• 締切済み

今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いです

Full_Energyの回答

回答No.29

>あなたは、とても優秀な方だと思います。だからかえって迷ってしまうのでしょうか。  究極的に言えば、言葉にすればそれは全て嘘となります。存在したいいう欲がなければゼロから生じることもなかったでしょう。完全に今解決されれば今すぐにでもゼロとなります。存在欲というものがあります。 >全ては、もとから解決しています。あとは気付くだけ。  すべて解決し、ゼロとなったら次はどうしましょうか。また存在しましょうか、それともそのままに留まりますか?  スペースを入力しても「回答内容を入力してください。」と表示され、投稿できません。 >さて、今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。  「私」から現れたのでしょうね。

関連するQ&A

  • 超越論的観念論

    「カントに即して・・・時間・空間の内に存在するものは、概念として存在するのみならず(1)空間の内にのみ存在するものは数学的実在として、(2)時間の内にのみ存在するものは心理的実在として、そして(3)時間・空間の内に存在するものは物理的実在として存在する。認識の対象とは、この三種類の実在物しかない。よって、その外にはいかなる意味でも実在世界は広がっていないのだが、内と外という言葉に引きずられて、外をも実在化してしまうのだ。」(『観念的生活』超越論的観念論p118 中島義道) 実は、この本を読む前から、存在に関する「この三種類」存在様式について、あれこれ考えていました、勉強不足なのでしょうが、書物にはっきり書かれているのを見るのは初めてです。 ところで、中島さんは「観念論者」ですから、問題ないのですが、私の中には、唯物論・観念論・二元論から、マルクス主義、果てはアナーキーまで、混沌と同居しています。 そうすると、3)は当面問題ないのですが、1)空間の内にのみ存在、2)時間の内にのみ存在、と言う、この二つの表現は、比喩的ではなく字義道理、空間のみ・時間のみの存在は、可能なのでしょうか。 連休中、暇でお金のない、同志の皆さん、此処のところ額に汗、脳ミソに皺を刻んで、深刻に考えるような難問が見当たりません(酔っ払いの戯言ですから、各質問者の皆さん、さらっと流してください)。 さて、皆様、心は完全に、時間だけの中、空間には存在しないでしょうか。 酒の抓みにでもなれば、幸いです。

  • 般若心経は間違い?

    スマナサーラさんの『般若心経は間違い?』という本を読みました。 彼が言うには、「色即是空、空即是色」という部分で、空は色の上位概念であり色即是空は正しいが、空即是色は正しくないというのです。例えば、「みかんは果物です。」は正しいけど、「果物はみかんです」は正しくないのと同じだと。もし、「色即是空、空即是色」が成り立つなら空=色となり、わざわざ別の単語を使う意味がないではないかと。 この経典の著者は空を正しく理解していないとのことです。 皆さんはどう思われますか? それから、この本とははなれますが、こんな説があります。サンスクリット語で書かれたこの経典の世界最古のものは7世紀の法隆寺のものです。カナダ人の学者が、この経典は中国人が作った偽経をあとの時代になってサンスクリット語に逆翻訳したものではないかと言っています。

  • 縁起と空

    「これあればかれあり、これ滅せばかれ滅す」というのが縁起であると聞きました。 これをP、かれをQとすると、縁起は「P→Q、¬P→¬Q」となりさらに「¬P→¬Q」の待遇は「Q→P」となります。つまり縁起は「P→Q、Q→P」となりPとQの相互依存性を示しており、その相互依存性が空であると考えてよいのでしょうか? またPとQあるいはこれとかれは変項であるので、この相互依存性から 「五蘊皆空」であり、「五蘊皆空」であれば「色即是空」であると考えてよいのでしょうか? また「色即是空」は色⇔空なので「空即是色」であると考えてよいのでしょうか?あるいは「色即是空」と「空即是色」は別の意味なのでしょうか? 質問が多くて申し訳ないのですが、よろしくお願いいたします。

  • 密教と般若心経

    密教と般若心経は、どう違うのでしょうか?? 唱えるお経が違うのは知っていますが、まったく別なのでしょうか? 密教で有名なのは空海だと思いますが、般若心経の「空」との関連性はないのでしょうか(色即是空)? もしそうだとしたら、般若心経の開祖は誰でしょうか? ちなみに四国の八十八遍路は、空海ではないのでしょうか? かなり的外れな質問だったら、すみません・・。

  • 色心不二観、について。

     前回(投稿日2012/4/28)の質問のタイトル「この解釈は間違ってますか?」で取り上げた質問文中の“(一)會色(物)帰心観”に続く“(二)色心不二観”です。  「主観の心相と客観の色相とは實は本質一體である。但し衆生が相待の見地よりして内観を主観と云ひ外観を客観と見る。見よ自己が頭より脚下に至る迄外部より見れば全体物質のみである。然るに同一の自己を内観すれば全體精神である。故に物色と心象とは本来一體の両面より色と心とに相待的に観てをる故に、實は色心不二である。」  色即是空という有名な言葉が在りますが、ここで取り上げた文章にある色心不二とは、この色即是空と同じことなのでしょうか。  空=心  即是=不二  と受け止めて間違いないでしょうか。  よろしくお願いいたします。

  • 『空』という文字を使わずして・・・・・

     あの有名な般若心経の中に在る言葉『色即是空、空即是色』の意味を『空』の文字を使わずして論じた文章を見つけました。そこで此処に挙げてみます。  「物心不二観  主観の心象と客観の物象とは、本(もと)同一絶対観念界の故に、主観は能(よ)く客観を寫象し再現し得(う)。全く本質にして相ひ乖違(かいい←そむきたがうこと)するならば認識を可能ならしめざるべし。自ら之を実験(←実体験のこと)するに甚(はなは)だ、然らざるべからざるを信ず。(然らざるべからざる←分かりずらいですが強調した表現、かと思います)  然(しか)るに何故(なにゆえ)に主観客観は同一の本質が相ひ反対せる二現象となるや。答へて、能観の心と所観の物質とは、本(も)と一体を両方面より見たるものなりと云ふ事を得べし。如何(いか)にとなれば物体は外面より之を認識する事を得るも、主観は自ら観ずる外に之を識る由(よし)なし。然れば自己の内面は心にして外面は物質なり。  他の(←他者の)内面は之を意識するに由なきも、理に於いて一致すべき必然の規律あれば、他も自己と同じく内面は精神なり。此の理はすべての有機物を以て現存にまで推理する事を得。故に一切の外観は物質にして内面は心霊なりとすれば、能観と所観と、現存と意識とは同一の本質にして、内面の動機、外面の因果と現るる同一の活動を、二面より見たるに外ならず。  主観と客観とは同一の絶対観念態の内外二面の現象なりとせざるべからず。  故に主観客観は相対的規定の人間の方面より見たるものにして、本来一大観念たる物心不二なり。  之を色即是空空即是色と云ふ。物質が内観すれば観念にして、観念を外観すれば客観なり。故に同一観念態の内外二面なり。此の統一を絶対観念態と云ふ。故に全宇宙は全体客観物体なると共に、全体観念界なり。」  ☆ どうでしょうか。  『空』が意味する処の概念はこれまで多くの方々が“研究”されて、各界で発表されていると思いますが私が接したものは何れも、もう一つ判然としないものばかりでした。『空』の概念がどうもつかめないのです。  でもこうして、「“色即是空空即是色”とはこのことである」とはっきり示されると、これまでのもやもや感がいくぶんか、すっきりとしてきたように思うのです。  また今回心に残ったのは「内面の動機・外面の因果と現るる同一の活動」という言葉です。  皆様はどう思われますでしょうか。  ご意見など頂ければ、と思っています。  

  • ★現代医学上の意識について

    現代医学上 意識とはどのように捉えられているのでしょうか? 以下 私(達)の認識ですが、 脳だけではなくすべては宇宙なわけですが、それは、個々のものは私たちの認識によって生まれている(そのように見えている)ものであって、宇宙という観点では、脳と脳以外を分ける境界線は実在しないということです。 認識とは、そこに(脳と脳以外のところに)観念的な境界線を引き、脳を概念として存在させることです。 それを「観念的に位置づける」と言うこともできます。概念とは、観念的な位置のことであり、位置としては存在するが実在はしないもののことです。 一方、この宇宙は、すべてが宇宙であるために、「位置」そのものが実在しません。 私たちは宇宙であって、私やあなたとして実在しているのではありません。 ところが、認識はそれを概念化して捉えることで「別々に存在している」というふうに解釈するのです。 質問(1)医学上 意識とはどのように解釈されるのでしょうか?    (2)境界線とは自我を超えて存在している意識上のという解釈でよろしいでしょうか?    (3)意識には時間という概念は含んで考えられますか? あくまで現代医学上での判断基準でお願いします。       

  • 聴光菩薩は存在するのでしょうか?

    聴光菩薩は存在するのでしょうか? 観音菩薩は仏様として代表的ですが、音を観るという公案のような言葉は高揚した宗教的境地をイメージしているようです。 さて、音を観るに対して、景色を聞くという表現が対になります。光を聴くという言葉を観たことがありますが、正式に聴光菩薩という仏様が存在するのでしょうか? 色即是空 空即是色 のような経文のように存在するような気もするのですが、原典やお祀り先のお寺などの心当たりがある方がいらっしゃいましたら、どうぞお教え下さい。

  • 位相空間についての質問

    次の集合論・位相空間論の問題が分かりません。教えていただけると嬉しいです。 (X,d)を距離空間f:X→Xを連続写像とする。 {K_n}(n≧1)を空でないコンパクト集合の列で f(K_n)⊃K_(n+1)が全てのn∈Nについて成立するとする。 このとき空でないコンパクト集合Kでf(K)=Kとなるものが存在することを示せ。

  • ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるの

    ズバリ、唯識の欠点とは何か? 現代哲学はどう唯識を本質的に批判できるのか? 答えられる方があればお願いします。ちなみに、百歩譲って、下のwikipediaの記述における間違いでも結構です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98 唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の 見解の一つである。ここで、八種類の識とは、五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な、表象、認識、思考の諸行為を内含し、それらと相互に影響を与えあうその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な虚構であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、生滅 を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。このように、唯識は大乗仏教の空 (仏教)の思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別されるべきである、、、