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「クオリア」に関する疑問

「心の哲学」について、最近Wikipediaなどを読みあさっている者です。 クオリアというのは、「脳という物質による産物」という見方が一般的だと思います。 私は、物質世界は、現象的意識の内容に含むことができるのではないかと思ったのですが(つまり、外界・物質世界・脳という物質の実在を否定し、現象的意識のみが実在、という考え方)、 Q1: 上記のことは、「あり得る」でしょうか? Q2: このような立場を、唯心論、または観念論と言えばよいのでしょうか? Q3: 自分が、今、受け取っているクオリアの実在を疑うことはできるのでしょうか? ※本当に哲学ド初心者なので、わかりやすい言葉でご回答いただけると嬉しいです♪

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回答No.7

仰っておられる立場は既にNo.4,No.6にて指摘されていますように一元論・唯心論になるでしょう。 で、一元論であろうと、二元論であろうと、「概念」の対象として「(実在する・しないを含む)あらゆるもの」を対象とし、無矛盾に思考していこうとするならば、一元論的に捉えざるを得ない方向性へと向かわざるを得ない。なぜなら、「完全に独立して、相互に作用しあわない存在ではないもの」を扱っているからです。 たとえ >>> 外界・物質世界・脳という物質の実在を否定し、現象的意識のみが実在 <<< と考えたとしても、現象的意識内部に他の外部と目される事物が(たとえ幻想的であれ、概念的であれ)存在していると考えざるを得ない。 それらが変化するとき、現象的意識も変化するし、現象的意識が変化するときそれらも変化するからです。 一般的(であろう立場)から述べるなら、身体が傷ついたとき、意識は苦しむし、意識が何かを為そうとするとき、身体は何かを為しているからです。 これら関連する諸関係に対し、知的・論理的な思考は二元論を許さない方向性を向いています。 「もし仮に」、全ての事柄を物質一元論へと集約する方向性にて考えたとき、「それでも難しい問題・ハードプロブレム」が残っているとチャマーズが指摘したと言うことです。物質側から考えるなら、「クオリア」的な概念は「それ以外」(排除しようとしても排除しきれないもの)から出発する必要がある。 しかし、他の極・唯心論側から考えた場合、「クオリア」的な概念は「すでに含有されている」わけであり、概念として切り分ける術をもたなければ、意識すらしえない可能性が高い。 もし、疑うべき対象として既に「クオリア」の概念を抱いておられるのだとすれば、それが(共通了解可能な)「概念」として切り出されているわけであり、すなわち、「意識」と他(身体・物質)とを「切り分けて」(境界を仮設的にでも、いや幻想的にでも想定して)考えておられるわけですから、すでに二元論的な捉え方をされているともいえるでしょう。 そうであるなら、すなわち、「現象的意識がはじめにありき」で、「クオリア」なるものを記述しようとするならば、チャマーズらとは逆方向の視点からの記述でしょうから、名称を新たに設定すべきかも知れません。 たとえば「アリオク」とか。。。

Poseidon08
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 まだ理解できていない箇所もあるのですが、ここまで分かりやすく書いて頂けて感激です! 物質世界の実在に関しては、かなり疑っているのですが、 現象的意識・クオリアは、どうしても疑えないもの、と捉えています。 ただ、その現象的意識・クオリアは何処から来たのか?と考えると、物質世界でもない何者かを想定するか(物質世界を含まない二元論)、あるいは、現象的意識の存在すら疑って、「〇(ゼロ)元論(!?)」なるものを想定できるのか、といった事を考えていたところでした。 別の疑問としては、チャーマーズの指摘以前にも、人々は主観的な意識を経験していたはずなのに、何故、「すべては物質のふるまいで説明できる」と楽観的に考えていた科学者たちに衝撃を与えたのか、ということです。当時の人々にとって、意識の主観的側面は視野外だったのでしょうか?それともまさか、当時の人々は哲学的ゾンビだったのでしょうか!?(笑) お時間あるときにでも少し教えて頂けたら幸いです。

その他の回答 (9)

回答No.10

No.9です。 少し、誤解を招くかも知れない部分を修正しておきます。 >>> しかしながら、1と9とで、対象と完全に分断された科学的な《こころ》という概念は、量子力学の全宇宙への適応可能性ということによって、「シュレーディンガーの猫」や「二重スリット」問題にてあからさまにされました。 ​http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doubleslit.html​(ビデオクリップ付き) すなわち、 1.「《こころ》を交換可能」だとしていた前提条件が誤っていた。 のか 2.「《こころ》と外部」とを切断可能だとしていた前提条件が誤っていた。 かのどちらか(あるいは両方)を考慮する必要があるということです。 この問題について科学的な対応方法として有名なものは、多世界解釈 ​http://homepage2.nifty.com/qm/​ ですが、チャマーズは「ばかげている」と否定的です(『意識する心』)。 科学者の多くは、賛同する立場にあると聞きます。 <<< >>> しかしながら、1と9とで、対象と完全に【分断可能だと科学的にとらえられていた《こころ》の概念が誤っていたことは】、量子力学の全宇宙への適応可能性ということによって、「シュレーディンガーの猫」や「二重スリット」問題にて、あからさまにされました。 ​http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doubleslit.html​(ビデオクリップ付き) すなわち、 1.「《こころ》を交換可能」だとしていた前提条件が誤っていた。 のか 2.「《こころ》と外部」とを切断可能だとしていた前提条件が誤っていた。 かのどちらか(あるいは両方)を考慮する必要があるということです。 この問題について【外部と分断不可能だという前提条件を選択した場合の】科学的な対応方法として有名なものは、多世界解釈 ​http://homepage2.nifty.com/qm/​ ですが、チャマーズは「ばかげている」と否定的です(『意識する心』)。 科学者の多くは、賛同する立場にあると聞きます。 <<< です。【】部分を訂正させていただきます。 先の回答(アドバイス)では、 >>> 2.「《こころ》と外部」とを切断可能だとしていた前提条件が誤っていた。 <<< についての解釈問題について例示しましたが、 >>> 1.「《こころ》を交換可能」だとしていた前提条件が誤っていた。 <<< についての解釈問題については、まさに「クオリア」の概念が該当するでしょう。

Poseidon08
質問者

お礼

こんなにも丁寧に解説して頂いて感激です! 量子論に関しては、昔入門書を一読しただけだったので理解するのに時間がかかってしまいましたが、「人間の観測による波の収縮」のことですよね。その本には多世界解釈についても触れてあり、自分は直感的に「多世界解釈が正しいのではないか」と感じました。しかし、おっしゃる通り、複数の視点で物事を見ていくことが大切ですよね。今まで、「自分の立場は何と呼ばれているのか」ということばかり追っていたように思います。 今まで本といえば入門書しか読んだことがありませんが、挙げていただいた文献にも早速チャレンジしてみたいと思います!

回答No.9

No.2, No.7です おっしゃるように、チャマーズが指摘する以前から、ハードプロブレムに関連する事項について、科学者たちは気づいています。このことは、量子力学が生まれたときから、いや、それ以前からはじまっています。 たとえば、 === 自然現象と心の構造―非因果的連関の原理 (1976年) [古書] (-) W.パウリ (著), 河合 隼雄 (翻訳), 村上 陽一郎 (翻訳) 出版社: 海鳴社 (1976) ASIN: B000JA1LB8 発売日: 1976 === などは、その一部でしょう。(もっともパウリ自身が心を病んでいる状態のものなので、参照に値しないという見解もあります) 《こころ》と関連する問題が重要視されうるかどうかについては、すなわち、解決可能かどうかについては、意見が分かれているため、特に楽観視する側からは「問題にすらされない」状態だったといえるでしょう。 このあたりの状況については、 === 意識する心―脳と精神の根本理論を求めて (単行本) デイヴィッド・J. チャーマーズ (著), David J. Chalmers (原著), 林 一 (翻訳) 出版社: 白揚社 (2001/12) ISBN-10: 4826901062 ISBN-13: 978-4826901062 発売日: 2001/12 === にも触れられています。 もう一冊、どちらかといえば、科学者の視点からの記述としては === 宇宙に法則はあるのか (単行本) ジョン・D. バロウ (著), John D. Barrow (原著), 松浦 俊輔 (翻訳) 出版社: 青土社 (2004/06) ISBN-10: 4791761243 ISBN-13: 978-4791761241 発売日: 2004/06 === があります。 この中の、「標準的な科学者が暗黙裏に行っている九つの基本的な思考」(「すべてを常に行っているというわけではない」)のうち、1と9を抜粋します。 >>> 1.われわれの心の外部にあり、われわれの感覚経験の唯一の源泉である外部世界が存在する。 9.これらの前提は、いつでもどこでも、同じ形で成り立つ。 <<< 2から8については、原書を参照してください。 私にとっては、この二つで十分です。 この二つを言い換えると、 「科学は心の外部を対象とし、《こころ》の外部の世界についての説明が、《だれのこころ》にとっても、交換可能になるような可能性を追求する」 となります。 すなわち、科学的な説明可能性は、「わたしにとっての」外部世界の説明可能性と、「あなたにとっての」外部世界の説明可能性と、「○○にとっての」外部世界の説明可能性とが、無矛盾かつ論理的に行えることを目指しているわけです。 で、「主体を交換可能」という前提条件に立つ以上、その主体について言及できないのは、実のところ、科学的実験や科学的教養問題において「周囲の環境を、同一にする(交換可能にする)」というのと同じことを意味しています。 よく目にするのは、科学的な教養問題にあるところの「温度・湿度を一定にして」とか、「ただし、摩擦はないものとする」とか、「質点の大きさを無視する」とかです。 しかしながら、1と9とで、対象と完全に分断された科学的な《こころ》という概念は、量子力学の全宇宙への適応可能性ということによって、「シュレーディンガーの猫」や「二重スリット」問題にてあからさまにされました。 http://www.hitachi.co.jp/rd/research/em/doubleslit.html(ビデオクリップ付き) すなわち、 1.「《こころ》を交換可能」だとしていた前提条件が誤っていた。 のか 2.「《こころ》と外部」とを切断可能だとしていた前提条件が誤っていた。 かのどちらか(あるいは両方)を考慮する必要があるということです。 この問題について科学的な対応方法として有名なものは、多世界解釈 http://homepage2.nifty.com/qm/ ですが、チャマーズは「ばかげている」と否定的です(『意識する心』)。 科学者の多くは、賛同する立場にあると聞きます。 ハードプロブレムは解釈問題であり、多世界《解釈》も選択肢の一つです。唯物論にしても、唯心論にしても、一元論にしても二元論にしても、すべて解釈問題の一つにしか過ぎません。 そういった複数の視点で物事を見ていくことが大切なのだと思います。 解釈問題に於いて「可能性は切り捨てるべきではなく」、複数の解釈が「なぜ可能なのか?」について、考えていくと、答えが見えてくるかも知れません。

noname#91781
noname#91781
回答No.8

長くなりますので Q1 についてのみに回答いたします。 この質問は、かつて当サイトであった質問 「夢と現実とはどう区別するのか」 に通じるものと思いますが、その時にも述べましたが、夢 (意識現象世界) と現実 (物質世界) とを区別するただ一つのものが存在します。と言うよりも、現実の世界に有って夢の世界に無いものが確実に一つ存在します。それによって、間違いなく存在するのは夢の世界でなくて現実の世界の方と言えます。 夢と現実を区別するもの、それは “重力” です。 我々は夢の中で物質世界におけるすべての意識内容を再現できますが、ただ一つ、重力だけは再現できない。夢の中の世界には重力は存在せず、当然、夢の中の我々の行動は重力に制約されません (したがって空を飛ぶことも可能となります)。 ナゼ、夢の中では重力は存在しないか? その理由は、拍子抜けかも知れませんが、この現実の世界においても我々は “重力” を感覚的に意識できない(意識してない)からです。 我々が現在、重力というものの存在を認識することが可能なのは、17世紀にニュートンがそれを数学によって質量と距離との関係に関連付けさすことに成功したからこそです。 では、それ以前の世界で人間はまったく重力の存在に気付くことはなかったのか、ということになりますが、その答えは小さな子供にこう質問すれば分かります。「石を放り投げると何で下に落ちてくると思う?」 すると子供はこう答えるでしょう。「それは重たいからだよ。」 ニュートン以前の人間は、この世に重力があるというより、単に重たい物は下に軽い物は上にという程度の認識だったと思われます。そしてこの重たい・軽いは人間の肉体における筋肉の負担の大きさに過ぎない。それは一種の筋肉の痛みの感覚とも言えますが、要するにニュートン以前の世界の人間は重力を認識していず単に物が重いか軽いか、すなわちそれが自分の肉体にどの程度の負担を与えるかだけの認識をしていたわけです。またこれについて彼らの最高度の認識があるとしても、自身の肉体の自己体重による床との接触による筋肉の痛みに留まるでしょう。それによって、そこにいまだハッキリと認識できていない 「何か」 が存在しているのではないかと感じる程度でしょう。 しかし、ニュートンが数学の力によって重力を発見したからといって、我々の肉体はその重力をジカに認識あるいは意識できるようになったワケではありません。たとえば、マックスウェルが数式によって電波の存在を発見した後も我々に電波が見えるようになったワケではないことと同じです。 現在の我々も、相変わらず重力を意識できないままなのです。ただ意識できるのは単に筋肉の痛みだけです。 しかし、「その筋肉の痛みによって、重力があると見なせばいいだけのことではないのか?」 という反論が聞こえそうですが、それが難しい理由は、現実の世界において相当の重さの物を動かししたり持ち上げたり長時間同じ姿勢を維持しない限りは、日々、我々は重力による筋肉の痛みをほとんど意識していないからです 。 意識していないものを、夢の中で再現しようがありません。事実、我々は夢の中で重力による筋肉の痛みを再現することはマズありません。すなわち、夢の中では重力が存在していないと言えるのです。 確かに、今、我々は現実世界においてジカに重力を知覚することはできませんが、しかし今後、我々が次の進化を果たした時、間違いなくそれをリアルに知覚できる生命体へと変貌していることは間違いないでしょう。

Poseidon08
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 重力…面白い視点ですね!ニュートン以前の人間にとっての重力の認識のところ、なるほどと思いました。 夢と現実、今みている現実も夢かもしれないなどと考える事は誰にでもあると思うのですが、最近の自分は、夢と現実は同じものとして考えています。

回答No.6

Q1: 上記のことは、「あり得る」でしょうか?  それこそが現実と称するものです。 Q2: このような立場を、唯心論、または観念論と言えばよいのでしょうか?  よいです。 Q3: 自分が、今、受け取っているクオリアの実在を疑うことはできるのでしょうか?  できません。 以上の立場は、クオリアの実在を体感している側の発想です。 その範囲では、それに間違いはありません。 で、それがなぜなのかを追求すると クオリアを体感しているであろう第三者を客観的に観察することに なり、さらに、不特定多数に結果を表現するためには、「外界・物質世界・脳という物質の実在を否定」することは出来ないということだと思います。 つまり、ものを観ている視点と範囲が異なっていると言うことで、どちらが広いとか、どちらがより正しいとかは、あまり意味をなさないとおもいますね。

Poseidon08
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 視点と範囲によって「答え」が変化する、ということですね。大変分かりやすかったです♪ 自分の場合は、こういう立場なので、不特定多数に結果を表現する行為自体が無意味に感じてしまうことがあるんですよね…。

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.5

>「現象的意識=主観的に感じ取れたもの全て」 私も、おそらく同じ意見です。 でも、他の人も、そのように考えているかは知りません。 つまり、公式的見解を、私は知りません。 質感と言ってみたり、体験と言ってみたりするようですが。 私は、言語化できないものをクオリア(現象的意識)ということにしています。 言語化できるなら、客観的な基準で検査できますから。

Poseidon08
質問者

お礼

有り難うございます! 言語化できないもの…なるほど。 主観的なものと客観的なものの線引きはやはり「言語」なんでしょうかね。 自分でも色々と考えてみたいと思います♪

  • corpus
  • ベストアンサー率12% (25/200)
回答No.4

A1. あり得るといえば、あり得るのでしょう。 ただ、何を物質世界として、何を現象的意識としているのか、 というところが問題。 それから、現象的意識のみ実在すると、真偽の判定が難しくなるかも。 というのも、物質世界と現象的意識が一致したときにのみ真である、 という便利な真理判定法が使えなくなるから。 一元化してしまうと、必然的に、一致してしまうから。 私も、実は、この問題に悩まされているのです。 A2. 唯心論、唯物論、二元論という分類では、唯心論に近いでしょうかね。 A3. クオリアの実在を疑うということは、できるでしょう。 本当は、悪魔が私にクオリアらしきものを見せているのだ、とか。 ただ、クオリアという言葉は、否定的な語で定義されていると思うので、 (例えば、機能的では<ない>とか。) クオリアは、その他あらゆるものを含むと定義してしまうと、 実は、定義の上で、疑えないものになってしまうかも。

Poseidon08
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 分かりやすく説明してくださり、すっきりしました。 ただ、一つだけ、疑問点が残ってしまったのですが、 > ただ、何を物質世界として、何を現象的意識としているのか、 というところが問題。 > クオリアは、その他あらゆるものを含むと定義してしまうと… 現象的意識とかクオリアといったものは、定義がしっかり定まったものだと思っていました。 「現象的意識=主観的に感じ取れたもの全て」と私は解釈しているのですが、この定義でもなお曖昧な部分が残ってしまうのでしょうか?それとも、この定義以外にも「現象的意識」という言葉が使われるのでしょうか? もしよろしければこのあたりのこともう少し教えていただけないでしょうか?

回答No.3

思いつくまま、乱筆にて失礼します。(随想1)(2はありません) 何かがそこにあり、それを「赤い」「熱い」とみれば、今はやりのクオリアなんでしょうが、そこでいうクオリアとは、それを「赤いと見る」「熱いと感じる」その「こころ(思い)」と同じことなのではないでしょうか。なんのことはない、昔からの二元論の蒸し返しだと思えてしかたありません。科学の装いを凝らしただけのことではないの、という疑念が拭えないわけです。(ヨケイなお世話ですが、アフォーダンスと現象学をアマルガムにしたような発想も、私にはまゆつばにしか見えません、ああ、こういう哲学の挽歌もありなのかと)。  古い問いに古い答え、これに勝るものなし(ベケット『勝負の終わり』)。 究極のクオリアは何かといえば、「この身体」と述べるその当事者の「私」が意識するこの「身体」(「この身体をもつ私」の「私」)こそがそうなのであって、この「身体を有するという感覚(クオリア)」があらゆるクオリアの基礎クオリアだといってもいい。 私はなぜ私なのかという問いはさておき、「私はなぜこの身体をもつか」「私はなぜこの身体に取り憑いていられるか」「私がこの身体から引き剥がされる可能性はないのか」という問いが有意味に見えるのは、あらかじめ「私」と「身体」を分けておいて、そのあとから、その二つがどう「一致」するのかと考えるからではないでしょうか。「私」と「身体」のあいだには「原アニミズム」があるといった哲学者もいました。私が世界を認識する(不)可能性も同じこと。 二つのものと分けておいて、それがどう関係するかと分析するのも1つの行き方だとは思います(科学)。おおざっぱにいって、心と身体は別だとしなければ、臓器医療が成り立たないのに、一方、心と身体がそれこそ一体のもの、一蓮托生のものだからこそ、たとえば「売春」を避けねばならず、だからこそ(身体がかけがえのないものだと分かっているからこそ)「買春」する人が絶えない。体は売っても心は売らない、とは、その不可能性への嘆きだったんですね。 とりとめもないまま、もう制限字数になりそうです。 さいごに「身体」が即「心」だと喝破したアリストテレスの方法(『デ・アニマ(心について)』)に思いをいたして。

Poseidon08
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 二元論の蒸し返し…なるほど。まだ理解していない箇所もありますが、興味深く読ませてもらいました。

回答No.2

意識のハードプロブレム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0 を参照してください。 分かりやすくまとめられています。

Poseidon08
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そのページも見たのですが、今回質問したような疑問が残ってしまいました…。

noname#100496
noname#100496
回答No.1

仏教では、この世界は仮の世界で、本当の世界から、実像の世界から、投影された、影絵のような虚像の世界だと教えます。諸行無常、色即是空、空即是色です。つまり不調和世界の脳と、調和世界の自然が、出会うために作られたシュミレーションの世界です。だから脳は、不調和な存在で、宇宙の主役では無いので、脳の思考に限界があります。だから逆に、仏教の座禅などのように、脳を休めると、本当の世界を知る事が出来ます。

Poseidon08
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 確かに、頭で考えれば考えるほど、分からなくなって、更に脳を使ってしまいますよね。

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     『如来の実体』  『如来の実体は、また法体ともいふ。実体とは全体、何物であると云ふにつき古来、種々の学説がある。実体とは実在を意味することあり。或いは事物の形式を抽象して本質のみを表(ひょう)して実体と名(なづ)くる者あり。また普通の属性や偶性を区別して其の本質を実体とするあり。  また実体とは現象の諸々の性質の奥に在る本体にして、万有の原因なりと云ふあり。神学にては実体を以て神性を表わし、人格的差別を超越するものとす。プラトーがイデーを万物の実体原因とし、デカルトが他に依らずして存在するものを実体とす、即ち神であると。スピノーザは自身に依って存在し無限永久必然なる実態即ち神であると。  ライプニッツは実体は活動し得る存在即ち力であると。カントは経験により来らず即ち純粋なる概念である、また実体は存在の最後の主体であると。或いは実体とは雑多の諸々の性質を総合せる基礎であると云ひ、また実体は現象の物の種々に変化するに拘わらず、内性不変動のものであると。  今の実体とは世界性(せかいしょう)と衆生性(しゅじょうしょう)を超越したる実在の第一義諦の如来性(にょらいしょう)を実体とす。実体は世界と衆生とを超越して而も二性(にしょう)の原因であると共に二性の内存である。  実体の本質なる実在につきての諸説は或いは人間の意識の境(きょう)を超越して不可知的であると説く、吾人は自己の意識に現れ来(きた)るもののみを知る実在は不可知的であると。観念的実在論者は、実在は観念的のものにて可知的にて、吾人の観念と実在とは一体であると。また実在以外に現象なく現象即ち実在であるとの説もある。  今は曰くは実在は吾人の観念と同一本質にして、不断の活動は其の属性にして、吾人の意志に比(ひ)すべく、若し吾人の観念と同一本質ならざれば、吾人は如来性と冥合(めいごう)すること能はざるべし。吾人が甚深の観念に入りて冥合して真如と相応するは本質が同一なるが故である。  起信論に真如の性(しょう)は言語道断心行所滅の体なれども唯、証のみ在りて相応するとは是である。  実体論には古来種々の説あり、物心二元論あり、唯物論あり、唯心論あり、また唯理論あり。唯物論者は謂(おもへ)らく宇宙を構造する本質は、物質の原子もしくは電子が在りて、之が永恒不滅にして且つ其の勢力は常恒存在して、其の自然律によりて万物を造る。  人間の精神の如きも脳髄神経を構造する細胞の作用に外ならずと。故に精神などは物質の副産物に外ならぬ。永恒の存在は物質の原子のみと。観念論者の説によれば心、生ずれば一切の法、生じ心滅すれば一切の法滅す。天地万物の色相は唯心の変現に外ならずと主張す。また唯理論者は云はく、物質いかに精妙なるとも物より精神の派生すべしと思はれぬ。また心質より物質の出現すと云うことも考えられぬ。  故に現象の上にては物と心とは異なれども其の実体は物心不二の理体である。之を仏教では真如と名づけてをる。即ち宇宙を包含する処の普遍的概念は変化極まりなき中に不変の法則が存在し之に依りて万物を生成す。其の物質と心質との原因なる統一的存在が即ち真如である。仏教にいはゆる真如とは、物心不二の理体なれども活動の主体なるが故に、心真如と名づけ物心一如の心である。  真如即ち実在は物心不二統一的存在を、物質に重きを置きて観る者が唯物論者にて、心質に傾く観方(みかた)を唯心論者とす。  心真如、即ち実体の本質は物心無礙超時間超空間的にして、而も偏時間偏空間絶体永恒万物内存の大心霊体とす。万物内存の故に内(うち)に非ず外(そと)に非ずして、而も内外(ないげ)に偏在せる絶対である。物心を統(す)ぶる故に大霊態とす。之を華厳に総該万有心(そうがいばんぬしん)と云う。之を宗教的に云わば法身毘盧遮那、即ち弥陀の法体(ほったい)と名づく。一切万法の本体にして一切生起(いっさいしょうき)の一大原因である。』(弁栄聖者著・人生の帰趣P172~175)  ☆ だいぶ長くなってしまって、あれこれと心配になってきてしまいましたが、以下に質問です。  サラブレッドの御御脚を持つ“帰依者”としましては、深く理解は出来ないものの、なるほど、なるほどと、心に染み入ってくるのです。  だからこれを現代のお経であると捉えているのですが、この思いは幼稚すぎますでしょうか。  ここ哲学カテの住人の皆様の学ばれた知識を以て、御判断を仰ぎたいのです。  また文章の中の「第一義諦(だいいちぎたい)」の意味がよく分かりません。  辞書を見ても出ていませんでした。  分かる方いらっしゃいますでしょうか。  よろしくお願いいたします。    

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    フッサールのいう「生活世界」は、「内在」なのですか、あるいは「超越」なのですか? つまり、生活世界は、「超越論的自我の中にあるもの」なのですか、それとも「超越論的自我 の外にあるもの」ですか? 生活世界が、人間の純粋意識の領域の外にある、つまり超越的なものとすると、フッサールは 外界=客観的世界の実在定立の判断をさしひかえる判断停止(エポケー)を解除して、外界の実在性 を一定限度で容認したということなのでしょうか? ご回答お願いします。

  • 他者(意識)の存在が分からんは哲学の未熟?

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  • 哲学的ゾンビの考え方に納得ができない

    哲学的ゾンビの考え方に納得ができない、というか理解できません。 教えてください。 哲学的ゾンビとは、要は <自分以外の人間が本当に、自分と同じ「意識」を持っているか、「クオリア」を感じているかを、判断することが原理的に不可能> ということだと思います。 しかし、これは本当に正しいのでしょうか? 他人が自分と同じクオリアを感じているかを判断する方法はないのでしょうか? 例えば次のような方法はどうなんでしょうか? 自分の脳みそをパカっと開いて、自分が「赤のクオリア」を感じている時の脳の状態を調べます。(実際にそういうことができるかはここでは問題にしません) 赤のクオリアを感じてる時、自分の脳がどうなってるか、どんな反応を示しているか確認します。 で、他の人の脳みそを同様にパカっと開いて、<自分が「赤のクオリア」を感じている時の脳の状態>と同じような反応がそこに見られたら、その人には自分と同じ「赤のクオリア」が見えていると推測することはできませんか? ※これは質問であって、哲学的ゾンビの考えは間違っている!という批判意見ではありません。自分は哲学的なことをさらっと読んだ程度でそもそも理解が浅く、とても批判や疑問を出せるほどの知識も理解もないです。

  • 現代哲学者はウィトゲンシュタインを無視しているのでしょうか

    先日、永井均氏の「なぜ意識は存在しないのか」を読み、非常に面白い読書体験をしました。 その中で氏は 「この半世紀で現代哲学者は、すっかりウィトゲンシュタインの私的言語批判をわすれてしまった。」 と書いていました。 現代の哲学者、科学者たちは、しきりに意識を科学的に描写する用語として、クオリアという用語を取り上げます。しかし、ウィトゲンシュタインからすれば、クオリアという概念は、科学用語と心理学用語の使用範囲の混同によってうまれた、誤解の産物ということになってしまいます。 現代の哲学者たちは、この批判をすでに乗り越えているのでしょうか。それとも、無視しているのでしょうか。ご回答お待ちしています。