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江戸時代の夜の街の照明事情について

百 楽天(@100rakuten)の回答

回答No.4

 夜間照明をいうのなら、暦と時刻についておさえておく必要があるでしょう。  よく、明六つは午前6時で暮六つは午後6時。で、一刻は2時間などと説明されています。  また、明六つは日の出の時間で暮六つは日の入りの時間などという人がいます。  これじゃ、ダメです。  明六つは、夜明けの時刻です。日の出の少し前、空が白々とした時。時間ではなく、時刻です。  暮六つは、日暮れ時。日没後、宵闇になるとき。  なので、明六つ前および暮六つ後は闇だったということです。  おわかりと思いますが、明六つ・暮六つは、季節によって、また土地によって変わってきます。  江戸時代、日常生活は、明六つと暮六つを基準にした昼夜それぞれの時間帯を6等分し、1日を12の時に分けた「不定時法」によりました。  真夜中、暁九つから始まって、暁八つ・暁七つ・明六つ(ここまで夜の時間帯の後半)。  明六つ・朝五つ・昼四つ・昼九つ・昼八つ・夕七つ・暮六つ(ここまで昼の時間帯)。  暮六つ・夜五つ・夜四つ・暁九つ(ここまでが夜の時間帯の前半)。  暁九つ・暁八つ・暁七つ・明六つ・朝五つ・昼四つ・昼九つ・昼八つ・夕七つ・暮六つ・夜五つ・夜四つ・暁九つは、十二支の子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の正刻になります。  なので、「正午」は、正午刻(しょううまのとき)となり、「午前」「午後」があるのです。  一刻(いっとき)の中心が正刻。つまり、十二支であらわす刻は正刻を中心にした時間帯なのです。  元禄十五年十二月十五日は、グレゴリオ暦では 1703年1月31日。江戸における丑刻は、01:47~03:57です。  怪談などでいう「草木も眠る丑三つ時」は、丑刻の時間帯を四等分した3つ目ということです。  討入が終わって吉良屋敷の裏門を出た一行は、それぞれ手に持った灯を消して回向院まで行った。  月が落ちて真っ暗闇のなかを行進しましたが、おそらく数名ずつのグループの先頭を歩いた人は、提灯を持っていたことでしょう。  回向院で休憩しようとしたけれど、明六つの開門時刻前ということもあって門内には入れてもらえず、両国橋の袂で休憩していました。  まもなく夜が明けて空が白々となった。明六つです。  元禄十五年十二月十五日(1703年1月31日)の江戸の地の明六つ時を計算すれば、06:07(日の出は06:42)です。  暦は、遣唐使によって伝えられ、800年使い続けられた宣明暦(せんみょうれき)に誤差が生じてきたため、貞享二年一月元旦(1685年2月4日)から国産初の貞享暦に改暦されました。  貞享五年九月三十日(1788年10月23日)に 元禄に改元されたので、国産の暦を使い出して3年半後に元禄となったのです。  このあと改暦はいくつかあって江戸時代最後の天保暦の計算では、ケプラーの楕円軌道の法則まで使っていました。  旧暦と総称しているものは、すべて太陰太陽暦です。新月の日から始まって、次の月はまた新月の日から。だから十五日(性格には時間的に多少前後する)は、ほぼ満月。  空の月を眺めればおよその日がわかって便利ですが、地球から見た月の運行はひと月が30日弱。そこで、大の月を30日まで、小の月を29日までとしましたが、季節に相関する太陽暦からすれば、1年の日数は少し少ない。  そこで2~3年に1度、「閏月」を入れていたのです。  それでも農作業などに対応しきれないので、太陽の運行から二十四節気を決めていあたのです。  元禄の頃には、時刻管理に日本独特の不定時法の時刻に対応する時計が使われていました。  大名時計と称されているものは、昼の時間帯用と夜の時間帯用の2本のテンプがあって、明六つ時と暮六つ時に自動的に切り替わるという優れもの。  2本のテンプには櫛状の刻みがあって、この刻みにかける錘の位置で周期調整する仕組みでした。季節によって異なる昼夜の時間帯に対応するために、二十四節気毎(半月毎)にテンプの錘の位置を変えていました。

kumakin57
質問者

お礼

江戸時代の詳細な時刻の表し方を教えていただきありがとうございます。  現代人は「時間」というものは普遍で常に同じ物という考え方を持った人がほとんどですが、人間の生活を中心とした「不定時法」は今からみると非合理的なようですが、案外理にかなったものかもしれませんね。

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