• 締切済み

善・善という人がいて困っています。

cincinnatiの回答

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.4

プロテスタントのクリスチャンです。ご質問の内容からして、クリスチャンが答えるようなものはないように思いましたが、 >。「意思は善である」と述べたとき、その根拠は何処にあるのでしょうか?わかる方お願いいたします。 というご質問が私どもの世界観と反対でしたので、一言述べようと思いました。聖書によればこの世の中に「義人はいない、一人もいない」と書かれています。つまりすべての人が罪びとであると述べています。罪びとが何かの意思を持ったとしても罪の中から生まれたものですので、善と呼ぶにふさわしいものがそこに含まれるない場合が多々あると思います。 当方の答えはもし人が「意思は善であると本気で思っているとしたら、自己洞察がなされていない。」ための発言と言わざるを得ないと思うものです。人の心の中の罪はあまりにも黒いので、たとえ半分を捨て去って良心を入れてみても依然として真っ黒のままであるというのが私ども人間の罪の性質です。

noname#131233
質問者

お礼

ご回答 誠にありがとうございます。 ようやく回答のかたちをとるご意見をいただくことができました。 質問意図と関連して一言つづりますと 個人的に傲慢は、ほうっておいてもよろしいのですが、他人にどうしろこうしろ、オレ様を思想家として認めろと五月蝿い・やっかいであるというのが、私の主張です。 また、他人を抑圧するもしくは、たしなめてやろうという、 傲慢さ・自己の精神的欲求(我慢・自慢)を充足するために、 キリスト教もしくは、物理学等の宗教的・学的権威を利用する。というのが、自然ではないということです。翻訳・他人の業績を引用せず、自分だけで(他人に頼らず)何かを主張すればよいと思うのです。ご自分のブログで五月蝿くしていてほしいということです。 気持ちが悪いのは、 とにかく、「恥」という感覚・「責任を取る」という行動がないという彼らの特徴です。 オレは自由であり善の根拠である。オレ様が「物事に関係すること」自体で すべてが善となる。という おもいこみが問題だといっているだけです。 問題は、 組織はをれさまが認めたときだけ必要悪として存在する。 なぜなら、おいらこそが善の本源であるからである。という理論です。 これは問題だと思います。 こういう考えは、哲学でもないし思想でもないし、宗教でもないと思います。単なるエゴイズムです。 お礼ついでといってはなんですが、 聖書を改ざんし自分の為に利用する人についてはどう思われますか? 宜しくお願いいたします。 本当にありがとうございました。

noname#131233
質問者

補足

ようやく「わかる方」に登場していただきました。 わかる方というのは信仰をしている人が宗教を語るという場合です。 哲学勉強した哲学者・思想について知識・見識のある思想家です。 もしくは、物理学者が物理を語るという場合です。 キリスト教についていえば、 原罪という教義を信じ、かつ、感じている人ということです。 わたしは、キリスト真宗について偽善者といっております。 彼らの主張は= キリスト教は「古い」が、俺サマが「新しい」解釈を加えることで、「生き返る」。「おれ」こそが、今に生きるキリストの「意味づけ」である。オレ様は現在の特異点である。悪人は、みんな善人。(ここでアウグスティヌスを持ち出してくる。) (自分は、ただ=無料の老人であるにもかかわらず、) 俺サマは新しい。オレ様とかかわることによって人は新しくなっている。オレ様は今に生きる預言者・新解釈者・思想家であるからだ! という上記の狂った主張を「キリスト(救世主)真宗」と規定しています。 ゲームに出てくる十字架のシンボルです。自分にだけ都合のよい神聖権威の流用です。おいらが正義。おいらが正しい。おいらが善。 教義は、「他人が信じるべきもの」である!組織・協議から自由な+革命的なオレ様には関係がない。 「俺が認めれば」その時だけ、協議・教義が正当化される。(もちろんおいらこそが真の民衆指導者である。) そういう方たちは、ラテン語もギリシャ語もできないのに、 かってに聖書の新解釈(単なる我見)をし、破廉恥にも「あたらしい神学」として 宣伝します。 とどのつまりは、「カトリックは、だめ」といっているだけ。でもカトリックの論理的な神学教義については、認識がない。「最悪がだめ」なのは当たり前だが、それを自分が最高であるというためにだけ、利用する。理解は他人がすべきこと。おいらは最善のためのヒントを与えているという無責任な態度。他人の間違いは、自分が「正当な現代のキリスト」・「時代の革命後継者」であると主張するための(思い込みのための)証明事例であると信じ込んでいる。 聖書を使った権威主義・自分は偉いというためだけに聖書を引用する。科学理論を勝手に簡略化し、短絡的イメージを思い描き「レッテル(何でもわかる僕ちゃんは天才!)」として利用する。学者の意見を捏造改ざんし、関係のない分野で乱用する。ああだこうだと意味のない議論をし、自分は今利用した著作権所有者より高度な思想を持っていると自己陶酔する。(利用する作者は60・70年代の古新聞ふる雑誌の「ごみ書籍」の著者たちであるということは偶然の事実であるとしても・・・) 論点は、 「キリスト教を信じているということと、原罪のコンセプトを信条として受け入れること。」 「それを信じていると主張することと 原罪を感じているというのはまた別の問題である」と ゆう個人的・内容的問題だ と思います。キリスト者を名乗るが、感情的信仰がない。物理学を利用するが物理学者ではない。思想家を自称するが、エゴしか持っていない。 具体的には、 自分を善であると信じ込んでいる人には、とくに、キリストは大事と主張する「自称善なる」個人が、原罪を感じる能力がないという事実です。

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