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江戸時代の貨幣単位と実質額について
江戸時代の貨幣単位と実質額について 天明年間(1780年代)の石塔に次のような奉納銘がありました。 金 百匹 Aさん 白銀一片 Bさん 一貫百文 Cさん 五百文 AAさん 二貫二百文 Dさん 白銀一片 Eさん 白銀一片 EEさん 白銀一片 Fさん それなりに立派な石塔なのですが、貨幣?単位がバラバラで、 トータルでいくらなのかがよく判りません。全部で一両くらいにはなっているのでしょうか。 もし可能であれば、ここの貨幣?単位がどういう関係になるのかなどもお教え頂けると嬉しいです。 金一両=銀六十匁=銭四貫のレートでしょうか。
- WOcWOc
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諸賢の答えが出そろったようで、まとめて見ます。 関東の話とします。 匹(疋)、白銀、貫文別にまとめると、 百匹、 三貫八百文、 白銀四片になります。 1匹は古来10文で、幕末1文の価値がさがり1匹が25文になりましたが、このころは10文の筈です。 それで百匹は1000文。 三貫八百文は3800文です。 計4800文。 元禄の公定相場で、1両4000文と決められましたが、実際は変動相場で 「両替年代記」によると、元文期(1736~1817)は1両が銀61.57匁、銭5貫287文とあります。 貨幣改鋳を境に江戸期を十期にわけています。 4800文は約0.9両になります。 白銀は丁銀をいう事もありますが、丁銀は普通何枚と言います。 量目が不定のため小粒銀を加え、定量にした紙包みで通用します。 白銀何片と言えば当時流通が始まった二朱銀(八分の一両)のことと思います。 一片の価値が決まる定位貨幣が関東では好まれました。 白銀4片は0.5両 合計約1.4両になります。 いまの価値に換算は難しいのですが、1両が12~15万円でしょうか。 大雑把に見て約20万円です。
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- goo-par1732
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「白金一片」というのは、明和9年(1772年)に創鋳された南鐐(なんりょう)銀の ことです。 表面に「以南鐐八片換小判一兩」と明記されており、八片で一両と交換できます。 「豊田市郷土資料館だより」の中に具体的な使用例があります。 豊田市郷土資料館 俳人鶴田卓池の菅沼鵞洞宛書簡 http://www.toyota-rekihaku.com/shiryo/pdf/47.pdf 「摺紙料摺物料として南鐐(二朱銀)一片を何度もおくっている」と書いてありますね。 二朱銀つまり1/8両です。 幕府公定レートの金一両=銀六十匁=銭四貫で評価すると銭五百文になります。 元禄13年(1700年)に出された幕府の公定レートですが、 幕府は公定したものの、原則は市場相場にゆだねています。 天明年間の相場は分かりませんが、 明和年間当時の市場相場は、金一両=銀62-65匁の水準だった、と 手元にある三上隆三著『江戸の貨幣物語』にあります。 比較し易いように「文」で統一して計算します。 なお、金 百疋(ひき)は、1千文です。 A 1000文 B 500文 C 1100文 AA 500文 D 2200文 E 500文 EE 500文 F 500文 合計6800文ですから、幕府公定レートで1.7両ほどになります。 南鐐二朱銀 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%90%90%E4%BA%8C%E6%9C%B1%E9%8A%80
お礼
ご回答頂きありがとうございました。 goo-par1732様をベストアンサーにさせて頂こうか迷いました。 詳細な解説、本当に感謝しております。
- morinosa11
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No.4です。 一両は10万円です。 記入ミスしました。m(_ _)m
お礼
ご回答頂きありがとうございました。 現在の金額との比較、とても判りやすかったです。
- morinosa11
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大体 現代の価格として 一両 100000万円 一分 25000円(一両の四分の一) 一朱 6250円 (一両の十六分の一) 一両 4000文 一文 25円 一両 60匁 一匁 1666円 一両 6貫500文 徳川家康が慶長八年 お金の基準を基準通貨として定める。 しかし,それでも,分、朱までである. それに反して 大阪では重さを重視し 銀を秀吉の頃から発行し,発展させる. 江戸幕府は「基準通貨の 小判一両につき銀は60匁で相当する」と定める。 家康は、もう一つ銭という単位を流通させる。 八百文が束になってる「八文差し」 二百文が束になってる「二文差し」がある。
- fumiyahama
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No,2の回答の訂正です・・・AAさん・・・計算が違います。失礼しました。 五百文 AAさん・・・5/50両
お礼
ご回答頂きありがとうございました。 訂正回答もありがとうございました。 白銀一片の表記が特殊なこともわかりました。 大雑把に計算して、2.7両くらいでしょうか。
- fumiyahama
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「金 百匹」・・・・『金』と書いてあっても、百匹は銭一貫目のことですから、一分判(金貨)に相当するということでしょうか。 「白銀一片」・・・・この表示が『丁銀』を表すと仮定して、天明年間(1780年代)という年代には、まだ秤量銀貨が流通していたとすれば43匁(約161.25グラム)前後の銀を量って使っていた(実際は両替商が43匁を紙に包んで封印していた)ようです。 京阪地区での取引相場は、金一両に対し銀63匁~64匁の範囲で取引されていたようです。(小野武雄著「江戸物価事典」) 交換相場は変動しますが、明和年間(1768-72)には、金一両は五貫文台になっていると「江戸物価事典」に書かれています。 +++++++++++++++++++++++++++ 金 百匹 Aさん・・・1/5両 白銀一片 Bさん・・・43/63.5両(白銀一片を丁銀と仮定。これが五匁銀だとすると5/63.5両) 一貫百文 Cさん・・・11/50両 五百文 AAさん・・ 10/50両 二貫二百文 Dさん・・・22/50両 白銀一片 Eさん・・・43/63.5両 白銀一片 EEさん・・ 43/63.5両 白銀一片 Fさん・・・43/63.5両 これを計算すれば、よろしいかと思いますが、私の独断と偏見による算定です。
- globef
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・一両 = 四分 ・一分 = 四朱 ・一朱 = 二百五十文 ・一両は4,000文 しかし、 江戸時代初期においては、 一両=2,000文ということもあったようです 江戸時代後期においては、 一両=6,500文へと変わっていったようです。 >金一両=銀六十匁=銭四貫のレートでしょうか。 江戸時代のどの時期かにもよるかと・・・ http://homepage3.nifty.com/ponpoko-y/joho/kahei.htm
お礼
ご回答頂きありがとうございました。 リンク先拝見いたしました。貫や一片は掲載されておりませんが、大変参考になりました。
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