国家とは幻想である

このQ&Aのポイント
  • 国家とは幻想であり、その存在を考える方向に進むべきだ。
  • 人々は農耕を始めてから、神々に感謝を込めて祭りを行ってきた。
  • 国家は社会の神棚であり、政治は人々の共同自治であると言える。しかし、現在の政治に対して大政奉還すべき意見も出ている。
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国家とは 幻想である。

国家とは 幻想である。  と考える方向にすすむのが よいのではないか。  人びとは――農耕を始めてからですが―― 穫り入れのときに初穂をささげて神々を祀った。どんちゃん騒ぎをしたかどうかを別として 《まつり》である。神と人びととの共食ということ。  やがて このムラムラのまつりをその上から束ね治めようという想像力に富む優秀な人間が現われ 人びとはこの人間たちに場をゆづった。どうしても一番に成りたいと言って聞かなかったので人びとは根負けした結果 社会(やしろ)にも神棚をつくりそこにその人たちをまつり上げた。  かくて 国という家 家としての国が出来た。《まつりごと》である。世に言う二階建て構造から成る社会。  二階建ての造りによって格差(クラス=階級)が出来てはいるが 《たみ・おほやけ( publica )のこと( res ) すなわち respublica = republic 》とも言っている。だとすれば まつりごと(つまり政治)も 人びとの共同自治であることに変わりはない。  まつりごとという国家による政治は ムラそれぞれのまつりとともに暮らすたみ(市民)に 大政奉還すべきだという意見が出ているそうな。  社会の神棚に祀り上げたにしろ その神棚を力によって収奪したにしろ その第二階は まぼろしであるのではないか。仮りにおほやけのこと( res publica )をまかせてみただけなのではないか。千五百年あるいはそれ以上経て来ているようであるが そろそろ主役は 第一階の人びとに戻すときではないだろうか。  以上を問います。よろしくどうぞ。

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noname#123390
noname#123390
回答No.3

早急なご返答ありがとうございます。質問者様の新しいイメージがかなり読めてきたように思えます。 国際間での民間によるなしくずしの連帯、連携を粛々と進めていって、ある時点ではすでに国家というものをぐさぐさの穴あきスポンジのようなものに変え、その反面において世界全体を均質にしていく。気がついたらいんたーむらむらワールドが出来上がっていたというサープライズでしょうか。なかなか面白いイメージですね。 >ムラどうしの連携・連帯――連村制とでも言うでしょうか―― これをいまの国際的にも展開するところのインタナショナルなインタムライズムを想定しています。 > 初めはいまの姉妹都市の制度を拡大・拡張するようなかたちになるかと考えます。   >ムラ議会には 互いに提携先のムラの人間も議員に選出されます。選挙を互いに投票し合います。  それには 留学や研修 さらには移住などなど活発な交流を通じてその基盤を築いて行かねばならないでしょう。        > ちなみに ムラ長(おさ)つまり市町村長は 究極的には ムラビト(市町村民)の当番制としたいと考えております。裁判員制度ではありませんが 今年から数年はおまえ 次はおれ その次はあいつといったふうに――と言いますか やはりくじ引きがいいでしょうね―― 誰もが代わり番こにつとめます。みなが一人ひとり小さなキリストだというわけです。 ここでの斬新さはやはり選挙というものをせず、あくまで実質的な全員参加を促しているところですね。これは私の町内会などでは既にやっていたことです(会長の輪番制、など)。 確かに魅力はありますね。この場合の当面の問題は、民衆個人レベルの均質性です。くじびきでとんでもない隠れタイラントが現出した場合の当該村の悲惨は考えるのもおぞましい。 そして、やはりそのムラ政治をサーヴィス的に支えるテクノクラートの必要性は、現代の高度な社会を維持するだけのものはどうしても必要で、これをコンピュータだけでまかなえるかどうか、そんなところもこれらの課題であろうと思います。 思いついたことをぐだぐだ、書きました。失礼いたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ここでの斬新さはやはり選挙というものをせず、あくまで実質的な全員参加を促しているところですね。これは私の町内会などでは既にやっていたことです(会長の輪番制、など)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いやぁ こんなにすぐに了解していただけるとは。おまけにすでに現実におこなわれているとか。  ――こまあすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――  いつもは 何かと難癖をつけられるものですから 或る意味で拍子抜けでもありますが これはこれは かつての龍馬も夢見る人には終わらないと言っていいようですね。  ただし ただちにですが この《当番制》については これだけは 次のように吉本隆明から借りていますので その点おことわりしておきます。  ▼ (吉本隆明) ~~~~~~~~~~~~~~~~  では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たち(市民一般)は 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。  【Q:吉本隆明の思想について】(その趣旨説明より引用)   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4462818.html  ( noname#80116 は わたしです)。  (吉本隆明については 全体としてわたしは ついて行けないと考えています。部分部分に見るべき思想があります)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  確かに魅力はありますね。この場合の当面の問題は、民衆個人レベルの均質性です。くじびきでとんでもない隠れタイラントが現出した場合の当該村の悲惨は考えるのもおぞましい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たしかにわたしたち一人ひとりの自覚と力量がためされますね。  次の課題 すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  そして、やはりそのムラ政治をサーヴィス的に支えるテクノクラートの必要性は、現代の高度な社会を維持するだけのものはどうしても必要で、これをコンピュータだけでまかなえるかどうか、そんなところもこれらの課題であろうと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては やはり優秀な人間たちに霞が関からムラムラの役所や研究機関などに或る程度の数は《アマクダリ》をしてもらって がんばっていただきたい。いえ とびっきりの優秀者は初めからムラムラの公務員であることを志望してもらたいですね。そのあとに国のほうへってなぐあいで。  覚え書きとして重ねてかかげます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  国際間での民間によるなしくずしの連帯、連携を粛々と進めていって、ある時点ではすでに国家というものをぐさぐさの穴あきスポンジのようなものに変え、その反面において世界全体を均質にしていく。  気がついたらいんたーむらむらワールドが出来上がっていたというサープライズでしょうか。なかなか面白いイメージですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まだまだこれから いろんなイメージをふくらませて行って思考実験やら試行錯誤を経て行くものと考えます。  これからはニッポン人の出番ぢゃないですか。

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  • p1ur
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回答No.4

創発民主主義というのをnetで見ました。 現在に即した、いい考え方だと思いました。 国民に3大義務を課しているうちは、国民は奴隷とかわらないよ。

bragelonne
質問者

お礼

 p1ur さん ご回答ありがとうございます。  ▲ (wiki:Emergent democracy ) ~~~~~~~     http://en.wikipedia.org/wiki/Emergent_democracy  Emergent democracy refers to    the rise of political structures and behaviors    without central planning and    by the action of many individual participants,    especially when mediated by the Internet.  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◆ 伊藤穣一:創発民主主義 2003    http://www.glocom.ac.jp/odp/library/75_02.pdf     ううーん。どうなんでしょう。  (1) 個人の存在の(心の)底から湧いて出て来るような思いとその行動にもとづき それによって力を合わせて民主制社会をかたちづくって行こう。  (2) それにはブログなどのツールを初めとしてインタネットを利用するとよい。  ☆ こんなところとして受け取ったのですが 言いかえると まだよく分かりませんでした。  国家とその仕組みも残しているようですし(ただしただちに無くせとわたしが言っているわけではありません) 地域主権といった考え方についてどうしようとしているのかも 捉えきれませんでした。  ★ 国民に3大義務を課しているうちは、国民は奴隷とかわらないよ。  ☆ そうなんですかねぇ。たぶんそうであると言えるところがあるのでしょうけれど 創発民主制になると どうするのかが――言いかえると 個人個人の主体的な想像力によるあたらしい仕組みの創造やその運営が どこからか 湧いて出て来るのかが―― まだ分かりにくかったように思います。  理解が行き届いていないのかも知れません。取り敢えず こんなところです。

noname#123390
noname#123390
回答No.2

> 国という家 家としての国が出来た。《まつりごと》である。世に言う二階建て構造から成る社会。 国であれ、会社であれ、何か方向性を持った目的集団はいずれ組織化が必要で、組織というのはどうしても階層的な構造になってしまうし頂点ができてしまうのでしょう。こういった組織を潰してしまったらあとは烏合の衆、ばらばらになって集団は方向を見失い解体されてしまうでしょうね。やはり象徴てきであれ2階建ての上に上がって祭り上げられるひと、皆をたばねる、皆が精神的にあくがれるひとは必要なのではないかと思うのですが、どうでしょうか。人間とはひとりひとりが本当に弱い盲目に近いものです。 それとも百歩譲って米国などのように4年に一回づつ王様をみんなから募っていちから決めなおすという効率のめっちゃ悪いことを考えておられるのでしょうか。 もちろん私も神権国家というものは幻想だと思っています。でも現状にあって他国との差別化を維持できる国家は便利だし、当面必要だと思います。それが先進国だけのエゴイズムだと仰るのならそれはそうかもしれません(開き直り)。ただキリストのように自ら極貧のなかに身を投じる覚悟が先進国のみんなになければこの問題は一挙には解決しないし、結局漸進的な世界国家への長い道のりしかないのではないかと思うのですがどうでしょうか。 例によってまったく的の外れた散文的回答になったのかもです。どうかお許しください。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。大きく広く言えばこれからの見通しとして 社会の基礎をどこに置くかで分かれるかも知れません。いま仮りに 上向きと下向きの二つに分かれるのではないかと想定して考えてみます。  ★ 結局漸進的な世界国家への長い道のりしかないのではないかと思うのですがどうでしょうか。  ☆ これが 上向きの動きです。それに対して――国連が必ずしもうまく機能しないところに注目するのですが―― ムラ(市町村)を中心とするという下向きの動きを予想してみたものです。  ムラどうしの連携・連帯――連村制とでも言うでしょうか―― これをいまの国際的にも展開するところのインタナショナルなインタムライズムを想定しています。  初めはいまの姉妹都市の制度を拡大・拡張するようなかたちになるかと考えます。  A 国の a 市が B 国の b 市や C 国の c 市 D 国の d 市等々と 共同自治の連帯制を組みます。  政治的・経済的また文化的に互いにその自由の幅いっぱいに交通・交流します。  企業との連携も必要でしょう。  ヒトとモノの自由な行き来を展開して行きます。  ムラ議会には 互いに提携先のムラの人間も議員に選出されます。選挙を互いに投票し合います。  それには 留学や研修 さらには移住などなど活発な交流を通じてその基盤を築いて行かねばならないでしょう。    今のところ この下向きの動きのほうに――もしくは 上向きのそれと同時に並行して下向きの動きも起こすほうに―― 魅力を感じています。  それと言うのも 二階建ての国家という仕組みには必ずしも求心的なよい動きばかりがあるのではないと考えるからです。  ○(趣旨説明) 人びとは――農耕を始めてからですが―― 穫り入れのときに初穂をささげて神々を祀った。どんちゃん騒ぎをしたかどうかを別として 《まつり》である。神と人びととの共食ということ。  ☆ たとえばこのムラ次元のまつりを――ということは ムラという平屋建て社会の共同自治のことですが そのいわゆる共同体の生活を―― どれだけとうとび重んじているのか。そのことに 国家という制度においては おそれが感じられてなりません。  国家という制度のもとでは どうしても いくら地域主権だと言っても 第二階が第一階を主導します。  ○(趣旨説明) やがて このムラムラのまつりをその上から束ね治めようという・・・国という家 家としての国が出来た。《まつりごと》である。世に言う二階建て構造から成る社会。  ☆ このとき ムラムラのまつりを束ねたということは 次のことを意味します。ムラの人びとが神々に初穂をささげるというかたちから   (1) 全体のまつりごとをつかさどるひとりの人間を神としていただき   (2) この神(アマテラスもしくは アマテラシテ(象徴))に収穫をみつぐ  かたちに成ったのであり そのかたち――アマテラス主導制――が変わらないかぎり ムラ主権やムラビト主権(主権在民)はかなわないと考えられるからです。  もちろん(1)(2)のかたちは 現代ではもう変わって来ていますが アマテラス公民の主導制は変わっていないと思われます。  これは 展望です。時間がかかるものと思います。でも基本的な考えもしくは方向性については いま考え合っておくことができると思います。  ちなみに ムラ長(おさ)つまり市町村長は 究極的には ムラビト(市町村民)の当番制としたいと考えております。裁判員制度ではありませんが 今年から数年はおまえ 次はおれ その次はあいつといったふうに――と言いますか やはりくじ引きがいいでしょうね―― 誰もが代わり番こにつとめます。みなが一人ひとり小さなキリストだというわけです。信仰は問いません。おのおのの《わたし》は弱いものだというとき――そのことを知っているというとき―― だれもがその弱さを誇るという仕組みになっています。  ムラのグループどうしで国際的にけんかをしないかという心配があります。まぁ 戦争はやらかさなくなるでしょう。  埋めるべき短所がいくらでもあるように思いますが まづこのように考えます。まったく放ってしまっておかれるものでもないのではないかと自負をもしつつ 考えました。どうでしょう。

  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.1

bragelonneさん、こんばんは。 >国家とは 幻想である。 私としては、「国家」が「幻想」であるかどうかよりも、古来、人々が「国家」という「幻想」に取り憑かれ、その護持のためにとあたら自身の命を犠牲にすることも平気でしでかしてききたという、事実の方に、その人間心理の方に興味・関心を向けざるを得ません。 思うに、bragelonneさんであろうと、不肖の私であろうと、人間である以上、我欲に忠実な生き方と我欲を超えた価値に忠実な生き方との二つの生き方を適当に使い分けながら生きていくしかないのではないでしょうか。 ほかには、人間である以上、愛に生きることもあれば、我欲に固執して生きることもある、というように。 あるいは、自分の孤独を大切にして生きることもあれば、他者との関係を大切にして生きることもある、と。 あるいは、個人(私)的に生きることもあれば、集団(公)的に生きることもある、と。 あるいは、自分の既知の範囲内で思考するときもあれば、未知の領域に逸脱して思考することもある、と。 あるいは、詩的に生きることもあれば、散文(政治)的に生きることもある、と。 あるいは、権力意志をもって生きることもあれば、奴隷然として生きることもある、と。 もう十分でしょうが、こういう比喩をどれだけ紡ぎ出したところで、何かが明らかになったわけではなく、立ち返るところは、人間である以上、こういう二つの生き方のいずれかだけで生きることなど到底不可能だ、という自明の理以外のなにものでもないような気がします。 >やがて このムラムラのまつりをその上から束ね治めようという想像力に富む優秀な人間が現われ 人びとはこの人間たちに場をゆづった。どうしても一番に成りたいと言って聞かなかったので人びとは根負けした結果 社会(やしろ)にも神棚をつくりそこにその人たちをまつり上げた。 >かくて 国という家 家としての国が出来た。《まつりごと》である。世に言う二階建て構造から成る社会。 大昔であろうと、民主党政権の現代であろうと、人間の生き方の基本型という点ではさほど大きな違いは認められないということですよね。 自分で神なり、天皇なりになる意欲や覚悟のない者(私も含まれる)は、神なり、天皇なりを批判する資格を自ら放棄しているという点では、昔も今も全く同じだと思います。 彼等には、神なり、天皇なりを崇拝する以外のいかなる生き方が可能だと思われますか? ちなみに、私は、家では山の神に仕える奴隷さながらの生活を余儀なくされておりますが、意外と快適なものです。 Wer nict will, der muss! >そろそろ主役は 第一階の人びとに戻すときではないだろうか。 う~ん、失礼な申し分をお許しいただけるなら、これこそ「幻想」の最たるものではないでしょうか。 bragelonneさんは、そもそも「第一階の人びと」が主役になることを望んでいる、と本気でお思いなのでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづはご回答をありがとうございます。  ずばり問い返しますが すでに答えを出しておられるのではありませんか?   ( a ) 国家は幻想であるかどうか?   ( b ) 幻想として事実である。  ☆ というふうにです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  ( a )・・・「国家」が「幻想」であるかどうかよりも、  ( b ) 古来、人々が「国家」という「幻想」に取り憑かれ、その護持のためにとあたら自身の命を犠牲にすることも平気でしでかしてきたという、事実  ~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ すなわちすでに  ★ ( b-1 ) 「国家」という「幻想」  ★ ( b-2 ) 「幻想」に取り憑かれ・・・たという、事実  ☆ と明らかに述べてあります。  あるいは この( b )が歴史的事実であるのならば その国家の中における人びとの思潮としての社会的な力学の向きが変わったとしても やはり依然として《幻想としての事実》であるのではないですか? すなわち まづあらためて:  ★ ( b ) 古来、人々が「国家」という「幻想」に取り憑かれ、その護持のためにとあたら自身の命を犠牲にすることも平気でしでかしてききたという、事実  ☆ そうして 《護持》と反対の動きが現在起ころうとしている。つまり言いかえると 国家へと向かう上向きの動きが 昔あったが いまでは元の状態(平屋建てとしての社会)に戻ろうとする下向きの動きのことです。すなわち  ★ ~~~~~~~~~~~~    >( b-2 )そろそろ主役は 第一階の人びとに戻すときではないだろうか。  ( b-1 ) う~ん、失礼な申し分をお許しいただけるなら、これこそ「幻想」の最たるものではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さらにそうしてこれらの( b-1 / b-2 )の《幻想としての事実》のあとに 個々の人びとの考えとその意志行為が来ます。それは 自由です。  ★ ( b-3 ) bragelonneさんは、そもそも「第一階の人びと」が主役になることを望んでいる、と本気でお思いなのでしょうか?  ☆ すなわち ( b-3-1 )《本気で思う》のも 《国家という幻想としての現実》に向き合うことですし ( b-3-2 )《思わない》のも同じくでありましょう。( b-3-1 )積極と( b-3-2 )消極とは 同じ現実におけるふたつの態度です。

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     1. 感性と理性を伴なった或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  2. イリなる歴史知性すなわち 《世界〔内存在〕への入りをおこなう知性人》 この種の人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  3. ヨセなる超歴史知性すなわち 《世界を押しなべてその知性によって束ね寄せるスーパー知性人≫ この種の人は まぼろしに取り憑いた。  3-1. その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよ その《いと高き者》に似て来たとき――きわめて人間的な人間になったとき――周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。それは 程度問題なのだと澄ました顔をしている。  3-2. ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  4. このアマテラス種族でもあるヨセなる超歴史知性が 世の中のあり方として平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったときスサノヲらはとうとう根競べに負けて 《くにゆづり》をした。  4-1. ふつうのイリ歴史知性のスサノヲ市民らがムラムラでおこなう《まつり》は ことごとく第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  4-2. かくて 《アマテラス公民‐スサノヲ市民》連関制の完成である。くにのいへと言う。家というからには 構造があり 二階建てである。    5. 《ひかり あるいは まぼろし》は どうなったか?  5-1. 《ひかり ないし まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 人びとの発言にも・つまりそれぞれの自己表現である誰の発言にも 本音と建前とがある。  5-2. あるいはさらに 二枚舌の問題がある。人びとのあいだで利害の一致がむつかしいとすればその限りで 必然的に現われがちである。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  5-3. それは 広くマ(間・間合い)の問題である。人びとのあいだのそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方を問題としうる。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  6. さて 大政奉還――国家のアウフヘーベン――のもんだい。  6-1. 大政奉還の問題は    《 A (アマテラス公民)‐ S (スサノヲ市民)》なる連関制  としてのマのあり方を問う。  6-2. 第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガヒをめぐるその正し方 こういった問題である。  6-3. 端的に言ってこのマの問題は おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしている ということではないか? そしてそこから マチガヒがつねに起こり得るのではないか?  6-4. 細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガヒが生じるであろうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられる。けれども問題は そもそもは    《 S (大政主権)- A (従属)》の連関  だったものが A圏主導の《 A主導 - S 従属》連関として逆立ちしているというところにあるのではないか。  6-5. つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  品行方正なるその人格は むしろただ理念に合わせただけのものではないか?  6-6. イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  6-7. こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えられる。超歴史知性として ふつうの歴史知性の上をアマガケル振る舞いに出た。お二階へのアマアガリをおこなった。  6-8. つまりそれが アマテラス普遍語(つまり科学語および人格語)であるが これは実際には アマテラス語方言とよぶべき言語類型である。神聖にして侵すべからずという無謬性の神話に包まれている。クウキである。つまりそのクウキとしての神話につつまれなければ チカラを発揮しえないからである。  6-9. つまりはその無謬性の神話から必然的に現われると言っていいところのダブル・スタンダード現象である。  6-10. ゆえに普遍語をよそおうところのアマテラス語方言であるに過ぎないと言いたい。訛っていなくても 舌が二枚 使い分けられている。アマテラス科学語は資料等において部分的にしか表に出さない。アマテラス人格語は ウラとオモテとを使い分ける。  6-11. これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 無謬性を帯びさせようとするアマテラス神話なる反措定に対するための反措定であるから 肯定的な綜合であり 人間のふつうの存在(知性)の復権(ルネサンス)であると考えてよいのではないか?   6-12. これが 逆立ちする《 A (アマテラス)主導‐ S (スサノヲ)従属》連関制としてのマチガヒからのマの回復であり つまりは ムラムラの主権の実現としての大政奉還である。  7. これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。のかも知れない。  7-1. 時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス語方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。ウラで何をやっているか分からないばかりである。そして 経済・財政的にも立ち行かなくなった。  7-2. アマテラス公民の無謬性なる神話がくづれた。D.トランプ現象?  7-3. この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  7-4.  A - S 連関は 社会形態として国家のことであるのだから 現代においてこの逆立ちの逆立ちは じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか?  7-5. 国家ゆえに領土問題と戦争と経済戦争があるのだ。――かな?

  • 国家VS人権… 優先的に尊重すべきものは?

    先日,「有権者の過半数が,現在の政権与党に投票するだろう」という,マスコミの報道がありました。 有権者の人々は,この政権与党の新憲法の内容を十分に理解したうえで,これらの政党に票を投じるのでしょうか? 参考までに: 政権与党のうちの一党が作成した新憲法草案の内容が,大きな議論をよんでいます。これにかんしては,いくつかの議論がありますが,たとえば,現行の憲法にある第97条が,新憲法草案において,それにかんする記載がまったくありません。この政党の作成した新憲法草案においては,国家の権限を最大限にすることを可能にすることを前提とした憲法草案であることは,明らかなことです。 そこで問題となるのは,人権をないがしろにしてまでも,国家を優先する必要があるか,ということです。まず,国家は国民がいないと成立しません。そして,第一に,国家は国民を尊重しなければなりません。国民は,国家にたいする敬意をあらわす必要はありますが,そのためには,国家が,国民に敬意をあらわす必要があります。「国家ありき」のあり方では,国家は国民の支持を得ないでしょう。 政権与党しては,「日本は周辺に“脅威的存在”がいるので,国家の権限を強化できる憲法をつくらないと,国家が成り立たない」とでも考えているのでしょう。しかしながら,いわゆる「強い国家」においては,その国家の構成員である国民の人権を,十分に確保することが,そのための「絶対条件」となります。国民をないがしろにするような国家は,国家そのものが不幸な国家であると同時に,国民を不幸にしてしまう国家でもあります。 また,日本社会においても,国家にたいする敬意をあらわしている人々は,少なくありません。そのあり方,やり方には,多種多様なものがありますが,多くの人々が,日本という国家にたいして,敬意をあらわしています。憲法において,国旗や国家を規定することにたいしては,国家への敬意のあらわしかたを,一方的に決めつけることに,なりかねません。 “Foot-in-the-door technique”という言葉が英語にはあります。大まかな意味は,単純な要求を繰りかえしのませることによって,大きな要求をのませる,ということです。誰かに大きな要求をのませたいときには,小さな要求を,繰りかえしのませると,確実に,大きな要求をのむことになる,という意味にもなります。 http://en.wikipedia.org/wiki/Foot-in-the-door_technique 政権与党としては,いくつかの「小さな要求」を国民にのませ,最終的には,「国家がどんなことをやっても,国家が罪に問われることがない」という,真の意味において,国民をないがしろにする国家を建設したいのでしょう。あるいは,昨今の,テロリズム,日本の周辺諸国との関係ばかりが気になってしまい,「国民不在の国家」をつくろうとしていることに,気がついていないのかもしれません。 数年前に,ある国において大規模なテロ事件が発生しました。その直後から,この国ではイスラム系の人々にたいするヘイトクライムが多発するなど,社会の不安が国民のあいだに広まりました。 テロリストを逮捕するためには,どんなことをやってもかまわない。 そのような国家のあり方に,疑問を呈した,時の閣僚がいました。彼は日系人。かつて,この国において,強制収容という,辛酸をなめた人々の,ひとりでした。彼は,ヘイトクライムと戦い,国民の人権を守りつつ,テロリズムに立ちむかいました。

  • 国家資本主義と国家社会主義について質問です。

    国家資本主義と国家社会主義のメリット・デメリットについて質問です。 『国家資本主義』とは、学者や立場によって異なった色々な意味で使用されているが、通常は国家が資本主義に介入し管理するもの(修正資本主義)、国家が資本主義を推進するもの(開発独裁など)などを指す。 次に『国家社会主義』とは、国家と社会主義を関連づけた思想や体制で、国民社会主義、民族社会主義とも呼ばれる。 特に、ナチス党が掲げた国家社会主義は、私有財産制は維持しながらも社会主義的諸政策を推進したのですが、ここで以下の質問です。 1.仮定の話になるが、とある国家が国内の産業と経済を育成・発展させるために、国家主導で育成・発展させると同時に、労働者の権利や保障といった労働問題を解決させなければならない。 その時、国家社会主義と国家資本主義、どちらが両立させながら育成・発展させるのに一番適しているのはどちらでしょうか? 2.国家資本主義と国家社会主義、専制君主制国家や一党独裁国家、軍部独裁国家において、国家主導の産業と経済を育成・発展させるためのイデオロギーとして、定着し、その政治体制下において相容れるイデオロギーにおいては、どちらが適しているのでしょうか? 3.国家資本主義と国家社会主義、どちらがメリットが多く、どちらがデメリットが多いのでしょうか? 4.中国が国家資本主義で発展したなら、我が国、日本も新自由主義やグローバル資本主義よりも、国家資本主義を採用した方が、景気回復や経済改革、産業及び人材の質の転換・向上には一番適しているのでしょうか?

  • アマテラスお二階さんは 一階に大政奉還すべし。

     いわゆる地域主権について問うものです。  なぜ大政(ムラムラのマツリをつうじての共同自治)をいまの二階にあるマツリゴトから元の一階スサノヲらのくにに奉還すべきか?  それは もともと平屋建ての市民社会が どうして二階建てになったか? を見てみると分かるはずです。  すっ飛びの仮説によって考えてみます。       *  感性と理性を交えた或る知性が 或る日或るとき こころのいと高きところに純粋存在なるまぼろしを見た。  イリ(世界への入りをおこなう)人は このまぼろしをそのままなぞとして心にしまっておいた。  ヨセ(世界を束ね寄せる)人は まぼろしに取り憑いた。その輝く光に身も心もつき従うとの誓いを立てた。いよいよその《いと高き者》に似てきたとき――きわめて人間的な人間になったとき―― 周りを見てみれば このまぼろしには誰も 関心がない。  ヨセ人は ここであきらめなかった。このまぼろしによって人びとを感化し 世の中を束ね寄せる。そうしてみせる。そうすれば《いと高き存在》の光は あまねく行きわたり世はますます常世(とこよ)の国として栄えるであろう。と踏んだ。  このヨセ人なるアマテラス種族が 平屋建てを嫌い その上に第二階を築きたいと言って スサノヲ市民らに冀ったとき――スサノヲらはとうとう根競べに負けて―― 《くにゆづり》をした。イリ知性のスサノヲ市民村におこなわれる《まつり》は 第二階によって束ねられ おまけに税を取られ 全体としてその統治が《まつりごと》としておこなわれるようになった。  かくて 《アマテラス‐スサノヲ》連関制の完成である。くにのいえと言う。家というからには 二階建てである。  《ひかり もしくは まぼろし》と現実とのあいだに隔たりがあるとすれば 誰れの発言(自己表現)にも 本音と建前がある。あるいはさらに 二枚舌の問題が必然的に現われる。――そうでなくてもふつうのイリ人においても ウソでない心とウソの心との相克の問題が ごく一般的に ある。  広くマ(間・間合い)がそういった心的および社会的な《関係ないし連関》のあり方として成り立って来ており むろんその問題をあつかう。ここでは 《 A (アマテラス)‐ S (スサノヲ)》連関制としてのマである。  第一階とお二階さんとのマの具合いであり 間合いの取り方であり そこに起こるマチガイの正し方の問題です。おそらく一階のマツリと二階からとりおこなうマツリゴトとが逆立ちしているのではないか? そこから マチガイがつねに起こり得るのではないか?  細かくは たしかに第一階においてスサノヲ市民どうしの間でも 仲間と仲間のあいだにマチガイが生じるでしょうし お二階さんどうしの間でも 同じような問題が起こるものと考えられます。問題は そもそもは 《 S (主権)- A (従属)》の連関だったものが A圏主導の《 A - S 》連関として逆立ちしているというところにあると見ます。  つまりは すぐれたアマテラス族の初めの人びとにおいて いくら光り輝くイデアを見たと言っても その《いと高きところ》なる理念の扱いにおいてすでに初めに逆立ちしてしまっていたのではないか。  イリ人は このイデアをとおして――《をとおして》――マツリをおこないカミにささげものをした。ヨセ人は このイデアじたいにカミを見た。あるいはさらにみづからがカミとなった。  こう見る限りで ヨセ人のヨセ知性は イリ人のイリ知性に対する反措定であると捉えます。つまりそれが アマテラス語方言という言語類型――無謬性の神話に包まれている――であり そこから必然的に現われると言っていいところの二枚舌現象だと言いたい。そう言いたいのですが これに対するイリ人=スサノヲ市民の打ち出す反措定は 反措定の反措定ですから 綜合であり人間のふつうの存在の肯定であると考えてよいのではないでしょうか?   マチガイからのマの回復。つまり 地域主権の実現としての大政奉還。  これまでの歴史において アマテラス語方言が社会を覆っていたとしても つまりそれが《不当にも》社会において有力であったとしても 人びとはこれを どういうわけか 難なくこなして来ていた。時代が変わり社会のあり方が変わり もう《こなす》ことがむしろ出来なくなった。こなす・こなさないの問題よりも アマテラス方言の誤謬が ただ街を歩くだけでそこら中に見えて来てしまった。また 経済的にも立ち行かなくなった。  アマテラス公務員の無謬性なる神話がくずれた。  マの問題。この A - S 連関というマの逆立ちをただすことがいまの課題であるのではないか?  じつは国家の止揚として世界史的な課題であるのではないか? 国家ゆえに領土問題と戦争がある。

  • 戦争についての本

    第二次世界大戦のとき、ひとびとを支配した国家のことを書いた本を教えてください。 たとえば、両親が戦争に行く息子を喜んで送り出さなければならないようにした国家。国のどういうありかたが社会をそのようにさせたのか、人々をそのようにさせたのか、そういうものがかかれている本です。 よろしくおねがいします。

  • 国家とは何か? その存立根拠とは?

     (あ) 存立根拠は 分かりません。ないのではないか?  (い) 国家とは 《スサノヲ市民社会( S 圏)‐もっぱらのアマテラス公民圏( A 圏)》という二階建ての構造を成して 公民 A 圏が主導していとなまれる社会の形態である。と仮説します。  (う) おそらくその特徴は ひとつに 社会秩序の問題として次がある。  ひとが人間としての意志ないし心が踏みにじられるといった不法行為に遭ったとき その不法行為を――それは 無効の行為ゆえに――なかったことにするための原状復帰について 被害者の自力救済に拠らずに アマテラス公民のチカラ(権力)に拠ることを原則とする。  これが 特徴であると考えられる。  (え) すなわちひとは そのしゃべる言葉が 《あやまちうるスサノヲ人間語‐間違いのないアマテラス普遍語(科学語および人格語)》なる二層構造を成すと捉えられる。このとき 普遍 A 語をもっぱらよく行使する 役割りをになう A 圏のチカラに 不法行為を受けてこうむった被害からの救済をゆだねた。  これによって 人びとのあいだの和についてそれを保守する役割りが果たされる。  (お) ところが 人びとのあいだの和は 考えてみれば むしろ《あやまちうるスサノヲ人間語》どうしの――むしろ互いにケンカをも自由に為すほどであるところの――スサノヲ市民としての自由なる自然史過程にゆだねたほうが よくその役割りを果たすものである。のではないだろうか?  (か) それとも 二段構えであるか。つまり S 語によるケンカの結着や仲裁と A 語を介しての解決法との二段構えである。と見るべきだろうか?  (き) けれども 普遍 A 語は スサノヲ人間語なる泥の中に根を張って咲かせる花であって根無し草になってはならない。はずだ。大岡裁判やソロモンの知恵が 大いにのぞましい。  (く) ここで短絡するならば アマテラス圏なるお二階は・つまり国家は 要らない。のではないだろうか?  (け) スサノヲ市民社会の――ムラそれぞれの――自立がのぞまれる。かまど(へっつひ)は S 圏にあり。歴史は ここでいとなまれる。  (こ) それとも A 圏を擁する国家なる社会形態こそが 人間とその社会にとって重大かつ欠くべからざる存立根拠を持つ。と見られますか?