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現代哲学者たちは、ウィトゲンシュタインの私的言語批判をどのようにとらえているのでしょうか

先日、ウィトゲンシュタインの「哲学探究」とその研究書を読み、深い感銘を受けました。中でも私的言語批判が興味深かったです。 それを読んでいると、最近の脳科学で取り上げられるクオリアが思い浮かばれました。現代の哲学者、科学者たちは、しきりに意識を科学的に描写する用語として、クオリアという用語を取り上げます。しかし、ウィトゲンシュタインからすれば、クオリアという概念は、科学用語と心理学用語の使用範囲の混同によってうまれた、誤解の産物ということになってしまいます。 現代の哲学者たちは、この批判をすでに乗り越えているのでしょうか。それとも、無視しているのでしょうか。ご回答お待ちしています。

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  • ベストアンサー
  • cyototu
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回答No.1

日本の学者の中には幾らでも怠慢な連中が居ると言う典型的な例が「クオリア」という文字の中に象徴的に現れていると思いました。この言葉の意味をウィキペディアで引いて見てその意味を理解しようと努力しているうちに、それに対応する日本語として「質感」と言う立派な言葉があることに気付きした。要するに「量」に対する「質」という言葉があるのですが、この場合にはそれを感じる我々の、認識論的、生物学的、あるいは物理的感覚や認識に力点が置かれているので「質感」とすれば、この言葉を初めて聞いた者でも十分透明にその意味の見当がつきます。ところが「クオリア」では何のイメージも湧いて来ません。 学者とは困った者で、自分たちは巷の人間とは違った高尚なことを考えているのだと言うことを、巷の人間に見せびらかしたいという低劣は欲望がある。そのことを見抜いた昔の日本人達は、学術語に漢語を当てて、それを音読みにすることで、仰々しさを表現してその低劣な欲望を満足させることが出来ることに気が付きました。ところが、漢字とは良く出来た物で、それを訓読みにしてしまうと、その意味が一気に透明になってしまい、漢字を読める人間には特別に訓練を受けなくてもその意味がすぐに判ってしまう。例えば、「ジビカ」では何のことか聞いただけでは判りませんが,「耳鼻科」だったらそれを訓読みにして、その意味がすぐに判ってしまうのです。 その点、西洋語は全てが表音文字なために、訓読みしかない。それでは学者が偉そうに見えないので、訓練を特別に受けなければ理解できないラテン語やギリシャ語で新造語を作りました。私はアメリカに住んでいますが、以下の表で約50個程の学術用語が載っているものを、日本人の高校生に見せたら、ほとんどの高校生には、何となくその意味が判りました。ところが、それをアメリカ人の博士課程の大学院生に見せたら、ほとんどの方には何のことだか見当がつかず、せいぜい20%位の正解率でした。 閉所恐怖症(caustrophobia), 耳鼻科(otorhinology),  地震計(seismograph), 盗癖(kleptomania), 鳥類学(ornithology), 眼科( ophthalomology), 貧血(anemic),  産科(obsterics), 魚類学(ichthyology), 乳酸菌(lactobacillus) このように漢字に書いてしまうと、素人でもその意味が判ってしまうので、日本では西洋のように知識人たちが知識を独占することが出来ないようになっております。そのことを十分し知っていたかつての日本人達は、西洋から手に入れた新しい概念を何とか漢字に直す努力をして来ました。その結果、専門家ではない一般の日本人の知的レベルは、近年まで世界でも最高クラスでいられたのです。ところが、近頃はマスコミ受けした底の浅い連中達が、西洋語を直接カタカナで表すと言う、もっとも安直で手抜きな振る舞いをして、一般人を煙に巻くようなことをし始めました。「クオリア」や「インセンティブ」なんて言葉を使っている連中は、どんなにマスコミ受けしていようが、十中八九は、日本語の持っている言葉の深みとは何かを本気で考えたことのない、流行を追いかける程度の低い連中です。 またそのウィキペディアには、 >この意味の厳密さへの志向と科学的な傾向の強さの二点から、旧来の用語とは異なる「クオリア」という新語が好んで使われる。 なんて、またまた厚みのない分析をしていまいした。どんな国でも、言葉というのは摩滅する物です。柳田國男は、「もしかしたらその言葉が人々の間で使われた回数が何回かに達したら、その言葉は皆から飽きられてしまうについての法則があるのではないか」という趣旨のことを述べておりました。はじめに聞いた時にはどんなに斬新な言葉でも、そのうちに必ず飽きられてしまうというのが、言葉の重要な性質の一つなのです。そして、初期のうちはその言葉を理解する人の数が少ないので、その新造語で表されている概念の深みに関係なく、その新造語を使うことに優越感を味わうことができるのです。ハイカラやモボ・モガがミーちゃん・ハーちゃんになったり、 ナマイキ帽子が鳥打ち帽子やハンチングになったり、ゴウハイがゴウコンになったり、お見合い活動が婚活になったり、若者達は直ぐに新造語に飛びつき、親の使っていた斬新な言葉を次々に古臭い死語にして来たのが人間の言葉の歴史なのです。 そのことは、学問におけるミーちゃん・ハーちゃんたちにも共通した現象です。ところが、学者達は相変わらず自分だけは別だとでも言いたいらしく、「この意味の厳密さへの志向と科学的な傾向の強さの二点から、旧来の用語とは異なる『クオリア』という新語が好んで使われる」などと言うもっともらしい理屈をつけて、自分でも騙されているわけです。 まあ見ていてご覧なさい、ウィトゲンシュタインなんて持ち出さなくても、遅くとも、クオリアなんて言葉を使っている今の連中が大学で定年を迎える頃、あるいはもっと早い時期に、この言葉は摩滅しており、また新たな流行語が生まれて来ますから。そして、その頃の学門の新参者達が、今の連中がやっているのと同じ様にその新造語にいろいろの理屈を付けたとしても、結局「質感」あるいはもっと細かく分類して「物理的質感」「生物学的質感」「認識論的質感」等々と、誰が読んでも意味が大体想像できるもっと透明な言葉で十分意味の通じることを、仰々しく、また、かっこ良く聞こえる言葉で言い換えて、素人を煙に巻いているだけですから。

taka-kazu
質問者

お礼

確かに日本人は変わった用語を使っただけで、自己満足してしまう傾向にあります。それが、日本語の特色にあるということは意外でした。 ご回答ありがとうございました。

taka-kazu
質問者

補足

クオリアという言葉は日本の学者に限らず、英米哲学者も普通に使っている言葉です。 私が気になるのは、英米哲学圏では、私的言語批判はどのように受け止められてきたかということです。 そのところをお答えいただけると助かります。

その他の回答 (2)

  • cyototu
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回答No.3

#2です。 クオリアという言葉に関連して、学問をする者の心得として、我々は言葉の選び方に慎重にならなくてはならいと常々思っていた経緯を書かせてもらいます。共感できなかったら聞き流して下さい。 私の個人的な経験なのですが、むかし中学校1年生のとき理科の時間にニンジンに含まれる栄養素で、ビタミンAを豊富に含むカロチンというものがあることを教わりました。そして、その学期の試験に「ニンジンに含まれている栄養素」を以下のものから選べという4者択一の問題が出て、私は上手く答えられたことで悦に入っていました。ところが、中学校3年生の時にニンジンのことを英語でキャロットと言うことを知った時の、私の腹立たしさは在りませんでした。もしカロチンを「ニンジン素」と適切に日本語に訳してあったなら、こんな問題を試験に出す方が馬鹿馬鹿しく、またそのためにエネルギーを使って覚える必要もなかったはずです。学問てこんな馬鹿馬鹿しいことで時間を費やしているのかと腹が立ちました。 また、成人して胃の具合が悪くなって医者に行った時に、医者に胃炎ですかと聞きましたら、先生は「胃カタル」であると診断しました。私はその時、さすがに専門科の先生は凄い、胃カタルという病気なのかと思い、家に帰って辞書で引いてみたらカタルとはドイツ語で炎症のことであると書いてありました。 今から10年位前に、国連の世界保健機構が「日本の医者の先生方、死亡報告を出す時にはもっと真面目にやって下さい。日本人は心不全で死ぬ人が多すぎる」という文句を言いました。「心不全で死亡」とは、「心臓が止まったので死亡」と言うことです。素人には心不全という仰々しい言葉は立派な病気のように思えてしまいますが、さすがに外国のお医者さんを煙に巻くことは出来なかったようです。医者達は、自分の仲間達だけに通じる専門用語と言う隠語を発明して素人を煙に巻き、それで金儲けしているような弁護士達と同じ連中なのかと、皮肉りたくもなります。 その後私は、学問の世界で身を立てて来ましたが、それらの経験から学んだことは、始めにも述べたように、学者が言葉を選ぶ時には出来るだけ透明な言葉で、それを見たら素人でも何を意味するのか大体の想像が付くようにしなくてはならない。質問者さんはクオリアという言葉を初めて聞いたとき、ニンジン素や胃炎ぐらいすぐに意味のわかる言葉だと思いましたか、それともカロチンや胃カタルぐらい、何が何だか意味の判らない言葉だと思いましたか。 日本語は世界でも極端に発音の種類が少ない言葉ですから、アルファベットをカタカナにしてしまうと、先ず、その元の外国人には通用しない言葉になっています。例えば、地名のカルフォルニアやオースチンやボストンなとはその良い例です。ですからカタカナで表現するとは、外国語をそのまま言っているわけではなく、カタカナという日本語訳をしたことになります。私には、クオリアという概念が、科学用語と心理学用語の使用範囲の混同かどうかという問題以上に、この言葉は日本人にとって、カロチンや心不全にも匹敵するような、意味の不透明な大変下手な、カタカナによる日本語訳になていると思えるのです。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

#1です。 >クオリアという言葉は日本の学者に限らず、英米哲学者も普通に使っている言葉です。 もちろんその通りです。欧米語には訓読みしかないと言うの貧弱な構造故に、学者の自己満足を満たすためにラテン語やギリシャ語を使わざるを得ズ、その結果、一般民衆に取って欧米語が日本語と比べて不透明になっていると言う事実を、#1で紹介したのです。それに対して、日本語には音と訓と言う、実に素晴らしい奥行きという財産があるのですから、日本の学者達はそれを十分に認識して、「知」を独占せずに、公の物にする義務があると言うことを参考意見として述べたのです。 音と訓があると言うことは、言語に関して日本人は欧米人の持っていないもう1次元余分な次元のある世界に住んでいると言うことです。したがって欧米人の言語分析では認識することが不可能な質感(クオリア)を日本人は感じ、それを認識できると言う素晴らしさを持っているのです。それ故、哲学における言語批判の在り方も、日本人のそれは西洋人のそれとは自ずと異なっているはずです。外国人の貧弱な言語構造に関する言語批判論の翻訳に汲々としているよりも、それを参考にしつつも、音と訓ばかりでなく,漢字仮名まじり文と言う多次元構造を持つ日本語の豊富な構造を駆使した言語批判を展開して、人類の持っている思考の多様性に貴重な一章を日本人が付け加えるのも一考かと存じます。 言葉の摩滅はどの民族でも共通した現象ですので、学問の認識に関わりなくその言葉はそのうちに使われなくなるか、あるいは日本人が単に「質感」と言う形で認識しているものを表現するだけの言葉に落ち付くだろうと言いたかったのです。 >私が気になるのは、英米哲学圏では、私的言語批判はどのように受け止められてきたかということです。 という、貴方にとって肝心な質問に関しては、寡聞な私にはコメントすることが出来ませんので、参考にならなくて申し訳ありません。

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