が三角を助けている映像を見せた その後に もう一度 丸と三角と四角の形のおもちゃを赤ちゃんに与えると どの赤ちゃんも四角と三角を選ぶようになり 丸は見捨てられるそうです。 時間を置いて いじめる役、助ける役を入れ替えても 結局いじめる役が 見捨てられるらしく。 これをもって 生まれつき どの赤ちゃんも 善を好むとする実験結果が得られたとするものです。 さあ この実験の性善説?と そちらのご体験の赤ちゃん邪悪説?^^と どちらが正しいのでしょう? 私の考えでは、 この実験は むしろ性悪説にも思えてしまうのです。 簡単に言えば 怖いものを避ける利己主義です。 そして悪はン見捨てられてしまう。 これもまた 同じ穴のむじな。 ほんとうは 実験なんかしなくても このぐらい 当たり前の推理で理解できる実験結果だと思います。 私が 聞きかじりの解釈とかでこの実験を誤解している部分もあるのだろうと思いますが、 やはり ちょっとした 頭の中で組み立てられた心理科学実験などよりも  ほんものの実際の体験での観察の方がはるかに、 豊かな学びになるところと思います。 ―それに 生きられた体験は 直接伝わってくる詩(生きられた詩)という要素も 舞踊家にとっては力になりますしね― 舞踊の心の世界から考えると  舞踊史以前(言葉での史料以前)の自然な舞踊の世界には注目せざるを得ないのですが、 人間は 言葉以前の80万年前から この地球の森や平原に生きてきたわけです。 それが ジャズなどによっても アフリカの野蛮で単純と思われていた音楽が 実は ばらばらに思えた部分は むしろ豊かにスイングし合って共鳴しあった豊かな心の反映であり 単純な部分は 馬鹿であることを意味するのではなくて 心の統一された安定感の反映として見出されたりしてきたわけですが、 踊りで言えば 明らかに 言葉以前にも   これは説明が理屈では難しいので  簡単に 星を見上げる例を書いてみますが、  星という言葉を知らなくても むしろより新鮮に 夜空の広大な星たちを 子どものように新鮮な気持で見上げ 目を見交わしあっただろうことは想像できると思うのですが、    それが音楽に対しても そのようであっただろうと考えれば 舞踊こそ 現代になって舞踊史にてはやっとたどりついたという表現表出舞踊をこそ むしろ森や平原でのまだ言葉を知らない人類は より新鮮で豊かな文化としてもっていたとい推理がなりたってくるのです。 (想像力は貧しくても こうした推理力はけっこうあるようです^^) そこから 人類の誕生の世界を イメージしてみると  アフリカのタンガニーカ湖畔の チンパンジーたちが とうとうその脳に 物事のすべてを《みつめる》脳を宿した時から 人間と呼べる生物となった という類推がわたしの中には起こります。 《みつめる》力が宿ることで 物事を比較 検討できるようになり(そのへんは 言語学のソシュールではないですが、言葉によってさらに発達したわけですが それもまたこの脳がすでに宿っていた上でのことであるはず) がゆえに、 反省が可能となり 進歩が始まったとも言えるのですが、 これ、実は 本能からの解放も意味します。 本能に縛られていたら視力は人間以上にあったとしても、 青空も星空にも何の感動も生まれません。  なによりも 仲間行動も仲間意識もそれすら本能の必然です。 仲間の中の安心があっても笑うゆとりがそこには全く無い状態とも言えます。   その意識の中での「仲間」は 「友」という性格のものではなかったということです。 本能的に安心できる集談仲間という感じものであったはず、 この推理の詳しい理由は ここでは略しますが、 ともかく私にはある体験があり そのために かなりはっきり 動物のそのへんの心を推理できます。 人間の脳を宿して始めて 人間は 星を見 小川のせせらぎの音にも感動し心癒され、 青空の雲たちがいかに雄大なのかに感じ始めたりしたのだと思うのです。 そうして たとえば その雲がやがて赤く染まるのに見とれていた二人が そこに一番星を見つけた瞬間 輝く目と目を見交わしあったりして、  「友」としてのその意識を深めていったのだと思います。 何が言いたいのかというと、 オギャアアアアアアと お腹の中から出てきたばかりの時というのは あかちゃんは まだ その大人の猿よりも脳が発達はしていないそうなのです。 つまりは、生まれたては 性善説も性悪説もなにも それ以前に動物の赤ちゃんと同じだということです。 しかし この大地の空気に触れることで いきなり人間の赤ちゃんの脳は凄いスピードで発達するそうです。 これ 実際には明確では無いでしょうが、 こうして私の推理の世界では  おそらく赤ちゃんが最初におかあさんに笑いかける時 あるいは目と目を見交わして何かが通じる時、 そこに人間としてのほんとうの誕生が始まったという考えです。 日時とかが明確なわけではないので その日がほんとうの誕生日ともいえませんけど^^。 》精神性は快楽殺人犯、通り魔と同じだと《 むむむむ。  あの赤ちゃんが!(笑^^) でも 気持よく解ります^^。 リアルにその気持が通じてきます。 》生まれたてで信頼関係が築ける前は  ……~ そういう意味では、人間は 生まれたばかりの時点では、凶悪かつ孤独なものです《 この最後の》孤独《という言葉が特に わたしの心には引っかかります。  赤ちゃんというまだ動物の心の奥に入り込んだかのような  おかあさんという 存在の直観力の深さを ぞっとするほど感じさせるところかと思えたからです。 》どっちみち割合で示すのは適切でない気がします《 そうですね。 まさにその通りだと思います。 最初から 数字のような形の割合を求めていたのではないですが 》お答えにあたりますでしょうか?《 とんでもない、 求めていた回答であり 私にとってそれ以上の(私の力になる)ご回答でした。 ありがとうございました。

回答No.8

『自我』は左脳に存在する意識です、顕在意識とも言っています。この意識は人間を型作る片方の意識です。この意識は生まれてからの経験を積む事によって、言葉として知識なり体験なりの経験として、自分の人生を型作っています。 自我意識の殻の固さと言う表現方法は、『心』というものを良く観察していると感じます。心をもう少し仔細に検討した場合、心はもう一つ在る事に気が付きます、心と言う表現方法がよいのか、或は『意識』という表現方法がよいのか迷うところが在りますが? この『もう一つの意識』というものを、脳科学の研究からのテーマとして解明されているものが在りますので、簡単に載せたいと思います。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” この場合の右脳に存在する『意識』は禅における『命そのもの働き』です、キリスト教においては『神』に当たる存在です。お釈迦様が『仏性』と説いたものです。 仏性は右脳の意識です。普通の場合には全ての人に備わっている『意識』です。この意識は『命そのものを働かせている意識』ですが、この者の存在は『不可知』とされています、何故なら人間の意識は『意識する自我意識』と『無意識の時に自分の心と身体を働かせている、主人公』という存在ですが、『自我意識は、意識がなくなった事を』意識出来ない心のシステムをとっているためです。 人間の日常は『この二つの意識』の交替制から成り立っています。 一つの分かり易い例を上げるとするなら『眠る場合』です。健常者と言う人達や、ぐっすりと良く眠れると言う人の場合を先に書いてみます。 人間は自我意識が眠っていると言う勘違いをしています、貴方も確かめて下さい。自我意識は眠る事はしていません、是は錯覚です。普通眠る時には『次第に意識は無くなってゆきます。』完全に意識が無くなった時、『身体と心は』無意識の支配化に入っています。 簡単に言うなら眠る時『交替制が完了している事を意味します。』そうして朝になった時点で、又交替制が始まります。『無意識の自分が』自我意識に身体と心の支配権を返すと言う現象です。 この交替制が順調に行っている場合を『健常者』と言っています。二つの意識が仲良く順調に交代出来ているという意味ですが、もう一つの側面も在ります。『二つの意識には信頼関係が構築されている。』という意味です。 では眠れない場合を書いてみます。自我意識が『身体と心の支配権を』握りっぱなしにして離そうとしない場合です。この場合『心に圧迫が加えられています。』或は『漠然としたとした不安や恐怖感』です。 この場合の『自我意識に圧迫を加えている者が』無意識の中に封印された形で存在する『無意識の意識』です。眠れない場合とは『自我意識がでしゃばってしまい』『無意識の自分に交替出来ない状態です。』 仏性というものをもう少し詳しく説明しておきます。この者は『人間の中に在っては』命そのものを働かせている意識です。自律神経もその働きの中に入ります、ホルモンの調節も、血液の流れも、胃や腸の働きも全て命の働きの役割です。 生命として芽生えた瞬間から『働き始める働きそのものです』人間にあっては人間を人間たらしめている働きです。例えて言うなら『生まれたばかりの赤ん坊』が、『教えてもらわなくとも』不安や安心や恐怖と云う事までも、既に知っている働きです。 人間の心にも作用している働きです。腹が減った場合、『腹が減った事を自我意識に教えています。』さらに食べ物の在りかを『探すようにさえ』促している働きです。喉が渇いた場合にも、寒い場合でも、暑い場合にも同じ事です。 『命の働き』は環境の情報を、即座に身体に反映させています。発汗作用や血管の収縮もさせています。同じく心にも作用(指示を出しているという言い方も可能かも知れません) 大人になった時(子供時代も同じですが、)悲しい場面では『身体も心も』悲しくさせている者、楽しい場面では『身体も心も』楽しくさせている者です。 心を病むと言う場合も神経症と言う場合も自律神経失調症や心身症と言う場合もこの二つの意識の協調性が崩れた事を意味します。その共通点は『無意識からの圧迫』=罪悪感や、漠然とした不安や、何処から来るのか分からない得体の知れない不安感等です。結局は『生き難い想い』として感じられるものです。 この生き難い想いを、お釈迦様は『一切皆苦』と表現しています。『意識地獄』という意味です。 聞きたい事があったら聞いて下さい、私の話に興味がないとした場合、貴方に失礼な回答になっているかもしれませんが、そうだとしたなら、お許し下さい。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 》私の話に興味がないとした場合、貴方に失礼な回答になっているかもしれませんが、そうだとしたなら、お許し下さい。《 とんでもないです。 この「自我論」自体 もともと  質問文自体にも少し触れていますように 左脳(論理脳)で考えた場合の質問であることを ことわっています。 右脳左脳の専門家の方(かた)からのご回答をいただけてうれしいです。 しかし、 今 今日はもう時間がありません。 87歳の母親と暮らしております関係、 忙しい設備業の関係 その他で なかなか時間的に厳しいものがあります。 私が 知っているのは自ら一度脳のほとんどを失ってそこから快復されたそんな脳j科学者のテイラー女史のお話しです。 テレビで見ただけですが、 最後に彼女が 木々の散歩道で 木の枝に触れながら 川のせせらぎの音の中、 「ホーム ホーム ああホーム」と 思わす語った声の響きが 今でも私の胸に響いています。 ここは、 補足質問をさせていただきたいと思います。 何日か先のこととなってしまうかもしれませんが どうかよろしくお願いいたします。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

私が 右脳と左脳について知ったのは テレビでテイラー女史の特集をしていたのを途中から見たことよります。 途中からでしたが、 完全にそのテイラー女史という人の魅力にひきつけられていました。 そして この人の体験は本物だと思いました。 その体験を彼女は そちらと同じような感じでニルバーナ(涅槃)と呼んでいます。 後から youtubeで彼女が すっかり快復して講演をしている映像を見つけました。 もし まだ見られていないようでしたら 是非 次の映像を観られることをお勧めします。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM これは1/2の映像ですが、 その映像が終わると すぐその画面に 2/2の映像を観れる画像紹介画面がでてきますので  この二つの映像で その講義の全場面を見ることができます。 彼女の この講義の中での 実際のそのニルバーナ体験の話しでは、 左脳(論理脳)が失われ命もぎりぎりとなった状態の中でのことです。 そのぎりぎりの意識状態でも その時のしあわせ感があまりにも凄いものだったのだと思います。 彼女はそのへんのところを 「生きているうちに こんな体験ができるなら その可能性を他の人にも伝えなきゃ、という気持が 私を快復させる大きな力になった」というふうにです。 これ 論理的に考えたわけではないでしょうからこの言葉どおりではないでしょう。 しかし  まぎれもなく この《しあわせの状態》は 他の人への愛というエネルギーの変わったということです。 しかも 脳のほとんどが失われた赤ちゃんのような状態から あるいは猿以下かもしれないような脳の状態から   再びすべてを取り戻すほどのエネルギーを その 言葉で語れない至福からの愛こそが作ったわけです。 自我の殻のすべてを あっという間もなく 通過してしまうその慈気エネルギーの王様みたいなのが ニルバーナの世界なのでしょう。 実は このニルバーナをめぐって しかし そちらのご回答への補足質問をさせていただくなり 補足入力させていただきました。 》この場合の右脳に存在する『意識』は禅における『命そのもの働き』です、キリスト教においては『神』に当たる存在です。お釈迦様が『仏性』と説いたものです。《  以下の文ですが、 この上記の部分については、 言葉で論議を始めるとかえって このニルバーナのあたりが見えなくなるだけに思えますので 略します。 問題は次の文です。 》仏性は右脳の意識です。普通の場合には全ての人に備わっている『意識』です。この意識は『命そのものを働かせている意識』ですが、この者の存在は『不可知』とされています、何故なら人間の意識は『意識する自我意識』と『無意識の時に自分の心と身体を働かせている、主人公』という存在ですが、『自我意識は、意識がなくなった事を』意識出来ない心のシステムをとっているためです。《 この文を中心にして 展開されている後段の文も 関わるところなのですが、 ともかく ほんとうに ニルバーナあるいは仏性は「不可知」なのか?  そのへんに私は疑問を感じる者なのです。 自他を区別する境界が消えてゆく様子もテイラー女史はありありと語っていますが、   このことが 自他を区別する脳が働いている限り、 右脳は万全には機能しない という事を意味しているとは私には思えません。 ただ単に、 そこには大きな壁があるだけだと思うのです。 ちょっと 入り組んだ議論となってゆくかと思いますが、  私は この左脳(論理脳)を働かせ しかもそこに自我が働いている状態であっても なお 深いしあわせへの道は 存在しえる(大きな壁はあるけれども)と考えているのです。 また その深いしあわせを得られるなら その限りにおいて まったく嘘偽りの無い 他の人への愛情も自然に備わりますし、 それを仮に便宜的に図で表すと 円を突き抜けるエネルギーの慈気力線としても表現できるというふうに表現しているわけです。 もし 「不可知」でしたら  生きている生き抜くべき私たち人間のほとんどは 生きている限りそのしあわせを知ることも そのしあわせによる愛のパワーを得ることも まったく出来ないことになると思いませんか? 歌では その技術によって直接のその音声での「しあわせ感」の深さを 磨きたかめ、 それを表現してゆけるはず。 絵では 色合いの技術によって そのタッチ(筆使い)に現れるその心「しあわせ感」の深さをやはり 磨きたかめ それを表現してゆけるはず。 舞踊では、音楽の技術にも助けられ、 安定性と拍子のリズムの技術の向こうに、 やはり直接の 心の表情としての体の動きの表情を 磨きたかめ、表現してゆくことは可能。 それら 基本の心の直接表現の文化が 今までの文明史ではビジネスその他の必要悪にまざり、 その本質のパワーが見えていないだけだと思います。 テイラー女史は 絵は描いていますが、 それよりも 直接の大自然の中での 感嘆の音声や 講演での右脳体験を語る時に顔の表情に  その心が  その「しあわせ感の深さ」が現れていて、 それが 見る人聞く人の 心の内側に その真実の何がしかを伝えています。 本当は 彼女のような人は さらに絵を追及して欲しいですし、 歌や 舞踊の中でも  その音声や表情を 表現できるようになって欲しいです。 また それを通じながら 脳科学をさらに発展させていって欲しいです。 「不可知」とは 誰がそう言っているのでしょう? 仏教哲学なのですか? 何かの宗教哲学なのですか? その理由として  》何故なら人間の意識は『意識する自我意識』と『無意識の時に自分の心と身体を働かせている、主人公』という存在ですが、『自我意識は、意識がなくなった事を』意識出来ない心のシステムをとっているためです。《 というふうに、 書かれていますが、 それは そちらがお考えになったことなのですか? たぶん そんなふうにどこかで学習されたのではないでしょうか? 自我って むしろ無意識的に働くことが多いと思います。 つまり 「意識された自我」と「意識されない自我」とが 存在しているわけですし、  「無意識の時に 心と身体を働かせている主人公」は 無意識の中の自我だけではなく まさに仏性とか 無心の愛とか表現できる心の世界も その「主人公」です。 最後の この論理はわかります。 》『自我意識は、意識がなくなった事を』意識出来ない心のシステムをとっているためです《 そこに 自我が強ければ 無意識界の自我の存在すら見えないと思います。 しかし これもまた程度 あるいは相対的な問題。 宗教にいうように絶対的な壁ではないと思います。 わたしの推理のようなものでは、  お釈迦様は 不可知だから 信じなければ救われない などということを伝えようとしたのではないと思います。 周りの人が 宗教と入り混じった道徳の権威化の必要が生じた時代や その他、権力関係によって むしろ 解りにくくしてしまい(簡単にわかったら 権威化できない) その延長線上に「不可知」という絶対的言葉も生まれてしまったのではないでしょうか? 》『生き難い想い』《  これは その言葉の乱れが生み出したものとも言えるかと思います。 文明や自我は 人間の存続や発展のためには必須だったと思います。  それが 心の面では帰って混乱や苦しみや盲目性を大きくしてしまっているかもしれませんが、 そこはやはり  言葉の混乱は  深き体験やその表現とともにですが言葉によって正してゆき、 そうしてニルバーナに 実際に近づくことで  消してゆき 「意識地獄」をもこの世から消して行くべきなのだろうと 私は思います。  テイラー女史の ニルバーナ体験は 神体験などではなく 弱い生物でもある私たちの 新しいあるべき第一歩の 旅立ちの始まりなのではないかと思います。 右脳への気づきは 巨大な宝の可能性を秘めているでしょう。  でも それは 誰にも開かれた 少しずつ知ることの出きる相対的世界でもあると 私には思えるのです。  一部の天才だけの「不可知」を知ることの出きる人たちの所有物などではなく です。 その旅は 確かに きつい闘いの道かもしれません。  しかし扉は 私たちみんなに開かれていると思います。   わたしのこの考え、どこかまちがっているでしょうか?

noname#194996
noname#194996
回答No.7

仰る自我論を特徴付ける「鋼鉄の殻」について考えてみました。 私なりに得た理解は、 自我=利己主義:自己中心主義。確かにこれは結構硬くて保守的で、殻を作ることも多いです。 利己主義:自分(だけ)を主張し、守ろうという意識 これがないと人間は自分を保持していくことが出来ませんから、それなりに必要だとは思います。 しかし、鉄の殻をつくって守るほどの値打ちがあるものだろうか?という疑問はあります。 過剰な自我ではないでしょうか。 確かに、自己の肉体は自身で守らねばならないものです。これも自我の一部分ではあるでしょうが、私はそれだけではないと思います。 私の思っている自我=わたしというものが社会の中で独立している存在理由の芯(社会的地位は別ですね):肉体プラス心 ではないかと思っています。 個人というものは既製部分を守り続けるだけでなく、様々な社会との交流が不可欠であり、その交流(美の享受、あるいはいさかい、喧嘩、闘い)を通じて変化していくものですし、柔軟に変化する部分がなければ自我そのものを存続することはできないかもしれません。 おっしゃることと全体では余り変わらないことなのかもしれません。 ご参考になれば。

iwamahico7
質問者

お礼

ありがとうございます。 また豊かな新たな観点を 私の書きました自我論図に付け加えることができそうです。 》私の思っている自我=わたしというものが社会の中で独立している存在理由の芯(社会的地位は別ですね):肉体プラス心 ではないかと思っています。《 の部分です。 地位とかとは別の 人間としての誇り といった意味合いでのアイデンティティーとしての自我のことですね。 私の図では これは、黄身の部分に磁力エネルギーが生まれた後のこととなりますが、 その時には 欲望エネルギーがあいかわらずある中でも  その殻には、 その人間としてノアイデンティテーを求める心が付け加わりますね。 殻自体が ただ硬い自己に閉じこもる性格のものではなくなり  人間色にそまってくるという視点、 このへん思索や表現が落ちていました。 ありがとうございます。 また、ご指摘の 》個人というものは既製部分を守り続けるだけでなく、様々な社会との交流が不可欠であり、その交流(美の享受、あるいはいさかい、喧嘩、闘い)を通じて変化していくものです《 という部分も 実際の人生でのかなり豊かな人間の心の世界の部分だと思いますが、 そのへんも 図の単純化を求めて、かなり省いた形となってしまっていました。 たしかに、 欲望や喧嘩そのものすらも だからこそせつせつと気持が伝わりあい お互いをさらに深く認め合うキッカケにもなったりするのが人生、   そして そのへんも komaas88さんはの 文や言葉には、さらに豊かな含みが表現されていると思います。 人生の機微のあたり 勉強になります。  気持が豊かになるご回答ですね。 ありがとうございました。

回答No.6

 お考えは,自他の区別が前提となっています。視覚に訴える模式図,鉄球殻は,イメージしやすい物理空間の表象です。それ故,自己の領域がはっきりと示されています。その上で,孤独なはずの自己と他者をつなぐ磁力線のようなもののアイデアであるのだと思います。  しかしながら,区別のありかたは,物理空間の領域で示すに限る必要はありません。複数のテレビ局が電波を発して番組を放映していますが,1chと2chは区別されます。これは,空間領域を区別しているものではありません。複数局の電波が同じ空間に飛び交っています。  ある人が1chであるとします。そして,他にも多くのチャンネルが存在しているのですが,搬送波(っていうんでしたっけ)の周波数の違いによって区別されています。いつもは違う番組を放映していますが,同じニュースを放映することもあります。  放送電波は本質的には同じ現象です。ちょっとした違いは,搬送波の周波数と,信号波(放映番組の内容)です。まあ,後者は現象から内容に視点を移すと,大きな違いかもしれません。この喩えで自他を表現すると,自他の共鳴現象の可能性が見え,また,自他の境界に強固なものをおく必要もありません。  人は自分と他人の扱いがえらく違うものです。それは(身体観念からくるのでしょうが)空間領域的な違いと,(放映番組で喩えた)意思内容の違いに,認知上のバイアスがかかっているからなのでは?という疑念になるのですが・・・,身体や意思内容こそが自己の本質であると規定すべきなんでしょうかね。  私は自他の,本質的に同一の部分(喩えでは,電波として表現される物理現象)を自我とみなそうとしています。対人間関係に留まらず,他者を広義にとらえて対自然とし,一切の現象を表現の形式でとらえ,その表現内容においてはさまざまですが,無制約な自己を制約のある姿に限定して表出する,同じ類のもの,すなわち我=自然,自然一体であると。  若干自己主張がありましたが,構造の見えない本質の認識が,比喩表現の内容の構造に左右されるのではないかという意見です。  

iwamahico7
質問者

お礼

鋭く かつ丁寧なご指摘ありがとうございます。 一応 図で表現する限り シンプル・イズ・ベストを追求しての便宜的たとえ話のつもりでしたが、 比喩表現は、まだまだこの広い複雑な世の中を捉える シンプル・イズ・ベストの比喩にはなっていないようですね。 また一応は これは、論理脳(左脳)で考えると このような図が浮かび上がってくると断り書きを質問文自体にいれていますが、 文章化する以上は  外に向かう 磁力線ならぬ 慈力線のあたりの 説明ももう少しくっきりとさせておくべきところかと思えてきました。 視点の違いは、常に生まれつつあるという認識の上には それはさらに時間とともに その違いは積み重なるようにしてさらに大きくなる場合が さまざま想定されます。 》身体観念の違い《 という そちらの書いてくださった言葉に対しては 少しだけ補足質問させていただきたいと思いますが、 この身体観念の違いといったこと自体が 自他の扱い違いを生み出す基であると同時に  視点の違いの始まりの基点ともなったりするかと思います。 しかし、 それは、 さらに その電波量が増えることで そには量から質への転換も起こりえるところとなるかと思います。 このへんを右脳左脳で説明しますと、左脳(論理脳)だけでなく 右脳(感性脳)でも考える「ゆとり」が 生まれてきて、それこそ、》自他の境界を強固なものとおく《必要はなくなってくるると思われます。 また、右脳が発達しなくても、 論理的にも たしかにあらゆる視点を豊かに脳内に理解することでも  気持が明るくなり 人と自分との差はなくなってくるものと思います。 ですので、 そこを逆の この私の図のように 便宜的に強く主張するのも、 その視点からの知識量をより豊かにするのも、 実は この便宜的に想定しておいた自我の殻の硬さとか巨大さとかを 消していってしまう 背反理論がなりたっていくことにもなるわけです。 つまり たしかに その殻は 「硬いけれども 感性さへ深まれば、いとも簡単に 人へのあたたかい心は通過してしまうもの」とのみ 自我の殻あるいは 愛の世界を、なるほど限定しないでもいいわけですね。 そのへん、私も考えていないわけではなかったのですが、 大切なところを 別な豊かな表現で指摘してくださり ありがとうございます。 たいへん 参考になりかつ 明るい豊かな気持になれるご回答だと思います。 ありがとうございました。

iwamahico7
質問者

補足

》人は自分と他人の扱いがえらく違うものです。それは(身体観念からくるのでしょうが)空間領域的な違いと,(放映番組で喩えた)意思内容の違いに,認知上のバイアスがかかっているからなのでは?という疑念になるのですが・・・《 のところの 特に( )内の  》(身体観念からくるのでしょうが)《 のところなのですが、 たしかに  》自分と他人の扱いがえらく違うもの《 となる原因の 最初の基点としても、直接の原因としても   私たちが生物でもあるという身体をもつ特性からも、 その事実への人間特有の観念からも  その限界性は、 大きな その利己性の引き金となりますよね。 生物としての苦しみの深さは 脳を持つが故の相乗効果をも生み出して人間を苦しめている、 おそらくもっともせつせつとした問題だと思います。 恐怖や不安 その経済面とかも ここにおいて無視できるような簡単なものではなくなります。 誰もが とくに極限状態には こうして道徳もなにも無くなり 自分を守るだけとなってしまうわけですが、 またそのような神経にやがてなっていってしまうものだと思いますが、 その生物としての弱さを それなりに 平和時に克服してゆく道も これまた 身体観念の内にあるかと思います。 (実は 「身体観念」という用語は始めて聞くのですので 解釈にズレがあるかもしれませんが、 身体から来る弱さとかだけでなく 人間の脳の作り出すさらなるその辺の弱さというのも 思い浮かび そのへんのところを「身体観念」と書いてくださったのではと 簡単に解釈しております) というのは、 その次のくだり 》他者を広義にとらえて対自然とし,一切の現象を表現の形式でとらえ,その表現内容においてはさまざまですが,無制約な自己を制約のある姿に限定して表出する,同じ類のもの,すなわち我=自然,自然一体であると《 のあたりも 自称舞踊家として心にひっかかっての質問なのですが、 ともかく この身体自体の中の感覚が 深まることで、 たとえ話で話すと、 道端の小さな花に、体中で感動できるよな「幸せ」感が 生まれたとすれば、  大邸宅の庭への夢はいらなくなります。 経済的に 人と闘う必要は その分消えてゆきます。 動中静の 安定した精神とかも、 実際に 私たちの行動に《ゆとり》をうみだします。 》我=自然《 というところを 実際の自然への感動の中で解釈できるとすれば それは 私の脳内では、 それこそ 「現代社会に必要な藝術」というふうに考えることとなります。 一切の現象を表現の形式でとらえ、 という事は、 その「現代に必要とされる藝術表現」というふうに解釈してもいいのでしょうか? そうすると、 舞踊家としての私にも その次の 》制約のある姿に限定して表出する《 というあたりが、 技術と藝術の心の世界の描写に解釈できて 、とても参考にもなりはげましともなります。 私の場合は、 このへんをも身体観念としてとらえてしまうので、 どこか このへんにまた ズレがあるかもしれないですね。 もし よろしければ この「身体感覚」というところだけ もう少し説明してください。 お忙しいところ さらに、たぶん、少しややこしい齟齬関係とかになっているかと思いますし もしお時間があればでけっこうです。 ただ もしこのあたりもご興味が深ければ 是非また よろしくお願いしたいしだいでもあるのです。 よろしくお願いいたします。

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