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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文: 創世記第一章(第一節~第五節)についてご造詣の深い質問(神が天地をつ)

神が創造した天地と光に関する質問

AXIS_の回答

  • AXIS_
  • ベストアンサー率12% (9/71)
回答No.5

1について >1:1 はじめに神は天と地とを創造された。  この「神」は人格神を表しているようですね。その人格神がどうやって創造されたのか、ということについては創世記には書かれてないようです。 もう見ているかもしれませんが、http://sora.ishikami.jp/stories/universe.html これはどうでしょう。一般の良識人が見ればかなり引いてしまう内容かもしれないです。 2について  光があってこそ影が出来ます。光がなければ影(陰)はできません。また、影がなければ光を認識できないでしょう。  創世記に「光の前に闇がある」ともし書かれているとすれば、それは闇ではなく、光と影(闇)を含んだ混沌のようなものではないでしょうか。  木で出来た胡桃(木胡桃)はありません。着ぐるみならあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%80%E3%81%90%E3%82%8B%E3%81%BF 偉大なる虚構であり、中の人は小さいのではないでしょうか。  それから、尼河童は知識とうんちくが多いです。

krya1998
質問者

お礼

 天軸さん  ありがとうございました。  光と影を含んだ混沌といえば混沌の状態(といえば状態)でしょうね。  ありがとう御座いました。  木胡桃は現実にはないということもありがとう御座いました。

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