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鎌倉幕府、滅亡について。

(1)鎌倉末期に後醍醐天皇、足利高(尊)氏、新田義貞、楠木正成などが挙兵した際、新田義貞が鎌倉での直接の合戦の兵の数が60万とありますが本当ですか? (2)又、その前の千早城の戦いでは、鎌倉幕府軍は100万とありますが、それも本当でしょうか? 違うのであればそうした水増しした数を表記する理由は何故でしょうか? 回答、お願いします。

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  • eroero4649
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回答No.4

三国志の赤壁の戦いも、曹操軍が20万とか80万とか100万とか色々いわれていますが、真面目に考証した人によると推定で曹操軍が2万くらい、孫権・劉備連合軍が2千くらいではないかということです。そもそも当時はそんなに人口が存在していません。 ですから太平記にある兵力というのは「百万と誇張したくなるくらい大軍」という意味なのです。 じゃあなんで百万なのってところですが、ほら、子供の頃に大金ていくら?って聞くと漠然と百万円とイメージしたじゃないですか。人間心理として「百万」というのは「沢山」のイメージしやすい数字なんですね。 「百万長者」という言葉もありますし、それこそ英語で金持ちを意味する「ミリオネア」もミリオンとは百万を意味する言葉ですからね。 鎌倉時代の実際の動員兵力がどんなものだったのかを推測する資料は少ないと思いますが、私は何となく、せいぜい数千騎ってところだったのではないかなと思います。この数千というのは、馬に乗って戦う武士の数です。 当時の武士が着る鎧は一人ではとても脱ぎ着できません。その世話をする人だけで1~2人必要でしょう。馬の世話をする係も必要ですし、他にも日常生活品を持ち運ぶ人足、食事係(身の回りの世話をする人の食事も用意しなけりゃいけません)などが必要です。だから武士そのものよりその周辺にいる非戦闘員のほうが数が多かったはずです。 現代でもプロ野球チームは一軍メンバーが監督コーチを含めて約40人ですが、マネージャーやトレーナー、用具係などの裏方スタッフを含めると遠征のときは60人以上になるそうなんですね。しかもそれに加えて移動に使うバスの運転手とかホテルで食事を作るスタッフなんてのを広義のスタッフに加えるとかなりの人数になりますよね。 戦争というのをスポーツチームの遠征に例えるなら、直接相手と戦う兵士の他に裏方スタッフや移動や食事に関わる人たちも一緒にいるわけですから、全体は膨大ですし、何かの記録を残すときは当然その裏方スタッフも人数の中にカウントするものですよね。 ちなみに現代の軍隊でも、最前線で鉄砲を担いで戦う兵士とそれを支える後方勤務の兵士の比率というのは少なくとも1:1、理想は1:2とされています。 兵力を水増しする理由は単純です。「そのくらいの大軍を集められるくらいすげえんだぞ」と見栄を張っているのです。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 中世の合戦で兵力が数十万とか100万というと、兵士や武将だけだと思いがちですが、それ以外にも武将や兵士の世話係や 武具の修復する係など、身の周りをする人達も含める為、大幅に人員が増えるわけですね。 他にも日本の戦争の歴史だけではなく、外国の戦争でも時に、都合よく自軍の数を多く見せたり、少なく見せるのは古今東西問わずあるのが分りました。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.3

いちいち点呼なんてしませんしね 戦の動員数は おおよそ です 100万人居るぐらいに見えるほど多くの軍勢 と言う意味合いもあると思います 大体 当時の人口を考えてどっからそんなに集められるんでしょうか? 当時の日本の人口は大体3千万人ぐらいです 日本中からかき集めたって100万揃えるのは無理でしょう 日本の歴史における軍勢の表記はほぼ誇張です 戦国時代だって 実際にはそんなに連れてません

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分なりに調べましたが、当時の日本の人口は現代の人口と比べて少ないと思ってましたが、ここまで少ないとは思いませんでした。 だから100万の鎌倉幕府軍とか、60万の反鎌倉幕府勢という数字の表記には違和感がありました。 回答ありがとうございました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3030)
回答No.2

そのへんの数字は太平記によって書かれたものでしょうが、そもそも複数の不肖の作者によりかかれそれが編纂された作品です。 そもそも本当のことをよく知らない人が書いたので、話の内容は必ずしも正確ではないし誇張も含まれます。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 太平記や他の時代に書かれた文献、書物のその多くはあてにならないんですね。 そういう文献や書物が後世に残されたり、伝わると歴史家の人達でさえ困惑するという事が分かりました。 回答ありがとうございました。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.1

cma79458 さん、こんばんは。 (1)いいところ6000でしょう。 (2)いいところ2万くらいでしょうね。 数が多い方に味方したほうが勝ちやすいじゃないですか?大勢の人々が両軍の旗色を見ているんですよ。勝ちそうなところに与しようとするんです。

cma79458
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 正直(汗)6000といった数千レベルの戦だとは驚きました。攻めての新田軍の数も2万の数字にも驚きました。 でもこれが当時の日本の人口は現代と比べて圧倒的に少ないと、そういった数字が妥当なんだなと思いました。 回答ありがとうございました。

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