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江戸幕府は結局どうやって借金を返したのか?
kawakawaの回答
江戸幕府や大名達の借金は、基本的に大坂などの商家などが貸したものですネ。 そして、江戸時代後期に徳政令が出され、借金は踏み倒されたハズです。 その後も、幕府や大名は借金をし続けました。 最終的に江戸幕府が抱えていた借金も明治維新と共に踏み倒され、莫大な額の借金は商家の損失として終わってしまったと聞き及んでいます。 それが尾を引いており、大阪のお上嫌いの風土が培われたとも聞いております。 以上kawakawaでした
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補足
やはり、そうでしたか、という気持ちです。結局、取れるところから採る、つまり、小金持ちの末端の人たちが背負うということなのでしょう。 おそらく、現在の日本政府の借財も、同様に処理されるような気がします。 大阪のお上嫌いの風土が培われたとも聞いております。”とはなかなか、鋭いご意見で、納得してしまいます。