戦国時代に騎馬隊の役割と六角氏の軍役と城割、浅井長政の関連性についての質問

このQ&Aのポイント
  • 戦国時代の騎馬隊の主な任務は輸送であり、戦闘にはあまり参加していなかったが、機動力や打撃効果も求められていた
  • 六角氏の軍役は具体的な情報は不明であるが、100貫所有する者には一定数の兵を率いさせた可能性がある。城割は六角氏が城を所有している者に対して課税する制度である
  • 浅井長政は肥田城攻めの段階で既に六角氏から独立しており、肥田城攻めにも関わっている。また、野良田で初めて六角との戦に関わった可能性もある
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戦国時代に関する質問です

質問が複数あるので、題名を曖昧にしてしまったことをまず最初にお詫びいたします。 (1)戦国時代の騎馬隊について質問です。 本格的な文献を読んだ訳ではないですが、ある本で戦国時代の騎馬隊は輸送が主な任務であり、ドラマのように騎乗したまま戦ってはいなかったと知りました。 そこで思ったのですが、騎馬隊の主な任務が輸送であっても、少しは騎馬隊として戦いに参加していたと思います。騎馬隊が戦いに参加する際、どのようなことを求められていたのでしょうか?やはり機動力でしょうか?それとも、騎馬で人を跳ね飛ばす等の打撃効果でしょうか? (2)六角氏の軍役と城割について質問です。 六角氏の軍役を具体的に知ることは不可能でしょうか?特に100貫所有する者に対して、何人の兵を率いることを要求していたかなどが知りたいです。 また、城割という意味が良く分かりません。六角氏が城割をしていたと聞きますので、六角氏を例に説明していただけると助かります (3)肥田城攻めと野良田合戦における浅井長政の関連性について 浅井長政は周知の通り、六角氏から後に独立します。そして、それに怒った六角氏が浅井氏と交戦するわけですが…この二つともの合戦に浅井長政は関連しているのでしょうか? 質問を分かりやすく言いますと 肥田城攻めの段階で既に浅井長政は六角氏から独立しており、肥田城攻めにも関わっている。 または、肥田城攻めの段階では浅井長政は独立しておらず、野良田で初めて六角との戦に関わったのかという質問です。 どうか、回答のほどよろしくお願いいたします

noname#223577
noname#223577
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  • kimari14
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回答No.2

騎馬兵の存在は(組織的運用)存在しなかったというのが、最近の考え方でしょう。 この時代の馬そのものが、モンゴルの草原を駆けるような体躯的になってないのですよ。 山岳に適するように後ろ足が発達しておりまして、ハイスピードで走ることはできない。 信長が桶狭間の時、清洲から熱田まで2時間かかっていますよね。時速で8kmぐらい(笑)。 短時間なら35Kmぐらい出せるようです。それ以上走るとたぶん死ぬでしょう。 その、信長公記のある合戦の記述の中に、戦闘中は馬を後ろに下げて、徒歩で戦っているさまがあります。 つまり、とても高価だったということです。 それと、その時代の道ですか、馬2頭が並んで通れる道がそもそもありません。 騎馬隊(隊という言葉もありません)が通れる道が日本の国にはなかったわけです。 武田家の軍役では50貫で騎馬1 徒歩兵8人 ですから元から騎馬隊は存在できません。 北条家の軍役も50貫で騎馬1 旗持1 鉄砲1 槍2というところです。 浅井については、新しい文献が出てからでしよう。

noname#223577
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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%99 足軽隊の戦闘で手薄になった箇所への突撃・突破とそれに対する逆襲 ※ 古代ローマ時代の騎馬兵の機動力ではない 上記の例は、江戸時代になり整備された段階でのものだが、戦国時代は江戸時代以上に大名戦力は国人連合の色合いあが強く、各国人が連れてきた兵力を大名が集約運用することはなかった。 2 http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/04718b287cd6a8f2116a2e0103d0620a http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E8%89%AF%E7%94%B0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

noname#223577
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