• 締切済み

自殺をどう思いますか

皆さんは自殺をどう考えますか。 否定的な見解を考えてみるに、まず反省の機会がない人殺しだと云えます。 とはいえ、人殺しにも区別があり、実際に裁判では老々介護による委託殺人のようなものは実刑ではないですし、自殺は少なくとも無差別殺人ではなく、さらには突発的な怒りからの殺人とも違います。 一概に自殺と云っても、年齢や思考過程による違いはあると感じますか? 例えば、太宰が(本当に死ぬ気があったのかは知らないですが)未遂ではなく死ぬのに成功していたら、彼の実際の最期とは彼自身も彼の周りも全く違っていました。 また、その太宰の自殺と、不謹慎ではありますがいじめによる学生の自殺を比較しても、その性質は異なると思います。 芥川の自殺と、悪行がバレて会社が倒産してしまいメディアにも追いかけられる予定だった企業の社長が自殺したと仮定して、それらを比較しても、その性質は異なる気がします。 同じく企業の倒産が大きな要因か最後のきっかけになったと考えられる自殺でも、地道にやってきたけれど為替の影響で倒産し保険金を得る為に自殺した方とでは同じでないような気もします、が、わかりません。 ちなみに私はそういった状況にある身ではありません。 個人的な印象の話で哲学とは反しますが、例えば三島由紀夫は自身は自害しましたが、その直前に彼は自衛官を斬りつける計画的なテロ行為にさえ及んでいます。 テロなので政治色が強く参考にはならないかもわかりませんが、率直に申しまして、三島の文章は美しいですし、喋っている映像を見ても内容もですが眼差しが人間として素敵で、彼を浅はかな人間だとは全く思えず、むしろ逆の印象です。 (私は特別に三島由紀夫が好きなわけでも、三島由紀夫や自殺に憧れたこともありません) 様々なご意見を頂戴願います。 「本人が死にたいのなら死ねばいい」というような回答でも何でも結構ですが、本気で思っておられる回答のみでお願いします。 心理学でも別の質問を致します。

みんなの回答

回答No.35

No.25です。 たくさんレスがついていますし、携帯からではさぞかし大変なことでしょう。 私へのお気遣いはご無用です、以下読み流していただければ嬉しく思います。 >「ただただ生き難かったので、だから【死ぬることと見つけたり】」 >私は【死ぬること見つけたり】を初めて聞きましたがあれは、生きるということは、という意味だと思いますよ。 これは三島本人が自刃の数年前に『葉隠入門』を記しているとお伝えしたかったまでなのです。 >この辺りやはり自殺を望み考えたことがないのでは、と思いましたので先のお礼を致しました。 いいえ、子どもの頃なら、私もぼんやり考えたことはあります。 両親が離婚することになりましてね、 私の親権争いで酷く過干渉扱いをされてしまって、かなり参って辛い時期がありました。 今思えば、子ども頃に考えた事って随分とおかしなもので、 「私が悪い子だから仲たがいするのだ」と不必要に自分を責めてしまい、 「私がいなくなったら、皆悲しんで一緒に暮らしてくれるだろうか」などと 酷くナンセンスなことを考えていた時期がありました。 当時越境通学していたので「線路に落ちたら痛いのかなあ。天国に行けなかったらどうしよう。」と電車の乗降時に思ったりしたこともぼんやりと憶えています。 でも、ある日帰宅したら、いきなり母の寝室から荷物が消えていましてね。 あの空虚な空間と喪失感といったら…表現しようもありません。 いつものように過ごす毎日、いつもいて微笑んでくれるはずの人がいない寂しさといったら…そりゃあもう切なかったです。 母のことが大好きでしたから。 たかが親の離婚でさえも当時は酷く後をひきずったので、ましてや「本当に急にいなくなってしまう」のだとしたら…どんなにか嘆き悲しみ耐え難いことかと私なりに考えた末に、前回前々回のような回答となった次第です。 口にするつもりもなかった他愛ない話で恐縮です。 最後までお読み下さりありがとうございました。

回答No.34

 #34のお礼欄で、  【皆さん、死にたくならないのだなぁ、ということと、自殺については考える機会も少なかったのだなぁと気付きました。】  機会が多い少ないは相対的ですし、それにどう対処対応するかも個人性がありますね。  私よりご年配の方がここにご訪問になると、片腹痛いでしょうが、私も46年も一つの大学の事務やさんをやり、その前後にもたくさんの方との関わりでの仕事がありました。  そういう中では、どうしても死ななければいけないことは多々ありました。責任問題です。  それと、個人としての後悔です。  小学校のときも自殺を思った事はあります。いまは自死とかいうらしいですね。自死って自決と違うのだから、ちょいといいことばでもないですね。  つまり、死にたくないことはその通りです。でも死ななければいけないという事態と局面の人生場面に立ったことは数度、あります。  【自殺について考える】というより、自殺を思った事はあるという事です。  仕事上や個人としての責任から。  それを踏み越えるということを出来なかった、しなかった。勝手に生まれ、勝手に育ち、存在させられてきたのでない重さから、恥ずかしくも生きながらえた。  to be or not to be.なんて格好良くはなく、背中を押される生活者の物怖じからその一歩が出なかった。  個人としての生活境遇が許容してくれないでしょうし、自分ものんべんだらりと生きてきてしまった。  誰も私の責任や後悔を気付きもしないし、責めもしていないが自分をそれでいいとは今も思っていません。  生活者という地べたを歩く存在は胡鳥や胡蝶のように美しくも格好良くもない。  樹木や草花のように、雲や降雪のように風情もない。  自殺を選ぶ事は何か解決や有終のなにかがあるのだなぁと、異界の出来事のように感想します。  質問者は沖縄での女性たちの集団自決をどうおもいますか?  特攻の露になっていった、若人をどう思いますか?  思索や話し合いのことではなく事実ですよね。  私のいた大学に特攻の司令であった人が居ました。学生。  命令を出して、希薄な空気にできていない戦闘機にで突っ込んでいく若人をその数十メートル上から監視し、見届け、帰搭して報告と記録をする役です。  肌があわ立つのですよ。  あの学校には盧溝橋のときの一線大尉も学生で来ていました。若い私も職員さんということで礼儀をもって対してくれましたが、怒られたこともあります。  夜は新宿のやくざとして、昼間を社会事業の学生となっていた特攻帰りもいました。  みな生きながらえて、来たことにはいろんな側面で辛いことがたくさんありました。  無論、可愛いおねぇさんたちもたくさんおられました。  ぁあ哲学をまなんだかどうか?学びません。だって人間のことですからそんなことはどうでもいいでしょう?  高校を転校したとき、同じように転校してきた年長さんと一緒に為りました。  民衆の哲学をやるんだといっていました。  哲学専攻にいき、知的哲学の無意味さで市井の生活者として今も遍歴しています。貫いています。  哲学の専攻かどうかの論議はあまり意味がないかもしれませんね。  わたしは労組の書記長として必要から法律を勉強しました。必要以上に。雰囲気は違いますが、手法的には西洋の哲学には類似のところもないわけではありません。論理性とか何とかというところでは。

  • covanonki
  • ベストアンサー率48% (219/448)
回答No.33

No.3&No.27です。 >自分で考える人間にとっては、哲学的に考えるなら、当時も今も関係ありません。 あなたは、No.23への回答で、「私は哲学を学んだことはありません」と記されていますね。では、 哲学を学んだこともないあなたが、なぜ哲学的にとらえて、そのように断定的に表現できるのでしょう。 また、 >それも、生きるか死ぬかの局面で時代の風潮により意思が左右されるようでは参考にならないですし、回 >答者さんのような感傷とはまた別に考えるべき問題と思います。 とも記されています。この文章から読み取ると、あなたは「死」の瞬間における「自殺」という問題をて テーマにしているかのように感じ取れます。ですが、あなたは明らかのご質問文中で「自殺」という問題 が抱える、「過程」をもテーマにされていますよね。 であれば、「年齢」や「思考過程」と同様に、時代背景やその世相が抱く「自殺」という死に対する価値観 は明らかに異なるのです。時代背景や環境が、その人個人の「思考過程」に対して与える影響は、あなたが 表現されるほど軽んじて良いような問題ではないはずです。 また、あなたは私が行った表現を、「感傷」であると表現していますね。ですが、これは回答文中にも表 現しているように、「心情的」な問題と同様にあなたの行っている表現が事実とは異なっていることを表 現したつもりです。 感傷的であるかどうかは問題ではなく、自死を考える人間の大部分が、死に至るまでに計り知れないほ どの「反省」や「後悔」を、あるいは相手への怒りであったり、自分自身への自責の念、「孤独感」や 「疎外感」など、とてつもなく複雑で、とてつもなくネガティブな感情を抱くという事実を問題にして いるのです。もし、あなたがその感情を理解しているのであれば、間違っても「反省の機会がない人殺 しだ」などという表現は用いることはできないはずです。 また、感傷とは別問題だと表現しておきながら、なぜあなたは >知人が近ごろ、結婚式直前で破棄されましたが、私は何にも驚きませんでした。 と、あなたの中の感傷の問題を事例として提示されているのでしょう。何より、それは普遍的な問題では なく、あなた個人の問題です。 派生しますが、「結婚式直前で破棄をされた」ことを、人が自ら死を選ぶ、というテーマと比較すること は、余りにもナンセンスだと思います。もちろん、これもその事例を体験した人によって相対的に変化す る問題でもありますが、あなたの知人が「結婚式直前で破棄された」という問題は、その事例が発生した 時点で、すでに「自己開示」できている問題ですし、哲学的な表現をするのなら、「形而下」の問題です。 死に至るほどの苦しみは、「形而上」の問題であり、自己開示することは非常に難しい問題です。 もし結婚式の問題で自殺問題と比較されるのであれば、「結婚式直前で破棄された」という事柄ではな く、その結果発生したご友人の気持ちをテーマにすべきです。 また、 >彼らの苦悩は偉大な精神の持ち主の証です。 >彼らはそんな同情は必要としないでしょうし、逆に鋭利な言葉を返されますよ。 >だいたい、苦しいことが“障害”なら偉大な芸術家はほとんど障害です と表現されていますね。私は、芥川氏や太宰氏だけでなく、死を選ぶ人たちの苦悩は、みな区別すること なく、同様にとらえます。歴史上の人物であるから、取り分けて偉大であったりすることはないはずで す。そもそも、彼らと対話したこともない、文章化された資料でしか彼らのことを知らないあなたが、 なぜ彼らの感情をそこまで断定的に表現できるのでしょう。 また、「発達障害」は、思春期に起こる発達の遅れを表現する言葉であり、いわゆる「障害者」と同意義 の「障害」をあらわす言葉ではありません。もっとも、成人した後もこの発達の遅れに苦しむ人もいます が。 「アスペルガー症候群」や「サヴァン症候群」で調べてみてください。 >精神科医とは >他人の精神を癒せると思っている精神の狂った人間 とも記されていますね。なぜあなたにそのようなことが断定できるのでしょう。 あなたはすべての精神科医と対話したことがあるのでしょうか。確かに、精神科医の中には、患者の心 ではなく、医学的な症状にとらわれ、誤った薬の処方の仕方を行ったりして、患者さんをより不安定な 状態へ導いてしまう医師が大半です。 ですが、真剣に患者の症状に向き合い、また、実際に患者から自殺者を出してしまったことに一生苦悩し 続ける医師もいます。それでも患者に向き合おうとする彼らに対しても、あなたはそのような表現が 出来るのですか?

crmant
質問者

お礼

>なぜ哲学的にとらえて、そのように断定的に表現できるのでしょう。 哲学を学んでいないからです。 結婚式の件は、貴方が考えていないということを書こうとした時にそのことを思い出して笑ってしまったので書いてしまいました。 >この文章から読み取ると、あなたは「死」の瞬間における「自殺」という問題をてテーマにしているかのように感じ取れます。 死にたい人間はほぼ毎日が生きるか死ぬか、です。 貴方が自殺を考えても無駄なことと、貴方が死にたくないのがよくわかります。 >時代背景や環境が、その人個人の「思考過程」に対して与える影響 私もそれは軽んじてはいません。 >私は、芥川氏や太宰氏だけでなく、死を選ぶ人たちの苦悩は、みな区別することなく、同様にとらえます。 ただ、貴方は時代に影響され過ぎです。 みんな一緒、というやつですか。 時代に影響されているというより、ただの“軽薄”ですね。 普通に考えてあり得ないですからね。 無差別殺人犯が捕まった後に自殺したりもしますし。 太宰は文壇の天皇だった志賀直哉へ噛みつきましたが、それは志賀の精神を批判したものですよ。 違いがないなら太宰も苦しみません。 つまり貴方は苦しみを知らないということです。 >なぜ彼らの感情をそこまで断定的に表現できるのでしょう。 貴方は誰かの芸術家の感情を断定できないのですか? 画家の気持ちがわかって泣いたりもしないのでしょうか。 軽薄極まれり、といった感じですね。 >「アスペルガー症候群」や「サヴァン症候群」で調べてみてください。 この手のものは名前をつけたもの勝ちですから、時代はまさに、“シンドローム症候群”、シンドローム・シンドロームです。 >実際に患者から自殺者を出してしまったことに一生苦悩し続ける医師もいます。 ですから、その治せると思っているところが狂っていると言っているのです。 私、携帯電話ですので、疲れてきましたので今後は他の方も全てにお礼は致しません。 皆さん、死にたくならないのだなぁ、ということと、自殺については考える機会も少なかったのだなぁと気付きました。

noname#130919
noname#130919
回答No.32

様々な回答が既に寄せられているので、私が今更述べることもないかもしれません。ざっとは目を通しましたが把握しきれず、重複する意見があるようでしたら、私の回答は無視なさって構いません。 自殺と一口に言っても、それを何タイプかに分類するべきであるという問題提起は、正しいものだと思います。動機で分けても、 (1)公的な意見表明(三島由紀夫、著作に注目をひくために自殺した詩人など) (2)鬱(芥川龍之介の「漠然とした不安」、リストカットなど) (3)義務(特攻、殉死) (4)追い込まれた(借金、介護の苦労、いじめなど) という風に考えられます。 こうした点を念頭に置きつつ、さて「反省の機会が無い人殺し」という意見はどう考えられるか。まず上記の例すべてをこのように評するなら、怒りが殺到するということは、回答例を見てわかりました。――そこでまず考えるべきは、何が「反省の機会が無い人殺し」と呼ぶに相応しく、何が当てはまらないかを分類することでしょう。すべてを一概に「自殺」とくくっても、議論は空回りするだけでしょう。 まず「反省の機会が無い」というくだりですが、おそらく反省した上で自殺している事例は当てはまらないでしょう。ざっと考えて、(1)(3)は自殺が自覚的である分、除外するべきです。そこで問題は当人の思考が働いていないかもしれない(1)(4)です。 次に「人殺し」ですが、この呼び方には批判のニュアンスが含まれています。殺人というからには、自殺とはどのように何を殺すのかを考えてみなければなりません。これもケースに分類した方がいいでしょう。 A. 身体の一部を損傷:心が苦しい、だから心臓を刺したら死んでしまった。 B. 記憶を抹消:自己分裂を起こしており、片方の自己を物理的に損傷すると、全体も死んだ。 C. 全体を抹消:死ぬと確信できる方法で死んだ。 AとBは部分的な損傷という意味で類似しますが、死ぬか否かを確信していないという意味で、「人殺し」というより自傷の結果、死に到ったというべきです。傷害致死といってもいいですが、厳密に殺人とは言えないでしょう。これは(2)に多い事例だと考えられます。かくして残るはCのケースで、これは(4)に分類するべきでしょう。 さて、ケース(4)を「反省の無い人殺し」といえるか否か。全く正しいと私は思います。なぜなら、このとき当人は「反省の機会無く」死ぬのであって、加害者=殺人者は当人ではありません。彼に自殺せしめるように仕向けた後ろに潜む者なのです。それは借金とりや苛めっ子でしょう。この命題に言葉を補って、より正確にいえば「いじめなど追い込まれた自殺は、反省の機会を奪われた結果起きる、殺人事件である」となると思います。 このように考えると、むしろ私は、なぜ「否定的」とおっしゃったのかが分からないほどです。確かにギリシア悲劇で自殺は美しいなどと言われ、そうした耽美的見解に比べると、無機質であるかもしれません。しかしそれはケース(1)(3)に対して述べるならともかく、(2)(4)には当てはまらないでしょう。そして私個人は自殺は美しいなどと称揚する方が恐ろしいと感じるほどです。 以上のように自殺を評するにあたっては、まず自殺を数パターンに分類し、事象を固定した上で議論するのが思索の手がかりであると考えます。実際、自殺の研究は社会学的にされることが多く、形而上学的に自殺とは何か?という真理を追究するアプローチをとっても、あまり生産的ではないと私個人は考えます。というのも自殺は定義しようとしても、様々な事例があるので一概に議論できず、不完全な定義に基づいて議論を開始すると水掛け論になるからです。分類はあまり議論されていないと感じたので、私がコメントしてみた次第です。あくまで素人の分類です。ご参考までに。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.31

まず、自殺そのものを評価すべきではない、と私は考えます。 これは端的に言うと、生命力の弱体化が要因で起こる現象でしょう。 なぜ生命力が弱体化するかという点に関しては諸説あるでしょうが、いずれにせよ、脳内化学物質の分泌加減が変化することにより、神経細胞が、生命力弱体の方向に進行する結果なのだと思います。 脳化学的メカニズムは(解明されているかいないかは別にして)専門家の方にお任せするよりありませんが、そういった化学作用を及ぼす結果に至るには、それなりの要因も必然的に存在するわけで、その精神的(あるいは心理的)過程について、若干思うところを述べてみます。 最初に、述べたいことは、自殺を現実のものとして決行すべしという意志決定の段階においては、通常とは全く別の思考過程が為されるように、脳の神経回路が働いている、ということです。 つまり、自殺しようとする、その行為自体を止めようとすることほど愚かなことは、おそらく無いでしょう。 何が、その人をして、そのような神経回路を作らしめたのか、という点に対する想像力が無ければ、自殺を思いとどまらせることは、たぶんできないと思います。 自殺の防止法をご質問なさっているわけではないでしょうから、この点に関してはこれ以上は触れません。 いずれにせよ、自らを殺すという点では共通していますが、そこまでの決断をするに至る過程は、おっしゃるように様々でしょう。 結果は一律でも、その原因となる神経回路への変化は、様々な要因で起こりうるのではないか、ということです。 ところで、自殺へ至る精神(思考)過程において、認識の転換によって、自殺したいという考えが覆る可能性について考えてみたいと思います。 周囲が関与できるとすれば、この過程の段階だけでしょうから。 ここを通り過ぎてしまった結果としての自殺は、もはや周囲が評価できる対象ではなくなっています。 なんと評価しようが、その人は、その方法で自らの選択を行なった、ということであり、それは、その人の自由と言わずして何と言えるでしょうか。 他人への迷惑など掛かるはずがありません。 迷惑と思うなら、何も処理せず、そのままにしておけば良いのです。 処理せざるを得ないのは、あくまで周囲の単なる都合にすぎないわけですから、それを恩着せがましく迷惑などと表現するのは、物事の本質が全く見えていない近視眼的な発想にすぎません。 さて、自殺したいという考えが覆る可能性について 話を戻します。 まず、(ご質問の趣旨から外れているようならご容赦願いたいのですが)自殺したいと思われている方に私が語りかけたいのは、 「なぜ、他者と同じ世界を生きようとするのか」ということです。 生きる世界というものは、視点の持ち方によって全く別のものとして認識することが可能になります。 極端な例を挙げれば、蟻の見上げる富士山と人の見上げる富士山は同じものではありません。 もう少し具体的な例を挙げれば、友達のいない人生と、友達のいる人生は、同じではない、ということです。 つまり、他の人が友達のいる人生を生きているからといって、自分まで同じように友達のいる人生を生きようとする必要はなく、友達のいない人生というのも、立派なひとつの人生だ、ということです。 たとえば、このように、他者と同じ人生を生きようとするから、不必要な負担が精神にかかってしまいます。 神経細胞間の化学物質に変化が起こり、生まれるべくして生まれたはずの、つまり、あくまで生を志向しているはずの本来の精神活動が、逆行的に作用するような状態に至ってしまう。 むろん、実際的には同じ世界に暮らさざるを得ないわけですが、必ずしも同じ価値観や視点を持つ必要はない、ということです。 そのためには、開き直り、逃避、なんでもやってみれば良いのです。 「なぜ、他者と同じ世界を生きようとするのか」は、この時のキーワード足り得るのではないか、と考えます。 「人の間と書いて人間と言うのだから、互いに助け合って生きるように人間はできている」 などというおためごかしを信じてはいけません。 乱暴に一言で言ってしまえば、 「人がいるからこそ間もできる」のであって、「人の間」というのは、あくまで人が存在する結果として生じた現象にすぎないのです。 太宰の場合は世間の婚姻制度、川端の場合は老残、乃木の場合は忠誠に対する価値観を、世間一般のそれと刷り合わせる必要性に強迫的に迫られたというのが本質でしょう。 三島の場合は、やや複雑と考えていますが、体力(具体的には性的な資質)に対する不安、その反動としての右傾化、また、それらに対する鬱屈を(ノーベル賞を逃したことなどで)文学という手段を使って昇華しきれなかったこと(による絶望・虚無感)などが作用しているように思われます。    

回答No.30

 No.24&30  ★(No.30お礼欄) ~~~~~~~~  そうなのですか。  それは人格や性格の問題と思いますよ。  “一方的に断ち切られた”と思うのは思う側の問題で、“ケンカを売られた”とか“侮辱された”と思うのと同じです。  わかったのは、回答者さんの家族は大変だなぁということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう考え方をしているのなら もう放っておきます。  ★(同上) ~~~~~~~~~~~~  また、   >自殺するわけをしっかりと――それこそ じんるいのみなに一人残らず――説明しおおせたのなら その変な思いも生じません。  こんなことはまず聞き手にその技量が無ければ意味が無いですし、そんなことができる話し手が世界に一人いるでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ いるから言っています。  ★ ~~~~~~~~  芥川のように明晰な遺書を残した人がいれば教えて下さい。  しかも、芥川も何を言っているのかよくわからないですからね。   ~~~~~~~~~  ☆ 意味のない文章です。  ★ ~~~~~~~~~   >もうひとつは その遺体の処理がたいへんです。  何を想定されているのでしょうか。笑  べつにあなたの前で死ぬわけではないですし、私個人のことで云えば自殺するなら海に飛び降りますが、それは自分の美的感性に基づくやり方であって、迷惑を考えているわけではないですけれどね。  私の母は彼女の前で死んで欲しいと思うかもわかりませんが。  芥川が自宅で死んだからと云って、貴方に何の関係があるのでしょうか。  芸能人やなんかの騒ぎをあれこれ話題にするのは回答者さんのような人なのですね。  なんか、考え方が仕様もないですね。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 《海に飛び降り》るときには 遺体の捜索に税金が使われる。だから 《自分できれいに処理してから逝ってほしい》というのは 費用を用意してからにして欲しいし 遺族が払えなければ国民の負担になります。迷惑でしょう。  つぎには 返答を見て投稿するかどうかを決めます。

crmant
質問者

お礼

さすがですね。 卑しい。 そういうのは単に“吝嗇”というのですよ。 貴方は優秀な道徳家です。 哲学とは縁がない。

回答No.29

 No.24  ★ 私にもよくわかりません。  ☆ なら 次の評言についてのみ応答します。  ★ ~~~~~~~~~~~~  ただ、   >まわりに迷惑をかけるなとだけ その自殺の手前では言いたい。  多くの日本人はまわりへの迷惑を考え過ぎです。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ふたつの側面があります。  ひとは 親子兄弟から始まって 直接にまじわっていれば余計にそうであろうし 間接的に同じ社会に生きているなら 互いに何がしかのかかわりを持ちます。そのとき その中のひとりが何故かふいにいなくなるとすれば それはどういう意味なのか。  つまり 生まれてからの《かかわり》を一方的に断ち切られたという思いを 遺された人びとにあたえます。自殺するわけをしっかりと――それこそ じんるいのみなに一人残らず――説明しおおせたのなら その変な思いも生じません。  ですから 勝手にいなくなるのは 傍迷惑なのです。  もうひとつは その遺体の処理がたいへんです。自分できれいに処理してから逝ってほしい。  したがって  ★ 迷惑を考え過ぎ  ☆ ということはありません。ゼッタイありません。

crmant
質問者

お礼

そうなのですか。 それは人格や性格の問題と思いますよ。 “一方的に断ち切られた”と思うのは思う側の問題で、“ケンカを売られた”とか“侮辱された”と思うのと同じです。 わかったのは、回答者さんの家族は大変だなぁということです。 また、 >自殺するわけをしっかりと――それこそ じんるいのみなに一人残らず――説明しおおせたのなら その変な思いも生じません。 こんなことはまず聞き手にその技量が無ければ意味が無いですし、そんなことができる話し手が世界に一人いるでしょうか。 芥川のように明晰な遺書を残した人がいれば教えて下さい。 しかも、芥川も何を言っているのかよくわからないですからね。 >もうひとつは その遺体の処理がたいへんです。 何を想定されているのでしょうか。笑 べつにあなたの前で死ぬわけではないですし、私個人のことで云えば自殺するなら海に飛び降りますが、それは自分の美的感性に基づくやり方であって、迷惑を考えているわけではないですけれどね。 私の母は彼女の前で死んで欲しいと思うかもわかりませんが。 芥川が自宅で死んだからと云って、貴方に何の関係があるのでしょうか。 芸能人やなんかの騒ぎをあれこれ話題にするのは回答者さんのような人なのですね。 なんか、考え方が仕様もないですね。

回答No.28

 ANo.13, ANo.16, ANo.17, ANo.20  余談を許されよ:中学、高校と、一応日本とドイツの哲学書と美学は人の影響で勉強させていただきましたが、殆ど近代現代の文学の読書をしませんでした。  56年も前のことですが、46年大学に居たころ、原宿に通っていたので。中谷 宇吉郎や五味川 純平、太宰の家を知りました。  ご立派なお宅です中谷(同姓同名かもしれませんでしたが)さんは普通のお家ですね。  そして10年以上書記長をやりながら、大学の中に居住していました。  中央線沿線で太宰の入水した上水を歩きました。吉祥寺で下車して武蔵境に向かう上水道のいい道でした。  そして武蔵境で二合半(起きて一畳寝て二畳天下とっても二合半からの屋号)で一杯がコースでした。夜中ですがね。  こんないいところを自分の自殺死体で汚したのか、と少し無念に思いました。  芥川や藤村操ですか、少し勉強しましたが三島や太宰は何か魔的なことを感じて近寄りませんでした。  読めばまた引き込まれたでしょう。    文章のやり取りの世界ですので、お互いに意を尽くせないのですが頂いたコメントには更に付言する事は申し訳ないが控えます。

crmant
質問者

お礼

ご年配の方だったのですか。 ではこの先の回答の 2 はご自身を肯定したいのに過ぎないかもわからないですね。 死体で汚れたと感じましたか。 太宰が入水して水が清んだと感じる人もたくさんいるかと思います。 (揚げ足を取るつもりはありませんが、寝るのに二畳もあれば面積としてはセミダブルのベッドくらいあります)

回答No.27

自殺は、自らの精神を生かすために肉体を殺すことだと思います。 なにか困難があって、それを克服するためには、これまでのやり方が通用しないのですから、自らの精神(我)を一旦捨てて新たに一から構築しなければなりません。 しかし、その我を捨てることを拒否し、我に執着し、我を抱え込んで、肉体を殺すこと、これが自殺だと思います。 しかし私は、むしろ我を殺して肉体を生かすべきだと思います。それが成長ではないでしょうか。 これまでのやり方が通用しないということは、今までが幸運で、周りの人に助けられていただけで、しかし実は自分は愚かだったのですから。 その愚かな自分を捨て、賢い自分になれる契機を、自殺で失くしてしまうのは救いようがないと思います。 私は小学校のときにいじめを受けていたのですが、しかし高校になったら、まぁなんとかなったのですが、そのときテレビで、小学生がいじめを苦に自殺したというニュースを見ました。 高校生の私が思ったことは、もしこの自殺が、私が小学生のときに起こっていれば、おそらく私も自殺していただろうということ。 自殺をする人は、他者を殺すことになると言う意味で人殺しです。 この人殺しに対して「武器を捨てて投降しろ」と、他人の自殺を止めようとするのは、ごく当たり前なことです。社会秩序を乱しているのですから。 問題は自殺をしようとしている人が、自分が何をしているか分かっていないこと。 本当に自分のことだけしか見えていないのでしょう。 自殺をしようとする人に言えることは、高校生になったらもっと気楽になるかもよ、ということ。 もちろん、大人も自殺しますが、しかし自殺をするということは、我を殺したことがないということであり、それはただ歳を取っているだけの子供です。 そして大人の自殺に影響され子供も自殺するのですから、大人は子供に対する責任をもっと考えるべきです。自分を大人であると自負しているのなら。

crmant
質問者

お礼

我については納得というか考えさせられますし、数日やそこらでは返答できないと思いますが、 >自殺をするということは、我を殺したことがないということであり、 そんな人間がいるのでしょうか。 >そして大人の自殺に影響され子供も自殺するのですから、 これは視野の狭い若い世代にいじめなどの直接的な絶望を味わった立場からの貴重なご意見としては理解できますが、 大人も大人でそれらの人の為に生きているわけではないので、自殺をしない理由にはなりませんし、大人の自殺を自身の自殺に繋げるような人間は生きても何もならないと思います。

  • covanonki
  • ベストアンサー率48% (219/448)
回答No.26

No.3です。 私の回答に対するあなたのレスポンスの真意を図りかねていたので、暫くの間、あなたの他の方への回答の なされ方を見ていました。 あなたは、ご質問文中に、否定的な見解と前置きはされていますが、「反省の機会がない人殺しだ」と表現 なされています。 戦時中やその影響下、自ら命を絶つことが、「自害」として美化されていた時代と今とでは、根本的な時代 背景が大きく異なります。もっとも、現在でも自らを死へ追いやった何者かに対する意思表示として死を選 ぶ人も多くいますが、当時と現在とでは「死に対する価値観」は明らかに異なるはずです。 ですから、あなたが当時の「死」と、現在の「死」を同列で比較いらっしゃっていることには違和感を覚え ます。 では、あなたは、戦時下、当時「美学」とされた「自害」もまた、「人殺し」と判断なされるでしょうか。 「否定的な見解」であるから「人殺し」と表現なされたのかもしれませんが、とくに現代において、自死を 考えるまで追い込まれる人たちの大部分は、もう、これ以上ないほどに「反省」をして、それでも最終的に 「死」を選ぶという手段以外に生きていく方法が存在しないから死を選ぶのです。 ですから、たとえ否定的な見解という前置きがあったとしても、「反省の機会がない人殺し」だと表現な されていることは、自死者や、とくにその遺族の皆さまに対して、とても非礼な表現だと感じます。 心情的な問題もありますが、これは真実とは異なるからです。 現在では、「自害」という方法を用いずとも、自らの正義を主張できる方法などいくらでもあります。 ですが、それでも自ら「死」を選ばざるをえない人たちがいるということ。そのことがこの問題の本質 であると思います。 とくにこのところ問題視されているのは、「発達障害」と現実とのギャップ。(これは、私が何かの本を 読んで記している、とかそういう問題ではありません。現実に死と直面する皆さんと何名もの方と対話 を行っているから感じられる、私なりの真理です) 子どもたちの認識している「世間」は非常に閉ざされています。自分が異常ではないと認識できるための 情報が不足しているのです。結果的に「変わり者」とのレッテルを貼られてしまい、いじめを受け、稀に 死を選ぶに至るのです。 仮に幼少期を切り抜けたとしても、成人した後にこのことが彼らに及ぼす影響は計り知れないものがあり ます。発達障害の原因として、勿論先天的な脳の発達の問題もありますが、両親や親族からの虐待の問題 であったり、教師や同窓生であったり。外的な要因から、自ら発達をさせるための手段を失う例すらあり ます。 芥川龍之介にしろ、太宰治にしろ、彼らにもこの発達障害に類する問題が存在した可能性があることは、 稀に情報として触れることができます。現代異常にこの問題に対する認識の浅かった当時、彼らが生き ていくことは、本当に苦しかったのではないでしょうか。 だからこそこれを表現するために文学の道を志したり、人によると絵画や音楽へとその道を歩む者もいる のです。 もう一度表現します。「自ら死を選ぶ」ということは、人間に与えられた最後の権利です。これを踏みに じるような表現は、それがたとえ話であったとしても、私には非常に悲しく感じます。

crmant
質問者

お礼

>当時「美学」とされた >当時と現在とでは「死に対する価値観」は明らかに異なるはずです。 自分で考える人間にとっては、哲学的に考えるなら、当時も今も関係ありません。 それも、生きるか死ぬかの局面で時代の風潮により意思が左右されるようでは参考にならないですし、回答者さんのような感傷とはまた別に考えるべき問題と思います。 知人が近ごろ、結婚式直前で破棄されましたが、私は何にも驚きませんでした。 破棄した方はそれまで考えたことが無かったのでしょう。 「自害」は「自殺」と同じ意味で使いました。 >彼らが生きていくことは、本当に苦しかったのではないでしょうか。 彼らの苦悩は偉大な精神の持ち主の証です。 彼らはそんな同情は必要としないでしょうし、逆に鋭利な言葉を返されますよ。 だいたい、苦しいことが“障害”なら偉大な芸術家はほとんど障害です。 精神科医とは 他人の精神を癒せると思っている精神の狂った人間

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