• ベストアンサー

旧満州で「根こそぎ動員」された(と思われる)祖父について調べています。

旧満州で南満州鉄道に勤務し、「根こそぎ動員」され病気で亡くなった祖父について調べています。 旧満州で南満州鉄道勤務をしていた祖父ですが、「根こそぎ動員」されつい最近までシベリアで抑留死したと思っていました。本籍のあった県庁に問い合わせをしたところ、「新京特別市・緑園地区・満人病院に入院」という記録が残っていたようです。(県庁の記録原文のまま記載しました) 軍人ではなく「一般人」としての記録しか残っていないとのことで、軍歴などはわかりませんでした。昭和21年の1月15日まで「満人病院」に「発疹チフスで入院」しているところまではわかったのですが、その戦後の混乱でどうなったかわからず、昭和28年1月15日に「死亡が確定」されました。 これから「満鉄会」に旧職員についての問い合わせをすることを予定しています。 おもに私が知りたいのは下記のとおりです。 1・南満州鉄道の職員が戦争にどう関わっていったか(徴兵されたとしたらどんな状況でどんなところに多く、など) 2・「満人病院」とは病院の名前?それとも満州にあった病院の総称?またどのような施設だったのか? 3・「満人病院」に「発疹チフス」で入院していた人間が、シベリアに抑留されるということはあり得ることなのか 4・実際に「満人病院」にいた、もしくはご存じの方、または詳しく説明されているサイト様など などなど、その他のことでもなんでもかまいません。同じような境遇の方が身内にいらっしゃる方や実際に調べあげた方。なにか情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら回答お願いいたします。

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数4

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

なにぶん情報が少ないために調べようがない、というのが率直なところで推測でしかお答えしようがありません。 >1・南満州鉄道の職員が戦争にどう関わっていったか(徴兵されたとしたらどんな状況でどんなところに多く、など)  いわゆる満鉄社員は国策企業のため、様々な点で優遇されていたようですが、当時満洲国には大陸鉄道隊という大部隊が駐屯しており、技術関係の社員が軍属として召集されていました。たとえば関東軍第3特設鉄道橋梁隊(路第1241部隊)や第6特設鉄道工務隊(路第1242部隊)などは、1944年(昭19)3月新京特別市において満鉄社員(満鉄病院医務者)を基幹として編成されております。したがってエンジニア系であれば軍属として召集された可能性があります。また、終戦直前の8月10日頃新京において第158師団(不滅第37361部隊)の編成が下令されたのが途中で中止になっていますから、それに係わっていたかもしれません。 >2・「満人病院」とは病院の名前?それとも満州にあった病院の総称?またどのような施設だったのか?  戦争中新京には、新京第1(のち関東軍第5)(満洲第875部隊)・新京第2(のち関東軍第7)(満洲第114部隊)陸軍病院がありました。新京第1は昭和21年5月15日まで業務を続行した後、新京市民病院と改名し7月に同地を発っています。新京第2は終戦前に通化へ移動し残留者は新京第1へ転院となっていますから、軍人軍属であればそこに入院していたと考えられます。しかし民間人であれば当然民間施設に入ったでしょうからその記録を調べるのは困難でしょう。当時新京の在留邦人(といっても少年時代ですが)だった前田忠廣による『草莽の証言 私の昭和史 国の大義の名のもとに』(私家版・97年)をよむと終戦直後の新京の状態をかなり詳しく知ることが出来ます。公立図書館に寄贈されているのを読んだことがありますので検索されては如何でしょうか。 >3・「満人病院」に「発疹チフス」で入院していた人間が、シベリアに抑留されるということはあり得ることなのか  病状にもよりますが、伝染病患者をわざわざ連れて行くことは考えられません。労働力を減じてしまうことになりますから。

yakowonder
質問者

お礼

ご丁寧な回答、どうもありがとうございました。また、お礼が大変遅くなってしまい申し訳ございませんでした。 祖父の職歴を現在「満鉄会」に問い合わせしているところで、どこのどういうところに所属していたのがわかれば、また違った調査もできると思っております。 また、『草莽の証言 私の昭和史 国の大義の名のもとに』もちょっと探してみようと思っています。祖父のことや満鉄のことに限らず、母の生まれた土地、満州についても少し知りたくなりました。 大変参考になり、また勉強になりました。ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • closeto70
  • ベストアンサー率14% (2/14)
回答No.1

70歳♂、終戦時は国民学校(今の小学校)1年生、満州撫順市内の満鉄社宅に居りました。 御質問への直接回答にはなりませんが、小生の見聞したことを少々。 1 「根こそぎ動員」について   私の父は予備役少尉で、家に軍服・軍刀も置いてあり、職務も直接 の鉄道運営には関係ない総務人事だったせいか、19年に再度応召しま したが、近所に住む鉄道・炭鉱の技術者で動員された方は聞いたこと がありません。   また21年8月の私共の引揚げまで、汽車・電車とも従来通り運行さ れておりましたから、当然技術指導の日本人社員は残って居たと思わ れますので「根こそぎ」は無い筈です。 2 「『発疹チフス』で入院していた人間が、シベリアに抑留」につい て   抗生物質の発見は戦後のことで、当時の伝染病対策は隔離しかあり ませんでした。 従って、いくら乱暴なソ連軍でも労働力減少が分か りきっているのに、他の健康な兵士と罹患者を鮨詰めの貨車に載せる ことは考えられませんね。 御希望の情報が早く入手できますように。

yakowonder
質問者

お礼

ご丁寧な回答をありがとうございました。 こちらの認識・勉強不足で大変お恥ずかしいのですが、とても参考になりました。 祖父の満鉄での職務については現在「満鉄会」に問い合わせをしているところです。(したがって、closeto70様のお父上様のような総務人事のお仕事であったり、技術者であったかなどは現在のところ不明です。) なにせ祖父のことを知っている人間がいないことや私に知識が全くないことなどから、いろいろな情報を少しずつ集めてつなぎ合わせるというような方法しかできないといった状況です。 大変勉強になりました。ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 南満州鉄道勤務していたと思われる祖父について調べています

    戦前、南満州鉄道に勤務していたとされる祖父について調べています。 祖父は戦後の満州で、ひとり「発疹チフス」で「満人病院」に1946年の1月15日まで生存していたことは確認されていますが、それ以後の足取りが途絶えてしまいました。(戸籍のあった県に問い合わせました)一般人としての記録だそうで、徴兵された可能性は少ないとか。 情報が少なすぎるので、違った方向から調べてみようと思い、財団法人「満鉄会」に職員の照会をお願いしたところ、1945年8月15日現在に職員であった人のデータしかないと言われてしまい、祖父に関する足取りは途絶えてしまいました。 満鉄の社員だったかどうかも、徴兵されたかどうかもわからず大変困っております。また当然正式な死亡地・年月日も不明です。 このような場合、今後の調査方法としてどのような選択肢があるかどうかが知りたくてこちらへ投稿させていただきました。 曖昧な質問で申し訳ありません。よろしくお願いいたします。

  • 南満州鉄道株式会社に勤務していた祖父の最期を知りたい!

    南満州鉄道株式会社に勤務していた祖父の最期を知りたい! 南満州鉄道株式会社のハルビン満鉄社宅に、当時父や祖母と済んでいた祖父ですが、 終戦後にソ連に抑留され、昭和27年に行方不明のため死亡の通知がなされました。 ハルビンの満鉄社宅に住んでいた日本人職員が、終戦後にソ連軍によって どこに強制連行されどうなったかを知りたいのですが、何か史料などありましたら 教えてください。

  • 旧満州国の満鉄に乗って旅行は出来ますか?

    旧満州国の南満州鉄道は現在も使用されていると聞きました。旅行で行くとしたら、どのようなルートでどんな許可が必要か?そして料金はいくらぐらいでしょうか?

  • 戦没者の勲章?

    私の祖父は戦後満州で死亡したとみなされ「未帰還者に関する特別措置法」で死亡宣告されました。 以前、実家で祖父に与えられたと思われる勲章(金属のメダルのようなもの)を見つけました。この勲章は母が管理していましたが、紛失してしまい刻印などがあったように記憶していますが詳細は不明です。これがどの時点で授与されたものなのかも不明なのですが、同じようなものを所持しておられる方がいらっしゃいましたら、どの時点で授与されて、なんと刻印してあるかなど詳細を教えていただけたらと思います。 ちなみに祖父は旧満州で、「発疹チフス」で亡くなったとされています。

  • 非常に古い歌(旧満州の?)のタイトルを教えてください

    昭和7年生まれの「後期高齢者」の父からの質問です。 昔の歌、もしかすると旧満州(中国東北部)の学校唱歌ではないかと思いますが、一番だけ歌詞をうろ覚えしている歌があります。 どなたか、曲名や詳しい歌詞を知ってる方はいないか、探しています。 父が覚えている歌詞は次の通りです。   広野を渡る 雲の影   ここ満州の 広野原   ポプラ並木に うっすりと   羊の群れも 遠く見ゆ よろしくお願いします。

  • 陸軍姫路39師団もしくは第10師団で

    終戦後にシベリア抑留された部隊を教えて下さい 私の亡き祖父は父が言うには39連隊にいたと言いますが39連隊は南方で終戦を迎えたとwikiにあり違うと思いました 39師団も一部連隊がwikiでは南方に出撃したとあり最後まで満州に残り終戦後にシベリア抑留された部隊が把握できませんでした 父の記憶も曖昧で詳しい情報が解らず困ってます でも確かに祖父は抑留されたと平成3年に慰労彰状が届いて今も認知症を患った祖母の暮らす家にあり一体どの文献が正しいのか解りません 今年で戦後69年当時を知る人が身近におらず誰から聞いていいのかも解りません まだ私は30歳で語り継ぎ部として未来に伝えたくせめて祖父の経験した戦争だけでも知っておきたいです 詳細が解る人は是非教えて下さい、よろしくお願いします

  • シベリア抑留について。

    私の祖父は満州で終戦を迎えました。直接祖父から聞いた事はありませんが、父から祖父はシベリアに連れて行かれたと言う話を聞いた事があります。祖父はすでに他界していますので今となっては祖父に聞く事は出来ませんが、シベリアでどんな生活をしていたのでしょうか?叔父が昭和24年生まれなので、遅くとも23年頃には帰国していると思うのですが、大変だったのでしょうか?

  • 日本人抑留者死亡者名簿について(名前が見つからない

    どなたかお願いします。 つい先日、日本人抑留者死亡者名簿(シベリアへの抑留)が公開され、新聞にも掲載されたところです。 祖父の名前を探したのですが、見つかりませんでした。 祖父は、満州で働いていましたが、その後シベリアへ抑留され、日本へ帰る途中で、病気になり亡くなったときかされています。 亡くなった地がわかれば訪ねていきたいと思っておりましたが、ここでも名前が見つかりません。 (7,8年前に、新宿にある記念館の名簿も見てみましたが、私の見落としでなければ、名前はありませんでした。) 今回新聞に掲載された名簿には、本国送還の中継所での死亡者名簿がありました。 その中に名前があるかと探しましたが、ありませんでした。 名前の表記が大幅に間違っている可能性も考え、今回新聞に掲載されたすべての名簿に目を通しましたが、祖父の名前はありませんでした。 今回公開されていない(日本側に渡されなかった)名簿が、まだどこかに存在する可能性があるということでしょうか?

  • 南満州鉄道株式会社

    歴史で登場する,「南満州鉄道株式会社」とは,現在の株式の形態をとっていたのでしょうか? ご存知の方がいましたら,よろしくお願いします。

  • 満州で戦死した方はどこに祀られているのですか?

    昭和19年12月に父方の祖父が満州(牡丹江付近)で戦死したということを、今になって(40歳2人の子どもがいます)考えるようになりました。 過去の多くの犠牲があり、今の自分があることを、この年になって知るようになりました。 父方の祖父戦死時、骨は戻らず、石ころ一つで、ショックで祖母も亡くなり、息子であったわたしの父も35歳で病死したため、わたしは、おじいちゃんである人の戦死をあまり聞かされることもなく、考えることなく、今に至りました。 中学、高校でも、悲惨さを実感することはなかった気がします、何年に何が起こったということがテストになるからです。それは、教育なんだろうか?と、いま、母親として、きちんと知らなければならないと調べています。 (1)まずは、一番身近な祖父の最期を知りたく、昭和19年の12月末が満州でどのような状況であったのか、戦死した方々は、どのようになったのか、(埋められたのか、火葬されたのか、野ざらしだったのか、、、、) どこの部隊にいたのかは分からないのです、家は千葉県でしたが。 (2)祀られているのは靖国でしょうか。魂はそこにはないと感じますが。 (3)満州での戦死者名簿はあるのでしょうか。 どんなことでもかまいません。こちらに資料もないため、漠然とした質問なのですが、何かこうして祖父のために動いてあげたい一心です。 質問と関係ない話でもかまいません、牡丹江へ行かれたことのある方にもお話を聞きたいです。 どうぞよろしくおねがいします。