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要するに 自分の意志や考えがないのでしょうか?

noname#117439の回答

noname#117439
noname#117439
回答No.10

オコリザルです。 他の方のご回答からの引用によるマメ知識です。 >ところで、公正さの本当は、自、他に次ぐ第三の立場ではなく、自分自身に向き合った人が自動的に備えた卓見によるものであるとそれを知る人は語ります。 要するに唯識に語る末那識の(意思の)平等性智としての特性です。 仏教由来の学問の平等性智を、私は「愛に基づく公正な采配」と解釈した裏切り者ですが、迷うように二分される選択肢である我は有ると我わ無いを欲望に感化されない純粋な選択として煩悩の形にするならば、愛の采配により(我どころか)全ては有るとされるのが私流の観念純化作業としての思索の遍歴であり、平等性智とされる思考から導かれた結論です。 仏教に現れる「無」の概念の研究のおかげで脳内はデジタル式コンピュウターのように「ある」と「無い」に二分されます。そうして無いものは無いと「無」(生きながらに入滅が最近の口癖ですが)の確定により、全てがあるに至るのです。 この自らに至るまでの観念の純化作業の途上では、統合失調症みたいに煩悩により二分されたうちの「無い」の方は「慈」の語源に現れるお友達の意味よろしく他者の形をとります。 それが、ご回答にあった「公正さの本当は、自、他に次ぐ第三の立場ではなく、自分自身に向き合った人が自動的に備えた卓見」となり、要するに自らの煩悩であるとの自覚ですが、よく吟味していただきたいのは「慈」のなんたるかです。結論は「慈」は「無い」です。 そうすると、今回の質問の趣旨の通り、お友達と言うほど親密であったかはともかく「誰かほかの人が言ったこと」を鵜呑みにしたままで、そのような煩悩を放置している自分に気づき、私自身が先達者のように願うところなら、その「誰かのいったこと」はどんなに耳触りが良くてもそのままでは煩悩であるところまで気づき、悟ったと言いえてほしいところです。 簡単なことです。 学んだことは咀嚼して、自分自身の血肉にしてくださいということだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 簡単なことです。 / 学んだことは咀嚼して、自分自身の血肉にしてくださいということだけです。  ☆ これなら分かります。そこまでに到る過程が 長いです。その観念の操作が分かりにくいです。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうすると、今回の質問の趣旨の通り、お友達と言うほど親密であったかはともかく「誰かほかの人が言ったこと」を鵜呑みにしたままで、そのような煩悩を放置している自分に気づき、私自身が先達者のように願うところなら、その「誰かのいったこと」はどんなに耳触りが良くてもそのままでは煩悩であるところまで気づき、悟ったと言いえてほしいところです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。《誰かほかの人が言ったこと》と《自分で考えたこと》との区別がつかないといったことが ほんとうにあるのでしょうか?――このことのほうが おどろきなのですが。  ★ 煩悩  ☆ って言ったって――もしおのれのうそ偽りとそれらから派生した欲望でなければ―― ただわたしの精神(こころ)に外から覆いかぶさったり突き動かしたりするものでしかないと思うのです。内からうごめくむさぼりの欲望はたちがわるいですが ともかくそういう腑分けをしつつ それらの自己浄化として自己を突き抜けて行く過程を思い描くことになると考えます。  ◆ ところで、公正さの本当は、自、他に次ぐ第三の立場ではなく、自分自身に向き合った人が自動的に備えた卓見によるものであるとそれを知る人は語ります。  ☆ という具合いだと思います。  ここで  ○ 煩悩即菩提  ☆ に到るもののようです。どうでしょう?

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