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後醍醐天皇は賢帝か?愚帝か?

cyototuの回答

  • cyototu
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回答No.6

幸運にも愚帝だったと思います。彼は、天皇家が政治の中心的役割を演じる絶好の、そして最後のチャンスを逃してしまいました。もし彼が賢帝だったら、天皇家の下に再び天皇家初期のように中央集権化が復活して、その結果、その後日本でも中国の歴史のように、天皇家を滅ぼして次々と新しい王家による中央集権国家が出来ていた可能があります。ところが後醍醐天皇はこの絶好のチャンスを使いこなす器がなかったため、今までのように武家による封建制度が存続できました。これは天皇家に取っては大変に好運なことでした。 中央集権制度とは、国に抜きん出た権力を持ったたった一人の王がいて、その他は全てその王の所有物となっている政体です。それに対して、封建制度とは、各豪族はどちらかと言うとドングリの背比べ状態で、どの家系でも、残りの家系が束になって掛かられたら存続が危ぶまれる政体です。その結果、ドングリの背比べをまとめる役として、武家達は誰が王の王となるか、すなわち将軍とするかに関するお墨付きを形式的な権力者としての天皇から頂くと言う、大変旨い封建制度を日本で続けることが出来ました。大名達も天皇の存在を自分たちの存続に関して好都合と考え、天皇家から権力は簒奪することに意味がなくなり、天皇家が今まで残ることが出来たのです。 もし後醍醐天皇が賢帝だったら天皇家はとっくに滅んでいて、日本も、日本と同じように例外的に封建制度だった西欧を除いた全ての国家のように、とっくに中央集権国家としてのその他大勢の国の一つになっていたことでしょう。その結果、その他大勢の国のように、西欧にとっくに植民化されていたかも知れません。 これは「予期せぬ結果」(英語ではunintensional consequence) という出来事の典型で、政治の世界では常に起こっていることです。別な言い方をすると、人事は理屈で追いかけても必ず手の指の隙間からこぼれ落ちることが余りにも多いので、いつまでたっても、政治に全生命を捧げても尽きない面白さがあるようです。

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