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因果応報説は 愚の骨頂

stsmartの回答

  • stsmart
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回答No.8

因果応報説は 愚の骨頂ではないか? 意識レイヤーには 1).5感が知覚ができるスコープの範囲の世界観(物質界)=【有限、物質至上主義】 2).1)と3)を意識し、ある意図の下で実行する精神世界(心の世界)=上下それぞれを観察し行動する自分 3).本質の形作る世界観(魂的世界)=【無限、魂至上主義】 と仮定し、 それぞれにおいての立場を明確にしないと「因果応報説」の議論は混乱するのではないでしょうか。 なぜなら、本来「因果応報説」というのは3)の意識レイヤーに根ざした概念にもかかわらず、1)の意識レイヤーで観察しなければならないと思うからです。また、この記述自体1)の世界観の手法で記述することになる訳ですが、議論の中にもそれぞれのレイヤーに割り振られそうな内容が混在していそうです。 よって、少なくとも1)の意識レイヤーと3)の意識レイヤーからの情報として2)の意識レイヤーがどのように知覚するという前提条件で検証してみたらどうかと思いました。 □1.因果応報説を2)が1)からの観察点のみで意識し、1)の世界観で実行する場合 「5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」 質問の意図がよくわからなくなります。 心の観察点からみて、魂的世界観を無視し、物質界の事象だけで観察した場合、物質界に具現化されるものはなにがあるのでしょうか? 神もキリストも物理的に観察できないわけですから、不毛な議論となりそうです。 因果応報説にしても因果応報説のそもそもの言葉の成り立ちから行って、この物質界と同じ世界観のものでないでしょう。なぜなら行動の善悪が原因を形作るのではなく、客観的な行動そのものが原因となって物理法則に応じて結果を形作るからで、意図は関係ないとこの意識レイヤーの我々は信じているからです。 もし科学者の善悪といった意図が実験結果に影響をあたえるような学問があれば別ですが。 よってこのような観察の仕方をする心にとっては因果応報説が「愚の骨頂」という解釈も妥当だと思います。 □2.因果応報説を2)が3)からの観察点のみで意識し、1)の世界観で実行する場合 「5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」 魂的世界から発せられたことばを心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。 だたし今回の場合、物質界に観点がないので、肉体が希薄という意味で、「人々の罪」という部分で微妙な感じがします。なぜなら、人=物質界に観点をおく人々に向けての言葉のように受け取れなくもないからです。 因果応報説という見方からすると、「意図による行動(原因)によって導きだされる結果」が観察できるということになるのでしょう。 なぜなら、一つの人生で完結しない過去や未来に起因する原因や結果の相関関係を確認できることになるからです。また、魂的世界は思いから形作る世界観であるなら、意図が結果を形作るという法則そのものがマッチしているそうです。 このような観点の場合、因果応報説は「愚の骨頂」と否定できないのではないでしょうか。 ただし繰り返しになりますが、物質界における観点がないので、この場合、因果応報説もどうでもよいかも知れません。 □3.因果応報説を2)が1)と3)からの観察点それぞれ意識し、1)の世界観で実行する場合 「5:19  つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」 このパターンでやっと対比が実現します。 魂的世界から発せられたことばと物質界の自分を心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。 上記の内容は「キリストのおけげで物質界における罪をチャラにしてくれるので結果をもちこすことはない」ということでしょう。 因果応報説でいうと「意図による行動(原因)によって導きだされる結果」が現在の人生において断片的に現れうるという意識をもって受け止めることができることになります。 しかしながら、キリスト教でいうチャラというルールがある場合、因果応報説の理論と一見矛盾するような気がします。なぜなら原因と結果を別々の主体が受け取れるルールもOKというふうに聞こえるからです。 よって、魂的世界における主体は物質界における主体とはことなる概念であろうと想像できます。 つまり主体=主体(主体はあるおおきな主体の一部)という可能性を考える必要がありそうです。 因果応報説の話にもどると、魂的世界における因果と物質界における因果を相対的に観察できることでしょう。魂的世界において起因する原因が物質界にてどのほうにあらわれているかということです。 このような観点の場合、因果応報説は「愚の骨頂」とは決して(絶対)否定できないのではないでしょうか。 質問者が上記どの意見を採用してもよいとおもいます。 その人が意識レイヤーをどこに持つかによって感じ方が異なるのではないかということがいいたいことです。

bragelonne
質問者

補足

 stsmart さん ご回答をありがとうございます。  ううーむ。そうですね。《愚の骨頂》説をとっている質問者のわたしとしましては  ★ このような観点の場合、因果応報説は「愚の骨頂」とは決して(絶対)否定できないのではないでしょうか。  ☆ と説かれた  ★ □3.因果応報説を2)が1)と3)からの観察点それぞれ意識し、1)の世界観で実行する場合  ☆ に焦点をあてます。すなわち  ★ 魂的世界から発せられたことばと物質界の自分を心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。  ☆ の場合を取り上げ検討させていただけばよいようです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかしながら、キリスト教でいうチャラというルールがある場合、因果応報説の理論と一見矛盾するような気がします。なぜなら原因と結果を別々の主体が受け取れるルールもOKというふうに聞こえるからです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここからわたしの場合すでにすぐに 《因果応報説は 愚の骨頂》に導かれるのですが 《主体》論について 念入りに検討されているようですね。  ★ よって、魂的世界における主体は物質界における主体とはことなる概念であろうと想像できます。  ☆ これは わたしの言葉に置き代えるなら こうです。  ○ わたしなる存在は 経験思考〔および感性〕の主体と 非経験(=無根拠)に対する非思考つまり信仰の主体とに分けられる。  ○ 経験行為の主体(いわゆるコギト)にとっては 《人々の罪の責任を問うことなく》ということが現実となったのならば ひとりの存在において もはや因果応報説が当てはまることはない。  ○ 何故なら わたしの悪の行為が原因となって その罪の責任をこの同じわたしに問われることはないと言うのだからである。  ○ わたしの原因が 別の人間に結果となって現われるなどという場合にしか当てはまらなくなる。それはもはや因果応報説ではない。  ☆ ところが  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  因果応報説の話にもどると、魂的世界における因果と物質界における因果を相対的に観察できることでしょう。魂的世界において起因する原因が物質界にてどのようにあらわれているかということです。  このような観点の場合、因果応報説は「愚の骨頂」とは決して(絶対)否定できないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たぶん次のような意味だと理解します。  ○ 《人々の罪の責任を問うことなく》という命題を あくまで 非経験に対する非思考(=信仰)の主体という領域でのみ妥当する話だと受けとめた場合 それはどうなるか。  ○ その場合には 信仰主体としてのわたしに関して因果応報説は当てはまらないが 思考主体としてのわたしに対しては まだ分からない。決められないのではないか。  ☆ さて どうでしょう? どうなりましょうか?   stsmart さんは 残念ながらですが これについての推論を省いておられませんか?  (1) 経験主体としての存在のみを扱う場合:  経験行為としての原因が 経験行為としての結果を導く。ここには 科学的な因果関係のみが認識される。言いかえると それに反してUFOの話をしたいならそれとして ご自由にと言っておけばよい。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  心の観察点からみて、魂的世界観を無視し、物質界の事象だけで観察した場合、物質界に具現化されるものはなにがあるのでしょうか?  神もキリストも物理的に観察できないわけですから、不毛な議論となりそうです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (2) 信仰主体としての存在を 経験主体が捉えようとするのだが 経験事実と対応していなくても 想像において信仰の内容をわざわざ言葉で想定する場合:  これは 良心・信教の自由にもとづいて 自由にその因果論を形成してもいいはづだが なにせあくまで前提としての《想定》の範囲に留まるものだ。実際上の事柄に対応させるには 人びと共同の同意を取り付けなければならない。   ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  魂的世界から発せられたことばを心の世界で解釈し物質界にて実行するという見方かと思います。  ただし今回の場合、物質界に〔実際としての〕観点がないので、肉体が希薄という意味で、「人々の罪」という部分で微妙な感じがします。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ どうでしょう。補足要求してもよろしいでしょうか?

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