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因果応報説は 愚の骨頂

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回答No.11

因果応報説は 愚の骨頂ではないか? 補足 意識レイヤーを 1).5感が知覚ができるスコープの範囲の世界観(物質界)=【有限、物質至上主義】 2).1)と3)を意識し、ある意図の下で実行する精神世界(心の世界)=上下それぞれを観察し行動する自分 3).本質の形作る世界観(魂的世界)=【無限、魂至上主義】 と3種類に分類した。 上記観点をもっと簡単に整理すると 1).肉体の自分(エゴ) 2).心(エゴと本質の間に発生するパーソナリティー) 3).魂(本質) *心はエゴと本質のそれぞれからの情報を取得しうる。 *顕在意識下においては「エゴ+心」で意識し、潜在意識下においては「魂+心」で意識する。 と定義しておきます。 >★ 魂的世界から発せられたことばと物質界の自分を心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。 了解しました。 >★ よって、魂的世界における主体は物質界における主体とはことなる概念であろうと想像できます。 >☆ これは わたしの言葉に置き代えるなら こうです。 >○ わたしなる存在は 経験思考〔および感性〕の主体と 非経験(=無根拠)に対する非思考つまり信仰の主体とに分けられる。 >○ 経験行為の主体(いわゆるコギト)にとっては 《人々の罪の責任を問うことなく》ということが現実となったのならば ひとりの存在において もはや因果応報説が当てはまることはない。 >○ 何故なら わたしの悪の行為が原因となって その罪の責任をこの同じわたしに問われることはないと言うのだからである。 >○ わたしの原因が 別の人間に結果となって現われるなどという場合にしか当てはまらなくなる。それはもはや因果応報説ではない。 【主体観の定義と因果応報説】 上記の「この同じわたし」についてですが、 「□3.因果応報説を2)が1)と3)からの観察点それぞれ意識し、1)の世界観で実行する場合」という観点で論ずるなら 「魂的世界から発せられたことば(A)」と「物質界の自分(B)」を心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方のうちの(B)の視点のみの主体で判断しているのではないかと思います。 私がいいたかったのは ・「魂的世界から発せられたことば(A)(ならびにをれを理解する魂的主体)」 と ・「物質界の自分(B)(顕在意識を知覚する主体)」 の両方の観点を意識にもち物質界にて意図を実行する、ということです。 これは、「エゴ+心」の主体と「魂+心」の主体が同時に機能している状態であり、 コリント後書の言葉でいいかえると、 「エゴ+心」の主体=あなたがた 「魂+心」の主体=神、キリスト、そしてあなた ということで、あなたの視点と神の視点が同時に存在するということになります。 よって、因果応報説をこの観点から評価すると 「エゴ+心」の主体の観点のみから考えると、原因と結果を別々の主体が受け取れる為、因果応報説は無効であるが、 「魂+心」の主体の観点から考えると、私はキリストや神の一部分であり、主体は1つなので、因果応報説は有効 といえるのではないかというこです。 なぜ、「魂+心」の主体の観点から考えると私はキリストや神と同じなのかといいますと、 ・魂的世界の主体観と物質界の主体観が異なる。 ・因果応報説に矛盾がでるのはこの主体観が異なっているため。 ・魂的世界の主体観が因果応報説に矛盾しないならどのようなものか。 ということから「魂的世界における主体観とは個は個と同時に全体である」という仮説を導いた訳です。 つまり、主体観をこの観点で説明すると 「エゴ+心」の観点では、自分の肉体が主体で他の肉体が客体である。 「魂+心」の観点では、魂が主体で肉体が客体である。私の肉体は主体の観察点に過ぎず、相手の魂も自分と同じ主体となる。 ということになります。 【因果応報説と般若心経】 因果応報説が唱える因果とは意図が関連しています。意図を単純に善悪とされることが多いようですが、無意識を含めた全ての意図が関連していると思います。 因とは意図して行動することで、果とは意図して受け取ることとすれば、因果とは心における解釈の方法次第で完結しうるものかもしれません。 不幸を不幸と思うのがそれを思う心であるなら、それを不幸と感じる心がなければ不幸はなくなる。 仏説摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩?、依般若波羅蜜多故、心無?礙、無?礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多呪。 即説呪曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経 ここに答えが書いてあるように思います。 全ての目に見える事象はそれを受け取る心が解釈し意図として受け取っているのであるなら、 それを受け取る心がその事象を空として受け止めた場合、カルマはもはや存在し得ない。 因果応報説を超越した心のあり方もあるという意味では、因果応報説は愚の骨頂となるのかも知れない。 因果応報説が愚の骨頂かどうかは、それを受け取る心のあり方次第という結論となりました。

bragelonne
質問者

お礼

 stsmart さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全ての目に見える事象はそれを受け取る心が解釈し意図として受け取っているのであるなら、  それを受け取る心がその事象を空として受け止めた場合、カルマはもはや存在し得ない。  因果応報説を超越した心のあり方もあるという意味では、因果応報説は愚の骨頂となるのかも知れない。  因果応報説が愚の骨頂かどうかは、それを受け取る心のあり方次第という結論となりました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 完璧だと思いました。脱帽します。  そしていまから思えば  ★ 因果応報説が愚の骨頂かどうかは、それを受け取る心のあり方次第という結論となりました。  ☆ ゆえに ひとに対して――つまりあるいは社会一般の通念として誰にでも当てはまると言うかのように ひとに対して―― 因果応報説を説いたり その説にのっとって話を進めてみたりしては 独り善がりであっておかしい。という社会人としての礼儀が得られる。のではないでしょうか? つまり わが主観内面を一歩出たら  ☆☆ 因果応報説は 愚の骨頂  ☆ だと心得るべきではないでしょうか?  我田引水 牽強付会ですが。

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