• ベストアンサー

科学者って?

g-spaceの回答

  • g-space
  • ベストアンサー率44% (49/109)
回答No.2

 どれも違いますね。  科学者は、科学の方法に則って行えば、誰でも同じような結果(データ)が得られる実験や観測を「科学的合理性」があるものとして受け入れます。データの「解釈」は違う可能性があり、時に正反対の結論を得て、論争になったり、後年の実験や観測などによって決着が着けられたりすることになります。とはいえ、これもまた「科学的合理性」に基づいて導かれる結論やその結果としての論争であり、一定のルールに従っています。すぐに決着が着けられないのは、データ不足(と、時には視点不足)のためです。  一方、科学的な「成果」や「論争」を社会がどう受け止めるかは、科学者自身を巻き込むこともある社会的利害関係や様々な信条・信念などによって、個人や集団でまちまちです。どう受け止めるかは、「科学的合理性」とは異なる、人間であるが故の「社会的合理性」によって決まってきます。この場合には、往々にして、自分の信条や信念に有利な「科学的データや考察」のみを意図的に採用して議論を進め、不利になるような「科学的データや考察」は無視するという、およそ「科学的合理性」とは相容れない態度が取られます。  「科学的合理性」を放棄した「見せかけの科学的議論」は、当然のことながら「科学のルール」に従う科学者には想定し難いものです。 >当の科学者も予想だにしない極論者 が出てくる理由としては、まあ、こんなところでしょうか。

noname#135843
質問者

お礼

 ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。 > どれも違いますね。  了解致しました。 > 一定のルールに従っています。すぐに決着が着けられないのは、データ不足(と、時には視点不足)のためです。  少し、ご質問させてくださいませ。  例えば、”天動説”から”地動説”、さらには”ニュートン力学”から”相対性理論”への展開という、科学史上重要な発展が見られました。これも同じ理由からでしょうか?  つまり、本当に合理的・理性的見地からそれがなされるのでしょうかということでございます?  愚生が思うに、科学が発展を遂げるにあたり、ある一定の”既存科学者集団(往々にして、その科学界の重鎮的存在)”がそれらの進歩を妨げることはなかったでしょうか? 実際、アインシュタインも、1927年のソルベー会議にて、(確かエーレンフェストだったかと記憶しています)、彼からアインシュタインが「君は相対性理論に反対した多くの敵対者がやったのと全く同じように、現在の量子物理学者を敵対視しているのではないのか」と諭されたことがございます。  さらに申し上げますと、科学の発展していくプロセスに於いて、最も重要な意味を持つのは、”客観性”や”合理性”といった美辞麗句ではなく、ある”科学者集団”による、”信条”.”信念”みたいなものだと思うのですが.....  いかがでしょうか? > 「科学的合理性」を放棄した「見せかけの科学的議論」は、当然のことながら「科学のルール」に従う科学者には想定し難いものです。  確かに、科学者とはかけ離れ、言葉自体が一人歩きしていく様は、科学者の想像を逸脱したものと察せられます。  ですが、ここでまたご質問させてくださいませ。  これらの”一人歩き”現象は、科学者にとって、全く無関係なのものなのでしょうか?さらには、その末路にいたる結果(結果がよければ構わないのですが)に対しては、全く責任無しとしても、いいものなのでしょうか?  

関連するQ&A

  • 幸福の科学の震災便乗

    幸福の科学は今回の震災に乗じて下記のようなお布施集めをしてますが、信者以外の皆様がたにお聞きしたいですが、こういうことを行う宗教を信じられますか。幸福の科学及び幸福実現党は常に自分たちだけが正しいと主張してますが、下記のようなことは正しく、まともだと思えますか。まともな一般の皆様方に是非お聞きしたいです。 この度、大川隆法総裁先生より新たな祈願を賜りました。 震災によって、亡くなった方の魂の救済、心の傷がいえず生活的にも困窮され ている人々が一日も早く立ち直れるよう、東日本大震災からの復興、幾万の人々の 鎮魂、さらには、一日も早い仙台正心館の建立を願い、本祈願を賜 りました。 ●「震災復興祈念 仙台正心館建立植福」 【奉納目安】一口1万円 「篤志家植福」一口10万円目安で何口でもお受け致します。 「復興大黒天」一口100万円目安で何口でもお受け致します。 「復興菩薩」■1億円目安以上■でお受け致します。 ★震災復興祈念 仙台正心館建立植福について ・今回のような大震災時に、宗教がなすべきことの第一は“魂の救済”です。 ・仙台正心館は、主より、大震災で亡くなられた幾万の方々の鎮魂、震災からの復興を祈念して建立される精舎です。 ・国全体にわたる大震災が起こった場合、本来、国の統治者が亡くなられた国民の方々の追悼と復興を願って鎮魂の寺院を建立し、祈願を執り行なうものです。 ・しかし、現行憲法下では国家は宗教活動ができません。また、左翼唯物論政権には、魂を慰め、救済するという発想もありません。大変残念でなりません。 ・私たち幸福の科学は、本来国家が行なうべき事業を担い、魂の救済という公器る使命を行なうのです。 ・その意味で、このために差し出される植福は、大震災でなくなられた方々への供養と復興のためとなり、未来永劫にわたって輝く功徳となることでしょう。

  • 温暖化問題は議論すら始められないのではないでしょうか?意見聞かせて下さい

    朝まで生テレビを見て思ったのですが、議論を始めるのに必要なのは、確かな事実です。 議論=理想までの過程の模索であり、そのためには現状認識が不可欠です。 よって事実が極度に曖昧な中での議論は無意味です。 にも関わらず、熱狂される温暖化の議論において ・温暖化しているのか否か(寒冷化か) ・もししているのなら原因は人間か ・温暖化は人間に悪影響を与えるか 議論の根幹になる基本的な事実の全てが、科学的に分かっていないようです。 もちろん私は武田さんみたいに、環境問題なんかないんだ!詐欺だ!と懐疑論ばかり主張したいわけではありません。 ただ、議論をするにはまだ早いのでは、と思っているのです どうして議論の根幹になる事実の全てがこんなにもはっきりしない中で議論が行われ、各国がCO2何%減らした減らさないの話まで進んでしまうのでしょうか。 もちろん多数派が主張する事実を仮定に議論が進められているわけですが、少数派の主張する事実も厳然としています。 仮定も曖昧過ぎます。 これでは議論は妄想や宗教です。 よって、この議論は、科学者の研究が進んで事実が少し程度分かってからで良いと私は思っています。 皆さんはどう考えていますか?

  • 宇宙を決定論が支配した時代があったのでしょうか?

    ケプラーの時代には、宇宙は決定論で動いており、精緻な観測ができるならば、未来を正確に知ることが可能であるし、また逆に過去にさかのぼる場合も過去のある時点を一意に知ることができると考えられていたそうです。 その後、量子力学などの科学が進歩して、現在では決定論で未来や過去を論ずることができないということになりました。少なくとも未来は論ずることができない。 このことを概念的に図式化すると、未来方向に二進木が広がっており、それぞれのノードで右に行くか左に行くかは確率過程であって、事前に知ることはできない。 同様に、過去に向かっても二進木が広がっており、実際は一つのパスを通ってきたのであるが、理論的に過去にさかのぼる場合には確率的にしかさかのぼれないと理解しております。 つまり観測ではなく、理論的に過去をさかのぼる場合には、常に「複数の過去」が想定されなければない。<=この考え方が正しいのかどうか、疑問を持っています。 Wikipediaを見ると、下記の様な記述があります。 「初期の高温の宇宙については、宇宙創生から約10の-33乗秒後から始まったビッグバンによってうまく説明されるが、いくつかの問題もある。」 この文章の一部を抽出すると、「ビッグバン以前の過去は一意に推論可能であって、ビッグバンよりも約10の-30乗秒前の宇宙は無い」と言う命題を含むことになるでしょうか。 ビッグバン以前という極めて限られた時間帯に関しては、決定論で論じてもよいのか、それともいろいろな可能性があったが、観測事実として「ビッグバンより約10の-33乗秒前に宇宙が創世された」と言っているのでしょうか。 ビッグバン以前の宇宙が観測されたとは考えにくいので、理論的にさかのぼっているだけだと思うのですが、はたしてこの時代の過去をさかのぼるときに決定論でさかのぼって良いのでしょうか? 観測できない過去を推論するときに決定論を使ってよいのかどうか、科学者の皆様のご意見を頂きたくお願い申し上げます。

  • 「シナリオの書き方」は著作権及び不正競争防止法の保護対象になりますか?

    フリーランスでシナリオライターをしている者です。 昨年、師匠として長年お世話になっていた方と袂を分かつことになりました。 その際に当面の仕事がなかったため仕方なく、 今まで培ったノウハウをもとにシナリオの通信教室を始めようとしたところ、 師匠より「お前のやっていることはノウハウ泥棒だ!」と待ったがかかりました。 創作上のノウハウそのものが 基本的に著作権法や特許法で保護されないのは存じております。 ですがなにぶん、師匠の会社は企業(プロダクション)でもあるため、 自分がかつて教わった創作ノウハウが 著作権法ではなく不正競争防止法の保護対象(いわゆる営業秘密)となり 実際に訴えられて負ける、 または刑事罰を受ける可能性があるのかどうかが不安です。 下記の3点に照らしてご回答いただければ、非常に幸いです。 1)機密保持性  師匠が長年の作家生活の中で培った方法論だとは言えます。  マル秘、アクセス制限といった方法で管理されているのではなく、  純粋に師匠の頭の中にある職人的ノウハウといった体裁です。  ノウハウ書として明文化されたものも元々ありません。 2)有用性  作品作りの方法論、いわば製品の製造ノウハウですので、  有用性はあると考えています。 3)非公知制  師匠も外部のシナリオスクール等で講師として教えています。  (有料でアクセス可能という状態です)  なお、1)で触れた通り、書籍化された情報はありません。

  • 科学で、科学でと言うけれど。

    こんにちは。 多くの人が「科学で証明できなければ」とか「科学的に~」などと言いますが、それを言っている多くの人にとって実は科学などどうでも良く、科学を重んじている社会の中で認められたい、良い思いをしたい、仲間はずれにされたくない等と無意識的に考え、その為に「科学で」「科学で」と言っている様に聞こえる事しばしばです。 もし「科学で証明できなければ無い」とするのであれば、恋人があなたに「愛している」と言っても否定しなければならないのではないでしょうか。 どうして恋人のその言葉は肯定し、他の事、例えば霊を見たなどの言葉は否定するのでしょう? この二つの行為が同じ人から出ている事もそもそもこの人は科学的ではないと思います。 自分に都合が良ければ良いだけの話でしょうか。 また、どこかの質問に対する答えに「幽体離脱は神経学的に同じ状態を作れる=幽体離脱は幻想に過ぎない」とありましたが、こういう考え方もロジカルではないと思うのです。 例えば人間はゴミ箱を作る技術を持っていますが、今目の前に突然ゴミ箱が現れたらそれは全く別の話です。衝撃の現象です。 何故「同じ/似た状況を作れる=偽物」という判断に至るのでしょう。私はそう信じているの間違いではないでしょうか。 こうした事をしばらく考えていると、結局は未知のものに対する理解や洞察力の集中力が切れた時に否定したり、思考が拡散して収集がつかなくなってしまいそうな時に否定したりなどとこれまたロジカルではない理由により否定している人が多い様に見える。 こうして、多くの人の知能レベルに莫大な差が無い事から、社会ではあるものを受け入れ、あるものを否定するというデファクトスタンダードの様なものが増えていく。 そしてそれらに根ざして社会が構築されているので、それを否定する事は社会から外れる事。だから実際にロジカルか否かは自分には知った事ではないが、思考の拡散によって意識が消滅する恐怖よりも科学で証明できる事に論拠した方が簡単だし楽だ、だから私は言おう「科学で~(><;)」と聞こえる。 この考え方をどう思いますか?

  • 良い科学、良くない科学。

    良い科学と良くない科学とには相違があるのでしょうか? また、科学とは価値が客観的ではないといけないというのを耳にしますが、どうしてでしょうか?

  • 科学と非科学

    私は最近科学と非科学についての違いがわからなくて困っています。 そもそも科学というのはどういう事を言うのでしょうか?科学技術が進歩していることでしょうか? 先日土着の民族の事を読んだのですが、そこには土着の民族というのは非科学である。なぜなら、非科学というのは本や参考書があるわけではなく、見て経験をして学ぶものだと書かれていました。 非科学というのは、いわゆるこういう事を言うのでしょうか?? 私の説明はおそらく皆さんに伝わらないと思いますが、もし理解できなければこれを無視して、皆様の意見を聞かせてください。 宜しくお願いします。

  • 「科学」と「自然科学」と「科学的」。あいまいさ。

    元になっていると思われる外国語の背景については以下の質問で回答を戴いているところです。 「science という言葉の語弊」 http://okwave.jp/qa/q6919627.html 国語のカテゴリーでは主に対処法を相談させてください。 「科学」(Goo国語辞書) http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/37739/m0u/%E7%A7%91%E5%AD%A6/ によると、 「…、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。サイエンス。」 なのですが、一般的にも、専門家の用語としても、狭義の意味の方で広く使われているのが現実だと思います。 使われ具合で決めると、もはや自然科学をさす言葉としての「科学」になっていると思います。 私としては文系の学問が科学とされる事実を尊重して、広義を”全く”無視した使い方に抵抗と無責任さを感じます。狭義の科学という言葉が使われるのは、文系と対比させた趣旨でつかわれるのですから、なおさらですよね。この狭義の問題は他の言葉の狭義問題よりも、断然ややこしいのです。 そう考える私としては、自然科学という意味の「科学」を活かしにくいことになります。狭義の使用が途絶えてしまいそうなのです。 (1)いちいち「自然科学」と表記しなければならないのでしょうか。重たいですよね。 (2)「科学」は明治期の造語だと思うのですが、当初から、文系の学問に対しても使われていたのでしょうか。つまり当時の日本においては、広義の意味だけだったのでしょうか。 ★私が問題にしているのは「社会科学」という看板が存在するから使われているという建前論的な説明ではなく、学問の分類作業とは全く関係しない、文章や対話の中で、「科学」という言葉が文系学問の意味で使われるかということです。生きていたか、ということです。その意味で、今日、広義の方は死に体だと思います。 「その説明は科学的じゃないと思います。ヒトの先祖は猿と同じですよ」 「そうか、君はそんなに科学が好きなら将来、科学者になったらいいよ」 「うん、生物学者になりたいんだ。先生みたいに政治学や文学は好きになれないもん」 「私は科学は苦手だからね。だから逆に科学教育の必要さが身にしみて分かるんだよ。がんばって将来科学者になりなさい。図書館に行ったら、子供にも分かる科学の本があるよ。直接、科学の楽しさを教えてあげられなくて申し訳ないけどね」 (3)なぜ科学と言えば自然科学をさすようになってしまったのでしょうか。 (4)皆さんは日頃、「科学」の使い方に問題を感じませんか。日常会話と、説明や議論においても同じ使い方でしょうか。 こういう事を考えずに、上の対話のように使いまくってもいいのでしょうか。

  • 科学史(特に科学人物史)について。

    はじめまして。自分は某国立大学工学部の者です。 最近、科学史(といっても科学者一人一人の偉人伝や列伝など)にとても興味を持ちました。 それからというもの、市販の本(科学者一人について書かれてる物)を読み漁っているのですが、公になっている事では物足らず自分で何か文献などを読んで研究とまでは言えませんが新しい事実を発見したいと思い、何かしらに取り組みたいのですが、どこでそういった文献を読めるのかわからず困ってます(笑) 教授から借りた本だとどうも技術(数学で言えば数式や原理など)が取り上げられ本来の科学史はこっちのことを言うのかもしれませんが・・・ 科学者がどんな社会的背景や人物関係を背負って生活していく中でいかにしてそういった偉大な研究・発明ができたのか?そういった事を淡々と調べたいと思ってます。

  • 科学と疑似科学

    科学と疑似科学の違いについて詳しく教えてください。