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侵略じゃないという人は大東亜共栄圏をくちにするけど、これについて質問です・・・

無知な質問ですみませんが、教えてください。 よくTVで議論される「日本は侵略国家じゃなかった」とか「侵略国家だった」というのがあります。侵略国家じゃなかったというひとたちに対して、じゃあ満州?南京?はなんだったんだよ!と 話をぶつけると、きまって 大東亜共栄圏というのがあってー、・・・・ というのをみるんですが、大東亜共栄圏って、チャンドラボースたちと日本やタイ?アジアの代表者たちと会議して、ヨーロッパからの解放を協力し合おう、アジアからヨーロッパやアメリカを追い出そうという目的ですよね? だったらやっぱり侵略じゃないの・・・?と疑問をもちました。 大東亜会議に中国も参加してますが、満州や南京のことがあったのになんで参加したんですか?侵略された側ならそんなの参加しないのでわないのですか? ネットなどみて調べてみたのですが、いまいちわかりません。無知な質問すみませんが分かりやすい言葉で説明してくださる方教えてください サイトなどで教えてくださる方、wikipediaなどはみたのでそれ以外でお願いします。

  • kmogw
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  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • platon3
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回答No.27

うわっ!まだ開いていたんですね。 前の回答で「回答の用意がありますよ。」なんて書いたものだからリクエストまで出ちゃって。 では、「日本は侵略していない」説を簡単に。 一般に先の大戦は日本が中国を侵略した、という中国側からの一方的な歴史認識が幅を利かせています。 これは、東京裁判史観として日本人の精神を病ませている大きな原因です。 さて、しかしその認識は事実と合致しているのでしょうか? 東京裁判では、A級戦犯28名が1928年から1945年まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされましたが その暴論を正当化するため中国では日本が満州事変前から世界支配の意思を持ち侵略に侵略を重ねたと言い、 十五年戦争などと呼んでいます。 しかし、歴史上の事件を時系列で並べていけばその論の空虚さが良くわかります。 1932年、満州国が難産の末に生まれリットン調査団の調査も受け入れました。 その同じ年に第一次上海事変が起こります。この時の軍事衝突の「始まり」はどんな様子だったのでしょうか? 日本側の発表では 「北四川路両側の我警備区域の部署に著かむとする際、突然側面より支那兵の射撃を受け、忽ち90余名の死傷者を出すに到れり。 依て直に土嚢鉄条網を以て之に対する防御工事を施せり。元来此等の陸戦隊を配備したるは学生、労働者等、暴民の闖入を防止するが目的にして、 警察官援助に過ぎざりき。然るに翌朝に至り前夜我兵を攻撃したるは、支那の正規兵にして広東の19路軍なること判明せり。」 となっており、中国の正規兵が日本の兵90余名の死傷者を出す攻撃を仕掛けたということです。 普通の感覚なら、当時の政界情勢を加味すると「宣戦布告なしの戦闘開始」であり、戦争状態に入ってもおかしくありません。 その後、1933年(昭和8年)5月31日、上海停戦協定(しゃんはいていせんきょうてい)が締結され、1932年1月28日より開始した 第1次上海事変が終了します。 その後、1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋事件が起こります。 この時も最初の銃撃から日本軍の反撃は7時間も後であり、中国の言う日本側からの計画的な侵攻の形跡は見られません。 また、一般的に先の上海事変から盧溝橋事件まで4年も経過していれば、先の事件は全て完了しており、今回の事件はまったく別の理由で発生したと考えられます。 それでも、この盧溝橋事件さえ中国では「日本が侵略の意思を持って仕組んだ」と言われますが、現在では中共の仕組んだことだと言われています。 また、同じ年の7月29日通州事件が起こります。 これは、約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された事件です。 そしてついに、1937年(昭和12)8月13日第二次上海事変が勃発します。 さて、そのころ中国(南京)政府はどんな動きをしていたでしょうか。 南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始め、上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、 実態が軍隊となんら変るものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されていません。 また、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしています。 蒋介石は中国北部地域に中国軍兵力の移動を命じ、平時兵力を含めて約30個師団に達していました。 アメリカもこの行動を非難しています。 8月12日未明には中国正規軍が上海まで前進し、国際共同租界の日本人区域を包囲しました。翌8月13日には商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始。 中国軍は更に空襲も加え、8月14日には上海地区の警備司令官である張治中が率いる中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃。 日本政府は、国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから、それまで日本が取っていた事態の不拡大政策を見直します。 次に中西輝政氏の論文から引用です。(一部括弧内は筆者) ---------引用開始----------------- 盧溝橋事件など北支における一連の「小ぜり合い」は、いわば中国大陸において何十年とくり返されていきた日常的局地紛争であって、 これらと日中全面戦争の開始に至った経緯との間には、より明確な一線が引かれるべきだ、という視点である。前者(満州事変)においては日中間 で実質的な講和(一九三三年塘沽(タンクー)停戦協定)が成立しているし、後者(支那事変)については、そもそも全面戦争とは、少なくとも 当事国のいずれか一方に明確な国家意思をもって大規模な近代戦を仕掛ける決定がなくてはならない。中国側には西安事件(一九三六年)以来、 抗日全面戦争への意志が明確だった。他方、日本側が一貫して不拡大方針を堅持していたことはよく知られている。それゆえ、条約上の権利の下に 駐留していた僅か二千五百人の上海の日本軍に十二万以上の兵力で中国軍の全面攻撃が開始された八月十三日が第二次世界大戦の始まりだった、 とライシャワーは言うのである。けだし正鵠を射ている。 -----引用終わり------ また、東京裁判(極東国際軍事裁判)では、昭和3年を裁判対象期間の起点とし、満州事変は日本の侵略の第一段階であるとしました。 しかし、これに対してインド代表のパール判事が、満州事変は塘沽停戦協定で終結して居り、その後日中関係は改善され、また満州国も国家として 承認されるに至ったことなどを挙げ、満州事変は降伏調印よりも遥か以前に終結した戦争であるから、東京裁判の管轄権の範囲外に属すると論じています。 この時の海外メディアの報道はどうでしょう。 1937年8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての 日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員 によって報じた。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じている。 他にも、上海の英字紙には中国軍が撤退にあたり放火したことは軍事上のこととは認めながら残念なことであるとし、一方中国軍の撤退により上海に 居住する数百万の非戦闘員に対する危険が非常に小さくなったとして日本軍に感謝すべきとの論評がなされました。 1937年8月14日、中国軍爆撃機から2つの爆弾が落とされ、激しい爆発となり、450人の命を奪い、5人の外国人を含む850人を傷つけ、12台の自動車を破壊。 さらにもう一対の爆弾がキャセイホテルとパレスホテルの間に落とされ、爆発で12人の外国人を含む数百人以上が死傷しました。 この事件については租界に関係する各国が中国側に空爆の抗議を行いました。翌15日夕刻には上海のフランス租界工部局はフランス租界上空に中国軍航空機 が進入することを許さず、そのような場合には有効適切な処置を取ると発表し、16日にはフランス租界上空を通過した中国軍航空機に対してフランス駐屯軍 は高射砲の一斉射撃を行いました。 さて、最終的に10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編制された第10軍(柳川平助中将)とともにすかさず追撃に入ります。又、平行追撃と同時に敗軍の追討の ために南京を攻略する構えを見せました。当初、参謀本部は和平交渉を行う為の相手政府を失う恐れから、最初南京進撃を中止するよう下令しましたが、 のちに現地軍の方針を採用し南京攻略を追認しました。当時は相手の首都を落とせば自動的に戦争終結になるのが常識だったからです。 これが、日中戦争の開始の様子です。 本当はもっと細かい事件がたくさんあり、それが「全て」中国側からの攻撃であり、停戦協定の度にそれを破るのも中国軍でした。 つまり、中国は日本に戦争を仕掛け、日本が強かったが故(逆に中国が弱かった故)に自国が戦場になったというだけなのです。 (中国が強ければ、日本軍を追い出し、本土決戦をしても良かったのに) 東京裁判では戦勝国が好き勝手な判決を下しましたが、「歴史の事実」はまったく違う方向を指しています。 さて、左にネジを巻ききっている人には届かないでしょうが、ゆるゆるに左巻きの人には届くでしょうか。 これらの情報はWikiでも参照できますので詳細はごゆっくりご覧ください。

その他の回答 (26)

  • honjin
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回答No.26

はじめまして。 本日、初めてこちらを拝見させて頂きました。 platon3様のご見識の高いご意見に納得致しました。 platon3様のご回答をもっと拝見させて頂きたいと思います。

  • dai1000
  • ベストアンサー率24% (170/699)
回答No.25

>よくTVで議論される「日本は侵略国家じゃなかった」とか「侵略国家だった」というのがあります。侵略国家じゃなかったというひとたちに対して、じゃあ満州?南京?はなんだったんだよ!と 日本が侵略国だったかどうかは、日本人にとって日本は侵略国ではありません。しかし、中国にいた現地人にとっては侵略国でしょう。しかし、その中国にいた現地人もはるか太古にそこに住み着いていた人たちの国を侵略して、そこに住むようになったわけです。 侵略かそうではないかは、常に、主観で判断するしかありません。主観で表現しないと、日本の存在は危うくなります。”過去を、相手方の主観で認め”なんて言いだしたら、どれだけ賠償金をとられるか分かりませんし、場合によっては日本人全員が死刑です。 基本的にはどこの国も主観でそうしたことは表現しがちです。したがって、日本人が日本は侵略国ではなかったと言っても不思議はありませんし、その通りでもあると思います。 中国だって、チベットは侵略ではないと言ってるでしょ。あれが国際的な普通の姿です。

  • suuh
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回答No.24

追伸  白骨を例に出したけど、それ自体については30-50年で風化し、それ以上は壊れるというので、70年前の事では形はほとんど残らないでしょう。しかしかけらはあるだろうから、埋められた容積範囲は確認でき、土中のカルシウム濃度からの量も参考にできるでしょう。  それにしても、崇善堂の奇妙に莫大な数字は桁が違うかどうかぐらいは判定できそうに思う。  だいたい記念館を作りながら埋葬記録の場所を探そうともしないなんて、果たして中国人は奇妙に思っていないのだろうか? 建前として放ってるとかね。 中国人で30万大虐殺を本気で信じている者たちの頭のレベルを、中国人の多くはどの程度と思っているのだろうか。

  • suuh
  • ベストアンサー率50% (1/2)
回答No.23

 侵略と南京について補足。 (侵略、詳説)  侵略の混乱は東京裁判から始まっています。東京裁判では日本が計画的に戦争を始めたことを罪としたものであり、さすがに枢軸国が世界征服のために戦争を始めたということまでは証拠不十分で不採用だったが、計画的なあるいは継続的な意思によって戦争を始めたということで有罪にしたわけでしょう。  要するに計画的侵攻であり支配欲求である、という史観です。東京裁判史観というやつです。  また、日本語の侵略というのは、語源の一つは侵掠の当て字だということがあり、語感にはよく略奪などが含まれます。  だから日本非難のイメージとしては、「東京裁判で計画的侵略を正式に扱った →侵略とは計画的侵略のことが国際法的にも通じている →現場で日本は侵掠を行ったのが罪」、というように混同が進んでいくわけです。(なお、東京裁判はマッカーサー権限の元で行われた政治裁判ではありますね。)  現場での略奪(侵掠)、領土の支配(侵略)、長期継続計画(計画的侵略)、侵攻、どれも本来別のことであり、一つが当てはまりそうなら次々に他のことも証明できる、、わけではありません。 (南京、詳説)  南京では何もなかったなどという回答は、逆の意味で悪魔的な証明ですね。「なかったと言う証明は本来できないから、なかったと証明できなければあったと決めつけてはいけない」のであり、「あったということが絶対的に証明できなければ、なかったことが事実だ」というのは合理に反しています。部隊記録に処刑と書いて無くても、釈放とも書いてないはず。たとえば白骨死体の数と目撃者と記録と全体の整合性を揃えて提出しなさい、でなくばなかったと見なしていい、というのは戦後日本での条件であり、大陸はそんなのどかな歴史を過ごして来なかったと思います。  たとえば死体の確認についても、南京という土地での大虐殺というのは19世紀末にもあったのが有名です。白骨死体を見付けても、それと区別が付くのだろうか。また、汪兆銘政権を構成した軍隊は虐殺されたというからその犠牲者の遺体との区別。またそこまで犠牲者自体にこだわると、共産党政権時代の文化大革命・大躍進の犠牲者の問題が出てきます。今はナショナリズムとしての話題だからいいけど、犠牲者自体に目が行き、かつその数を問題にすると、共産党の近代史に影響が出てくるでしょう。だからうっかり本格調査はできない。数万人の遺体しか見つかりそうにない、としたらメンツ丸つぶれだし。・・だから彼らはやれないはずですが、ゼロ(意味にもよるが)という事実を意味するわけではないのです。  「大」虐殺の否定=「南京大虐殺」の否定=事件の否定、という混乱は、両極端しかない図式であり、両派にとって中間が真実だと都合が悪いから無視するということにつながっています。  100%違法だとは言わないでおくが、99%違法なことはあったようですよ。偕行社の南京戦史などから。  それと明確なことがないからといって、なかったはずとは言えません。保留するが認定できない、ぐらいに止めるべきです。  捕虜の限りなく虐殺に近い殺戮、民間人への限りなく虐殺に等しいゲリラ狩り、こういったことは規模は別として存在はしているようです。「ようです」と書くのは、サヨクのイメージに引きずられてるのではなくて、それらとは別の文献にあるのだけど、ただし厳密には、誰の信用できそうな証言でもあてにはならず、物的証拠も状況によって解釈が変わります。だから一つ一つについて絶対はないという点から「ようです」と書いているだけで。  くり返し書きますが、日本だけではないわけです。アメリカのようなはるかに安全に戦えた者達でもhttp://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htmの「Yellow Monkey ( 黄色い猿 )」以降を見れば残酷趣味に走っていることがわかります。  南京にいた直接には何も知らないドイツ人(ラーベの知り合い)は、立場が違えば中国軍が同じことをやっていただろう、と評しています。  ラーベはアジアの戦争を軽蔑していますが、第二次大戦のごく初期の欧州でさえ兵士の略奪があったようです。  上海―南京の日本軍は、日本よりも優良な中国軍の砲火によって5人に一人が戦死、傷病者を含めて3人に二人、がやられるという状況でした。いわば自分たちこそミンチにされかかったというわけです。ま、心理事情の考証はきりがないけど。  ところで日本とは同じ残酷さでもパターンが違うという話もありますが、朱に交われば赤くなるという言葉があります。現地の日本兵の間で残酷趣味の写真が土産に流行っていたようです。  全体(南京全体、日本部隊全体、兵士全体)から見ての比率は別としてね。  ベトナム戦争で兵士がノイローゼになったとか、フォークランド戦争でイギリス兵が心を病んだとか、それは戦後の時代だから報道されることなのでしょう。  戦争の大義名分が正しかろうとそういうことはあり得るし、無茶なりくつで戦争を始めようとも残酷さを防ぐ方法はあるわけです。むしろ、大義名分に頼るから現場の堕落が見えないのではと思う。  事実としては「絶対の証明がほしい」という一面もわかりますが、歴史から「これがありそうなことだ」という学び方も必要だと思います。

  • platon3
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回答No.22

またまた、久しぶりに寄ってみたらまだ開いていましたので再度です。 先に、香ばしい、典型的な「言葉の定義」で混乱している回答もありますので 早速、回答の例として使わせていただきます。 東京裁判でも使われているaggression(アグレッション)は「侵略」と訳されることが多く、 東京裁判の判決は日本が侵略戦争をしたと断定していると考えている人が非常に多い のですが、しかしこれは間違いであり、アグレッションは「挑発を受けないのに行う攻撃」 (unprovoked  attack)ないし「初発的敵対行為」(any first act of enmity  [or hostility])を意味していて、第一義的に「攻撃」を示しています。 「先進国は侵略国家かな」といったご意見もありますが、現在は国際法上の「侵攻」の判断は 国連の安全保障理事会の政治的認定に委ねられることになっていますから、安保理の 常任理事国である五大国(英、米、仏、支、ロ)が認定されることはあり得ません。 つまり、どこで何をしようが「侵攻(侵略)国」にはなりえないのです。 「侵攻」は、他国に攻め入ることであり、それに対して「侵略」は、それに略取や略奪などの 不当な略奪行為を含蓄する言葉です。すなわち、「侵略」は「侵攻」の中の一つの特殊形態なのです。 左巻き人たちが日本を貶めようと好んで使う「侵略」は本来の国際法上のaggressionとは違う ということを理解してください。 本来この言葉は、自国に攻め入った相手に対して使う言葉であり、自国に使うこと自体異常です。 どんな神経で使っているのやら、と不思議を通り越してあきれてしまいます。 つまり、この言葉はあくまで日本に対する「悪口」なんです。 さて、それでは、日本は「侵略」ではなく「侵攻」したのかと言えば、そうではありません。 それまでの国際法では、決闘の法理により、戦争は攻撃戦争(侵攻戦争)も防守戦争(自衛戦争)も 合法とされてきたのです。 つまり、どこかの国に攻め込むこと自体は合法だったのです。(信じられませんか?) それを不戦条約によって「侵攻戦争」を違法化(犯罪化ではない)することを試みたわけですが、 重要なのは、戦争が「侵攻戦争」であるか「自衛戦争」であるかを誰がいかなる基準に拠って 判断するかということでした。 そして、不戦条約の締結に際して、米国務長官ケロッグ自ら次の声明をしています。 「自衛権は関係国の主権下にある領土の防衛だけに限られてはいない。そして本条約のもとに おいては、自衛権がどんな行為を含むかについては、各国自ら判断する特権を有する・・・」 (例として、国土だけでなく、自国との経済関係を守ろうとすれば何でも自衛戦争になります) つまり、相互に対等の独立主権を持っている国家間において、一国が他国の政策を批判、干渉 することはあるまじきことで、同様に、戦争についても一国の開戦行動を他国において「侵攻」 と認定することは独立国の本質を無視することになるから、各国家が「自己解釈権」を行使して、 自ら判断するものとされたのです。 要するに、その当事国によって自らが「侵攻戦争」だと宣言しない限り、国際法上他国から 「侵攻」だと批判されることはなかったわけです。 そして更に、ケロッグ米国務長官は、「交戦国の双方がともに自衛戦争であると主張した場合、 『自衛』か『侵攻』かの認定の問題は、裁判に付し得ない法的状況にある」とも公式に明言しています。 また、東京裁判において、検事側が金科玉条とした不戦条約ですが、この条約の批准に当たって 各国は、様々な留保条件を付けたために、建前はもっともらしいのですが、実際の効力は無きに 等しかったのです。 このように、「侵攻」の国際法的定義は、第二次世界大戦の時点では、未確定だったわけで、それを 裁こうとした東京裁判が、いかに不当で国際法を無視したものであったかが解るのです。 それでは実際に、「侵攻」というものの定義がなされたのはというと、実は現在においても「侵攻」 の厳密な定義は、当時とさほど変わらず、普遍的な効力を伴っては存在しないのです。 曲がりなりにも「侵攻」というものの定義がなされたのは、国連決議「侵攻の定義」(国連総会決議、 昭和49年12月14日)によってですが、それでもなお、総会決議という性質上、不確定で法的拘束力には 欠けています。 つまり、現在でもいまだ「侵攻」の厳密な普遍的定義はなされていないのです。 加えて、「侵攻」か否かは、結局、国連の安全保障理事会の政治的認定に委ねられることになって いますから、先に書いたとおり、安保理の常任理事国である五大国(英、米、仏、支、ロ)が認定される ことはあり得ません。 ちなみに、この決議内容が正式に条約の形をとって国際立法化(法典化)され、「侵攻の定義」が法的に 確立されることによって、初めて「侵攻」は国際犯罪行為と認められ裁判に付し得ることになるのです。 (現実には、あり得ませんが) むしろ、パリ不戦条約締結の昭和3年当時、ケロッグ米国務長官は、経済制裁、経済封鎖を戦争行為と 認定していたことは明らかですから、戦争に至るまでの経緯を考えるならば、我国は戦争を仕掛けられた のであって、我国の遂行した戦争は、後に連合国最高司令官であったマッカーサーも認めているように、 実質的には他国から見ても「自衛戦争」だったのです。 東京裁判では、一九二八年のパリ不戦条約なるものを強引に拡大解釈するという、現在までも世界の 国際法学者を呆れさせている無理を通して、侵攻戦争が国際法上の犯罪になっていると独断し、日本が 侵攻戦争を遂行した、と勝手に断定したが、「侵攻」の国際法上の定義を被告弁護団より問われて、 最後の判決に至るまで明確に答えることができず、判決文中この問題に触れた唯一の箇所で、 日本の英・米・蘭に対する攻撃は「これら諸国の領土を占拠しようとする欲望を動機とする挑発を受けない 攻撃であった。侵攻戦争の完全な定義を述べることがいかに困難であるにせよ、このよう動機によって 行われた攻撃は、侵攻戦争と性格づけないわけにはいかない」と述べたが、これに対してマサチューセッツ大学 のR・H・マイニア教授は、「連合国側は、侵攻が何であるかわからないのに、日本が侵攻したことだけは わかっていた」と。痛烈な皮肉をこめて批判しています。 回答の中に「食べ物が無くなれば侵略も仕方ない」などという、自国の事情のみに縛られた判断をするから 「他の国もみんな同じだろ」といった、本来の意味とは関係のない「言い訳しながら侵略の正当化を図る」 ような意見になってしまうのです。 さらに「あれを侵略でないという神経」を語るのであれば、先に全ての関係国が納得する「侵攻」の 定義を発表してからにしてください。 まさに言葉の定義で混乱した意見です。 ついでに書かせていただくと、「玉砕精神で負けた」という解釈は誤りです。 追い詰められてからの戦い方が玉砕精神に則った方法だったのですから結論と原因が逆です。 また「日本魂」とは何を指しているか不明ですが、私も個人的な思いで勝手に使わせてもらうと 「日本人としての魂」を無くしたら、それこそこの国の終わりです。 これは「抜く」のではなく、ますます大事にするべきものです。 感情で、日本を悪い国を思わせるような左巻き思想の布教活動は止めていただきたい。 日本人だけが悪く、犯人は必ず日本の中に居る、といった(本人は意識していないかもしれないが) 洗脳にかかったままだと無理だと思いますけどね。 私は「侵略じゃないという人」ですので、質問者様の「侵略じゃないという人は・・」にお答え しましたが、ご理解いただけましたでしょうか? このような展開になると、「大東亜戦争(太平洋戦争のことです。念のため)」ではなく、 「中国に攻め込んだのはどう見ても侵攻(侵略)だろ!」といった展開になるのが多いのですが、 追加で質問していただけましたら回答の用意がありますよ。 では!

回答No.21

私は変わっているのかもしれませんが、 侵略であることは間違いないと思いますし、大東亜共栄圏も肯定します。 虐殺、慰安婦、その他どうのこうのの有無はどうでも良くて、 侵略かどうかといえば侵略、占領は明らかでしょう。 そうであっても、関東軍の無謀な暴走は置いても、日本が生き残る手段として当時の日本には、侵略は必要だったと思います。危ない道ですが結果的に戦後の復興は侵略と戦争の賜物です。 個人的にはその手前の軟着陸って言う道もあったと思いますが。 大東亜共栄圏は名目上、アジアの自立です。 実体は百戦錬磨の欧米列強に対して取った日本の生き残り策です。 その「圏」の中身は油と市場です。 油は欧州より取引停止状態になりました。 市場は英仏により閉鎖され、日本が市場へ入る余地が殆どなくなりました。数少ない市場が中国で、アメリカと日本が争いました。 油は奪うしかなく、近場の蘭領インドネシアで奪います。 中国市場は一番の発展途上の市場だった満州を国として分離させて、その他香港、広東、上海を占領し、中国市場の独占を狙いました。 理由はどうあれ、間違いなく侵略です。 なお、大東亜会議に参加している中国代表は汪兆銘政権です。日本側についた亡命政権のようなものです。ドイツ占領下のフランス・ビシー政府のようなもので、同時期には他に蒋介石政権や共産党もありました。なぜ汪兆銘が日本側についたかは、政権内部の分裂により敵の敵は味方であると云うことと、戦闘状態を継続するより日本の枠内で生きた方が得策ではないかと云う考えからです。また、インドネシア、インド、ビルマ、ベトナムは単純にヨーロッパ支配からの独立の為に被植民地側も日本に期待し、それを利用しました。 現在も状態はほぼ同じです。変わったのは中国により巨大で美味しい市場があり、力を持った統一政権があると云うことでしょうか。 今でも世界で生き残るには巨大な中国利権が必要です。また眺めているだけで自ら手を突っ込まないで手をこまねいて居ると、今度は巨大な中国に飲み込まれます。昔以上にバランスが必要な状況ですが、昔以上に日本はバランスが取れないようです。 あの侵略がいけなかったのであれば、今後は侵略もせず、日本が日本としてどうやって生き残っていくのか考え、先手先手で欧米に勝って行くことが必要です。但し、気づかれないように、あるときは欧米に巧く飴を与えながらです。こういうことはそれこそ英・仏に学ぶべきです。事前に何も用意せず、食べ物が全て取られたら、次も侵略の手段しか望みを見出せなくなります。 あれを侵略じゃないと云う神経があるから、日本には自衛隊は違憲じゃないとか、全くいらないとかって云う意見が主流になったりする国民だとも思いますが、自らの総括もできず残念です。また、玉砕精神で負けたくせに、未だに歪んだ日本魂と玉砕精神が抜けてないのにはうんざりします。 愚痴は置いて。。。 悪いことだとしても侵略は生き残る為にはどこでも行うんです。 日本も欧米も中国も、正義を振りかざして行うのです。

  • Wap58
  • ベストアンサー率33% (29/87)
回答No.20

侵略って 単純に戦争じゃないかな 先進国は侵略国家かなと思います

  • platon3
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回答No.19

久しぶりに寄ってみたらまだ開いていたので再度です。 「侵略」という言葉は、さすがに無知な人も多いので用語上の混乱は あっても不思議ではありません。 まぁ、自身の無知を自覚できず、個人の思い込みと左巻き用の人達が 使う意味を持って回答しようとするのだから混乱が発生するのはある 意味しょうがありません。 しかし、南京の事件については言葉による混乱ではありません。 無かったことを「在った」と嘘(戦時プロパガンダ)をついたことが 問題の発端であり、それ以上でも以下でもありません。 「無かった派」は、果敢に「悪魔の証明(無かったことを証明する)」 に努力して、状況証拠など積み重ねて次々と「在った派」の嘘を暴いて きています。 それに対し、「在った派」は何ら新しい証拠を提出することもせず 最後は人格攻撃くらいしか手が残っていない状況です。 (この本を書いた人はXXXXXな人なんだぞ~、とか) 手前の回答者の方も「在ったのでしょう」とか「XXXXされたとか」の ように、事実の提示ができていません。 これらは「在った」という前提からスタートし、それに都合のよい ことだけを無意識に選んでいるだけであり、なんら「在った」ことの 証明になっていません。 広く周りを見ても、現在は「民間人30万人を殺した」事件など誰も「在った」と 言っていません。(在った派の人でさえです。) そもそもは「戦争に関係の無い、一般市民30万人を日本軍が殺した」と 言われたことが発端だったはずです。 ところが、「無かった派」が一つ一つのきちんと調べていったら「どうも 民間人を30万人も殺したというのは無理があるな」と、さすがに悟りました。 そうしたら次は「実は捕虜の扱いが国際法違反だ」と問題点をスライドさせ て騒ぎ出しました。 これはまったく別の問題になったということです。 自分達が活動家ではなく、研究者であるのであれば、まずは「民間人を30万人 殺したといわれる(南京事件の)事実はない。」と、最初の問題点を総括し、 「しかし、捕虜の扱いに対して国際法違反があった、今後はこちらを 「南京捕虜問題」と名付けて議論していく」と言いなおすべきです。 それをしないのは、さも「南京事件」を継続して(たとえ誤解する人がいても) 同一の問題を扱っているかのように見せて、「日本軍の悪行として騒ぎ立てる」 事を目的としているからです。 これは研究者の態度ではなく、活動家の行動原理であり、自虐史観の布教活動です。 今の主流は「これくらいは在ったんじゃないの」という、いわゆる「小虐殺派」 ですが、それにしても事実の提示がまったくできていません。 (これは、ある意味「妥協派」とも呼べます。「面倒くさいからこれくらいで手を打とうよ」 という気持ちが見え隠れするからです。証拠も無いのに) よく、「中国側が資料を公表しない」とか言いますが、それであればみんなそろって 「やっぱりあの事件は無かった」と言えばいいはずです。 当事者が「やられました」と言わないのであれば、その事件は「無かった」のです。 当たり前でしょ。 仮に、あなたが電車に乗っているとき、見ず知らずの人から「あなた、私の財布 盗んだでしょ」と言われたら、「ハイ」と言いますか? まず否定し、その人に証拠を求めませんか? 周りの関係の無い乗客が「そうだ、そいつが盗んだ(はずだ)、なぜなら自称被害者 が盗まれたと言っているからだ、証拠はださないけど盗んだはずだ。」という会話 が成り立つとお思いですか?更にその話に乗って「私が盗んだかも知れません」とか 言いますか? 今起こっていることは、まさにこの冤罪とも言うべきストーリーに巻き込まれた あなた(日本軍)の「妄想的事件」です。 理性ある人、というか刑法の原理を知っていれば「有罪と判決が出るまでは「無罪」 である」と判断します。というよりそれ以外の判断のしようがありません。 しかし、これらの事件のように「日本」が被告として告発されると、理性を無くし、 常識を無くし「きっと罪を犯しているはずだ」から議論がスタートする、という トンデモな人たちがいます。 これって、科学的でも理性的でも論理的でもない、ただの「宗教家」や「活動家」の 態度です。 そんな人に回答してもらってもねぇ、って気持ちになりませんか? あなた、どう思います?

  • suuh
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回答No.18

 南京大虐殺も言葉で混乱している最大の典型。  眉唾なのは、正しくは「大虐殺」では? 何かの事件はあったでしょう。ただ、捕虜の不法処刑にしても、汪兆銘政権の軍隊は南京での投降兵が元でできてたから、実態は一概にいえないと。  言葉の混乱だけでなく、当時との時代の違いというのもあるでしょう。  第一次大戦すぐ後の時期のシベリア出兵では、日本の警備隊と日本人が町の市民と共に虐殺されたりしてます。別の日本軍も裏犯罪的なことなどやってるようだし。  上海から南京までの道の住民にとっては、先に逃走する中国軍にほとんど略奪され、ろくに物がないところに追走する日本兵に略奪されたのでよりひどい目にあったとか。  さらに日本兵士が国民党に捕まったときにはいつも殺されたとか。  ある程度のことがあっても、そういう時代のそういう大陸の中では埋没していくかもしれない。  日本も、東京空襲の計画者のルメイを鬼畜と呼ぶ一方で、戦後自衛隊の戦術指導を理由に勲章を出したりしてますね。  憎まれるから自分だけ悪いように反省しないといけない、憎まれなければ無罪、ではないでしょう。  考えの始め方としてね。

  • platon3
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回答No.17

まだいくつか解説していない部分がありましたので再度です。 まず、日本は満州の一部を中華民国から租借地の形で借りていたから中華民国の土地だと 認識していた、とのご意見。 これは、わざと隠しているのでしょうかね?当初の条約は清国と結んでいたことを。 中華民国は「我々が清国の後継だ。だから清国と結んだ条約は全て引き継ぐ」として 満州への殖民を「許可してやる」といった態度でした。 しかし、すぐに地金だ出てきて、「外国人は土地の所有を認めない」とか相手国との合意を得ず 更に遡及して過去に結んだ条約なども一方的に破棄したり変更したりと身勝手な行動をとります。 まぁ、日本が江戸から明治にかけて結ばされた不平等条約を、国の成長と地道な説得で半世紀も かけて解消したのに比べると「さすが漢民族、現代に通じる行動ですね。」と拍手の一つもして やりたくなりますね。 こういった事実を見ても「日本は満州を中華民国の土地と認識して租借していたんだよ」と 言えますかね? 私には「相変わらず時代を超えて身勝手な民族であり、国である。」との思いを強くしますけどね。 次に満州鉄道の線路を離れたとたんに「侵略だ~!」と言うのも、どうかと思いますがね。 実際に、どの国も自国民保護のためには相手の国に対して、まずはその国が保護をすることを求め、 それができなければ自国の軍隊を派遣します。馬賊の頭目を倒すのには名目が事欠きません。 そもそも、中華民国の正規軍までもが日本人を殺しまくっていたのですから、第三者の目から見たら 既に戦争状態です。 実際、リットン調査団の報告でも「日本の侵略」とはされていません。 そのそも他国の領土に軍隊が入ったら侵略だ、的な発言は「国語」上の解釈による「侵略」です。 しかし、国際法上では、極端な話ですが、自らが「これから隣の国を侵略するぞ~!」と言わない 限り侵略にはなりません。 これは、1928年のケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)が調印され、「侵略戦争の放棄」が宣言 されましたが、当事国の都合で留保条件が付けられ穴だらけでした。そもそも、「侵略」の定義 は当事国に任されることになったのです。 ですから、実際に条約締結の翌年に、早くもソ連が「これは自衛行為だ」といって満州に攻め込んで います。さぁ、みなさん、「ソ連は侵略国だ」と言ってくれますよね? 「「挑発した方が悪いんだ」との主張についても、どっちがどっちだろうと侵略は侵略だ」、との 意見については日本にだけ教条的な「侵略者」の汚名を着せたいがための主張としか思えませんね。 外国人を受け入れたら、きちんと保護するのが当事国の義務です。 それすらせずに、正規軍が外国人を殺していたら、一般にはその時点で「戦争」です。 日本はそれにも耐えたからこそ外国の記者達も「よくがんばっている」と書いてくれているのです。 本来は我慢などせず、とっとと「自国民保護」を御旗に攻め込むのが当たり前で、もちろんその場合 「侵略」などとは言われません。当たり前です。 また、首都の近くに増兵するのも、この事情ですから、どんな印象を持とうが、挑発と感じようが 「責任は中華民国側」にあるのは明らかです。まったく義務を果たしていないのですから。 まぁ、侵略の意味も、反論されなければ「国語」的な意味で日本を断罪して、他の国がしている ことは「国際法上許される」(ので絶対侵略とは言わない)との不公平な見方をしている方々に どこまで通じるかわかりませんが、事情を知らない人が「真っ当な回答だ」と思うと困りますので 一応、書いておきます。 あっ、そういえば南京の話もありましたね。 重慶政府の蒋介石ではなく、南京国民政府代表の汪兆銘が大東亜会議に出席したのですが、これらの 流れを見ても「南京で事件があったとは眉唾だ」と思う今日この頃ですね。

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