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キリスト教で救われるには何が必要ですか?

キリスト教で救われるには何が必要ですか?

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  • kigurumi
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回答No.5

<情けは人のためならず>かな? 情けは人を駄目にするから情けをかけるな という意味じゃなくて、情けをかけることで自分も救われるという意味。 ユダヤ教って同胞愛を解いており、神はイスラエル人のみを選んだとなっているんです。 神がわが子という場合は、イスラエル人を指す。 イスラエル人集団内で殺人は禁止です。 禁止というより、<私の子(イスラエル人)なら人を殺そうか 殺すなんてありえない>という表現を使っています。 古代、禁止+否定 というものはヘブライ語に無かったので。 で、わが子に対して「あなたの敵が、服を質にしてお金を借り、日没までにお金を返せなかったら、あなたはその人に服を返さなければならない。その人は夜服が無いと凍えてしまうから」と言っています。 「あなたの敵のロバが荷物ごと倒れていたら、あなたはその人とともにロバを助け起こさなければならない」となっています。 この敵というのは異邦人(神の子ではない)を指しているのではなく、あくまで神の子(イスラエル人)のことを指しています。 日頃よく思っていない近所の人のことを敵って表現している。 あくまでこの法律はイスラエル人内に向けたものだから。 イスラエル人同士においての敵とは、同じイスラエル人でありながら、日頃よく思えない隣人のイスラエル人のこと。 異邦人に対しても情けをかけたほうがいいと言ってます。 何故なら神の子はかつてエジプトの奴隷の身だったから、辛さをよく知っている民族だから と神は言っています。 神の子は奴隷になってはならないが、やむおえない事情で奴隷になった人に対して、7年の期限つきで雇い、奉公期間が終了したとき、その人が独立していける十分な援助を与えて、奴隷の身から開放しなければならない という規定があります。 何故なら神の子はかつて奴隷の身分だったから。  神が開放したから、神の子である以上 神と同じことを同胞に対してしなければならない となっているわけです。 許しについても触れられています。 自分の家畜が隣人の家畜と喧嘩して命を奪ってしまった場合、祈りの時間であってもまず、隣人に謝罪しにいかなければならず、謝罪された者は許さなければならないとなっています。 何故なら逆の立場にたったとき、自分が許されるから。 この場合の隣人も異邦人のことではなく神の子イスラエル人限定です。 同胞愛です。 イエス物語でも許しが解かれていますし、何度でも許しなさいと書かれています。 が、あくまで分別をもって許しなさいであって、どんなことがあっても許せとは書かれていません。 例えば隣人に妬まれ家に火をつけられ、家畜と家族が死んでしまっても許せとは解かれていません。 あくまで過失に関しては許しなさい さもないと自分が過失を犯したとき許されなくなる となっている。 過失であっても「ええい 許すもんか」となった場合は救いが無い。 神が許せと言っている以上 ワザとじゃないんだから許す となったら神からの言葉に従って隣人は許してくれたわけですから、神が救ったも同然。 ですから、神の子ではない者に対しては容赦しないんです。 だから「人を殺してはならない」という規定があるイスラエル人はパレスチナ人とは殺し合いをしても、それは規約違反ではないんです。 神がエリコの住民を皆殺しにしろと命令し、その土地をイスラエル人の土地とすると約束したんです。 だからイエスは神の命令通り皆殺しを命じ、その土地を12族に分け与えたわけです。 キリスト教も一緒で、キリスト教徒ではない人に対しては残虐でした。 同胞ではない人には容赦しなかった。 で、お金持ちに外国人は異邦人なので、その人から財産を奪うためにその人を魔女としました。 またキリスト教徒でありながら、美人の人の場合も、あまりにも美しいのは魔女に違いないとねたんだブサイク女が訴え、その美人は魔女として裁判にかけられ、魔女ではないと最後まで言っても、魔女だと嘘をついても、殺されていました。 殺して奪った財産は支配者とキリスト教会で分配されました。 ということで、日本人は神の子ではないし、キリスト教徒でもないので、敵なわけです。 いつ攻撃して東の果てのエデンが日本だとして日本の土地を奪われるかわからない。 そこはうまく政府が外交をしているのと、日本人がキリスト教徒に追い詰められたユダヤ人を助けたという歴史があり、日本とイスラエルは仲良しなんです。 だから、日本が再度キリスト教に攻撃を受けたときは、イスラエル人が守ってくれると思う。 イスラエルの神の救いとなるわけです。

pas26
質問者

お礼

大変参考になりました。 詳しいエピソードによるご回答どうもありがとうございました!

その他の回答 (13)

  • katyan1234
  • ベストアンサー率18% (347/1849)
回答No.14

何も必要なし あなたがまず信じたいという気持ちです。 教会員になるならないというのはあなたの選択です。 (また別の話ですね。) まあ聖書は必要でしょうね(笑) 急に行っても理解できないと思います・・・ ブログとかHPとかもあるし 三浦綾子さんの新約聖書入門を買って読んでください。

pas26
質問者

お礼

アドバイスどうもありがとうございました!

  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4336)
回答No.13

先に回答したものです。時間が取れましたので、 キリスト教の愛について少し補足しておきます。 愛は聖書において、もっとも重要なことの一つであるから、 聖書はこれを厳密に規定した。 新約聖書はキリスト教の 愛をあらわすため、ギリシャ語で、普通に用いられる四つの愛という語、 エロース(性的な愛)ストルケ(家族に対する愛)フィリア(友人に対する愛) アガペーのうち、アガペーを用いている。旧約聖書のギリシャ語訳においても へブル語の愛に当たるアハバーのやくごには、アガペーのみが用いられている。 これは、いずれも愛を他の類似の愛と区別するためである。 愛は紙の人間に対する愛、人間の神に対する愛、人間の人間に対する愛、 の三つに分けて考えることができる。 その三者の関係を、よく表したものは、「私達が神を愛したのではなく、神が私達を 愛してくださって、私達の罪のため贖いの供え物として、御子を おつかわしになった。。ここに愛がある。愛する者たちよ、 神がこのように私達を愛してくださったのだから、 わたしたちもたがいにあいしあうべきである。」につづくヨハネの手紙一の7~21であろう。 聖書辞典参照 他にとても具体的で分かり易いのは、コリントの信徒への手紙13章の4 愛は忍耐ずよい。 愛は情け深い。ねたまない。愛はじまんせず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、 いらだたず、恨みを抱かない、不義をよろこばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、全てを信じ、 全てを望み、全てに耐える。 凡人である私にはとても難しいことですが、掲げるべき目標だと思っています。 お年を召されてから教会に来られる方もいらっしゃいます。 なにもすべての事に精通されていなくもいいのです。 イエスも汝らこの幼子の如きものにあらずば、神の国に入ることあたわず。 と弟子たちに戒めておられます 自分を飾らず偽らず情けない自分のまま神に祈ればいいと私は思っています。 教会のホームページも、沢山あります。 中には牧師の礼拝での、お説教が入っているのもあります。 「日本キリスト教団に属する教会伝道所のホームページ」の中から お近くの教会のホームぺエージを開けて、教会ってどんな処かしら、って のぞいてみてください。 私が個人的によくお邪魔するのは高槻日吉代教会でコメントも受け付けています。 神様のお恵みを祈ります。

pas26
質問者

お礼

大変参考になりました。 愛についてとても詳しくご説明くださり、どうもありがとうございました!

  • cxe28284
  • ベストアンサー率21% (932/4336)
回答No.12

イエス様を信じる信仰によって、あなたが神様から愛されている事を信じることです。

pas26
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました!

回答No.11

 http://okwave.jp/qa/q5924526.htmlにおいて、bungetsuさんの#1回答は、kigurumiさんのユダヤ教の立場を連想させるもので、宗教というものの理解に役立ちます。

pas26
質問者

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キリスト教の救いと関係あるのでしょうか?

回答No.10

他宗教の教えや、生物学者、生命科学者などの言う事に耳を貸さないことが必要です。 それからダーウィンの進化論を学校教育で教えないという運動に参加するのも必要かもしれないです。

pas26
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました!

回答No.9

 信じるものは――信じることは 非思考ですから―― キリスト教という教義ではありません。あり得ません。      文字は殺しますが 霊は生かします。  霊とは 経験思考を超えたところという意味でしょう。それでなければ わざわざ信じるという言葉は使いません。  霊によって生かされるには 何も必要ではありません。必要だと言われているものをすべて捨ててください。また 何かが必要なのではないかというその思いや疑いをも捨ててください。  何にも要りません。《何にも要らない》という思いが要ります。  あとは 霊のほうからやって来てくれます。  窓をノックする音が聞こえたら――そのときを俟って 少しは耳を澄ましていることは〔前言をひるがえしますが〕必要かも知れません―― 待っていましたと受け取りましょう。  このときの領収証を出すのは あなたです。それは 非思考だけではなく思考をも交えた意志行為です。  あとは そうですね。受け取ったなら それはきわめて軽い荷ですが たぶん試練が待っているとも思います。試練というよりは そこで背負った荷は――軽いのですが―― その中身が自分ひとりだけの問題ではないと来ています。ほかのひととつながっていて 身の周りの人びとや 果ては世界の人びとの問題とつながっています。軽い荷物ではありますが それを背負うのは もはや死ぬまでです。背負いきれない荷物は 一人ひとりそれぞれについて 無いと言われています。  ぼん・を゛わいやーじゅ!!

pas26
質問者

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キリスト教の救いと関係あるのでしょうか?

回答No.8

 教会や著述でキリスト教が分れば、それに出会うことができれば、そこで勉強し、教えを精進することでしょうね。  聖書を読んでそういう出会いが可能ならそうする事でしょうね。聖書を読んでそういう出会いができるためには聖書の意味を開く鍵を持たないと、鍵を持たない普通の人は無理でしょう。  ユダヤ教から出てきているそうですが、それならユダヤ教の本当の教えの中でキリスト教の根っこに到り、その根っこがどんな根っこから出てきているかを更に探す事でしょう。  歴史の事実として、ユダヤ教から出てきていても、キリスト教が新しいそれとは異なる内容を持っていれば、その別なるものの根っこにいたることでしょう。  事実としてのユダヤ教やキリスト教と、教えの根本としてのキリスト教は一致しているという事は先ず考えられません。  そこには、真剣な生き方が要求されるでしょう。単に知的な論理や知識でない、真摯な追究が必要でしょう。  それは、もっとも良心的で、且つ、根本的で当たり前のの真理にいたることでしょう。  それを聖書と同じ信者と教会の中で得ていく事でしょう。  それが何か。それを聖書の教えとして、本当の方が実現しているのでしょう。だからご自身も奏されるべきです。  言葉では無論、愛だとかなんだとか言っています。キリスト教の愛って、キリスト教からは分りませんでした。  自分で人生をどう生きていくかをずぅっと思ってきて、やはりこれはすごい思想だと存じました。

pas26
質問者

お礼

詳しい説明によるご回答どうもありがとうございました!

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.7

あー 付け加えると、異邦人についてのくだりですが、良き隣人としてサマリア人のことが書かれている。 エジプトから脱出したこの民族がついに国を作ることになり、首都をサマリアにしたそうです。 サ・マリア。 サは何を意味しているのかはわかりません。 で、やがて分裂してイスラエル王国とユダ王国ができたんです。 イスラエル王国はアッシリアに攻撃され陥落。 アッシリアはイスラエル王国の土地を植民地にし、大量にアッシリアから移民が流入。 しかし、元住民は山を神の住まいとして信仰を貫いた。 ユダ王国はエルサレムを首都とし、山ではなく山にみたてた神殿を神の住まいとした。 信仰が分裂したので、ユダ王国はアッシリアに陥落したのは、イスラエル王国の人々が神の機嫌を損なったからだとして、元イスラエル王国の人達を見下しサマリア人と蔑称するようになった。 ですが、サマリア人もイスラエル人なんです。 同じ同胞なんです。 同胞が倒れているのにユダ王国の住民は誰も助けなくて、日頃ユダ王国の住民が見下している同胞のサマリア人が助けたというエピソードをもって、同胞愛はサマリア人の方が優れている、何故サマリア人のように隣人・同胞をを愛せないのか 利己的すぎるではないか、それでは神の子にふさわしくない というわけです。 例えばボランティア活動として、家庭を顧みずに外にばかり愛を向ける人がいます。 子どもがさびしがっているのに、それに気づかず、自分は社会ですばらしい役割を果たしているんだと、外に人から賞賛されることで、自分の存在価値を高めようとするおろかな人がいる。 その人が救われるためには、同胞である家庭をまず顧みることです。 宗教に熱心で家庭をおろそかにしている人は、まずなにより家庭を顧みることです。 それがキリスト教が救われる手段ではないかと。 布教よりまず自分たちの宗教を見つめなおすことです。 内部の腐敗を正すことです。 それをいつまでもやらないから、キリスト教では誰も救われることが無かったわけです。 宗教にのめりこんで利己的主義に走り、家族を省みなかったため、家庭が崩壊したんです。

pas26
質問者

お礼

詳しいエピソードによる補足説明とアドバイスどうもありがとうございました!

  • yoshua7
  • ベストアンサー率32% (63/192)
回答No.6

「愛」です。それに勝るものはありません。 マタイによる福音書 第19章19節の中にはこのようにあります。 『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』 神は「愛」です。

pas26
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました!

回答No.4

信じることと見返りを求めないことが大切です。 生き方を学びましょう。

pas26
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました!

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