哲学とは?センセーショナルなタイトルを生成せよ

このQ&Aのポイント
  • 哲学とは難解な学問なのか?専門書を読まなければ分からないのか?
  • 昔は科学や文学も哲学の一部だったが、今はどうなっているのか?
  • 哲学とは一体何なのか?その定義や本質を知りたい
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哲学とは・・・と聞いても良いでしょうか

「哲学とは」と言う質問は過去にも何度も登場しているのですが、多くはそれの関連書物を読んだほうが良いと言う答えか、「そもそも昔は科学も文学も哲学だった」と言う回答などが見られます。 そこで3点ご質問があります。 ■質問1 哲学の専門書を読まないと分からないほど、哲学とは難解なものなのでしょうか? ■質問2 「そもそも昔は科学も文学も哲学の一部だった」というのが本当なら、今となっては、「科学」「文学」「歴史学」など数多くの学問カテゴリーがありますが、それら全てに該当しない学問が「哲学」と呼ばれるのでしょうか? ■質問3 哲学とは何ですか? どれか、気が向いた質問だけの回答でも構いません。 興味がありましたらお答え願います。

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  • cyototu
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回答No.12

何で哲学とは、なんて質問が出て来るのか。話しは簡単です。この学問の名付け親がとんでもない大失敗をしてしまったからです。だから、「哲学」と言う文字をどう眺めても、それの扱う物が見えて来ない。こんな馬鹿な命名をするとは、余程の馬鹿者だったのでしょうね。その方は、江戸末期の西周(にし・あまね)と美作の出身の津田真道だそうです。彼等が1857年、幕府の調所でヒロソヒの訳語としたのが始めだそうです。 よく考えてみて下さい。生物学と聞いて、これが土木関係の学問であると誤解する人はいませんよね。物理学だって、物が対象なことぐらいは想像が付く。学問の名前と言うのはこうじゃなくてはならないのです。ところが、哲学の哲って字を見て、なるほどと判る人は百人中一人程もいないんじゃないですか。だから、西周も津田真道も学問とはなんだか判っていない馬鹿もんなんですね。 上のヒロソヒのソヒはギリシャ語の智慧、ヒロは愛する、あるいは希う、と言う意味です。だから、もしこの言葉を、愛智学とでも名付けていたら、智慧を愛するとはどう言うことですかなんて質問をする人は、先ずいなかったでしょう。馬鹿だね、西周も津田真道も。 私は物理学で飯を食っているんですが、こんな馬鹿馬鹿しい命名をやる人達が数学者の中もにいるんですよ。ウン十年前にカオスの理論と言うのを勉強し始めて、講演会やゼミに聞きに行ったら、数学屋さんが頻りに、Anosov の Axiom A という言葉を繰り返していました。アノソフさんの公理A、あるいは公準Aと言うことです。 質問者さんは、この言葉を聞いて、ああきっとこの公理はこう言うことを言うのだろうと想像が付きましたか。私には全然想像が付かなかった。例えば、誰々さんの言い出した平行線公理だという言葉を聞いたら、あっ、平行線に関係ある公理か、ってな具合に解るんですが、Aじゃ何のことだか解らない。これは、私も良くはその事情を知らないのですが、アノソフさんが、公理を提示するときにA、B、C、なんて列挙したらしい。その後この公理Aが本質的であると解るようになったので、皆は頻りにAxiom Aと連発するようになったらしいです。でも、もしそんなに重要なことが解ったなら、改めてその内容が解るような命名法を考えれば良さそうな物なんですが、どうも数学屋さんは、「俺はその意味知ってるぞ、お前は解んないだろう」というのが楽しみなんでしょうね。一向に解るように命名し直してはくれませんでした。今でもAxiom Aって言ってんじゃないかな。 まあ、哲学も同じなんじゃないですか。「俺って哲学を知ってるぞ。お前は解んないだろう」というのが楽しみで、哲学者は皆に内容が解られてしまいそうな命名法を避けて来たのだと思います。そう言えば、哲学者って、他にもっと良い命名法が在るだろうと思えるのに、 格率、形而上学、定言命法、実存、所与、措定、定立、、、、 なんてのが在りますね。もっともっと訳の分からない言葉が在りますが、どれもこれもまるで中身の見えないへたくそな訳だとは思いませんか。まるで素人を煙に巻くために付けられたような命名ばかりですね。そして、この言葉の意味を解るようになったり、何かが解った気になれるのが、大多数の哲学者、いや、哲学学者、いや、哲学輸入業者と呼ばれている人達らしいですよ。この人達は、言葉を透明にして、素人達にその中身が簡単に見えてしまっては困ることでもあるのですかね。 でも、最後に数学屋さんの肩を持って置かないと、数学屋さんに嫌われるので、胡麻を擂っておきましょう。数学屋さんも全くセンスがないわけじゃないんで、例えば、微分積分学は誰が見ても、微し分り、分った積りになれる学問だと言うことが判るような、粋な命名法をすることもありますがね。 お後が宜しいようで。

lon32165
質問者

お礼

>愛智学とでも名付けていたら、智慧を愛するとはどう言うことですかなんて質問をする人は、先ずいなかったでしょう。 そもそもの「哲学」と言う、名前の問題と言うのは気付きませんでした。 確かに、名前が分かりにくいから良く分からない学問になっているのは大きいと思いました。 私が抱く哲学に対して「難解」と思う正体が分かった気がします。 有難うございました。

その他の回答 (12)

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.13

具体的なものについて語り合っていても、 抽象の網ですくいあげて了解しなければならない事柄が、たくさんあるものですが、 そんな抽象的な話をしあうときは、お互いにどんな考え方をふまえているか、わかったほうが 話がスムーズにはこびます。 哲学は、抽象的な思考をまとめる土台になっているものだと思います。 活版印刷普及に鉄道網と新聞書籍の普及、宇宙経由の情報網、と これだけ情報が広くすばやく移動するようになると、 広がりやすさ、すばやい伝わりやすさ、に価値の重きが置かれるようになって、 原典でないものが、煎じ直し煎じ直し、薄く軽くなって伝播します。 そうすると、自由化された情報にかぎっては、おおぜいの人々の手に入りますから、 人々は、抽象的な思考をまとめるツールを、薄く浅い範囲で豊富に手に入れている、 という状態なのです。 難解な原典は、その状態で人々のコミュニケーションを謳歌するのに、特に必要ないものでしょう。 しかしいっぽうで、広がりやすさや、すばやい伝わりやすさが、たいして重要な価値ではないとみなされるような状況もあります。 社会を形成する人間の生きる方向性を探るのに、高度に抽象化が必要な議論は避けられないでしょう。 必要とされる考え方の新しいモデルを提示して、政治が動き、法律も変わり、金融も動き、 媒体が生まれ、医学も変わり、科学も動き、建築や芸術も生まれ、倫理学さえ変わる面があります。 その議論の中では、すでに数千年来行われてきた思考実験の、普遍から特殊へみちびかれる際の、 前提や結果で今にそぐわない部分や、今も有効な部分について、緻密に慎重に検討しなければなりません。 意義とむすびつけられた段階の哲学は、専門書を読まなければ始まらないでしょうし、それが難解な場合というのはいくらかはあるでしょう。 ただむしろ、むすびつけられた意義を青焼として描き出すことのほうが、人に伝えるのが困難な作業なのです。 たとえば、アラブ社会の哲学を知るために、コーランだけでは、読みました書いてありましたで終わってしまいますが、 アラブの神秘の精髄がどこから来ているのか探ろうとすると、ギリシャ哲学を繙かなければわからないことや、イスラム哲学者の著したものとそれらを読み比べて分析するなどせざるをえなくなり、 それを他者と話し合おうとすると、アリストテレスのアの字も知らないとか、キリスト教史も知らないといった程度では、 何をいわんとして何処に着地することになるのかが伝えにくく、話が進まなくなります。 こんな回答でご参考になるでしょうか。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 想像できないほど、底が見えない深い学問ですね・・・。 他の学問も底が深いのは同じですが、どこまで深く学んだかは客観的に分かります。 哲学はそれが出来ないのが、なお更深みを増している気がします。

  • miko-desi
  • ベストアンサー率19% (69/352)
回答No.11

哲学は学習というより存在です。 哲学が難解であるなら、存在自体も難解なのでしょう! 哲学する人は「探求者」「根なし草」 何を探しているのかは、探し物を見つけてから 探していたことがわかるものなのかも。 なので、見つかるように探さないでは探しものもわからない? 神がいるものとして、 神でも試行錯誤、下種の勘繰りばかりしてきたのですから。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 それが正しいなら、哲学とは極めて簡単な事ですね。 世の中の大多数の人は、無意識に哲学をしている事になります。 「どうしたら、業績を上げられるか」(経営哲学) 「どうしたら、気になる子を落とせるか」(恋愛哲学) 「どうしたら、自分らしく生きれるか」(人生哲学) 全部、哲学ですね。

回答No.10

僕の思いつく回答は以下のとおりです。 回答1 哲学は本当は簡単なものと思います。しかし哲学者は誤解や曲解を防ぐため難しい言葉を使います。 本を読まなくても哲学はできます。しかし先人の本を読んでアイデアをもらうことで、自分の考えをまとめやすくなり自分の考えを表現しやすくなります。 回答2と回答3 哲学は抽象的なものを具体的に分かりやすく示す行為をさすと思います。 抽象的なことは当然ながらそれに等しいモデルはありませんが、ああでもないこうでもないとモデルを探すことが哲学の醍醐味だと思っています。まるで存在しない宝を探しに世界中をまわり旅をしていることに似ています。宝が重要なのではなく世界中をまわり経験したということが人生を意味のあるものとしていくと思います。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 >宝が重要なのではなく世界中をまわり経験したということが人生を意味のあるものとしていくと思います。 むしろ、その経験が宝でしょうか。

回答No.9

1.哲学の専門書は、過去の哲学を記録した歴史の学です。   批判するために読むのは勝手ですが、それを読んだから   といって哲学をしたとは言えません。   そもそも出来合いの文を読むのが難しいようでは、過去に   解けなかった課題を自らの思索で挑むのは、不可能です。 2.正確には「特定の対象を有するものが分派した後の残り」   なので、「既存の学問カテゴリーに属さない」だけではなく、   「限定的(かつ固定的)な対象をとらない」と言うべきでしょう。   「学問」のカテゴリーは、社会的に生業となるかどうか、と   いうフィルターがかかっています。 3.この世界の情報に、哲学だの物理学、生物学だのといった   区分はない。1つの「認識の深まり」の一環として、哲学を   考える時、そこに真の哲学はある。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 >批判するために読むのは勝手ですが 批判されると言う、先入観をお持ちでしょうか・・・。 誰も、批判しようなどとは思っていませんよ。ご安心ください。

  • kenzoden
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.8

若輩者ですが・・・ まず質問3から答えると 広義的に 哲学=考えて、そこから諸々の法則(事実)を導くこと ではないでしょうか 例えば、 かのデカルトは懐疑論(=あらゆるものに対して疑いをもつ考え)の末、疑いを抱いている自己の存在を疑うことはできないという”我思う故に我あり”の法則を生み出しました。 続いて質問2なのですが、 昔の学問が進んでいない状態では「科学」「文学」「歴史学」などのカテゴリー分け自体が存在せず、 全て先ほど述べた哲学の定義の中に組み込まれていたと思います。 しかし、 "現在でいう哲学"以外の学問は普遍的な事実・法則の積み重ねにより、 内容が高度化し細分化されることで人々が複数の学問をまたがけできなくなって、 一つのカテゴリーとして独立せざるを得ない状況になる一方で "現在でいう哲学"の内容、つまり 善悪とは? 人間とは? 国家はかくあるべきか? といったものは人や宗教や時代によっても考えが異なり、普遍的な事実・法則を導くのが他の学問と比べると圧倒的に難しいためにおおきく発展することがなく、哲学の枠内に留まったのだと考えられます。 余談ですが、昔の学者(ダ・ヴィンチも然り)がだいたい数学、神学、哲学、文学、医学など複数の学問をこなしているのも、内容がまだそれほど高度化しておらず他の学問にも手を出す余裕があったからなのかなぁとおもってます。 最後は質問1ですね これは、結局"現在でいう哲学"が答えが出ず取り残されたものを扱っていることに起因していると思います。そういったものは、人によって答えがばらばらなだけでなく、真っ向から対立しているように見える答えなのに、どちらも筋が通っている なんてこともざらです。 質問2でも少し触れましたがそんな中から普遍的な事実・法則(答え)を導くには、あらゆる方法・視点から物事をとらえなければならないため、専門的で難しくなるのはある程度必然だとおもいます。 以上で終わりですが、個人的に、哲学的な問題に取り組んでみて物事を考える姿勢を日々意識することが"現在でいう哲学"にとっての大きな意義だとおもっています。 もうご存知かと思われますがNHKのハーバード白熱教室はその点で素晴らしいものなので、NHKオンデマンドなどで是非見てほしいです。お節介ながらURLを貼らせていただきました。 長文&駄文を失礼いたしました。

参考URL:
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010600391PA000/
lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 >NHKのハーバード白熱教室はその点で素晴らしいものなので、NHKオンデマンドなどで是非見てほしい >です。お節介ながらURLを貼らせていただきました。 「殺人に正義はあるか?」というタイトルが目に留まりました。凄く観たい; 流石一話目。力の入れ具合を感じます。

回答No.7

No.4です。 お礼有難うございました。 お礼で言及されたことでお答えできるものがあるかと思い、再度回答させていただきます。 哲学もジャンル分けは実はあるんだろうと思います。 例えば、分析哲学、倫理学、美学、法哲学、宗教哲学、教育哲学などがあります。 ただ、飛行力学や物理学などがあまり一般の人になじみがないように、哲学に関心のない人には哲学のジャンルもまたあまり知られていないということではないでしょうか。 それでも、科学は哲学よりまだ分かりやすく感じます。 ただ、それはおそらく義務教育で習うか否かの違いじゃないかと思います。 哲学を中学や高校で必須科目として学ぶようになれば、哲学のわかりにくいという印象は変わってくるんじゃないかと思いますよ。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 >分析哲学、倫理学、美学、法哲学、宗教哲学、教育哲学 おお、こんなに哲学の関連学問があったのですね。言われてみると「そういえばそうだ」と思いました・・・。お恥ずかしい。 なんとなく「つかみ所の無い難解な学問」だったのですが、ジャンル分けされると分かりやすく感じます。不思議な錯覚。

noname#221368
noname#221368
回答No.6

 自分は、純粋な理系です。なので以下は、一般論です。 >質問1 >哲学の専門書を読まないと分からないほど、哲学とは難解なものなのでしょうか?  これは、何をやってようと同じだと思います。何か、現実に応用できるような事をやろうとすれば、専門書を読むしかありません。専門書を読まなくても、現実に応用できるような事は、ほとんど全てなされているからです。哲学の場合、それが自分個人にも関わるので、そういう感覚が沸きずらいのだと思います。  哲学というよりも、専門書が難解です。でも難解な理由は、一般常識に含まれない事が書いてあるという、単純な理由だと思います。ここから専門バカも生まれますし、その道一途の聖人も生まれます。 >質問2 >「そもそも昔は科学も文学も哲学の一部だった」というのが本当なら、今となっては、「科学」「文学」「歴史学」など数多くの学問カテゴリーがありますが、それら全てに該当しない学問が「哲学」と呼ばれるのでしょうか?  これは古代ギリシャ自然哲学の特殊事情だと思います。まぁ~、特殊と言っても、全世界の四大文明はみな、似たような事はやってた訳ですが。そこでの共通態度は、「自然と人間は一体のものである」だと思います。  という事は、自然を知る事は、人間をより良く理解する事につながるわけで、だからこそ古代の哲学者達は、自然哲学を好んだ訳です。自然と人間は別物、もしくは対立するものと捉え出したのは、ヨーロッパにおいても実は、近代以降の比較的新しい考えだと思います。しかしこの考えは、産業革命という実利的効果も手伝っだって、今や全世界を席巻しようとしています。その過程において、「科学」「文学」「歴史学」などは、産業と大学の組織的結びつきによって、自然哲学から学問的に分離され、組織的にも分業体制が出来ます。  自分は近代以降の人間ですから、この組織化/分業化は、基本的/論理的に正しいやり方だったと信じています。弊害は、もちろん沢山ありますが・・・。 >質問3 >哲学とは何ですか?  自分の意見では、「それら全てに該当しない学問が「哲学」と呼ばれるのでしょうか?」では、ありません。一見そう見えますが自分の意見では、「哲学」とは「人間学」です。今まで言った経緯により。物理や数学などの、いわゆる自然科学的要素のいっさいをそぎ落とされた、純粋な人間学、「人はいかに生きるべきか?」を考える学問ではないでしょうか?。自分は、そう信じたいです。  これも思うだけですが、マックス・ウェーバー,キエルケゴール,ニーチェ,ソシュール,シモーヌ・ヴェイユ,ピーター・ラトッールなどの一般啓蒙暑を読むと、そう信じたくなります。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 >「哲学」とは「人間学」です。 これは分かりやすい一言ですね。 「人はいかに生きるべきか?」を考えた学問とも言えると思います。 そのためか、作者の生きた時代背景によって考え方に偏りが見られます。 中には今の時代でも活かせる事を言っている人も少なくありませんが、到底理解できない事を言う人も多い。それを「難解」と思い込んでいましたが、もしかしたらその時代に生きていたら容易に分かる事なのかもしれません。

  • hanniyagi
  • ベストアンサー率15% (14/88)
回答No.5

「在るものをあるがままに見る者は、思惑愛好家ではなく、愛知者、と呼ぶべき者、ではないのかね」 とソクラテスが言った。(とプラトンが書き残しているようですが。) 愛知者、知恵を大切とする者、知恵を求める者。さらには、知恵、とは何かを理解している者、の事であり。「哲学者」と翻訳されたものです。 哲学者とは。 思惑愛好家=自己を中心に、物事を判断したり、評価したりする者。 に対する。自己を度外視して、在るがままに、その在り方、起こり方の法則性を知ろうとする者。の事であり。人の知恵を正しい思い込んでいる、学者先生や知識人、のことでは在りません。 知識と知恵は対立物でもあるのです。 思惑愛好家にとっては、知恵=知識 でもありますが。哲学者(もの)にとっては 知恵×知識=一定 と捉えられる。 脳の能力が一定なら。知識が大きくなると、知恵、自分で考える能力が小さくなる。というような考え方です。古代インドの釈迦や古代中国の老子はそう考えています。 哲学の専門書を読まなければならないほど哲学は難解なものか? その前に、ソクラテスが言う、思惑愛好家、とはどういう人達か。具体的に誰のことか。というのも課題になり得ます。 ソクラテスの言うことなど、聞く耳たず、ギャーギャーとがなりたてる、ニ-チェが「一人の聖者が一羽のガチョウと結婚したと・・」と表現する。ソクラテスの妻、として有名な、彼の古女房、また女性?のことか。 それとも、彼を告発し有罪にした、多数派の大衆か。 それとも、在ると言えないものを、存在する、と信じている。ユダヤ人、ユダヤ思想の事か。 となります。西洋において、キリスト教の登場は、ギリシャ哲学に追いやられていた、ユダヤ思想の復活 、であり、ギリシャ哲学の復興の意味がある。ドイツ哲学は、反ユダヤ思想となり。 反ユダヤ思想の意味をはき違えている。では澄まない、アウシュビッッの悲惨。の伏線の一つではあるでしょう。 そして、哲学は、マルクス主義と共に、マルクス主義が哲学そのものを道連れに滅んだ。現代は哲学のない時代(ユダヤ思想万能の時代)になっている。というのは。私見です。 思惑とは、自己の心を主体に、思いや考えを巡らす事、いわゆる、人の心、と言えるものであり。 知恵は、その逆のもの、 知恵=心であるとともに、知恵×心=一定 の意味があり。 心を小さくする、心を滅するなら知恵が起こる。心=欲望 を小さくするなら、知恵が大きくなる。 と捉えるのが。哲学者である。とする事も出来。それが釈迦や老子の基本的認識でもあります。 古代ギリシャ市民の知能は、異常に突出している。イギリスの心理学者(誰だったか忘れましたが) 古代アテネ市民と現代イギリス市民との知能の差は。現代イギリス市民と熱帯で原始生活をしている人々との差より大きい。書いていたようです。 そんな?西洋思想、西洋哲学の専門書を読んで、哲学が解りますかね?私は失望しましたけど? 近代になってなお、「愛とは」「(神の)実体とは」などとやっているのです。 知恵とは=哲学とは であり。 一つの答えは、知恵=考え方 理法 方法論を体得する事。となるものです。 それは、自分で考え、会得するか。それを教えている、哲学者を見抜けるか。ではないでしょうか。 こんな事を考えたことはありませんか。 算数で、縦の長さm×横の長さm=面積m^2 と教わった時。 長さと面積の関係、面積、m^2、とは何か、 長さ、ではない、長さとは別のものである。しかし、長さが含まれないわけではない。 というような事です。 縦の長さを、始めにある在るもの。定立と置き 横の長さを方向が違うもの逆の長さ 反定立と置き 両者が一体となると面積になる 統一 面積とは、長さが、否定され、保持されているが、別のもの、に成っており。より高次の単位になっている。これが止揚と翻訳されている言葉の意味であり。算数の在り方は 定立×反定立=統一×止揚 となります。 これが、西洋哲学に始めて登場した、考え方、とも言われる。へーゲルの弁証法。と言われる考え方です。算数だけでなく、変化の起こり方、法則性と見た訳です。 へーゲル以後。ドイツ人は頭がいい。と言われるようになり。それは、当たっていた。神だの、愛だのと言っている。欧米諸国の人々より、一段国民の平均知能は、高まっていた。のです。 そして、へーゲル左派、右派、と言われる。マルクス主義とナチズムが。ドイツ哲学を台無しにした。と言えるのでしょう。長くなり、ページがなくなりました。ので切ります。がへーゲルの弁証法は、とっくの昔に老子が言っており。マルクス弁証法、対立物の相互浸透、質から量、量から質への転換、否定の否定、 という、のは、囲碁の考え方です。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 >知識が大きくなると、知恵、自分で考える能力が小さくなる。というような考え方です。 それは分かる気がします。 ただ、知識は道具と同じで、道具に振り回されなければ問題ありません。 しかし、道具を沢山持っている人ほど、器用貧乏になりやすいのは確かです。 一番疑問なのは「そう言う事を言っている人に限って、知識に貪欲だ」と思います。 釈迦や老子が本当に無知識な人間だったのか、甚だ疑問です。 知識が多いからこそ、知る事の出来た領域だったのか。それなら、それはただの御謙遜と言うものではないでしょうか。 >古代アテネ市民と現代イギリス市民との知能の差は。現代イギリス市民と熱帯で原始生活をしている >人々との差より大きい。書いていたようです。 >そんな?西洋思想、西洋哲学の専門書を読んで、哲学が解りますかね?私は失望しましたけど? そうですね・・・。 そこまでのレベルまで言ってしまうと、「一生かけてやるもの」になります。

回答No.4

質問1 哲学の何を知りたいかによるんじゃないでしょうか。 数学だって足し算を知りたいなら、そう難しくはないと思います。でも、微分積分や虚数を理解しようと思ったら難解になりますよね。 哲学も哲学とは何かという意味だけを知りたいのであれば、辞書を引けば事足ります。でも、ニーチェの哲学やベンヤミンの哲学を理解しようと思うと、専門書を読まないとわからない、ということになるでしょう。ただ、それはある意味、当然のことかもしれません。ニーチェにしてもベンヤミンにしても、その哲学は専門書にしか書いてないわけですからね。文学作品について知りたいのに、作品を読まずに知ることが難しいのと一緒ですよね。 質問2 その通りだと思います。 哲学から始まった学問というものが、それぞれの分野の専門性を高めていくうちに独立して、別の名前がつくようになると、哲学とは別のものと捉えられるようになります。 それらに該当しない学問が依然、哲学という名前で呼ばれるわけですね。 いわば、科学や文学はその研究対象の具体性によって、独立しているわけです。そうした具体性を持たない形而上の事物を対象とするものが今でも哲学のテーマとして残っているように思います。 質問3 哲学には二つの意味があります。 一つは学問としての哲学。こちらは、あらゆる事象の原理原則や根本原理を追求する学問です。大学で教えている科目となります。 もうひとつの意味は、いわゆる人生哲学と呼ばれるものです。経験則に基づく世界観や人生観です。 この二つは辞書に書かれた内容となります。 哲学とは何か、という問いには人それぞれの解釈が可能でしょうが、意味だけであれば辞書にある二つの意味を抑えておけば、とりあえず事足りるんじゃないでしょうかね。 昔は科学も文学も哲学の一部だった、というのは歴史だし、専門書を読むべきというのは方法論です。本気で哲学を知りたいなら、それらも抑える必要があるということでしょう。 でも、意味だけを知りたいのなら、それらは必ずしも必須ではない。辞書を引けば意味は載っています。 辞書も間違いがあるというのなら、複数の辞書を確認することです。 上に書いた意味は複数の辞書で確認できます。 結局は、質問者さんが哲学の何を知りたいか、でしょう。 そこを自ら明らかにすることで、もっとも納得のいく答えを得られるだろうと思います。 哲学の全容を余すところなく知りたいのなら、専門書を読まなきゃならないし、歴史も知っておいた方がいい。 でも、ただ意味を問うだけなら、辞書を引くのが手っ取り早いです。 哲学だからって、あまり難しく考える必要ないですよ。難しいに違いないという固定観念を排除し、真理に近づこうというのも哲学的なアプローチであるだろうと思いますしね。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 >哲学の何を知りたいかによるんじゃないでしょうか。 哲学にも種類があるのですね。 難解なのはそのジャンルはあるが、ジャンル分けされていない事でしょうか。 科学の中でも、飛行力学や物理学、またその中にも事細かに明確に学問のジャンル訳がされています。 文学と言う曖昧なものでも、恋愛もの、ノンフィクションやサスペンスなど多くのジャンルがあります。 しかし、哲学は種類は沢山あるが、明確なジャンル分けがされていません。 分かりにくいのはそのためかもしれません。

  • QES
  • ベストアンサー率29% (758/2561)
回答No.3

哲学とは特定の学問でなく、もともとはすべてのことについて系統的・体系的考える学問でした。 それが科学の進歩により数学、物理学、天文学、心理学、社会学、経済学等々様々な分野の学問が確立されていき、哲学の守備範囲が狭くなっていったものです。 もっともそうした学問がいくら発達してもいまだに明確に解明されていない分野も多くそれに哲学の分野ともいえます。 例 愛とは? 勇気とは? 悲しみとは? 恐怖とは? 誇りとは? また最近なら、企業の社会的責任とは?というのがありますが、こうしたものを全く考えずに経済学の論理だけで企業を運営していると消費者に大きなしっぺ返しを受けることがあります。

lon32165
質問者

お礼

回答有難うございます。 >それが科学の進歩により数学、物理学、天文学、心理学、社会学、経済学等々様々な分野の学問が確立されていき、哲学の守備範囲が狭くなっていったものです。 なるほど、「元々は科学も文学も哲学の一部だった」と言う意味が分かりました。 多くの学問は、哲学的な側面を持っているのですね。

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    哲学というとなにやら難しいイメージがあります。 そもそも哲学というのはどういう学問で、その目的とは何でしょうか? 人は何のために生きるのかとか、どう生きるべきかなどと探るのが哲学でしょうか? それとも自分が存在する理由を見つけ出すのが目的なのでしょうか? 何かの真実を見つけ出すものでしょうか? 宗教との決定的な違いは何でしょうか? 哲学は、科学的なものですか? 物理学などの思考実験との違いは何でしょうか? 哲学者は、統合された哲学ともいうべき「究極の哲学」を目指しているのでしょうか? それとも宗教の宗派の違いのように、全く別々の流派に分かれているのでしょうか? また宗教って楽しい学問ですか? 初心者にもわかりやすい入門書などあれば教えてください。 ちなみに哲学というと西洋のイメージが強いですが、日本の歴史のなかで哲学と呼ばれるものをはじめた人はだれでしょうか? いろいろ質問してすみません。哲学について何でもいいですから教えてください。 よろしくお願いします。

  • 「哲学」は「宗教学」に近いのですか?

    当カテゴリで、いまだ未締め切りの質問を抱えている者です。 「哲学」がなんたる学問かについては良く知らず、 自分の質問内容が投稿先の候補としていた「心理学」や「国語」には多分当たらないであろうとの 消去法で「哲学」カテゴリに投稿した次第です。 私が投稿した質問はごく日常的な疑問です。。 何人かの方がすぐに回答下さり、とてもありがたく思いました。 しかし、ふと「哲学」カテゴリの質問リスト(回答数も載ってる)をみてみると、 タイトルに宗教的なものが多いように感じたのです。 聖書がどうしたこうした、仏がどうしたこうした、神がどうしたこうした… しかも、宗教的な質問ほど多くの回答が集まっているように見える。 これは私が考えていた「哲学」とは異なる傾向です。 「哲学」は宗教などから離れて、あるいは少なくとも宗教の教え等は第三者的な視点から捉えて、 人間の真理を追究する学問と思っていたからです。 ざっとみた感じなので申し訳ないのですが、 どうにも「哲学」カテゴリが「宗教」に巻き込まれているように思えてならないのです。 たとえば、本カテゴリで興味深い質問をみつけ、少し見てみたのですが、 回答された内容に、「輪廻転生」を前提としたものが複数見られました。 私は「輪廻転生」自体は否定しません。 しかし、「哲学」カテゴリで、 「人間は生き返るのだから大丈夫だよ」などとする意見はどうしても受け入れ難い。 これってまさに宗教的じゃない?気持ちわるーい!と思うのです。 私の「哲学」に対する認識は間違っているのでしょうか?

  • 哲学とはどういう学問で人にとってどのように役立つものですか。

    哲学とはどういう学問で人にとってどのように役立つものですか。 ウィキペディアなども読んでみましたがいまひとつよくわかりません。 ここの質問や回答をいくつか読んでみましたが どうでもいいようなことをああでもない、こうでもないとやりあっているようなもの 抽象的であったり難解な文章が並び、これで本当にコミュニケーションがとれているのか と驚くようなものがありました。 それで哲学とはどういうものなのか さっぱりわからなくなってしまいました。

  • 哲学と科学の違いは何でしょうか

     日本語を勉強中の中国人です。哲学と科学の違いは何でしょうか。個人的には、前者は人それぞれの考え方についての学問で、後者は客観的な事実に基づいて出した結論の学問だと思います。皆様はどう思われますか。  もし教えてGOOである質問があるとします。どんな時に、この質問を哲学のカテゴリに投稿するでしょうか。どんな時に、、この質問を科学のカテゴリに投稿するのでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 哲学は進歩していないのですか?

    このコーナーを読んでいて思ったのですが、かなり古代の哲学者の名前が頻繁にでてきます。ソクラテスだとかプラトンだとか。 自然科学の研究だとそれはありえない。確かに、古い時代の人の名前が出てくることもありますが、それはまれで、その古代の人が書いた書物を研究のために真剣に読むことはないでしょう。いつでも、その時最新の研究論文を研究者は読みます。そして論文ではやはり1~2年遅れてしまうために、学会発表に参加して論文になる前の情報を必死でつかもうとします。最新の情報がいつでも重要です。 そうして考えると哲学という学問にはあまり進歩がないのでしょうか?人間というものがそんなに変わるものじゃないからだという答えはありえるかと思います。確かに、文学だったらそれは納得です。むしろ古典のほうが人間の忘却というフィルターを乗り越えて存在しているため価値があるといいます。文学作品はまず、その著者が死んで評価が固まらないと駄目だという人さえいます。 はたして、哲学は文学のような存在だと考えればいいのでしょうか?そして忘却のフィルターを通過した学者が偉大ということになるのでしょうか?