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また、ぶり返します。
serpent-owlの回答
- serpent-owl
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あ~これ、「哲学」に出してほしかったなぁ…というのは、はい、私の勝手な都合から出た言葉です。すっかり出遅れてしまいましたので。 それはさておき、本題です。まず外堀からいきましょう。「人を殺してはいけない」根拠、それは「人は人を殺しうる」ということです。殺人という行為は人間の自由意志に基づく可能性の圏域内にある。故に禁じられる。 「裸で太陽に飛び込んではいけない」という法律を持つ国は、おそらくどこにもない。最初から、不可能だからです。だからわざわざ禁じる必要もない。 しかし問題はその先です。「できるから」という理由だけで禁じられるならば、人間何もできなくなる。「やっていいことと悪いこと」を弁別しなければならない。…ところが、これがキツいんです。kita315さんが言われているように、決定的な答えがない。 というのは、感情論や個人信条ではなく、客観的な基準を立てて「殺人は悪である」としたところで、必ず現実がそれを裏切り、「肯定される殺人」が生じるという逆説があるからです。 実を言いますと、私は人を殺したことがあります。……私だけではなく、deadpoolさん、あなたもです。他のみなさんも。日本国民として半年以上生きていれば誰でも。 「死刑」です。 殺人罪など、共同体の秩序そのものへの罪と見なされる刑法犯罪の裁判は、一部を除いて「個人 vs. 個人」という図式を取りません。「共同体 vs. 被告」という図式を取ります。その裁判の結果、死刑判決が下り、死刑が執行されたなら、その殺人行為の執行者は共同体成員の全員です。ハンコをついた法務大臣だけでも、スイッチを押した執行官だけでもなく、日本国民全員です。死刑を指して、死刑制度反対論者は「国家による殺人」と言いますが、この言い方自体、欺瞞の匂いがします。殺しているのは私であり、あなたであり、すべての国民なのです。 「人を殺してはいけない」という規範は、かくもあっさりと裏切られています。 死刑制度のない国もありますね。ヨーロッパ諸国の多くは死刑制度を廃止しています。でも…戦争はやります。イギリスなんかは特にエゲつないです。フォークランド。湾岸戦争。UVFやSASによるカトリック系住民殺害なんてのもあります。驚くべきことに、あれほどの先進国で、裁かれない殺人が日常の中で頻々と行われている。 「戦争」という時空間は、その中においては「殺さないことが罪になる」時空間です。「自由」とか「大義」とか、さまざまな修飾はなされます。けれど行われているのは殺人以外の何物でもない。 「汝殺すなかれ」という一方で「殺せ」と命じる。これが人間の姿です。 最初ですので、これくらいでやめておきます。でも、話は始まったばかりです。お言葉を待ちます。 P.S.「クローン人間」にも、そのうち書きます。これも…「哲学」に出してほしかったなぁ…。
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