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紫式部や清少納言が男だったという説!

http://questionbox.jp.msn.com/qa984710.html 上記サイトの回答No.4に 紫式部や清少納言が男だったという説があると記されています。 紀貫之は土佐日記で 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」 と書いていますし、ありえるかも。 (1)この説はどなたが唱えた説なのでしょうか? (2)紫式部や清少納言が男だったという説について、 何かご存知のことがあれば教えて下さい。 よろしくお願いします。

noname#82952
noname#82952
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  • Domenica
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回答No.2

#1です。 土佐日記についても、近年、小松英雄筑波大学名誉教授により「女性仮託説の否定」が提唱されていますよね? ウィキペディアによれば、「この日記は女性に仮託したものではなく、冒頭の一節は『漢字ではなく、仮名文字で書いてみよう』という表明を、仮名の特性を活かした技法で巧みに表現したものである。」とのことらしいですが。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98#cite_note-1 要するに「女性になりすました」訳ではない…ということですね。 > なるほど、「紫式部」や「清少納言」は存在していた。 > しかし、源氏物語を書いたのは紫式部ではないし > 枕草子を書いたのは清少納言ではない。 > ということなのですね。 いいえ、私が言っていることは違います。 「『源氏物語』を書いたのは【藤原為時の娘である『紫式部』】ではない」という説がある…ということだけです。 『枕草子』には一切言及しておりません(『枕草子』や「清少納言」については、『源氏物語』ほど詳しくありませんので)。 それに「紫式部」はともかく、「清少納言」なんて女房名の女房ならば、複数存在しても不思議はありません。 【清原氏出身で、身内に「少納言」だった人がいる人】なんて、「複数はいない」と証明できますか? その証拠に、#1で挙げました「清少納言」の娘「上東門院小馬命婦」ですが、ほぼ同時代に「小馬命婦」という有名な女房がほかにもいるのです。 ですから、私はわざと「上東門院小馬命婦」と書いたんです。 ですから、【いつかどこかで誰かが考えている「清少納言」】が、【ご質問者さまが『枕草子』の作者であると考えている「清少納言」】とが、必ず同一人物だと言い切れますか? それにご質問文が > 紀貫之は土佐日記で > 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」 > と書いていますし、ありえるかも。 ということならば、「紫式部や清少納言が男だった!?」というのではなく、「『源氏物語』の作者や『枕草子』の作者は男だった!?」で充分のはずです。 ご質問者さまは、「藤原為時の娘」=「紫式部」=「源氏物語の作者」と決めつけているからこそ、「紫式部は男だった可能性あり!?」となるのですよね? 「藤原為時の娘」=「紫式部」=「源氏物語の作者」は、確かに学校でも教えられている『通説』です。 ですが、あくまでも『通説』に過ぎません。 そもそも「紫式部」=「源氏物語の作者」すら成り立たなければ、「紫式部は男だった可能性あり!?」も【無意味】になりはしませんか? > しかし、「女性にあれだけの物語が書けるはずがない」とはちょっと聞いただけでは凄い説のように思えますがどのような説なのか、詳しく読んでみなければわかりませんね。 > どなたの説なのでしょうか。 > また、著書名などご存知でしたら教えていただけるとありがたいです。 どなたの…とわざわざ挙げるまでもなく、数多くの方が言っている説なので、インターネット検索でもされれば、すぐにヒットします。 「『源氏物語』を書いたのは【藤原為時の娘である『紫式部』】ではない…という説」は、それくらい広く知られている話です。 ウィキペディアの『源氏物語』にも書かれていますよ。 >> 一条天皇の中宮であった彰子に仕えた「藤原為時の娘」で、女房名を「紫式部」と言った人が『男性であった』という説は全く別のものです。 > そんな説があるんですか。 そんな説はありません。 私の回答をどのように読まれたら、そのような解釈になるのでしょう…。 > また最近、古今和歌集を読んでみたら > 女の身になって詠んだ歌というのがたくさんあって > 興味深く思ったしだいです。 確かにありますね。 ふと思い出したのは、新古今和歌集に集録されている藤原定家の「待つ人の ふもとの道は 絶えぬらん 軒端の杉に 雪おもるなり」なども女性に仮託した詠み歌だと思います。 この歌の作者は藤原定家です。 それ以外の説は聞いたことがありません。 「その歌の作者は○○○○という女性になっているが、実は藤原定家だった」ともされていません。 女性に仮託された歌で「その歌の作者は○○○○という女性になっているが、実は××××という男性である」というものはありましたでしょうか? 私はとっさには思い浮かびません。 作者は最初から「男性」とされているものばかりなんですけれど…。 「その歌の作者は○○○○という女性になっているが、実は××××という男性である」というものの具体例を教えていただけないでしょうか?(逆質問で済みません)

noname#82952
質問者

お礼

いろいろ教えていただきましてありがとうございます。 参考になりました。 読解力不足の点は失礼いたしました。 いろいろ質問いただいていますが、 ほとんど紫式部や清少納言については知りませんので ここは知らないことを質問するためのサイトだと勘違いしていましたが 議論をするためのサイトだったのですね。 申し訳ありません。 >女性に仮託された歌で「その歌の作者は○○○○という女性になっているが、実は××××という男性である」というものはありましたでしょうか? ないですね。 ただ、実は男性ではないかと考えている女流歌人はいます。 ただ、未発表ですので、社外秘ということにさせてください。 何度も繰り返しますが、何もわかっておらず質問しただけですので このあたりでご勘弁ください。

  • Domenica
  • ベストアンサー率76% (1060/1383)
回答No.1

短大で歴史を専門に勉強した、源氏物語大好きなオバサンです。 専門は平安時代です。 そんな私ですが、「紫式部や清少納言が男だったという説」は、これまで聞いたことがありません。 源氏物語の作者が「紫式部」ではない…という説はあります。 女性にあれだけの物語が書けるはずがないので、実際には男性が書いたものだけれど、いろいろな事情により「紫式部」が書いたことにして世に出した…というような説です。 例示のご質問の回答者の方は、「源氏物語の作者男性説」あたりと混同されているのではないでしょうか? ですが、それと、一条天皇の中宮であった彰子に仕えた「藤原為時の娘」で、女房名を「紫式部」と言った人が『男性であった』という説は全く別のものです。 これは「ありえません」。 男性が女装して「紫式部」という女房名で、天皇のお后さまに仕えていた…ということがあり得ると思いますか? 源氏物語を書けるだけの知識のある「男性」が、わざわざ女房になるなんて、むしろ「損」をするだけです。 ちなみに角田文衛氏は、単なる「女房」ではなく、「命婦」として「宮仕え」をし、その後、「掌侍」になったという説を出されています(これは「紫式部」の本名が「藤原香子」である…という説にも関係しています)。 要するに「私的雇い人」ではなく「女性公務員」だった…ということです。 その人が性別を偽っていたとなると、「大変なこと」だと思いますけれど。 第一、「紫式部」には「藤原宣孝」という夫と「大弐三位」という娘がいますが、これについてはどのように説明しましょう? 「清少納言」についてもそうです。 ただし、「清少納言」は一条天皇の皇后であった定子の「私的雇い人」としての記録しかないようです。 これも角田文衛氏の説になりますが、一条天皇の第一皇子敦康親王に仕えた「少納言命婦」が「清少納言」と同一人物ではないかとし、「清少納言」は、定子の死後、「命婦」となって定子所生の皇子女に仕えた可能性がある…という説もあります。 なお、「清少納言」にも夫(橘則光と藤原棟世)と子供(則長と上東門院小馬命婦)があります。 ご質問文についても、 > 紀貫之は土佐日記で > 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」 > と書いていますし、ありえるかも。 ここから言えるのは、「『紫式部』や『清少納言』が男だったという説」ではなく、「『源氏物語』の作者や『枕草子』の作者が男だったという説」だけです。 「『紫式部』や『清少納言』が男だったという説」ではありません。 混同なさいませんように。 個人的には「『紫式部』や『清少納言』が男だったという説」はあり得ないと思います。

noname#82952
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど、「紫式部」や「清少納言」は存在していた。 しかし、源氏物語を書いたのは紫式部ではないし 枕草子を書いたのは清少納言ではない。 ということなのですね。 しかし、「女性にあれだけの物語が書けるはずがない」 とはちょっと聞いただけでは凄い説のように思えますが どのような説なのか、詳しく読んでみなければわかりませんね。 どなたの説なのでしょうか。 また、著書名などご存知でしたら教えていただけるとありがたいです。 >一条天皇の中宮であった彰子に仕えた「藤原為時の娘」で、女房名を「紫式部」と言った人が『男性であった』という説は全く別のものです。 そんな説があるんですか。 その説が正しいか、正しくないかは別にしまして ぜひそれについても読んでみたいと思いました。 >男性が女装して「紫式部」という女房名で、天皇のお后さまに仕えていた…ということがあり得ると思いますか? 源氏物語を書けるだけの知識のある「男性」が、わざわざ女房になるなんて、むしろ「損」をするだけです。 >ちなみに角田文衛氏は、単なる「女房」ではなく、「命婦」として「宮仕え」をし、その後、「掌侍」になったという説を出されています(これは「紫式部」の本名が「藤原香子」である…という説にも関係しています)。 要するに「私的雇い人」ではなく「女性公務員」だった…ということです。 その人が性別を偽っていたとなると、「大変なこと」だと思いますけれど。 第一、「紫式部」には「藤原宣孝」という夫と「大弐三位」という娘がいますが、これについてはどのように説明しましょう? もうしわけない、私は源氏物語については不勉強でして これについては回答することができません。 角田文衛さんですか。紹介ありがとうございます。 読んで見たいと思います。 ご指摘のように系図の問題はありますね。 文献をむやみに疑うべきではない、と私は思っておりますから。 そういった全てのことが説明されてはじめて 説は成立しうるでしょう。 ですから、「ありえるかも」と書いたのです。 また最近、古今和歌集を読んでみたら 女の身になって詠んだ歌というのがたくさんあって 興味深く思ったしだいです。 いろいろと教えて下さいましてありがとうございます。 大変参考になりました。

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