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「歴史はくり返す」と言いますが、どうしてなのでしょうか。

 この場合の「歴史」は「同じこと」と同義だと思うのですが、一回性の歴史のなかで同じ「こと」に含められる範疇は、どの程度までが許されるものでしょうか。  「歴史はくり返す」を過去の質問から調べてみましたが、膨大な数の質問が見つかる反面、個々の「歴史」に焦点をあてた質問ばかりで、どうやら質問でもまた「同じこと」がくり返されているふしがあるように感じます。とすれば、「こと」の範疇というものは、気にするまでもない、要するに無用のものなのでしょうか。  さらに、歴史はくり返しても、「良いのかどうか」にまで言及して教えていただけると、とても嬉しく思います。

noname#82774
noname#82774

質問者が選んだベストアンサー

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noname#101110
noname#101110
回答No.21

NO.18 です。 >そして、それは良い事なのだろうと考える僕に対すれば、悪いことなのだろうというふうになるのではないかと思うのですが、それは判断できないと仰る。どうしてでしょうか。 質問者様が「歴史が繰り返すことに対する価値判断」を求めておられることは理解しております。人間が様々な面で進化を遂げてきたということは誰にも認められることではありますが、それは人間の生き方の歴史そのものを進化させることになったかといえば否だと思います。最初に私が規定したように「繰り返す歴史」は人間が進化を遂げてきた様々な面とは無関係な「人間の本質」に関わることであり、だからこそ古代から現代まで連綿と同じ過ちを繰り返すということになっているのでしょう(ギリシャ悲劇が現代でも深い感銘を多くの人間に与えるということがこれを証明しています)。これは人間の弱さといっても間違いではないと思いますが、その弱さゆえに人間はやはり人間らしさがあるのだといえるわけで、それらの愛すべき人間らしさゆえに人間はこの歴史時代を共通の共感で結び付けられるわけで、これを質問者様のように「良いこと」と手放しで讃えることは私は出来ません(人間の不幸の源=原罪 と捉える宗教者もいた通りです。)私の価値判断から言えば、それは悪くはないけれど良いとはとてもいえない人間の限界であり、最大限、カインの末裔としての人間を同じ同胞として(仕様がないやつだ、と)愛する(興味を持つ)ことは出来ますが。 私の言う「仕方がない立場」とはこういった意味のことです。

noname#82774
質問者

お礼

 頂いた回答をひとつの節目とし、お答えが自らの内へと入ったのを見届けてから、しばらくしてこの質問は閉じたいと思います。ありがとうございました。

その他の回答 (20)

noname#101110
noname#101110
回答No.20

NO.18 です。 >歴史はくり返しても「良いのかどうか」この点について、回答をいただけると助かります。 「歴史は繰り返す」という言葉を箴言のひとつと考えるかどうかでこの答えは変わってくると思います。 私はこの言葉に古来変化する事のない人間の本質(弱さ、または馬鹿さ加減)を感じます。でもそれが良い事なのか、そうではないのかと判断する事は出来ません。人間が歴史を作ってきた、または作っていく以上仕方がないことなのか、またはそれゆえに(歴史は)興味深いのだろうと考えることはできます。

noname#82774
質問者

お礼

 僕はこの言葉に古来変化する事のない人間の強さ、そして愛すべき直向さを感じます。けれど、それは箴言だからというわけじゃない。という事は、箴言だと捉えれば、仰るように弱さ、あるいは馬鹿さ加減というふうになるのかもしれませんね。  そして、それは良い事なのだろうと考える僕に対すれば、悪いことなのだろうというふうになるのではないかと思うのですが、それは判断できないと仰る。どうしてでしょうか。

noname#82052
noname#82052
回答No.19

>「信念」というのは、回答には相応しいですが、僕にはまだ少しばかりためらいが残されます。どうでしょうか。 人間の行動を統制する原理として、こういう信念といったものが要求されるのだというこです。 最初に「歴史は繰り返す」と言語表明した人はそれが正しいと判断したわけですが、銃理論的な根拠があるわけではないですね。

noname#82774
質問者

お礼

 最初に願望、そしてつぎに信念と、伺いました。  三つめがあるように感じます。確かに、他への根拠付けはできないとしても、それはあるのではないでしょうか。回答、ありがとうございました。

noname#101110
noname#101110
回答No.18

人文科学としての歴史において、有史来の著名な歴史上の人物の、メインの事跡ではなく、むしろさほど重要ではない、後世に影響を与えなかったサブ的な行動、人間臭いゴシップめいたものが、ずっと後世に別の人物によって再現される、人間同志のの余り変わらない欲情とか世代間の軋轢とか、そういったことが原因で起こった故事を指すことが多いのではないでしょうか。 つまり、この言葉は歴史における生きた人間の生々しさなどを慨嘆する俗な言葉で、これにアカデミックな歴史の規則性とか波動などを見るのは考えすぎだと思います。

noname#82774
質問者

お礼

 一味違った回答でした。ありがとうございます。  仰られるのは、例えばこういう事でしょうか。  歴史上のある出来事を見返した場合、その出来事の原因はこうで、結果はこうだというそのエピソードは、「くり返される」ような何らかの原理に従って生じたものではなく、その言説は要するに、個々人の日常的な瑣末な出来事によって誕生した、実は後付けの物語なのではないか? という事でしょうか。  だとすれば、その範疇はまさに、その物語を読んだ個人のなかで完結されるものとなり、他の多くの回答にも合致するような気が致します。一応、そのように理解して質問を補足させていただきます。質問の後半にある、歴史はくり返しても「良いのかどうか」この点について、回答をいただけると助かります。

回答No.17

 回答番号:No.11  知ったかぶりで、ご質問者様に回答などをいうなんてまことに僭越で、おこがましい限りです。  多少とも普段のことを、回答というより独り言のように申し述べています。  “私に返す、返る。”  そうかも知れれません。万物は全体の部分であり、切り離れているものは存立しませんから、ここにはそういう部分として、部分と全体に申し述べています。  所信は聞いてくれる方、その人その人により、all or nothingです。馬鹿らしいということもありましょうし、そのとおりであるとされる方もあります。  えてして不可視のこととなりがちなことはみなそういうものであります。  馬鹿らしいという思いの方にとってはゴミとなり、くずかごの中に入るものです。  多少ともお目にかけていただけるとは幸甚の限りです。    “暗示的ではありますが、・・・”  思わせぶりな、或いは無内容なのに内容があるかのような、包み紙で暗示的な言辞を弄することは尤も忌み嫌います。  聖典の場合は必要が在って、そういう表現をしておりますが、私は聖典を書いているつもりはないし、誤解なく明確に伝わることを心がけております。  “暗示的”になっているとすれば、それは自分が実践できちんと理解していないから、生な表現になっているのだと存じます。  つまり私の反省点です。

noname#82774
質問者

お礼

 読み手のユニークな読みを可能にするのは、その人がユニークな「存在」だったからではなく、その読みが他とは「違っていた」ということが、そのユニークさを基礎付けているのです。テクストを読んで解釈する、その解釈は、テクストの呼び声に答えるものであり、その呼び声を奏でるテクストは、文章の意味するものとは別に下心があって、その下心が解釈を誘惑するのです。解釈は、本質的にその誘惑を含んでおり、そのかけがえのなさを通じて、ある種の記号から代替不能な意味をその都度、引き剥がすのだと僕は信じています。  このように信じていますから、反省なさるというあなたのそのお気持ちは、そのまま僕の体内へ入っていると申し上げることに致します。

noname#82774
質問者

補足

 「暗示的」という表現がまずかったならば、撤回します。ただ、そうとしか、書けなかったのです。あなたからは何度も回答を頂いていますので、質問者である僕の、質問に対する(あるいは回答に対する)考え方について、少し書いておきます。これは、これ以上の誤解を招かないようにするための補足でもあります。  まず、巷でよく聞く話では、質問者と回答者のどちらが偉いのか? という問い語りがあります。暫定的な見方として、「質問がなければ、回答なんか成立しないじゃないか」という質問者優遇の措置が一般的なのでしょう。けれど僕は、そうだとは思いません。  その理由はこうです。  まず、質問者は自分が誰であるかを知り、質問者としての自分を実現するのは、その質問を通じてでしかないと思っています。その質問以前には、彼は(彼女は)自分が誰であるかを知らないばかりか、未だ何者でもない。質問者は、質問を書きつつ存在し始めるのです。  さらに、この文章の「質問者」を「回答者」に置き換えてみてください。ある人はまた、同様に回答を通じて、回答者になるのです。質問者と回答者は、世間で言われるほど非対称な存在ではなく、ある前提の前では、極めて対称的な存在なのです。この前提とは何でしょうか。僕はそれを、テクストだと思います。僕は冒頭に、ひとつの質問を掲げました。けれどそれは質問であると同時に、ひとつのテクストになっています。  一旦掲載したら、その文章は修正ができません。つまり、死んだのです。かつて質問者であった僕は、他の回答者たちと同じように、その死体であるテクストを読んでいます。その前提において、質問者と回答者は常に対称であり続ける。  あなたは回答欄へ記述を行い、僕は補足欄へ記述を行う。そうですよね?  テクストを読むとき、「読み」というのは、英知的、あるいは非人称的なまなざしを通じてなされるのではない。読み手はそれぞれの具体的生活、その唯一無二性ゆえに、他とは違ったユニークな「読み」をする。テクストはそんな読み手に対してのみ、その人以外の誰にも贈ることのなかった唯一無二の意味を贈るのだと思います。

noname#194289
noname#194289
回答No.16

No4kaitara1ですが、自然現象に関する法則でも実は現実にはすべて同一のことが再現されるわけではないわけです。この宇宙の中で生じている現象は熱力学第2法則と言われる法則に従って一方向に向かって変化してゆき決して元へは戻りません。要するに不可逆なわけです。しかし部分的には可逆的と考えられる法則に従って物事が生じているように見えるわけです。たとえば毎日朝が来れば太陽が出てくるというようなことでも未来永劫再現され続けることはありません。しかし感覚的には全く同じことが再現されているように思えます。比較的単純な自然現象でさえこういうものですから人間に関することでは、むしろ似ているように思えることが不思議であってもよいはずです。またもうひとつは歴史は繰り返すというのは、過去の出来事から何かを学ぶとしても人間の、特に名誉欲や嫉妬などの感情面については全く変わっていないのですから、こういうことから似たような結果になることも納得できると思います。同じkとが繰り返されるという文章の中の同じという意味を考えることも大切だろうと思います。

noname#82774
質問者

お礼

くり返しのご回答、ありがとうございます。「歴史はくり返す」の意味、特に箴言的な意味を知るということは、実は重要なのだなというのが、頂いた回答のなかで多くなってきました。僕も、そう思っています。ただ、今回はそこから一歩を踏み出したいのです。  僕のPCは性能が悪く、他のウェブサイトを調べたり、ここのスレッドを検索するには、とても時間がかかります。画像が入っていると、もう駄目です。持ち合わせの本には掲載されているような内容はなく、よく考えてみれば、質問してみたら良いのだというふうに気付きました。ですから、思考のヒントになるような、そういう記述であればとてもありがたいのです。いただいた回答は、くり返し読んでおります。ありがとうございました。

  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.15

この宇宙を構成する原理の一つに波動というものがあります。その波動の一番根本になるのは「オーム」という円の波動です。 つまり、この根本の円の波動の影響で、すべてのものは円を描くようにグルグル回っているように思われます。 原子も星も星雲も渦を巻いてますね。これと同じように、人の運命も渦を巻いているのかも知れません。もちろん、歴史も例外ではないでしょう。 ただし、生き物は少しずつ進化するものですから、まったく同じことは起こらず、バネのような状態になるのでしょう。つまり、同じようなことが繰り返されることになるわけです。 人間は輪廻するし、歴史は死にませんので、一定の時間が来ると同じようなことが起きるのでしょう。 この一定の時間ということですが、これはその国や土地の人々が積む業によって多少ズレがあるのかも知れません。 ヨガ的な立場から述べて見ました。

noname#82774
質問者

お礼

 こころ休まる回答でした。仰るように一つひとつ、しみじみと納得できていたなら、僕はきっとこんな「やんちゃ」な質問を掲げることはなかったでしょう。ご回答、ありがとうございました。  ところで、ヨガはやった事が無いのですが、しばらく前から太極拳を習っています(そういう日課なのです)。朝やるよりも夕方やる方が良いと言われているのですが、その理由もわかりません。ふつうは、朝にやるものだと思っていましたから。

回答No.14

「歴史はくり返す」と思えるものは、「印象」が似ているものだと思います。 人間は何かを見分ける時は、機械のように明確な違いで見分けず、「印象」によって違いを把握します。 どこまでの共通点が「歴史を繰り返す」と言えるのか?その範疇はどこまでか?それに関しては、明確な基準は分かりません。 テレビのコメンテーターが、何らかしら「歴史は繰り返すのか!?」と言うのも、ただ一部共通点があって、それを繰り返すような「印象」だったから言うので、いい加減な場合が少なくありません。 明確な統計を分析した結果を元に、「歴史を繰り返す」と言う人はむしろ稀だと思います。 しかし、「印象」というのはとても重要な事です。 そのため、「歴史はくり返す」と多くの人が言われる物事は、それなりに汲み取る価値はあると思います。

noname#82774
質問者

お礼

 「印象」ですか。新たな視点を頂きました。そして、仰るように、印象は重要だなと思います。さらに、だからこそ汲み取る必要があるという点については、完全に同意します。その上で、できれば範疇を見つけたいと思っております。ご回答、ありがとうございました。

noname#82052
noname#82052
回答No.13

過去の歴史的事象においてある一様性のあとに同じ一様性を観測した。 そこで「歴史はくり返す」というひとつの信念が生まれた。 この過程が厳密な意味での帰納だと思いますが。 ゆえに将来についてこの信念には論理的な根拠はない。 つまりこういった信念は期待とか願望とかいった主観的な要因によって成立したものであって、 つまり統制的な原理として要求されたものなのだ。 ということでいかがでしょうか?

noname#82774
質問者

お礼

 「信念」ですか。また、新たな視点をいただきました。それは、個人の信仰であるがゆえに一般化はできないが、しかし、そう信じるというところから、物事を帰納して眺める人間の習性に由来している――ということでしょうか。けれど、そうでしょうか。  論理的な根拠はないけれど、目の前で起こった事実を説明するなかで、どうあっても因果を「それ」に結び付けない限り、納得のしようがないことってありますよね。そして、その「それ」が殊に、目の前で起こりつつある現実そのものであるとき、きっと僕らはこう言うんじゃないでしょうか。「そんな茶番に惑わされるものか」と。  そして、因果はその現実ではなく、もっと深いところにあるものだと思って探求を始める。そうですよね? 「信念」というのは、回答には相応しいですが、僕にはまだ少しばかりためらいが残されます。どうでしょうか。

回答No.12

 No.9&5です。  むつかしいでえーす。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (α) けれど、その個別性はあたかも一般に対する特殊の事例として、  (β) 要するに、僕ではない無記名の「誰か」と僕は、交換可能であったのではなかったかと疑っているのです。  (γ) 疑いは相手に対するものではありません。ですから、標題のような質問になったのです。  (δ) それはつまり、行為の形式化を疑っているということです。  (ε) 「くり返される」のではなく、「くり返している」のではないか? ということへの疑いです。  (ζ) 質問の内容はこれだけではないのですが、回答ありがとうございました。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (α)は まづ基本的に 個人とその経験は 《個別性》です。その事例が 一般に対する特殊である場合がありますが――つまり 何でしょう RHマイナスなどでどうでしょう――  それも 個別性です。個別性であることが 基本であり それが 無くなることはあり得ません。  ですから (β)で 存在が かけがえの有るものなのではないかといった疑いは 自由に 行なわれるでしょうが そうであろうと なかろうと 意味を持ちません。存在としての《わたし》は かけがえのない個別性としての存在です。公理です。  言いかえると 《交換可能》かどうかというのは ひとが そう疑っているというその事態のなかにしか ありません。そう考えるひとに あたかも 起こっていて そう考えているあいだは それが 実際であるかのようになっているということなのでしょう。ただ それだけです。  そうではない――つまり 交換可能ではあり得ない――という存在性は 先験的なものであり 公理です。  (δ)の  ★ 行為の形式化  ☆ とは どういうことを言っているのでしょう? 基本的には 存在と行為とは 別ですよね。形式化されようが されまいが 行為は 存在とは 別です。取り返しのつかないことが 多いでしょうが ふたたび・みたび やり直せばいいのが 行為です。  ★ (ε) 「くり返される」のではなく、「くり返している」のではないか? ということへの疑いです。  ☆ これが むつかしーい。  たとえば 因縁と言いますね。直接の原因が 因で 間接の情況などの原因が 縁であるという。《繰り返している》能動の場合でも 社会的な行為関係という情況から つまり 縁からの影響を受けて 《繰り返される》場合もあるのではないですか? つまりは 《繰り返さざるを得ない / もしくは 繰り返すことを余議なくされる》場合です。  そんな単純に事態をまぎらわすことではないと 言われるでしょうが  ★ (ζ) 質問の内容はこれだけではないのですが  ☆ と言われても 分かるわけが ないでしょう? 一般に 回答者にとって です。  ★ 恋の喩えは、その喩えは少し異なるのですが  ☆ と言いますし。どうなんですか?   * われながら ほんとうに ぶっきらぼうのようですね。言い方が。

noname#82774
質問者

お礼

 あなたの場合に限っていえば、「けんか」の質問と似ています。その答えは、見つかりましたか。そして僕は、投手と打者の話も、つまりはここに掲げる質問と、同じ性質のものだろうと疑っています。ある質問を掲げる方が、同じ性質の別な質問に対して疑念を抱かれるのは、すごく自然なことだとは思います。  眺めはぶっきらぼうであっても、じっと考える以外にないなと思う次第です。ご回答ありがとうございました。

回答No.11

  ご注意があったので、回答番号:No.8 を書き直します  「僕のことです」というお書き込みの意味は少し理解できません。  ご質問者さんご自身が、どう生き(これが先です)、どう考えるかの問題だと思いますので、これ以上はいえません。  つまり、私の投稿が回答であるか、単なるゴミ箱の紙くずであるかどうかは、ご質問者さんにお任せすることなのでしょうと、いうことをいいたいのです。  わたしとしては、万物と人が実はひとつであるが、多様を極めているのが、創造界ですので、私の投稿が回答かどうかは、ご質問者さん次第にさせていただきます。という事です。  私は人間以外の霊長類になった記憶がないのでわかりませんが、人間と人間界、そして万物は、ある存在の意識による認識であり、その作業はいってみれば、つまりは構成であり、紡ぎであり、創造だということを、私は認識し、経験しております。歴史とはそういうものでしょう。  類人猿さんたちの存在としての世界と意識が、人間と同じかどうかは存じません。  存在しているという事は、存在としての意識があって、構成しているのでしょうし、だから自分と世界はあるのでしょう。  そこに歴史的構成や認識が全くないか、或いは、その萌芽があるか、でもないと言い切るにも難しい話があるかなとも存じます。  歴史とその構成や認識をどう考えるかも関与するはなしとなりましょう。私自身は、存在経験として、歴史認識の、つまり歴史構成のない意識存在はないと存じます。  類人猿さんたちが、意識のない存在だとも思えません。

noname#82774
質問者

お礼

 それが回答であるならば、「単なるゴミ箱の紙くずである」はずがありません。困っている者としては、藁をもすがる気持ちです。そこに言葉があるならば、その端々から「何か」は読み取れるものだと思います。  そういう意味で、役立っていると申し上げています。  万物と人は一であり、且つ多様である。それゆえ回答は質問者へ返される。――ご回答は(少し、暗示的ではありますが)このように理解しております。

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