• 締切済み

僕の存在の意図ってなんなんでしょう

生きるのが苦しく、いろんな宗教的思想を調べました。 どの思想にも納得がいきません。 僕らは何故存在してしまうのでしょうか。 やれ仏になる為とか・・なんでいちいち仏にならなきゃいけないんでしょうか? やれ天国に行けるとか・・そんなものの為にこんなにも苦しい思いをしなきゃいけないのか。そんな欲望のために存在するんだろうか?天国にいける?神への道?極楽浄土?ふざけないでほしい。 罪やら業やら修行やら・・・なんでいちいち経験させられるんでしょうか? 僕はどうしても根本的な要因の一方的欲望としか思えません。 そうではないんだという回答が欲しいです。 よろしくおねがいします。

みんなの回答

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.8

前もってある意味なんてものは無いと思います。 原因の積み重なりによって結果、今生きている。 ただそれだけだと思います。 では生きているとはなんなのか。 「感覚があること」 「動いていること」 なぜ動くのか。 「止まると苦しいから」 「生きるとは苦しみを避けること」 「生きるとは苦しみから逃げること」 以上のことから鑑みられる生命の基本的希求 「幸福でありたい」 「悩み苦しみがなくなって欲しい」 「願い事がかなってほしい」 「すぐさま今なすべきことをひらめきたい」 生命のネットワークの中で生きているのでこの希求が自分と他人・一切の生命に在るということを認める必要が出てくる。し、それ自体が自分と他人を苦しめる悪感情を出にくくさせる作用も在る。 自分の生命の根本的希求を現実させるため、八正道の修習は必須項目であると思います。八正道を明確に否定できるものに私は出会ったことが無いですwこれによって自分と他人にとって有意義な生き方・環境が整っていく。 このように考えてます。 その延長上にお釈迦様は完全な苦の滅(悟り・阿羅漢・涅槃)があるよと説かれていますね。 「余計な苦しみを捨てて、幸福に平安に至ったらどうですか」とおっしゃっているように思います。 ちなみに私はパーリ語の仏典を元に学んでます。 スマナサーラ長老の書籍をオススメします。 参考になれば幸いです

surassyu66
質問者

お礼

皆さんありがとうございました。 個々それぞれの真実があるように思えました。 ありがとうございました。

  • jyaguti2
  • ベストアンサー率25% (8/31)
回答No.7

己(おのれ)の魂の修行のために生まれてきていることは間違いありません。 そればかりではなく「あなたは他人のため、他人はあなたのため」に生まれてきているのです。 Yahoo検索で「木漏れ日の中から」というサイトを検索してみてください。

参考URL:
「木漏れ日の中から」
surassyu66
質問者

お礼

皆さんありがとうございました。 個々それぞれの真実があるように思えました。 ありがとうございました。

  • ysyee
  • ベストアンサー率47% (8/17)
回答No.6

宗教はそもそも生きる支えにするもので、宗教のために生きるのは違うと僕は思います。 欲しい回答が分かっているなら簡単じゃないですか。 あなたの存在する理由はその欲しい回答の通りです。 誰かの欲望で存在していることが認められないのは既にあなたの中に回答があるからでしょう。 つまりあなたは誰かのためでなく、自分のためにいるんです。 誰しもが自分のために生きていきます。ボランティアをするのもここで回答するのも自分が他人のためになったと思いたいからです。 あなたも何かしたいことがあるはずです。 それをするのに遠慮はいりません。 あなたのいう通り死んだあとになにがあるかなんて今わかる人はいませんよ。今よりつらいかもしれない。それに死ぬこと自体つらいでしょう。 つらいことから逃げるのは悪いことじゃありません。 逃げて他に何か見つけてみるのも一つの生き方ですよ。

surassyu66
質問者

お礼

皆さんありがとうございました。 個々それぞれの真実があるように思えました。 ありがとうございました。

  • gyugyun
  • ベストアンサー率14% (7/47)
回答No.5

あなたが求める回答が欲しいなら、富士山に登るとか、グランドキャニオンを見に行くとか、何かの体験をしたらどうでしょうか。 仏教でも山に篭ったりしますし、日常から離れずに何か悟るのは難しいと思います。 また、こういう人によって答えが違うものは他人に答えを聞くのがそもそも間違ってます。 あなたは何か抑圧を感じているようですが、哲学的な答えを見つけるより、それを解決するほうが良いのではと思います。

surassyu66
質問者

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皆さんありがとうございました。 個々それぞれの真実があるように思えました。 ありがとうございました。

回答No.4

宗教思想を調べたとありますが、ひょっとしてWikiとかじゃないですよね? 表層的な意見なので、信仰の本質を理解されていないように見受けられました。 罪やら業やら修行やらは、所詮この世の苦しみを納得させる方便に過ぎません。 その苦しみを乗り越えたら「素晴らしい世界」があると思い込ませれば、少々税金が高かろうが国が混乱していようが「これは神の試練だ」「仏への修行だ」と民衆は勝手に納得してくれるのです。 と書けば宗教者の方々から石を投げられそうですが、当たらずとも遠からずだと私は思っています。 つまり「経験させられる」のではなく、そのつもりになっているだけなのです。 さて本題の「僕らはなぜ存在してしまうのか」ですが、それは#1の方と同じですが「存在しているから」です。 そして存在していることを知っているから、考えられるのです。 自分というものが認識できなければ、「なぜ?」という疑問も生まれません。 宇宙人が居るかもしれないという疑問も、宇宙という存在を知っているからです。 ギリシャ時代の人に「宇宙人いると思う?」と聞いてもナンセンスですよね。 それと同じレベルです。 でも質問者さんの本当の質問は「今生きるのが苦しい、どうしたらいいか」ではないですか? 宗教に答えを求めても得られなかったのでしょうが、表面的な知識では得られるものも得られません。 もし本当に宗教的思想から答えを導き出したいなら、お坊さんや神父さんや牧師さんなどと問答してみてはいかがでしょう。

surassyu66
質問者

お礼

皆さんありがとうございました。 個々それぞれの真実があるように思えました。 ありがとうございました。

  • butamimi
  • ベストアンサー率29% (51/173)
回答No.3

生きる事に対して、何がどう苦しいのか、具体的にわからないのですが… なぜ、生まれたのか? 私は幸せになるためだと思うし、何らかの役目があるんだと思います。 完全な人間はいないから人とぶつかり、接することで、己の短所を見つめ改める事もある。それを、修行のため、と言うのでしょう。 それって人間社会で生きてには、必要なことです。 自分の役目って、世間に名を残す偉業だけが役目ではないと思います。 誰かに何かを気付かせることかもしれない。 誰かを幸せにすることかもしれない。 無意識のうちに、その役目をしているのかもしれない。 それは、自分が寿命を全うした時まで、きっとわからないんだと思います。 ことわざに「袖振り合うも多生の縁」ってあります。 多少ではなく、多生です。 この多生は「何度も生まれ変わる」という意味です。 つまり「ちょっとすれ違うだけの人でも、何度も生まれ変わる中のどこかで縁があった人なんだ」っていう意味。 仏教的な考え方のことわざですが、自分が今まで出会った人、これから出会う人、みんな出会うべくして出会っているんだと思います。 何だかとりとめのない文章になってしまいましたが、役に立てればうれしいです。 このタイミングで質問し、私が回答するのも「多生の縁」なんでしょうね。 ここを覗くのは何か月ぶりかわかりませんから。 ちなみに、質問に「仏になるため」って書いてましたが、亡くなった人を「仏」って言いますよね。 みんな仏にはなれるんですよ。 生きている人に拝まれるような、悟りを開いた仏様になれるかは、人それぞれですけどね。

surassyu66
質問者

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皆さんありがとうございました。 個々それぞれの真実があるように思えました。 ありがとうございました。

noname#90203
noname#90203
回答No.2

今、私たちは生きています。 生きるという流れの中では、おそらくその意味はわからないのではないでしょうか。 宗教など色々とありますが、どれが正しいとか間違ってるとか、ないと思うんです。 宗教を構成してるのもまた人だし、何より生きていますから。 そして、生きる意味というものはその人が定義すればいいと思います。自分にとって、生きるとは…みたいに。 偉そうにすみません 長文失礼しました

surassyu66
質問者

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  • dogday
  • ベストアンサー率29% (2314/7952)
回答No.1

存在してしまう理由は、存在しているから考える事。 生まれてしまったから仏や天国を目指すんだし、罪や業をしょっているのです。 どの宗教も、存在意義は、はじめに存在することからはじまりますので、一番最初から理解できていない。 納得することじゃなくて、存在していることを認めなければ何も理解できません。 多分、この回答も一行目が理解して頂けないと思いますが。

surassyu66
質問者

お礼

皆さんありがとうございました。 個々それぞれの真実があるように思えました。 ありがとうございました。

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