もののあはれは安全保障に通用するか?

このQ&Aのポイント
  • もののあはれは、主観的な知覚に基づく思想であり、感覚や気持ちによる第一次的な判断を重視します。
  • 一方で、生命や生活の安全を守るために戦争を嫌うという考えもあります。
  • しかし、安全保障においてもののあはれがどのような影響を与えるのかについては疑問が残ります。
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もののあはれは 安全保障には通用せぬか?

 もののあはれは きわめて主観的な知覚にもとづきみづからの判断〔のひとつ〕を持つという思想です。人情を義理よりも――まづは感覚や気持ちによっておこなう第一次的な判断としては―― とうといと見なすものです。  殺されたくないし ひとを殺したくないという気持ちを第一にとうとぶという理由から 生命や生活の安全を守るためと言えども戦争は嫌うということ。戦争という手段を 《あはれ》の気持ちに対しては先行させない。あるいはそもそも 戦争をその範疇じたいとして存在しないと見なすという思想になり得ます。  けれども考えてみれば 狭い料簡だとも捨てたものだとも思えないかも知れません。というのも たとえばオバマは遠くない過去に次のように言ったそうですが けっきょくどちらも主観丸出しの気持ちの表明であるに過ぎないとも思われるからです。  ▲  《武力行使が道徳的にも正当化される場合がある》。    ☆ さて日本人から見て日本にとっても世界にとっても安全保障はどのような施策を採用するのがよいでしょう? ひとりの主観から始まるようだと思って その素朴な思想のあり方のあたりについて問います。  参考:(文学論を超えて もののあはれを捉えるという意味で)  ◆ (本居宣長:源氏物語玉の小櫛) ~~~~~~~~~~~~~  物の哀れを知るといふことをおし広めなば 身を修め 家をも国をも治むべき道にもわたりぬべきなり。  人の親の子を思ふ心・しわざを哀れと思ひ知らば 不孝の子は世にあるまじく 民のいたつき(労苦)・奴(下僕)のつとめを哀れと思ひ知らむには 世に不仁の君はあるまじきを 不仁なる君・不孝なる子も世にあるは いひもてゆけば 物の哀れを知らねばぞかし。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#135843
noname#135843
回答No.2

 ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。 > ☆ なるほど。指向性あるいは志向性ですね。方向性を持ったヱ゛クトルが 思想にとっては いい場合がありますね。  ご支持いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > それでももし 一般の安全保障論ともかみ合わせて議論しうるかたちがありますならば ご一考願えればとも思います。  こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。 > もののあはれ論について 少しく触れます。こういう批判があります。  ▲ (日野龍夫:《物のあわれを知る》の説の来歴) ~~~~~~  しかし宣長の理論に混乱がないのは それが一種の同義反復であるからに過ぎない。宣長の言っていることは 要するに 《物のあわれを知る》人々によって構成されている社会では 人々が《物のあわれを知る》ことによって社会は穏やかに平和に治まる ということなのである。  つまり《物のあわれを知る》心は儒仏の教えに代わるべき人間の生き方の規範であるという宣長の理論が有効であるためには 社会の成員のすべてが《物のあわれを知る》人であるような社会がその前に出来上がっていなければいけない ということになる。・・・ (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 p.544) > 後段については 見方をもっと柔軟に持っていてもよいような気がします。《儒教や仏教あるいはほかの思想などなどに全面的に取って代わる》必要もないでしょうし。あるいはまた 《言挙げせずとも分かり合える》情況において 現代ではその内部においてもそしてむろん外部との交通においても さらに《言挙げして説明するわざにもすすんで及ぶ》ことは考えられます。  “Mottaninai”と同様、“Mononoahare (Mononoaware)”もぜひとも、海外に認められ、この文化も「案外、いい文化だなぁ」といってもらえる日がくることを説に望んでいる私大でございます。そして、前段におきまして懸念されるこの言葉の意味するところを理解できる人たちで“構成される社会(コミュニティー)”もいいものかと考えております。 > 外国人に対してだけではなく いまではわれらが同胞に対しても 説明が必要であるようにさえ思えます。  確かに、仰るとおりかと存じます。日本国内におきましても、案外忘れられているという心配がございます。従いまして、再度、改めて認識する必要もあろうかと察しております。 > もうひとつの問題は 人情を義理さえよりも優先させるという場合には ちょっと無理があるようにも感じます。何が何でも身内を先に守れだとか そういう風潮になるやも知れません。 ダッカ日航機ハイジャック事件 「人命は地球より重い」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AB%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6  現時点では、SAT部隊の設置に伴い、上記「人命は地球より重い」という言葉の評価は、低く見られているように考えております。確かに、人情(特にひとの命がかかった問題)につきましては、困難な場面も想定しておかなくてはいけないかと思っております。 * 《ゆづる》――このことばは いかがですか? 《一歩ゆづる》。 ですが ほかの国では このゆづるは どういう言語習慣なんでしょう? 気になっています。  以下に、アルクにて調べたものを載せております。案外、日本語の《一歩ゆづる》に近い語は見つけにくいように思われますが、いかがでしょうか。 http://eow.alc.co.jp/%e8%ad%b2%e3%82%8b/UTF-8/?ref=sa (1)若者に道を譲る make way for new blood (2)(人)に勝利を譲る concede someone the palm of victory (3)~を次の世代に譲る pass ~ to the next generation  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 《ゆづる》の英語表現集をありがとうございます。  見ますと 英語では一般に 身の所作じたいを表わしているように思いました。  ○ 一歩ゆづる: Take a step back.  ○ 席をゆづる: vacate their seats / make room / stand up to make room for / offer one's seat (to) / get up and let someone sit down  ○ 支配権をゆづる: hand over control of the country  ○ 道をゆづる: clear the field for / give way / open out  ☆ つまり 身の所作ということが この場合スサノヲ語にあたる部分なのではないかと思いました。むろんいろんなアマテラス概念語化による文化形式もあるということだと思います。  ○ 領土をゆづる: concede a territory  ☆ この《 concede 》ないし《 cede 》ですけれど これも原義は《行く・去って行く》であるようです。その結果 相手にゆづる。ゆづり渡す。  ★ 案外、日本語の《一歩ゆづる》に近い語は見つけにくいように思われますが、いかがでしょうか。  ☆ という感触を持たれているようですね。ありがとうございました。さらにわたし自身も 煮詰めていければと思ってはおります。《ゆづる》の原義も知りたくなりました。  反応そのまま・荒削りのままの文章ですが どうぞお収めください。たたき台になりますやら。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  ★ “Mottainai”と同様、“Mononoahare (Mononoaware)”もぜひとも、海外に認められ、この文化も「案外、いい文化だなぁ」といってもらえる日がくることを説に望んでいる次第でございます。  ☆ 物の哀れは 《 Ah-ness of things 》と訳されるということをどこかで読んだことがあります。ざっくばらんには 感嘆詞の問題になるようです。  ○ ぴかぴか ∽ ひかり(光)  ○ ずるずる ∽ ずれ・ずらし  ○ だぶだぶ ∽ だぶる (おそらく 英語の double から来ているのであろ     うが ちょうど日本語の音感にも合っていた)。  ☆ 自然音の代理(≒スサノヲ語)と概念語(アマテラス語)とが しばしば 互いにきづなを持つと思われます。概念語にするには 多くの場合 ラ行音が添加語尾として用いられるようです。  ★ そして、前段におきまして懸念されるこの言葉(* 《物のあわれを知る》)の意味するところを理解できる人たちで“構成される社会(コミュニティー)”もいいものかと考えております。  ☆ このご指摘については じつは 考えてみていたのでした。すなわち そういう原始的にして人間的な共生の世の中というものを思い描いてみるということをしていました。案外 思い描きやすいように思うのです。すんなりと行くように感じます。ので ぎゃくに 控えました。  よく分かりません。分かっていることは すでに仮想現実の言葉やその世界もそれとして出来ている時代になっていると思われたことです。もののあはれに対して やはり倫理的な規範を表わすアマテラス人格語も 持たれているという事態です。ということは このスサノヲ語とアマテラス語との複層から成る社会(人間関係)をじっさいの舞台としていてよいだろうと思ったというのが ひとまづの判断でした。  そこでこの《 S - A 連関性》という或る種の構造を一応の前提として考えるならどうなるか? ちょうど例示していただいたハイジャック事件について当てはめてみるとどういう考え方になるかと試行してみました。  まづ 《「人命は地球より重い」》は 物のあはれ――生命存在へのいとおしみ あるいは 互いの共生のよろこび――にもとづく概念表現であるかと考えます。  それでも順序というものが少なからず無情にもついて回るというのも じっさいです。たとえば乗客の身内の人たちが その身内の生命の安全を優先させて欲しいと訴えるのか? あるいは 乗組員か? あるいは あたかも敵をも愛せというかのごとく 犯行者についてもその存在じたいは守ろうとするのか?  さらにあるいは ダッカにおいてはそのバングラデシュのかかわってくれている人びと むしろこれらの人びとの身の安全を第一に考えるのが この場合の日本人にとっては 物のあはれのほんとうの実践であるのか。  あるいはほかには 世界からの声として《輸出大国の日本人は テロをも輸出するのか》となじられたそうですが そうなるとどうしてもテロの撲滅ということをいちばんの使命とすべきなのか? (そして 触れておられるように SAT部隊の創設という事態にもなったようですが)。  いまその正解を保留しつつですが 先の課題としましては じつは・じつに スサノヲ語としての単層の《物のあはれ》自体に――このように見てくると―― 《 S - A 連関性》という複層の構造が潜んでいるというように思ったのです。  しかも この場合の《 A 》つまりアマテラス語倫理規範等については 物のあはれとは必ずしも同じではないスサノヲ人間語としての民族文化から抽象された概念もあるだろうと たしかに思われます。儒教・仏教・クリスチアニズム・イスラーム等々。  わたしの偏見は スサノヲ語としては 物のあはれ。アマテラス語としては 聖書(キリスト信仰を経験思考に当てて表現したもの)。だと思っていますが このあたりが みなで・そして世界中において 議論しあっていくとよいと思われる主題ではないだろうか。こう思った次第ですが いかがでしょうか?

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noname#135843
noname#135843
回答No.5

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 ▲ (日野:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~~~~~  人間の価値が確立されていない前近代の社会においては 《人間の真情》がそれ自体で〔* A としての概念をになう〕価値と認められるということは その場その場の一瞬の事実としてあるだけで 理念としてはありえない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間の価値が確立されていない》というのは 身分関係が 個人の存在に先立つ社会的な力であったことだと見ます。  愚生は以下のように考えてみました。 「宣長にあっては、「漢意」こそは上代以来の日本の優れた人倫や文明の健全なる継承を妨げる障害であり、いかなる場合にあっても排撃の対象として極めてマイナスの評価しか与えられていない。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%84%8F  因みに、「漢意」は宣長により、以下のように解されているようでございます。 「漢意(からごころ)」:中国風の生き方を好み、中国思想(主に儒学・朱子学と考えらます)を崇敬する心のみをいうのではない。世間の人が、あらゆる物事の善悪や是非を論じ、物の道理(事象の背後にある、我々に理解可能な、概念化された原理・原則)を論定していうことなどの類は、皆漢意(からごころ)であるのをいうのである。 http://www.norinaga.jp/003/index.html 中国思想と申しますと、当時では、儒学・朱子学を意味していたと考えられます。 そこで、朱子学の特徴としまして、林羅山の思想が浮かびました。 「林羅山は、朱子学者として、万物は「理」と「気」から成るとする理気二元論を説き、理法が諸現象を支配するのと同様に理性が情欲を支配することを理想とした。また、上下定分の理を説いて士農工商の身分制度を正当化した。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1 従いまして、もちろん、今日ほどではないにしましても、身分関係につきましては、意外と、その関係には批判的ではなかったのではないか? とそう思った次第でございます。 > S 語を生かす A 概念は そうとう抽象的なものでないと ぎゃくに S 語を窮屈にしてしまうというように思われます。《むさぼるなかれ》でも 窮屈さを覚えるかも知れません。《怒ってはいけない》ですとか《無私の精神になれ》ですとかを アマテラス規範語として持つときには むしろ心の自由が窒息してしまうかも知れません。  このご意見につきましては、賛同致したく存じます。 従いまして、愚生の「”A” の部分にも 《物のあはれにかんして 性善説にもとづくその核心としての要素》を掲げる」は、撤回させていただきたく存じます。bragelonne様のご意見が正しいと考えられます。確かに、愚見ですと、ギスギス感がでてきてしまう危険性がでてくる可能性が大きいかと思われるからでございます。どうも、ご教示いただきまして、ありがとうございました。厚くお礼申しあげます。 > こうして たしかに【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】を問おうと思います。  初めにおことわりしましたように 迷走していますし あるいは むしろ強引なところもあるようですが まづはこういった方向を捉えました。  よろしくお願い申し上げます。  駄文ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん ご回答をありがとうございます。  儒教なら 仁義礼智信と言うぢゃないですか。礼や智は 形象をともなっていて もしそれらを A 概念やその規範とするなら やはり窮屈になると思われますが 仁義信などは むしろ抽象的であるので かえって A 人格語としては――そしてそのように限定して規定するのみですが―― 立てられることがありうるとまでは思いました。  仁などというのは むしろ《人間関係》というきわめて中立的な意味合いであるかとさえ――あるいは 基礎としてそうであるのではないかとさえ――思ったりします。  義は 主観によって変わるのではないでしょうか?  信は それを言ったあと もはや背景にしりぞくとさえ思えます。  けっきょく これら仁義信をぎゃくに S 人間語として捉えるなら それらにも《もののあはれ》なる心情や観点が土壌と成っているとさえ考えられて来ます。  さらに飛躍して考えるのですが もし《もののあはれ》の核心に《愛》があるとすれば これは それとして(つまりとりあえず抽象的な概念として)ながら A 普遍語にも成りえるかにも思われて来ます。  なるほど  ▲ 「林羅山は、朱子学者として、万物は「理」と「気」から成るとする理気二元論を説き、理法が諸現象を支配するのと同様に理性が情欲を支配することを理想とした。  ☆ という場合の アマテラス語規範は 漢意でしょうし ただ四角四面のものさしを作っただけのように感じます。  ★ 従いまして、もちろん、今日ほどではないにしましても、身分関係につきましては、意外と、その関係には批判的ではなかったのではないか? とそう思った次第でございます。  ☆ この身分制度につきましては そうであるゆえ アマテラス普遍語を問い求めるときには この身分制度にまつわる規範思想――忠君でしょうか――との衝突を避けられなかった。つまりこの衝突を超えて 人間存在の平等をとなえるような普遍概念を掲げることは むつかしかったのではないかと思ってのことでした。  字面の上で 意見が割れていますが 結論は同じではないかと思います。  ☆☆ こうして たしかに【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】を問おうと思います。  ☆ そして問いました。これは 《愛》を持ち出すと 神学にかかわってくるので いまは《慈悲》のほうで問うてみたものです。  さて どうでしょう?

noname#135843
noname#135843
回答No.4

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ☆ こうなりますと 《 S 》はもののあはれで 《 A 》も社会制度としての神道だということになります。つまり 両方が 神道です。時代的な制約条件があったのでしょうか。  わたしが考えていましたのは     S : もののあはれ
   A : たとえば《ひとの命は地球よりも重い》  こういう《 S - A 連関性》でした。A の部分には 既成の宗教などから自由な中立的な表現がよいと思うのです。  そう考えた場合 A の部分には最大公約数としてなら 《愛》もしくは《慈悲》が来るのだろうと考えます。  でもこの愛も慈悲も――アマテラス概念ですから 当然ですが――きわめて抽象的なことばです。ですから上の地球より重いの表現も生かされてくるだろうと思います。  本居宣長は22歳のとき、上京し、漢学や国学に興味を持ち、日本固有の古典学に身を入れるようになったそうでございます。そして、その際、その京都での生活に感化され、王朝文化への憧れを強めていったとされています。  また、刑法にも通じ、以下のことばを残しているようでございます。 「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」  どちらかと申しますと、旧来的な“性善説”に基づく考えの持ち主だったように見受けられます。なお、愚生が調べた限りでは、時代的な原因(条件)等はみつかりませんでした。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%85%E5%AE%A3%E9%95%B7 からでございます) > ずいぶん迷走していますが たぶんこういうことだろうと思います。けっきょくこうなれば 質問として【愛とはどういう行為か?】であるとか、あるいは【慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】という主題に行き着くもののようです。後者は いちど問うたことがあるくらいです。  そうしてここで初めから問題にしていたことは 《 S 》の基層の部分 ここがたとえば《もののあはれ》というまさにそのままスサノヲ人間語であるということを確認しておきたかった。こういうことだと思いました。だとすれば この S なる基層の上に 安全保障や外交活動としの A の行動世界が展開して行けるはずだ。こうも言いたかったようなのです。身近なこととして ギュウとビーフとの S - A 連関もありでしょうし。  納得致しました。(中心的役割を担い)抽象的概念を含む“A”、もしくは“S”の基層部分とも表現可能でしょうか、この“A”と、 一方では、具体的部分である“S”との関係性を問うものかと理解させていただきました。  とりあえずボールをお返ししてそのようにすすめたいとは思いますが どうでしょう?  了解致しました。次回のご質問を楽しみにさせていただきたく存じます(今回は回答者が少ないようですので、かような大きな問題はもっと多くの方たちの御意見を賜りたいと思っております)。  駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 なお迷走していますが とりあえず次のように考えました。  ひどっちさん こんばんは、ご回答をありがとうございます。  いまの時点で 一般的にして妥当な・思想としての《 S - A 連関性》は 次のようだと考えます。    S : もののあはれ    A : 愛  このとき そうしますと ひどっちさんは次のように表明されるとすれば A の部分にも 《物のあはれにかんして 性善説にもとづくその核心としての要素》を掲げるというところでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  刑法にも通じ、以下のことばを残しているようでございます。  「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」  どちらかと申しますと、旧来的な“性善説”に基づく考えの持ち主だったように見受けられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの場合 《時代の制約条件》が曖昧であるとは考えますが 次の指摘は当てはまるのではないかと考えたのでした。  ▲ (日野:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~~~~~  人間の価値が確立されていない前近代の社会においては 《人間の真情》がそれ自体で〔* A としての概念をになう〕価値と認められるということは その場その場の一瞬の事実としてあるだけで 理念としてはありえない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《人間の価値が確立されていない》というのは 身分関係が 個人の存在に先立つ社会的な力であったことだと見ます。(簡単に言えば 基本的人権の考えに乏しかったことだと思います)。わたしの見るところ これが時代の制約なのでしたが それがどうだこうだと言うよりも そうしますと確かに 《 A 概念》をどのように確立させているか。これが 課題として浮かび上がって来るようにも思います。  言いかえると 性善説にもとづくという意味は S なる自然語としての《もののあはれ》を蒸留して抽出しようとすると どういう理念としての A 概念が持たれるか? こういう問いになるのではないでしょうか?  いまでは 《愛》あるいは《慈悲》を持ってくることができます。  ということは S 語を生かす A 概念は そうとう抽象的なものでないと ぎゃくに S 語を窮屈にしてしまうというように思われます。《むさぼるなかれ》でも 窮屈さを覚えるかも知れません。《怒ってはいけない》ですとか《無私の精神になれ》ですとかを アマテラス規範語として持つときには むしろ心の自由が窒息してしまうかも知れません。  こうして たしかに【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】を問おうと思います。  初めにおことわりしましたように 迷走していますし あるいは むしろ強引なところもあるようですが まづはこういった方向を捉えました。  ここをもうしばらく開けておきます。ここで何かコメントしておくべきことがありましたら 書き込んでください。でもその前にも 上のあたらしい質問を挙げようと思います。そういう手筈ですので 一方的ですが よろしくお願い致したいと存じます。それでは。

noname#135843
noname#135843
回答No.3

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ☆ 物の哀れは 《 Ah-ness of things 》と訳されるということをどこかで読んだことがあります。ざっくばらんには 感嘆詞の問題になるようです。  ○ ぴかぴか ∽ ひかり(光)  ○ ずるずる ∽ ずれ・ずらし  ○ だぶだぶ ∽ だぶる (おそらく 英語の double から来ているのであろうが ちょうど日本語の音感にも合っていた)。  “あはれ”の“Ah”が感嘆詞からの由来というのは、耳にしたことがございます。  そして、doubleの表現化が生じ、“ぴかぴか”等になったということでしょうか。  新たな知見を賜り、厚くお礼申し上げます。 > そして、前段におきまして懸念されるこの言葉(*《物のあわれを知る》)の意味するところを理解できる人たちで“構成される社会(コミュニティー)”もいいものかと考えております。  ☆ このご指摘については じつは 考えてみていたのでした。すなわち そういう原始的にして人間的な共生の世の中というものを思い描いてみるということをしていました。案外 思い描きやすいように思うのです。すんなりと行くように感じます。ので ぎゃくに 控えました。  承知いたしました。 > よく分かりません。分かっていることは すでに仮想現実の言葉やその世界もそれとして出来ている時代になっていると思われたことです。もののあはれに対して やはり倫理的な規範を表わすアマテラス人格語も 持たれているという事態です。ということは このスサノヲ語とアマテラス語との複層から成る社会(人間関係)をじっさいの舞台としていてよいだろうと思ったというのが ひとまづの判断でした。  了解致しました。 > いまその正解を保留しつつですが 先の課題としましては じつは・じつに スサノヲ語としての単層の《物のあはれ》自体に――このように見てくると―― 《 S - A 連関性》という複層の構造が潜んでいるというように思ったのです。  しかも この場合の《 A 》つまりアマテラス語倫理規範等については 物のあはれとは必ずしも同じではないスサノヲ人間語としての民族文化から抽象された概念もあるだろうと たしかに思われます。儒教・仏教・クリスチアニズム・イスラーム等々。  少し、話が異なるのですが、以下のような2重構造がかつて存在したようでございます。 「家畜の世話は下層階級である英語話者の仕事でした。彼らは「牛」を‘cow' 、「豚」を‘pig’と呼びます。ところが上流階級のフランス語話者は、調理されたテーブルの上にある牛肉を見て、‘beef'、「豚肉」を見て ‘pork' と呼」んでいたそうでございます。  しかし、その後、「百年戦争の中、フランス語は敵性語とされ、イギリス人は国民的自覚を強め、英語こそが自分たちの言葉であるということをはっきりと認識するようになったのです。英語の使用にもいっそう拍車がかかり、」となり、そのまま、現在では、牛:cow; 牛肉:beefとなった経緯があったそうです。 (http://blogs.yahoo.co.jp/b2unit0000/21154613.html からでございます)  かつて2重構造が存在していたものも、時が経つにつれ、変化していくものかと存じます。従いまして、“物のあはれ”もいろんな変化(“似非アマテラス”も含め、用いる人たちが異なりつつも)してきたものかと推察しております。 > わたしの偏見は スサノヲ語としては 物のあはれ。アマテラス語としては 聖書(キリスト信仰を経験思考に当てて表現したもの)。だと思っていますが このあたりが みなで・そして世界中において 議論しあっていくとよいと思われる主題ではないだろうか。こう思った次第ですが いかがでしょうか?  納得いたしました。愚生は、残念ながら、日本人でありながら、日本語の由来・語源等にはまったく疎くございます。ですが、(単に知的好奇心からかもしれませんが)、話し合いを進めながらも、新たな知見を得られればと思っております。福音書も書かれた当時は、むしろ虐げられたひとたちによるものだったかと記憶しております。ですが......  ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  《 S - A 連関性》の構造をさぐるのに 日野龍夫の議論を援用したいと思います。  ▲ (日野:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~~~~~  宣長が 《物のあわれを知る》心は人間の真情であると主張するにとどまらず その心は《直く雅やかなる神の御国のこころばへ》(『石上私淑言』)であるというところまで遡源させたのは・・・その心に道徳などの公的規範に対抗し得る価値を賦与するためであった。  人間の価値が確立されていない前近代の社会においては 《人間の真情》がそれ自体で価値と認められるということは その場その場の一瞬の事実としてあるだけで 理念としてはありえない。したがって《物のあわれを知る》心の価値づけを求める宣長が 公的規範の当時最大の根拠である儒教に心強くも対立してくれる神道に傾斜していったのは 確かに運命的必然であったと 一応は言いうる。(前述書 p.533)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こうなりますと 《 S 》はもののあはれで 《 A 》も社会制度としての神道だということになります。つまり 両方が 神道です。時代的な制約条件があったのでしょうか。  わたしが考えていましたのは     S : もののあはれ    A : たとえば《ひとの命は地球よりも重い》  こういう《 S - A 連関性》でした。A の部分には 既成の宗教などから自由な中立的な表現がよいと思うのです。  そう考えた場合 A の部分には最大公約数としてなら 《愛》もしくは《慈悲》が来るのだろうと考えます。  でもこの愛も慈悲も――アマテラス概念ですから 当然ですが――きわめて抽象的なことばです。ですから上の地球より重いの表現も生かされてくるだろうと思います。    ずいぶん迷走していますが たぶんこういうことだろうと思います。けっきょくこうなれば 質問として【愛とはどういう行為か?】であるとかあるいは【慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】という主題に行き着くもののようです。後者は いちど問うたことがあるくらいです。  そうしてここで初めから問題にしていたことは 《 S 》の基層の部分 ここがたとえば《もののあはれ》というまさにそのままスサノヲ人間語であるということを確認しておきたかった。こういうことだと思いました。だとすれば この S なる基層の上に 安全保障や外交活動としの A の行動世界が展開して行けるはずだ。こうも言いたかったようなのです。身近なこととして ギュウとビーフとの S - A 連関もありでしょうし。  こういうわけで 二転三転しましたが 一たん今回の曲りなりのまとめについて評言をいただいて そのあとわたしは 【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】を問うてみたいと考えます。  澄みません。こういった台所事情です。とりあえずボールをお返ししてそのようにすすめたいとは思いますが どうでしょう?  * このように迷走しているにもかかわらず 初めの書きだしからの文章のままとさせていただきます。

noname#135843
noname#135843
回答No.1

 お世話になっております。Hidocchiでございます。  ”もののあはれ”でございますが、まさしくおっしゃいますように、「殺されたくないし ひとを殺したくないという気持ちを第一にとうとぶという理由から 生命や生活の安全を守るためと言えども戦争は嫌うということ。」につながると考えております。  一方、よく似たことばに”平和”という言葉がございますが、これは以下に示しますように、”状況・状態”を示すことばと考えられます。つまり、「単に、戦争がない状態・状況」という意味でございます。さらに申しますと、”平和”という言葉では、指向性等は入って来ない可能性も考えられます。 平和 (goo辞典から) (1)戦争もなく世の中が穏やかである・こと(さま)。 「―な時代」 「―を守る」 (2)争いや心配事もなく穏やかである・こと(さま)。 「―な家庭」 「―に暮らす」  以下に、日本語が英語(米語)化した語を列記してございます。このように、”もののあはれ”なる言葉もWikipediaのみならず、他の外国のサイトでも散見される日を待ち望んでいる次第でございます。 “nemawashi” Fetters MD著 http://www.ncbi.nlm.nih.gov/sites/entrez?cmd=Retrieve&db=PubMed&list_uids=7481931&dopt=AbstractPlus (英文誌) “MOTTAINAI Campaign” http://mottainai.info/english/who.html “Kaizen” http://www.creativesafetysupply.com/kaizenguide.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゆきやま様に対しまして、ご回答をお寄せさせていただいたのですが、逆効果となってしまいました。誠に申し訳ございませんでした。また時を見て、回答をさせていただきたいと考えております(病状はかなりひどいと察せられました)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ご参考になれば幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん こんばんは。お世話様です。ご回答をありがとうございます。  和風文化シリーズを手さぐりにてです。  ★ さらに申しますと、”平和”という言葉では、指向性等は入って来ない可能性も考えられます。  ☆ なるほど。指向性あるいは志向性ですね。方向性を持ったヱ゛クトルが 思想にとっては いい場合がありますね。  ★ “nemawashi”/ “MOTTAINAI Campaign” / “Kaizen”  ☆ こういった交流の分野について かつては思いを馳せていたものですが いまやわたしは日本の片隅でもっぱら受信の側面だけになっています。  また 外交や安全保障といったひどっちさんのお得意の分野なのに もっぱら個人の内面主観のことがらに 焦点をしぼってしまっていて 何とも 我ながら情けないやら 申し訳ないやらなのですが それでももし 一般の安全保障論ともかみ合わせて議論しうるかたちがありますならば ご一考願えればとも思います。  もののあはれ論について 少しく触れます。こういう批判があります。  ▲ (日野龍夫:《物のあわれを知る》の説の来歴) ~~~~~~  しかし宣長の理論に混乱がないのは それが一種の同義反復であるからに過ぎない。宣長の言っていることは 要するに 《物のあわれを知る》人々によって構成されている社会では 人々が《物のあわれを知る》ことによって社会は穏やかに平和に治まる ということなのである。  つまり《物のあわれを知る》心は儒仏の教えに代わるべき人間の生き方の規範であるという宣長の理論が有効であるためには 社会の成員のすべてが《物のあわれを知る》人であるような社会がその前に出来上がっていなければいけない ということになる。・・・  (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 p.544)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言わなくても分かっているはずだという見方――つまりいわゆる言挙げせぬ〔とも分かり合える〕という国柄――をも提出するぶんには この日野の前段の批判は当たっているように思われます。  後段については 見方をもっと柔軟に持っていてもよいような気がします。《儒教や仏教あるいはほかの思想などなどに全面的に取って代わる》必要もないでしょうし。あるいはまた 《言挙げせずとも分かり合える》情況において 現代ではその内部においてもそしてむろん外部との交通においても さらに《言挙げして説明するわざにもすすんで及ぶ》ことは考えられます。  人麻呂も 外国に遊学する友に向かって《ことだま(言霊あるいは事霊)のさきはふ国であるが 言挙げぞわれする》と言って 《ま幸くあれ》と言っています。ていねいな説明をしてもよいはずです。外国人に対してだけではなく いまではわれらが同胞に対しても 説明が必要であるようにさえ思えます。  もうひとつの問題は 人情を義理さえよりも優先させるという場合には ちょっと無理があるようにも感じます。何が何でも身内を先に守れだとか そういう風潮になるやも知れません。  ゆきやまくんは ちょっと変わりました。もやもやが晴れたあと 残念ながら より少なくよいほうに変わりつつあるように見受けます。いまは手が出せないようにわたしも思います。  * 《ゆづる》――このことばは いかがですか? 《一歩ゆづる》。  そう言えばパスカルがそのパンセの中で こういう話をしていたはずです。前に川があって 一本の丸木橋がかかっている。都合悪く向こうからも人が来る。相手は従者をしたがえている。こちらは われ一人なり。だとすれば 社会公共の仕事をなす量や質が 相手のほうが上だ。ここは先をゆづろうと決めたのだと。  ですが ほかの国では このゆづるは どういう言語習慣なんでしょう? 気になっています。

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