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ひとは やわらがしめられうるか?

arayata333の回答

回答No.12

回答番号7から続けています。 やはり、bragelonneさんは、不思議な頭脳の持ち主ですね。 私が凡人的頭脳のせいでそう思えるだけかもしれませんが(私の能力は経験の多さとか考えたこと視点の多さとかが 全部がまとまってきたことからそれらが頭の中で交通整理されて流れ出した後天的なものによります。 があいかわらず、記憶力自体とか考える速度自体とかは人より遅かったりもします) すごいなと おもわず思ってしまいます。 「むずかしさ」というカタチの論理を、わたしもある意味では肯定しています。 例えば ゲームがあまりにも簡単なだけだったら すぐに飽きてしまうでしょう。  そうでない場合もあるでしょうが、 そういうところがおおいにあり、 かえって難しい部分があることで、それに挑戦したい気持になったりもします。 bragelonneさんの質問に、多くの回答が付くのは、 まさにいろんな原因が考えられ 一言ではもちろん言えないし 言えるようなものではないでしょうが、 そこに「むずかしいから」という要素が 普通の常識を越えて存在しているとも言える面 もあるのかもしれません。 がゆえに、 その「むずかしい 言い回し」を肯定するとか、しないとかではなくて、 感心してしまうのは、 その議論がさらに複雑な交通網を作っているのにも関らず、けっきょくはbragelonneさんのお考え自体は 整合性の崩れないものであるということです。  即応で進めていきつつ、 さらに 変わったいいまわし(それ自体はよき独創性とは言えない)が膨らんでいってしまうにも関らず、 最後は バランスが取れていると思えます。 「非思考」という論理的定義の言葉も、 おそらくキリスト者と自称されてどんな誤解も受けて立つ、そのへんの大きな体験が、その裏にあってのそこから生まれた言葉ということなのでしょう。 存在自体が不思議とかは感じたことはたくさんありますが、人の思索力自体に不思議さを感じたことは記憶にはありません。 ほんとうに面白い方(かた)だと思います。  》ともかく  ○ ひとは やわらがしめられうるか?  ○ 社会との根本的な和解が成るか? ということ。  ☆ これが主題なのですから これなら分かると考えてよいと思うのですが どうでしょう?《 私の ひねくれた対応に対して(ひねくれたとうほど悪いイメージではないでしょが) レスの最後はちゃんと、 肝心な点を私に伝えてくれています。 あんなふうんな文で、私のほんとうに言いたいことの意味合いも 自然に捕まえているのが不思議です。 ご自分の力というよりも、それが「天」の力か ほんとうの「信仰の力」ということなのでしょうか?   「天命」とかの 本当のところがつかめない私には、うらやましいところです。 ここで、 ひとつ私の方からは いつしか私の脳の中に養われていた物事を整理する能力を生かして、  目標と 現実の一歩一歩という点を 最後はこの《主題》にそうようにしながらも、 論点を明確にしていきたいと思います。 マシュマロ2さんとの間で途切れてしまっている 長期 中期、短期の目標の設定のあたりにも言及していけたらと思います。 エベレストに登るという目標があったときにも そこに「われ」は登らないでその登り方を「今ここ」の地点から いろいろ考えることで、応援したいという場合もあるかと思います。 この場合 エベレスト登頂自体が その「われ」の目標でななくて、いかに遠くからそれを観察することで 他の人の登頂目標を応援できるか自体が そこでの社会的なその人あるいは「われ」の目標となります。 が、 ここに共通なものは、 社会的な目標に向かって進む意志です。 役割が違うために目標が違うだけであって 「目標にむかって進むべし」という意志 あるいは「目標に向かって進みたい」という希求自体は 共通に 認識されています。 目標なんて それが見えたとしても「われ」には関係ない のんびりただぶらぶら楽しく生きて入られればいい、 自分さへ。 という考えの人にとっての その「目標」は、 そこに共有されていません。 もちろん、 「目標」が無い人こそ、きゅうきゅうとして幻想的な目標、安易な目標とかにまるで盲目であるかのようにじつは 人をけとばしてでも実現してしまったりするような「目標」を持っていたりするわけですが、 ここではそこは問わないことにしましょう。 で、 社会的な「目標」が その「われ」に見えているとします。 「われわれ」に共通認識されているとまでは しておかなくてもいいです。 「われ」の段階で 話を進めていきましょう。 主体内面の段で、 あるいは絶対個の内側で、というむずかしさをさそいがちな言葉をここに使ってもいいかと思います。 いずれにしても 「われ」の《その目標》は社会的価値があり、 他の人のその役割がそれぞれ違ってくるだろう《その目標》とも その価値の面がしていたとするのです。 それに向かって「進みたい」にしても「進むべし」にしても その意志や希求も一致してる場合です。 そうすると、ここにて、 次に考えを進めてゆくことが出きる形が生まれます。 その目標にむかって、 それを実現すべく より効率的に進んでゆく責任がそれぞれの社会的役割に生まれてくるということです。 眺めているだけで 自らは一歩も進まないで 観察されたことを報告することのなかに、どれだけの効率性があるか、 あるいは眺めないで、ともかく突っ走ることには どれだけの危険があるか?    そのへんの それぞれの役割における学習や 過去の実践や 計画性や意思決定自体にまでいたる全体の検討が  その目標に向かって必要となるということです。 そして そうするとなのですが、 そこに じつは事前に それこそ その全体を検討するというじつはどの役割の人にとっても大きな価値のある『共通目標』がここに生まれます。 じつは私が ここで検討し整理したかったのは、 さて、 ここで では 「哲学とはどういう社会的役割なのか」 というあたりの検討を整理しておいてみたいと思ったという事なのです。 そして じつは哲学とは、 まずは《その目標自体が ほんとうに社会的に必要な目標であり 「われ」や「われわれ」のほんとうにそうすべきと思えるる、そうしたいと思える希求である目標なのか?》どうかから出発する思索の世界である。  という点が まず 短期、中期 長期の目標であるかどうか以前に問われておく必要あるという社会的役割をもっているというふうに確かに言えることとなると思います。 例えば 理想的な社会像に見えてじつは管理社会に曲がっていってしまう危険がたくさんある目標であったりした過去の共産主義の失敗の例が それに対してでは これからはどうあるべきなのかを問う地点で なるほどそれを忘れてはならないなという事を想起させるでしょう。 目標なんて 馬鹿馬鹿しいだけという考えも、時に、裏に のほほんと生きてみることで気がつく あるいはその「心のゆとり」を持つことで気がつくことのある 大事な感性の扉の1つを開く哲学とつながっていたりしますが、 その場合は、その扉を開く目標の一つの歩みとして全体の中に考察したほうがより深く進めるのですから、上記の価値ある共通目標の1つとします。 そうではなくて、単なる虚無主義に陥ってるだけならば、 さてそれは哲学と言えるだろうか? それは単に幻想に惑わされた迷いの世界、或いは知的袋小路に陥ったその外が見えなくなってしまってる姿にすぎないのか?といったことの 検討ももちろん哲学の範疇でしょうが、 これって教育学という範疇であり それもふくんで総合的に考えてこそ 哲学は哲学なのだというふうに思いませんか? けっきょく、目標の意味をより明確化すべく それをより具体的にも総合的にもさらに検討して しかして そこに向かって進みつつ また新たに考えてゆく、 つまり 実際に社会に役立つ 思索 考えることのすべて それこそが哲学であり、哲学とはそれ以下のものでもそれ以上のものでもない。  というふうに、仮設しておきましょう。 ここから質問です。 裁いてはならない→人を誰一ひとり 見下したりしてはいけない。 昔 頭のいい人で「私は すべての人を赦す。けれど“人を赦せない人”だけは赦せない」と言った人がいましたが、  赦せない人をこの人は見下していたということでしょうか? 理論には、その力が無いということでしょうか? 芸術家は それがほんものならば、 その心のユトリから 赦さない人も赦してると思いますよ。   ただ いつかその苦しい心を助けてあげたいという気持になるだけだと思います。 プリメアペさんのように、存在に「おごそかさ」を感じるような宗教家も同じく、その視点からそれが可能と思います。 ゆとりと心の豊かさ その可能性の世界をどこまで深く感じるか、  その教育(感性の教育というのは たしかに難しい)が進んだ社会でならば、 社会自体が 「われわれ」のさらに集合の世界自体が、すべてを和解させる日は 必ずくると私は思います。 でも、このそこまでの長期目標は、 今の地点で 論議して意味あるほどその地点が見えるような論議とはならないと思います。 が、 その時ならば、あるいはそのような前進しかないような人間社会が生まれるならば、なんらかの突然変異か、 なんらかの存在の力が働いて 人間は永遠の命を得るというのが bragelonneさんの「終わりから考える」ということであるのならば、 これは悟りを開いた人にもお伺いしたい事なののですが、 たしかに 私もそれがいつかとか時間的なこととかは全く解からなくても経験的な積み重ねの方からも同じ事を推理できると思っているのですが、 人間の命がそういうものだと達観したら あとは、 今しか、今苦しんでいる人しか、 私たちの心の中には見えなくなるのではないですか? なにが、出きるかは解からない木の葉のような身でありつつ、 今を 目標にむかって  一歩一歩進んでゆくしか 実践してゆくしか、 見えなくなるのではないですか? そこには長期も中期も短期もなくすべて総合化されつつ、 が 今の、そのための一歩一歩の より具体的検討にまで 進んでいかないわけにはいかなくなるのではないですか? たった一人の人の大切さは その時 すべての人の大切さと同じになり、ここにもキリストの言葉を思い出すのですが、 bragelonneさんには、その言葉は書くまでも無いでしょう。 ふとこう書いてしまいましたが、 私自身は自分をキリスト者ではないと思うのですが、bragelonneさんと議論してると こうなってしまいます。 そして書いてる自分が 何か震撼とした気持にもなります。 bragelonneさんの信仰の世界は、このさらに一歩向こうの世界なのでしょうね。 今回は以上です。 私らしい役割をはたす回答となっていますでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ゆとりと心の豊かさ その可能性の世界をどこまで深く感じるか、   その教育(感性の教育というのは たしかに難しい)が進んだ社会でならば、 社会自体が 「われわれ」のさらに集合の世界自体が、すべてを和解させる日は 必ずくると私は思います。  でも、このそこまでの長期目標は、 今の地点で 論議して意味あるほどその地点が見えるような論議とはならないと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これがご回答であると受け留めました。  もっと早く言ってもらえば これまでにさんざ補足要求に応えて長々と書きこむこともなかった。こう言っておきたいところです。    これでお応えのすべてです。  この質問については No.6にすでにわたしの納得のいく答えをもらっていますので そのことを参考にしつつ なぜこれだけしかわたしが応えないかを もしそういう思いを持たれたとすれば考えてみてください。持たれなければ うっちゃってください。 

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。  次を引くと やはりヘーゲルさんと呼ばれてしまうおそれがありますが 《長期の視点》というものが どういうものかがよく分かると思われますので 引きます。  ▲ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  熱きにもあらず 冷やかにもあらず それゆえに吐き出されるようなしろものたる 真理にだんだん近づく哲学などでもっては理性は満足しない。  他方また この現世ではたしかに万事がひどいか せいぜい中くらいの状態だということは認めるが そこではどうせましなものは得られないものとし それゆえただ現実との平和が保たれさえすればいいとするような 冷たい絶望でもっても理性は満足しない。  認識が得させるものは もっと熱い 現実との平和である。  (ゲオルク・W・F・ヘーゲル:法の哲学 序文 藤野渉・赤沢正敏訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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