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ソクラテスの精神力

哲学に関しては素人で、大学の一般教養で「ソクラテスの弁明」を読んだぐらいです。 「ソクラテスの弁明」で一番驚くのは、ソクラテスが「自分の哲学によれば、死が恐るべきものである根拠はない(むしろ、喜ぶべきものかもしれない根拠さえある)」という話から「従って、私は死が怖くない」と、死の恐怖を自らの哲学で消し去っていることです。「クリトン」で、死刑の決まった牢屋の中で、ソクラテスが熟睡しているところからみて、死が怖くないというのは演技ではなく、本当に怖くなかったと思われます。 これは、とんでもない精神力のように見えます(よく「ソクラテスは人間くさい哲学者」という言葉を見ますが、私には「人間離れ」しているように感じます)。 そこでお聞きしたいのは、ソクラテスの哲学や行動の詳細やそれが正しいかどうかはさておいて、彼はどのようにしてこれほどの精神力を身に付けたのか、という研究はどのくらいされているのでしょうか? あるいはまた、ソクラテスを学ぶことで死の恐怖を解消できた人はどのくらいいるのでしょうか? 世の中、死の恐怖より辛いことは沢山あることは分かっていますが、自分の生活において、せめて死の恐怖ぐらいは自力で消せる精神力が必要な場面が結構あるので(結局パニックになってしまうのですが)、哲学への興味というより、自分の精神力を強めるものが、何かヒントでもないか、と探しています。

noname#130082
noname#130082

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noname#82774
noname#82774
回答No.8

 こんばんは。補足、ありがとうございます。 >推理小説や漫画ならともかく、この本はちょっと読んだぐらいでは分からないですよ。まあ、それでも、素人でもその気になれば読める、ということ自身が凄いことですけれど。それも分厚い哲学書(とても素人に読めるしろものではありません)ではなく、ぺらぺらの文庫本で。  不思議なのは、「ちょっと読んだくらいでは分からない」と仰っているにも係らず、 「『死を知らないが故に、死の恐怖もない』とは、哲学者という人種はとんでもないことを考えるものだ!」というところにインパクトがあったのですが。もし、ソクラテスが死を知っていたとしたら、他の人間は死を知らないのにソクラテスは知っている、従ってソクラテスは知者である・・・ということになって、「無知の知」の出番がなくなってしまうのではないでしょうか?」  と仰っている点なのですが、実はこの本をよくご存知なのではありませんか? つまり、僕の言説の間違いを正しく指摘し、 >「わからない」にも、単に知識を獲得すればわかるものと、そう簡単にはいかないものがあるのではないでしょうか?  と仰っているように、後者の「そう簡単にはいかないもの」こそが「死」だというふうに、質問者様自らでお答えになった。  どうでしょうか、精神力を強めるヒントはつかめましたでしょうか。

noname#130082
質問者

お礼

わざわざ補足に対して追加回答していただいて、ありがとうございます<(_O_)>。 少なくとも、「ソクラテスの弁明」の内容の理解は、それほど的外れではない、ということですね(^^)。それが分かっただけでも、かなり自信になります。ありがとうございました。 それはともかく、どうも「素人」という言葉はよくないようですね。とはいえ、専門家と言う訳にもいきませんから、これからは「独学です」と言うことにします。この言葉の方が、まだましのようですから。

noname#130082
質問者

補足

わー! すみません<(_O_)>。 私が自らを「素人」と言ったために、それに合わせて答えていただいていたんですね(T_T)。 私が自分を素人と言ったのは、特に先生に学んだわけでもなく(一般教養の先生も、棒読みの方でした)、参考書の類を読んだわけでもない(せいぜい、本屋で数ページぱらぱら眺めた程度)、「ソクラテスの弁明」自身を何度か読んで「完全に自己流で」吟味したに過ぎないからです(まあ、私もいい年なので、学生時代から考えればかなりの回数を読んではいると思いますが)。 そこで、細かいことはいろいろ分からないこともあるけれども、大筋ではこれほど明確にソクラテスの主張(もしかしたらプラトンの思想も少し入っているかもしれませんが)が書かれているので素人でも読めばわかる範囲の話だ(従って、「ソクラテスの弁明」と書けば、ここらへんは共通認識に違いないので、わざわざ言及したり議論する必要もないと決め込んでしまったのです(^^;))。ただ、そこから先に行こうとすると、素手でロッククライミングをするような困難がいきなり出てくるのでそこを質問したかったのです。 実際、「ソクラテスは死を知らないと言っているが、私はどうだろう?私は死を知っているだろうか?」と内省してみると、やはり分からなかったわけです。「すると、少なくとも死に関しては、自分が知らないということを知っていることになるのだろうか?」ということになるのですが、例えば、いきなり「あなたは手遅れのガンです」と告知されたり、いい加減な裁判員制度のために無実の罪で死刑を宣告されたりした場合に、私は平然としていられるだろうか?と考えると非常に怪しいのです。とすると、ソクラテスの無知の知があれば死を恐れることはない、という話は嘘なのか? それとも、死について内省しても答えが見つからないという程度では「無知の知」には到底届かないということなのか?という話なのです。 もしソクラテスが「知者と言われるぐらいの人間だったら、卑劣なことと死のどちらかを選ぶというときに、たとえ内心で膝ががくがくしていてもそんなみっともないところを見せずに死を選ぶべきだ」というならまだ理解できるのですが、ソクラテスは膝ががくがくどころか気持ちよく寝ていた、とすると、無知の知というのははるかに深い内容がありそうだ、と思われるのです。

その他の回答 (12)

noname#91067
noname#91067
回答No.13

>知識を吸収する空き容量確保も、自由を満喫することも、知識欲さえ失い自己保存を否定した。 というのは、ちょっと否定的すぎる見解のように感じます。 よく自殺しそうな人に「生きたくても生きれない人だっているんだよ。掛けがえない命を粗末にしてはいけない。自分一人だけの命じゃない」と説得が講じて納得されると限らない。死にたくて死ねる人は幸いでもあるから。 死に幸いがあることを知れるのは自明で、鈍感な人間には生死の疑問にすらならないのです。「人や物を破壊し、自分が横取りすることがあっても、自分の物は一ミリも奪われず傷つかぬように」保険をかけたり、高級車に乗ったり、セキュリティーにも気が回ります。それが悪いというのじゃないですよ。 しかしいい加減に生きれ無いほど潔癖、というか敏感さを得ると生に飽満になり死へ憧憬が増してしまうものなのだそう。ソクラテスにはいい加減に生きれる逃げ道もあったからです。充実した人生、自由からの逃走をしたのかもしれません。人生の量より内質を満喫した結果かもしれません。 「死に方を算入した後に人生の損得勘定は成立する」これは個々人の趣味判断、最後の生き方の権利でもあります。

noname#130082
質問者

お礼

補足、ありがとうございます。 ううんと。私がmiko-desiさんのアドバイスをきちんと理解しているかどうかが、全然自信がないのです。それで、どうレスしたらよいか分からずに時間がたってしまいました。 >しかしいい加減に生きれ無いほど潔癖、というか敏感さを得ると生に飽満になり死へ憧憬が増してしまうものなのだそう。 すべての場合にそうかどうかは分かりませんが、そういう心理はあると思います。そして、ソクラテスほど「いい加減」という言葉に遠い存在はなかなかないと思います。 ただ、ソクラテスほどの人になると、そういうことを超えているのではないか?と思うのです。 >充実した人生 >人生の量より内質を満喫した結果 それには賛成です。ソクラテスは自分が「よく生きた」と自信を持っているように感じます。 >自由からの逃走をしたのかもしれません 「自由からの逃走」は昔読んだことはありますが、内容はよく覚えていなくて・・・。ただ、自由に伴う孤独や無価値感などに耐えられずに、自由から逃げて、権威主義的な生き方を選んでしまう人間の性を論じていたように思います。しかし、ソクラテスは自由を恐怖するような人間とは思われませんので、むしろ「自由へ向かって」進んだのかもしれないと感じます。 >最後の生き方の権利 その意味で、ソクラテスは「ちょうど良い死に場所だ」と判断した可能性はあると思います。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.12

参考程度に [そういった方々との対話は楽しんでらっしゃるのでしょうか?] ソクラテス先生はカント、ヘーゲルなどのドイツ観念論の流れの方々とよく会話をされていると聞いています。またプラトン(後のヘーゲル)とは近いところにいるのでよくお話はされるそうです。知の系統ですから政治系統の方々とはあまり行き来がないようですね。地にあるときはいろんなジャンルの方々がいますがあの世では系統が違うとまるで違う世界のようですね。 それから、ソクラテス先生の参考は少しでしゃばりすぎと思いましたが多くの回答に小さな物差しで計ったソクラテスの解釈しかないので、あえてご本人の意見を述べさせていただきました。知の体系はどこまでも高いですから今後の参考になるかと。

noname#130082
質問者

お礼

わざわざ追加情報、ありがとうございました。 >知の体系はどこまでも高いですから 知には上には上がある、ということでしょうか。 しかし、人間は上から下を見ることは出来ても、下から上を見ることはなかなか困難です。私の力量では、どれが小さな物差しの回答なのかまでは分かりませんので、総合して判断させていただきます。 ありがとうございました。

noname#130082
質問者

補足

おっと、お礼に書くのを忘れておりました。 ソクラテスがあの世でも対話を楽しんでらっしゃるご様子、安心いたしました。

noname#82774
noname#82774
回答No.11

>「未知の知」という言葉の正確な意味は、正直よくわかりません  もちろんです。テクストをどう読むかで、各人違った解釈が成されます。そこが「無知の知」とは違うところです。テクスト自体、前世紀の初期と、現代ではずいぶん違った解説がされますから、ご自身の解釈があっても良いと思います。  そして、お書きになられた中間報告を見るかぎり、良い「読み」をなさっているなぁと思います。もう、僕にお答えできることは無くなったようですね。  終生の友とすることができるような作品ですから、どうか、質問者様にとってかけがえのない無い「読み」がありますよう、お祈りいたします。

noname#130082
質問者

お礼

どうも、ありがとうございます。 ・・・と、お礼をしようと思ったら、passcardさん、いなくなってしまったようですね(^^; 残念。 他にも良回答された方がいらっしゃるので、お礼など考えたり(または、うつでレスできなかったり)して時間を逃してしまったようです。 ちょっと混乱してしまったのですが、偶然に、他にもpasscardさんという方がいらっしゃるようですね(^^;。こういうとき、ニックネームのかぶりが有り得るコミュニティは混乱の元だなと思いました。 ともあれ、いろいろ考えることができ、ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.10

参考程度に 『死を知らないが故に、死の恐怖もない』  あの世ではソクラテス先生は智天使と呼ばれる偉いお方なんですね。智天使が「死を知らない」というのは学者や一般人の解釈とはまったく違うものですね。この正確な意味は生き通しの魂が数十年の間、肉体をまとって人間と呼ばれるだけなのだから死など考える対象でもないし本来ないものだという意味ですね。ソクラテス流の悟りのことばですね。それゆえ大哲学者と呼ばれてもいますね。 だから,死の恐怖などあるわけがない。となるわけですね。 どのように学ぼうと解釈しようといいのですがソクラテス先生はそのように言ってますね。 これに関して、人間がどこから来てどこに行くのさえわからないで何の知識なのだ! というのが「無知の知」という意味ですね。 つまり知とは人間がどこから来てどこに行くのかを知っているということですね。この基本がわからないでは積み重ねる知識は砂上の楼閣でしかないといいたかったのですね。  たとえ話では、用事を受けて長い旅に出た旅人が旅の途中の旅館で居心地がいいので旅の目的をすっかり忘れて、年月を経て路銀も使い果たして途方にくれているという姿が「死の恐怖」なんですね。 元いた場所、目的、行き先を忘れて旅の宿で何をしようが「無知の知」になるわけですね。 基本が語れない哲学者など無知の知でしかないという皮肉もありますね。 ソクラテス先生に成り代わって参考までに。

noname#130082
質問者

お礼

あの世に関する貴重な情報、ありがとうございました。 私は不勉強で、あの世のソクラテスのことまでは知りませんでしたので、助かりました。 ただ、別に私はソクラテスを貶めようとしたわけではありませんので、念のため弁護させていただきます。 ソクラテスは生きている間でも非常に懐の広い方で、ソクラテスの話を聞こうという人間は誰であっても拒んだことはない、とのことでしたので、それなら私もソクラテスの胸を借りることも拒まれないかな?いくら偉いからといって、ソクラテスは偉ぶることなどなく私ごときの質問でも答えてくださるかな?と考えただけなのです。こんな方はめったにいるものではありません。 しかし、智天使となると、さすがに私などは拝謁さえ難しそうですね・・・。 ところで、私は無理としても、ソクラテスはあの世でミノス、ラダマンティス、オルペウス、パラメデス、などとの対話を楽しみにされていたとのことですが、そういった方々との対話は楽しんでらっしゃるのでしょうか? ソクラテスにとってはそういうことが最高の幸せだとのことなので気になりました。 もし、情報をお知りでしたら、お教えください。

noname#82774
noname#82774
回答No.9

 こんばんは、passcardです。  何も謝ることはないと思いますが、再度補足しますと、要するに「無知の知」をよくご存知のあなたに、「未知の知」を回答させていただいたのです。ですから、 >私が自らを「素人」と言ったために、  では、ありません。テクストに描かれる「無知の知」の向こう側に、「未知の知」は見えませんかという事を言ったわけですから、むしろ専門家に見立てて回答し、如何かなとお伺いをたてたのです。ご理解が違っているようでしたから、補足させていただきます。  

noname#130082
質問者

お礼

何度も補足していただいて、ありがとうございます。 >「無知の知」をよくご存知のあなたに ううむ、これは私を高く評価していただいたものだ、と感謝いたします。 しかし、私自身の不安は収まっていない。 病気だから、というのは簡単です。しかし、もし理由があるとしたら何だろう? それはきっと、私が何か間違いを犯しているサインに違いなかろう。 つまりソクラテスの言う「よく生きて」いない、状態ではないか? そういえば、passcardさんの補足に「これは難しい補足だ」と、レスを引き伸ばしている、これは立派なことではなかろう。まず、そこを正そう。 ・・・ということで、吟味はかなりかけていますが、「未知の知」に関して中間報告を補足させていただきました。 この結果がどう出るか(私自身にどのような影響が出るか、など)はわかりませんが、怖いときは怖がりながら進め、という言葉もあります。 補足のお陰でまたいろいろ考えることができます。 ありがとうございました。

noname#130082
質問者

補足

>>私が自らを「素人」と言ったために、 > では、ありません。 失礼いたしました。私が考えていたよりも高く評価していただいていたようです。ありがとうございました。 「未知の知」という言葉の正確な意味は、正直よくわかりません(どうも、人によって意味が異なるように見えます)。ということで、自己流でいかせてもらいます。 >質問者様自らでお答えになった。 何故、答えられたのか? 理由はよく分かりません。 ただ、私は(昔風言い方で)不安神経症あたりのようで、生きるために死の恐怖を克服する方法を探していたのです。その探索のひとつが「ソクラテスの弁明」だったので、かなり考えたからでしょう。 先ほど気がつきましたが、「大切なのは、生きることではなく、よく生きること」とソクラテスは言うが、どっちが簡単だろうか?私は生きるためにこれを読んだが、もしかしたらよく生きる方が簡単なのではなかろうか? という逆説です。そうなれば、少しは重荷が軽くなります。 何故なら、死の問題は無知の知の一種の応用問題であって、ギリシャ哲学なら、真・善・美などに対する無知が第一に考慮されるはずだから。そして、ソクラテスは、これらについて自分は知らないと言っているにも関わらず、言動はまるでよく知っているようです。また、彼自身そのことに絶対の自信を持っているようです。「よく生きる」とはどういうことか知らないはずなのに、自分はよく生きたという自信がある。 例えば、死がもしかしたら素晴らしいものかもしれない、という根拠には明白な論理的欠陥があります。ソクラテスが地獄に落ちる場合を想定していません。 私の想像ですが、ソクラテスは単に自分自身と対話した人々が知らないから皆知らないのだ、と考えただけでなく「こういう根源的なものごとに対しては、人間の知性は『知り得ない』のだ」という感覚があったのではないかと思います。しかし、一方では、知性で知らないことであっても、(一種の感性のようなもので?)「よく生きる」ことはできるのだ・・・知性を超えた部分で「知って」いる、といったような・・・という感覚もあって、それに従って生きてきた(ダイモンの助けもありますが)という自信もある。私流の「未知の知」でしょうか・・・。また、これはソクラテスも賛成してくれると思いますが、知性は自分が間違っているとき、そのことを知る能力はある、という命題は成り立つと思います。

noname#91067
noname#91067
回答No.7

ソクラテスは俗社会よりも理性的であってしまったので、自己保存よりも種の保存を理性で選択したのでしょうね。 >「自分の哲学によれば、死が恐るべきものである根拠はない(むしろ、喜ぶべきものかもしれない根拠さえある)」 経験を積んで、体験によって知識を重ね、もうその知識を吸収する空き容量確保も、自由を満喫することも、知識欲さえ失い自己保存を否定した。 生きるのさえ面倒になっただと思います。 無知であれば賢くなりたいと願ったり、自由を面倒に思わないから生きる資格があるというもの。

noname#130082
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございました。 お礼が遅くなりました。 >理性で選択したのでしょうね。 たぶん、そうだと思いますが。 >生きるのさえ面倒になった とすると、精神力の問題ではなくなりますね(^^;。 ただ、 >知識を吸収する空き容量確保も、自由を満喫することも、知識欲さえ失い自己保存を否定した。 というのは、ちょっと否定的すぎる見解のように感じます。 >無知であれば賢くなりたいと願ったり、自由を面倒に思わないから生きる資格があるというもの。 という言葉は参考になりました。 (回答者の方々へ)まあ、私の質問のメインは最後の1行なので、それに対するヒントでも得られればいいので、かまわないのですが、 >>研究はどのくらいされているのでしょうか? あるいはまた、ソクラテスを学ぶことで死の恐怖を解消できた人はどのくらいいるのでしょうか? という部分へのはっきりした回答が出ていないようで困っています。 どうも、待っていても追加の回答があるかどうか、かなり疑問ですので、しばらく待ってみて回答がないようであれば、締め切らせていただきます。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.6

んとですね。 私の記憶も曖昧なのですが、、、、記憶を辿ると、、、 キリスト教の思想はプラトンの思想だといわれています。 ソクラテスは書物に何も残していないのです。 従ってソクラテスは、こんな人だったって描写は、プラトンの視点からです。 ソクラテスは、人間の徳(幸福)について考えたんですね。 それを発展させ、プラトンはそれをイデアってしたんです。 それは完璧な世界で不滅。 人間はそこにいたが、肉体という限界を持ったために、不完全になってしまったと考えた。 で、生きながら完全な世界を知覚できたものの言うことに従っていれば、不完全な者であっても、完全な行いができ、幸福である とした。 ところが、どうやってそのイデアを知りえた人かどうか(全くの善人かどうか)わかるのか? 善い評判を得て人から良く思われ、そのせいでお徳になるので、善い行いとされるものをしているだけなのか、根っから善人だから善い行いをしているのか、どうやったらわかるか。 お徳を全部奪ってしまって、それでも最後まで善人だったら、その人は善人だったって証明できるとした。 紫の衣(善い評判)を剥ぎ取り、鞭打ち、槍で刺しても最後まで善人だったら、その人は根っからの全員なので、その人に従っていいとした。 でも、死んじゃったらついていけないじゃん・・・。 で、それから400年後くらいに、同じギリシャ方面で、紫の衣を着た人(全くの善人だとという評判を得ている人)を罪人とし、(紫の衣をはがす)、茨の冠をかぶせ(太陽の子)、公開鞭打ちという辱めを与え、槍で刺して、3日後に太陽と同じように復活したって神話ができたんですね。 えっと一応 新約聖書って名前の神話。 で、プラトン 違った ソクラテスとイエスの違いは、ソクラテスは毒にんじんの杯を煽って自殺しましたが(服毒処刑)、イエスの場合、弟子たちはぐーぐー寝ているが、「どうかこの杯を私から取り除いてください」と死の恐怖におののき眠れずにいた。 最終的には「神様がそう望むのなら、それに従います」ってまるでプラトンの思想のようにイデア界を知っている者に従います ってなったんです。 神は全くの善だって前提ですから。 で、もう一つ二人に違うところは、プラトンは女神のご神託で、3日後にアレテーの世界に帰還するとご神託を受けたと信じ、イエスは処刑から3日後に復活して、70歳超えるくらいまで、地上を彷徨ったってなっています。 新約聖書では数日弟子たちと暮らしたってなっていますが、教会の記録では70歳超えるまで生きていたってなっているらしい。 名前違いでしょうか??? まあ ともかく、死ってのはすごい恐怖なはずなのに、プラトンからみたソクラテスは、びくともしなかったのは、自分が正しいと信じて疑わなかったことと、3日後に女神様の世界に行けると確信していたからじゃないか と。 キリスト教の信者も、一応葬式の時は涙こぼしますが、一時的な別れのための涙であって、どうせすぐ会えるからと確信しているんですね。 両者が善人であれば、きっと天国で再会できるはずってことで。 というわけで、キリスト教の人に、死は本当に怖くないかってヾ(;□;)э ちょっと聞いてよ~!、、(あうち! 単語登録しているので変換押したらこうなってしまった)  本当に怖くないか きいてみたらいいと思うんです。 どうして怖くないか、何故怖くないか その確信できる根拠は?って。 自分が本当に神の行ける つまり 全くの善人であると 言いきれるか って。 すると、天国に行くのも地獄に送られるのも、神様の気分次第だから、どうなるかは神のみぞ知るって応えるかも。 じゃあ どの程度の確立だと思っているか、きいてみたらいいと思います。 完全に確信していないのに、どうして死が怖くないのかって。 プラトンの場合は、ご神託を完璧に信じていたってことになっています。 プラトンは、不正を働くことは不義を犯すことになり、そうなるとアレテーの世界に行けないなるので、脱獄という不正を犯さなかったわけです。 私はですね、死も人生の一部であり、受容してこそ生があるって思うんですね。 片方だけじゃ成り立たない。 死を人生の一部だと受け入れてこそ、生は存在しえる。 で、仏教は執着を断ち切り、空の心境になるための悟りなるものを解いているらしいですが、実際巧妙なお坊様も死の間際には「しにとうない しにとうない」と言ったくらい、執着を絶ち、空の心境になるのは難しいことのようです。 執着を絶てない自分を受容すると、ちょっとはマシになる気がします。 えっとですね、私以前死にかけたことがあるんです。 10代の頃から、窒息して死にかけることがあったのですが、、、 今まで何10回死にかけたあっただろう?? その中の一つが ひどくとてつもなく苦しかった。 本当に窒息死しかかった。 いつだったか死に掛けたとき、医者がいて、意識が戻ったあと、「危なかった 血圧が上が50切ってた」とか言っていた。 全機能が停止に近い状態になり、脳に酸素もいかなくなるので、そこを限度として意識失うので、そうなるとそれ以降は苦痛すら知覚することもない。 鼓動がまた始まったときが、 えっらいまた苦しい。 知覚の器官がまた機能しだすので、苦痛も感じれるから。 誰かに首を締められたとか、首吊り自殺を図った とか そういうのじゃないです。 一種の体質だと思います。 で、そりゃ もう 苦しくって、「一気に殺してくれ」と言葉が喋れるのなら、周りに訴えたいくらい。 ですが、今は「死ぬってあの程度か」って思える。 どのくらい苦痛が続いたでしょうね。 発作が始まって10分以内にピークがきて、メルトダウンが始まり、限界に達して脳に酸素がいかなくなるまで、、、、苦しみの最高潮は3分くらいじゃないかと。 あの程度ね と思うと、一度すごいものを体験しているので、定められた時が着たら、ちゃんと死に耐えられる自信あります。 だって前回も耐えれたのだから。 耐えれないと死は来ないんです。 そりゃ 年取ったり病気でじわじわ痛みや苦しみがあるのは、嫌ですが、、、なるだけなら、「うっ」となって数分間悶絶して耐えて死を受け入れたいですね。

noname#130082
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ソクラテスを理解するだけでも手に余るのに、イエス・キリストや仏教まで含めるとなると、お礼も難しくなりまして、返事が遅れました。すみません。 ソクラテス自身は著書を残していなくて、プラトンその他が書いたものしかない、ということは知っていますが、「ソクラテスの弁明」は比較的ソクラテスその人を忠実に語っているとのことですので、基本的にソクラテス自身の考え方なのだと取り合えず受け取っておりました。 ソクラテスとイエスの違いですが、こういう人知を超えた存在の特徴として「けっして人まねはしない」ということがありますから、違いがあるのは当然だと思います。 イエスも確かに、「どうかこの杯を私から取り除いてください」と死の恐怖におののき、ということはありますが、ソクラテスとは状況が違いますので簡単に比較できません。 イエスは、あらかじめ自分が十字架刑で死ぬと預言していて、過ぎ越しの祭りというユダヤ人が宗教的に最大の高揚をしている時期をピタリと狙って死刑になる(逆に言えば、それまでは別の方法では死なない、と、イエスを殺す計画にはすべて一人で対処して逃れていた)という、まさに人知を超えたことをしています。 それに十字架刑はソクラテスの毒杯よりはるかに苦しい死に方ですし(日本の磔刑とは違い、槍を刺したのは死んでいるかどうか確かめただけで、槍で殺すものではありません。十字架に釘で打ち付けると、呼吸ができなくなり窒息して死ぬ、という刑罰ですから何時間も地獄の苦しみを味わうわけです)。 >キリスト教の人に、死は本当に怖くないかってヾ(;□;)э ちょっと聞いてよ~!、、 聞く相手は「キリストの教えを実行しているクリスチャン」ですよね?実は、なかなかいないんです・・・。 それはともかく、私にとって大事なのは、kigurumiさんが実際に何度も死にかけたということです。こっちの方が遥かに私にとって有益でした。 >「死ぬってあの程度か」 この台詞はとても参考になりました。ありがとうございます。

  • reki4649
  • ベストアンサー率21% (116/539)
回答No.5

思わず笑ってしまいました、スミマセン。 だってここにソクラテスが居たらきっとあなたは質問攻めにあうはずですよ。 「君は死について何を知っているのかね?」と。 恐れを乗り越えたのではなく死を知らない事を知っていただけです。 ソクラテスの弁明より引用 「思うに死とは人間にとって至福とならざるものかどうか何人も知っているものは居ない 然るに人はそれが最上の悪となるものである事を知っているかのようにこれを恐れるのである」 引用終わり 私は知らないという事を知っている これが彼の基本スタンスです。 知っている事と知らない事をキチンと分けて知っている事の積み重ねで人を論破して行ったので 知ったかぶりの人達の恨みをかったのです。 江戸時代の町民に「明日からお前はハワイに行くのだ」と言って真っ青になって恐れる人が居るでしょうか? 「へ?はわい?どこそれ?」ですよね。 断片的な知識で「溶岩があふれて地面が湧き出し鬼の様な大男がたくさん居るらしい」 なんて縮み上がっている人が居たら大笑いです。 死を恐れる事も同じ事ではないでしょうか?

noname#130082
質問者

お礼

わざわざ、回答、ありがとうございます。 どうも、reki4649さんにとって当たり前の話を質問してしまったようですね(^^; でも、私にとっては当たり前でなかったので、ご容赦ください。 当たり前でない理由は補足に書かせていただきましたが、お礼が遅くなったことはお詫びいたします。

noname#130082
質問者

補足

笑うのは全然問題ないと思いますが、ちょっと気になったのは、笑った後、 >だってここにソクラテスが居たらきっとあなたは質問攻めにあうはずですよ。 とおっしゃったことです。もしかして「質問攻めにあって、あなたの鼻っ柱をへし折られますよ」という意味でしょうか?(読み間違っていたら、無視してください<(_O_)>)。 それって、災難でしょうか? むしろ、これほどの幸福はなかなかないのではないかと思いますが。 その上、こっちも教えて!gooに質問するまでもなく、本人に訊くこともできるんだし。それもただで。 まあ、「ここにソクラテスがいれば良かったのに、いないということは可哀想な奴だ」とお笑いになったのなら、まったくその通りと同意しますけど(T_T)。 それはともかく、例えば、引用された部分は本当に納得しますか?「これって詭弁じゃない?」と思ったことはないでしょうか? 死が分からないから怖い、という人も多いのではないでしょうか。 >江戸時代の町民に「明日からお前はハワイに行くのだ」と言って 普通は、どこに連れて行かれるか分からないから怖がる人が多いのではないですか。それなのに、ソクラテスだけは、どこに行くか分からないのだから怖いという根拠もない、と平然としている、という話は面白いと思いますが・・・。 また、哲学書といえば分厚い本が沢山積み重なってるというイメージがあったのですが、文庫本1冊で生死の問題や正義の問題が分かりやすく書いてあるなんて、悪質商法でさえこれほどの大言壮語は言わないという考え方もあり得ます。鵜呑みにしていいんでしょうか?

回答No.4

ソクラテスという人の業績は、或いは言った事は良く知りませんが、たった一つ知っている事が有ります。それは「汝自身を知れ」という言葉です。 この言葉の中に、貴方が知りたい事が含まれています。是は精神力という事では有りません。 人間の不安や恐怖心というものが何処から湧いてくるのか、或いは、外界から来るストレスが影響しているのかという事になります。人間の不安や恐怖心とは何か?というと是等は全てが自分自身が発信している信号というものと言えます。 人間の自我意識が人間の心を感じているという解釈からするならば、自我意識に「感じさせているものが存在」しているという事になります。 従って人間の心には「自我意識」の他にももう一つの人格が居て、その人格が自我意識に教えているという事になります。 人間は心も、体も健康で、健やかに過ごす事が出来ます。是は人間の自我意識と「命の働き=仏性」というものが手を取り合って暮らしている姿です。 人間は心も、体も健康を害して、普通に暮らせなくなる場合が有ります。精神疾患、神経症、自律神経失調症、或いは心身症などです。 是等に共通している事が有ります、それは「恐れ」です、不安です。人生に対する漠然とした不安が常に付きまとっている事です。得体のしれない不安というものかと思います。 この不安が何処から来るのかが分かっていない事も、その不安を大きくしていて、又、対応も難しいものにしています。 この苦しさは「仏性」が自我意識に教えようとして、自我意識がその教えを聞こうとしていない処に在ります。自我意識が聞こうとしない事で、ますます自我意識に圧迫を加えてしまいます。 人間が死を怖く感じたり、恐怖に感じる事は、「心の矛盾と対立とがなせる業です」人間には元々何が有っても現実を受け入れるという働きが有ります。この事を「仏性」と呼びますが、その働きの他に自我意識が有ります。 この働きと自我意識が共に協調できなくなった時が「心の分裂」となります。この反対が「自分自身を知る」という事になります。是は自分を不安にさせていたものと「出会う」という事になります。 是が禅問答が解けた時の心持「今更お前は誰か?」と聞く必要が無くなった状態の事です。恐怖や不安を起こしていた自分自身の心と出会ったという事になります。言い方を替えたなら、「自分自身の不安や恐怖」という事のメカニズムが分かったという事になります。 この事で以後不安は、安心に変わります。死の瞬間でさえも安楽という心境になります。不安や、苦しみとは「今現在を肯定することが出来ないという事と言えるからです。 今を絶対肯定出来た時には人間には「悩みや苦しみが」無いと言えます。なぜならば「神と共にいる」と言えるからです。ソクラテスの心境は「神の思し召しのままに」という事を地で行った事になります。 それが「汝自身を知れ」という言葉と思います。

noname#130082
質問者

お礼

貴重なご意見、ありがとうございます。 いや、貴重どころか正に正解だと思います。 でも、これって・・・tumaritou1さんの言う「汝自身を知れ」の意味は、悟りを開いた状態ではありませんか? 確かに、般若心経にも「無有恐怖(恐怖あること無し)」とありますし、私もひょっとしたらソクラテスは悟りを開いていたのでは?と考えました(十分にありえますね)。 無理にやると危険もありそう(というか、無茶やって離人症が出たことがあります。お釈迦様が悪いのではなく、私のやり方が明らかに間違っていたのですが・・・「今更お前は誰か?」と聞く必要が無くなった状態、となると、アイデンティティを確認する必要がなくなった状態、でしょうか。しかし、無理をするとアイデンティティ崩壊という自我意識の暴走の危険を感じました)なので控えめにしていたのですが、やはり最後はそこに行きますか。 それしか方法がない、となれば、開き直ってやるしかないかな(^^; あえて意見を言えば、これは単なる言葉のトリック(自我意識のトリック)に過ぎないのですが、仏性を「人格」と言うと、自我意識は自我意識しか知らないために仏性も自我意識と似たようなものとイメージしてしまう危険をちょっと感じました。 ちなみに、現在のギリシャでは「汝自身を知れ」という言葉は酒場でよく見かけるそうです(度を越すな!という意味でしょうか)(^^;

noname#130082
質問者

補足

tumaritou1さんのご回答と以前読んだ本にあった「探求している探求先ではなく、探求者を観よ」という言葉をぶつけてみましたところ、今まで不安を引き起こしていた「元」が、あたかも敵であるような感じで戦ってしまったが、実は味方だった(言葉にするのが難しいのですが)、というような感覚が出てくるようになって、実際に楽になってきました・・・。 良い方向なんですかね??? まあ、悟りなどというものはもっと遥かに超越的なものだろうと思いますし、あまり仏教用語を乱用すると仏教関係の人から「素人の野狐禅はいかん!」などのクレームが来るかもしれませんので控えますが。 そういえば、ソクラテスを憎んだ人たちも、ソクラテスは実は味方だったのに敵だと思いこんでしまったところもありますね。

noname#82774
noname#82774
回答No.3

 >自分の精神力を強めるものが、何かヒントでもないか、と探しています。  世の中には「わからない」ことって、たくさんありますよね。  わからないことに直面するとき、人間はきっと、知識であったり、感情であったり、感覚であったり、そういうのを拠りどころにして乗り越えて行くのだと思います。ところが、どんな知識を持ってしても、感覚や感情、そういうのを持ってしても、何とも「わからない」というような出来事に遭遇したりすることもあるでしょう。  「生」や「死」というのは、きっとそういうものの最たるものではないでしょうか。  ソクラテスは、どのようにして死を克服したのでしょうか。彼の口からは、死後の世界が語られます。けれど「死」というものが何か、彼があのように語れたのは何故でしょうか。別な作品では、一度死んだ兵士のエルが死後の世界を彷徨い、ついに蘇生する物語が描かれます。そのエルの物語から想起される世界像が、ソクラテスに死の克服を可能にさせたのでしょうか。つまり、ソクラテスには死後がよく「わかっており」、その知識によって彼は安心して死を克服することができた。こういう事でしょうか。  ある時代には、そうだったのかもしれません。けれど、エルならばいざ知らず、僕らにはそんな世界が見えた験しがありません。到底、その物語が死を克服させる手助けになるとは思えません。質問者様のご心情は、恐らくそのような感じではないでしょうか。  あるいは、こんなふうに思ったことはないでしょうか。  国家、権力、暴力、そういう巨大な力が眼前に立ちはだかる時、僕らはとても脅威を感じます。ちょうど村上春樹さんが演説なさった「壁と卵」のように、圧倒的なその力によって、自分は徹底的に損なわれてしまうのではないか。その力の影響、及ぶ範囲、情け容赦の無さ、そういうものをよく知っているからこそ、僕らはそれを怖れる。  でも、よく考えてみれば、わかっているにも係らず、どうしてそんなものを怖れたりするのでしょうか。わかっているものなら、そんなに怖れたりはしないはずです。  なのに、僕たちは巨大な力を前にすると、たまらなく怖くなる。  思うのですが、僕たちが怖れているのは力の巨大さ、そういうものではなくて、その力がいつ行使されるか、それが「わからない」ことにあるのではないでしょうか。  如何に大きな力とはいえ、それがいつ及ぼされるのか前もってわかっていたならば、悲しみに暮れることはあっても、取り乱すような怖れは抱かないのではないでしょうか。そして、その力が仮に「死」と呼ばれるものであったとしても、それがいつやってくるのかはっきりとわかっていさえすれば、怖れを諌めて生きることはできるのではないでしょうか。   ところで、そもそも「わからない」ってどういう事なのでしょうか。もしも、質問者様が『ソクラテスの弁明』を以前に読んでよく知っており、あらすじも、言わんとする事もよく知っているのだとしたらどうでしょうか。その状態で、大学の一般教養で『ソクラテスの弁明』をもう一度読んだのだとしたら、その内容に深く感じ入ることができたでしょうか。  例えば、こういうことです。すでに犯人を知っている推理小説と、まだ犯人を知らない推理小説の、どちらをこれから読む本として選ばれるでしょうか。  おそらく知らない本、すなわち内容が「わからない」本をお選びになるのではないでしょうか。僕たちはどういうわけなのか、「わからない」ほうを選ぶような気がするのです。  まるで「わからない」ことに、惹かれるかのように。  それが何時やってくるのか「わからない」としても、僕たちはどうやらその「わからなさ」に惹かれるようにして、生き続けているように思います。怖いもの見たさとでもいうのでしょうか。片方ではそれを怖れ、もう片方ではそれを求めて手を差し出す。その差し出した手はいったい何を求めているのか。困ったものですけれど、頭で考えるよりも、僕は自分の右手にいつもそうやって教えられています。僕の場合、どうやら手のほうが賢そうです。

noname#130082
質問者

お礼

わざわざご回答ありがとうございました。 本来なら、お礼を先にすべきだと思ったのですが、私の認識している「ソクラテスの弁明」とpasscardさんの認識とにかなり食い違いがあるように見受けられましたので、補足の方を、先に投稿させていただきました。 ご容赦ください。

noname#130082
質問者

補足

大変失礼ですが、少々確認させてください。 >ソクラテスには死後がよく「わかっており」、その知識によって彼は安心して死を克服することができた。こういう事でしょうか >わかっているものなら、そんなに怖れたりはしないはずです 「ソクラテスの弁明」でのソクラテス論理は「私は死を知らない(そして、死を知らないことを知っている)。『それ故に』恐怖もない」ということではなかったでしょうか? 死を怖がる、ということは、誰一人(ソクラテスを含めて)死を知らないくせに「死は恐るべきものだ」と知っていると言っていることと同じだから。 この点で話が合わないと、私の質問そのものに意味がなくなってしまうので。 「『死を知らないが故に、死の恐怖もない』とは、哲学者という人種はとんでもないことを考えるものだ!」というところにインパクトがあったのですが。 もし、ソクラテスが死を知っていたとしたら、他の人間は死を知らないのにソクラテスは知っている、従ってソクラテスは知者である・・・ということになって、「無知の知」の出番がなくなってしまうのではないでしょうか? >その状態で、大学の一般教養で『ソクラテスの弁明』をもう一度読んだのだとしたら、その内容に深く感じ入ることができたでしょうか。 推理小説や漫画ならともかく、この本はちょっと読んだぐらいでは分からないですよ。まあ、それでも、素人でもその気になれば読める、ということ自身が凄いことですけれど。それも分厚い哲学書(とても素人に読めるしろものではありません)ではなく、ぺらぺらの文庫本で。 「わからない」にも、単に知識を獲得すればわかるものと、そう簡単にはいかないものがあるのではないでしょうか?

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