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悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

 ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

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回答No.33

《わたし》とクオリア でさんざん非線形について語ったと同じ話になってきました。 《わたし》は、知っている。は確かに動性道徳の立場でもありますし、そうでなければなりませんが、 このコンピュータメタファーでは、《わたし》は狭帯域なメインルーチンにすぎません。 この手の話は、専門の書籍や論文を読んだ方がいいのかも知れませんが、 井戸端会議ということで好き勝手に記載してみます。 非線形の何らかの出力を受け入れた後に善でなかった場合は、無いと思うのですが、 これも《わたし》の位置づけによって変わるので、概ねまとめて頂いた通りかと思います。 ○ 感覚善が わたしの最終判断のきっかけになっているようだ。 感覚善からの先を考察すると 感覚善→効果意思→行動意思→行動 リンゴを食べたい。→食べることを決心する。→リンゴに腕を伸ばす決心をする。→腕を伸ばす。 感覚善→効果意思の間にもいずれの「→」にも非線形がありますね。飛躍があるのです。 当たり前すぎて解りにくいのですが、 リンゴを食べたいと感じている状態と食べることを決心した状態は全く異なりますね。 この状態の相転移は、実はメインルーチンがやっていません。 直感とは異なりますが、突然変化します。 日常生活で意思を持つと言っているのは、「感覚善」の存在のことを言いますね。 食べたい から よし食べよう へなぜ変化したのかは、メインルーチンから見ると 当然「食べたいから」ですが、「よし食べよう」の状態にしたのは、サブルーチンですね。 この考え方で言えば動性道徳は、狭帯域のわたしからはみえない広帯域のわたしに存在する沢山の サブルーチン群を健全に発達させ続けるということになりますかね。ありきたりですが・・ ここで菊田医師事件(医師法違反、公正証書原本不実記載罪)を考えます。 菊田医師は、当時の常識、規範、法律を、意思をもって犯し、胎児の命を助けるという行動を とっています。 結果として法律改正、新制度発足とはなったのですが、明らかに犯罪を犯しています。 http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-002-8.htm 菊田医師自身の葛藤と支援の波、迫害の波がどのようにして起こったのか。 感覚善、妥当善、行動の波紋、共同作業同士があたかも全体として1個の生物のように つまり、メインルーチンとサブルーチンの如くに動いて、最終結論である法改正へ 導かれています。たった一人の行動が、如何に大きなうねりを作り出すがわかります。 もともと、既に、非常に帯域の広い現実が常に動いていて、そこに持ち込まれる行動の波紋は、 常に無数の感覚善、妥当善サブルーチンに晒され、判断され、次の行動を生み出す 新たなきっかけになっているということではないでしょうか。この鈍いようで非常に鋭い 動きのサブルーチン側を動性道徳の対象と言っているんですよね。

参考URL:
http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-002-8.htm
noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん かなり煮詰まって来ました。ご回答をありがとうございます。  ○ 人間の成す判断および意志決定なる行為としての《身体=精神》の現象論  ○ それは ひとりの人間である《わたし》の自己表現であり その動態である。  ○ 基層は 主観的な第一次の善悪判断として成る。これに付随して ものごとの適正・不適正という基準による判断が 第二次として 起こっている。  ○ このとき 基層の判断過程は あらゆる参考資料および自己の傾向を総合して 最終的に判断をくだすメイン・ルーチンが 受け持つ。  ○ その際 資料やみづからの癖のいくつかが 一般に 意志決定のきっかけになると考えられ それらは サブ・ルーチンを構成する。  ○ 第二次の適正・不適正の判断も それが 直接に生命存在の善悪にかかわらないことを除けば 同じように 過程されると思われる。  ○ サブルーチンには 例として 経験合理性にもとづく妥当性を追究する《妥当善》や 逆に 妥当性に合致するかたちでだが 論理的な整合性から自由なかたちででも 感性をはたらかせようとするというべき《感覚善》が 挙げられる。両方が 大事である。  ○ 妥当善は B.パスカルの言う《幾何学の精神》であり 感覚善は 《繊細の精神》であると言えるのではないか。  ○ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔菊田医師の採った行動が 《実子特例法》という新たな法律を生みだしたという事例についてかんがみるに〕 もともと、既に、非常に帯域の広い現実が常に動いていて、そこに持ち込まれる行動の波紋は、 / 常に無数の感覚善、妥当善サブルーチンに晒され、判断され、次の行動を生み出す / 新たなきっかけになっているということではないでしょうか。  この鈍いようで非常に鋭い動きのサブルーチン側を動性道徳の対象と言っているんですよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ ☆ ただし これらサブルーチン側の動きを統括して 最終的な判断をくだすメインルーチンとしてのはたらき もしくはつまり 《わたし》の意志決定 これを見失ってはいけない。  ○ さらに ひるがえって ただし ★ ~~~~~~~~~~~~  感覚善からの先を考察すると    ◆ 感覚善→効果意思→行動意思→行動    : リンゴを食べたい。→食べることを決心する。→リンゴに腕を伸ばす決心をする。→腕を伸ばす。  感覚善→効果意思の間にも いずれの「→」にも非線形がありますね。飛躍があるのです。・・・  この状態の相転移は、実はメインルーチンがやっていません。  直感とは異なりますが、突然変化します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   * ★ 非線形の何らかの出力を受け入れた後に善でなかった場合は、無いと思うのですが、  ☆ この《非線形の飛躍を介して 判断に及んだ結果が 善でなかった場合》として思ったことは むしろ 《あとから 飛躍があったと言い張る場合》です。つまり たとえば 《神を見た》とかあるいは《悪魔の声を聞いた》とかいうふうに その非線形の部分を 言い繕う場合です。    * 愚の骨頂たる道徳規範から自由な動性道徳 という主題。あるいは 自己表現の動態としての《文体》という主題。文体が帯びる《クオリア》の問題。あるいは 妥当善が帯びる感覚善。それらをとおしてのコミュニケーション過程という主題。(これが 次の課題かも知れません)。

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その他の回答 (35)

noname#117439
noname#117439
回答No.15

オコリザルです。 > 嘘の対極、真実。 罪の対極、栄光。 悪の対極、善。 真実とは「真」(まこと)栄光とは「誉」(ほまれ)このようにあらわしたほうがよさそうです。善は「善」です。 この3要素は一体となって知性を形作ります。-英知。 善性のみで知性を現すと見誤ります。 存在にとって知性とはいかに、の答えは判明しておりましてこの三要素はゆがみません。 もうろくした人のために人間性を仏性とあらわせばわかりやすいかもしれませんが、要するに仏性にはこの三要素に(その結実たる智慧に)欠損もゆがみもありません。 しかし、善行の心地よさは快楽を生み欲を招きます。 今回のご質問の私の回答のキレた感じはそのような警戒にあったと判明しました。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  ★ しかし、善行の心地よさは快楽を生み欲を招きます。  ☆ ははぁ とも ううむ とも 反応が出ますが それは そういうことがあるということを否定しようということではありません。  たぶん 問題の起点は   ○ 《人間存在は 善悪を超えていて 言うとすれば 善である》というとき とうぜんの如く この善は 相対的な善である。  ☆ にあると思います。  ○ もともとの自然本性 これが 善であるということは その行為能力の一つである自由意志が へそを曲げて――ということは 何がしか やましさの感覚をともなって―― 存在の愛や自由の自由たることに逆らったところで 分かります。  ○ 意志行為の自由は みづからの心としての意志に逆らう自由をも持っている。  ☆ したがって  ○ へそ曲がりでない心 うそでない意志 これが 《まこと》であり 《真実》です。  ○ 言いかえると ウソをウソだと 明確に 認識することが 《真実》です。  ○ 真実の意志行為の持続 その意味での《人間に与えられた自由》の自由な持続する享受 これに対して 《栄光》という言葉が 与えられるものと思われます。  ○ 自然本性の第一の行為能力である《記憶》は もともと この自由意志の《栄光》ある自由の享受に対応する《秩序組織》であり 《秩序作用》であります。  ○ この記憶から 《知解》という第二の行為能力は あらゆる表象を得て おそらく感性としても そしてもちろん理性として 知覚・認識を敢行します。  ○ 判断力は 意志にありますが それも 最終の選択行為のほうでしょうから 判断のための選択肢を用意するのは 知解行為であり いくつかの選択肢のあいだの比較考量も 知解行為の役目でしょう。  ○ 意志による最終の判断とその結果が 妥当であって よかったという事情を含めて 知解作業が 妥当な内容をもって おこなわれるとき そこに 《知性》を見ます。  ○ したがって 存在の内実としての自然本性にとって 意志の《善性》は 《知性》の妥当性と けっきょく 一体であり そこに 記憶行為をも合わせて 三つの能力行為の――飽くまで 時間的な経過を伴なうところの相対的な―― 一体性 ここに 神から 《栄誉》が与えられるものと考えます。  ○ 全体として 《栄光》です。人間の共同主観として――歴史を経つつ 形成してきたところの―― 人間の栄光であり これを 神の栄光に帰すところに 《悪魔なる観念とその思念を克服して 自由なる善を持続する》ふつうの日常生活があります。  ○ 《たゆたえども 沈まず。Fluctuat nec mergitur( She fluctuates and not sinks.)》  →http://en.wikipedia.org/wiki/Fluctuat_nec_mergitur  ○ 《仏性》は ブッディスムの理論としては きわめて あいまいなものです。  ○ たゆたえども――相対的な善であるが―― 沈まず もとの善に戻るというその《なぞの生命力》 とでも言えば まだ 分かります。  ○ ところが 仏性は 絶対であると言ってしまえば それは 神(ないし無神)のことです。《ブッダは 絶対か / 神か?》と問うても 一向に 答えは出て来ません。果ては あいまいがよいのだと 理論にとっては致命的な悪行を表現して ほくそ笑んでいます。

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回答No.14

おはようございます、brageloneさん。 なんぱって? はいはい、中途半端でこりゃどうも。 そだ、先に言っとくの忘れてましたけど、前回の『究極の悪とは――存在について―― 』へ、お返事をひとつ入れたんだけど、アップしたらタッチの差で締め切られちゃった。…あ…ぁ、、、言葉にはならない白いため息。時間は待ってはくれない。止まらない時間。で、時を合わせたかのように『欲望という名の電車 』がランキングにあがってきてる。偶然なのか必然なのかそりゃどっちでもいいけど、 で、軍人さんと民間派遣社員(エンジニア)の話のつづき 戦時下、その船の中に乗船してる者同士の間ではなんらかの連帯感って芽生えてくるもんじゃないかな。だだっぴろい海の上、人の助けなしに船は動かない。そこにいるのは乗組員のみ。船を維持し安全に航行すると言う事に於いて、軍人とか民間派遣社員って枠を越えて協力しあうことが求められることだろう。そうしていくうちに、人と人としての心の交流も育まれていくこともあったんじゃないかな?一対一の個の結びつき。しかし、ひとたび爆撃くらい船が撃沈され海に船が沈み生存者なしとなったとき、死者に選別、軍人・民間人。同じ船に乗り合わせ共に命を落としたとしても引き裂かれる。軍人・民間人とに。共に船を維持し安全に航行すると言う事に於いて協力し合ってきたもの同士であっても死が二人を分つ。軍人の残された遺族へは国から弔慰金・恩給等が与えられ保障も手厚く。民間人の残された遺族へは国から弔慰金・恩給等が与えられることもなく民間会社から幾ばくかの手当てが施されるほど。一隻の船に乗り込む軍人だけをみてもその中で階級が在り、共に船を維持し安全に航行すると言う事に於いて協力し合ってきたもの同士であっても死した後も人と人を分つ。階級ごとに。扱いはみな同じではない。名誉と勲章を付与され、それと引き換えにA級B級C級戦犯と時世に死した後も晒される者もいる。民間会社の社員においても派遣されて行く者(取り扱う者)、現地に残る者(製造する者)がいる。そして、国民総動員、軍需工場に動員され、女・子どもに至るまで誰もがどこかで何かに携わっている。名が在ることで時に称えられ、名が在ることで批判の矢面に立ち蔑まれもする。名がないことで時に忘れられ、名がないことで批判する側に立ち憂いもする。

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ アップしたらタッチの差で締め切られちゃった。…あ…ぁ、、、言葉にはならない白いため息。時間は待ってはくれない。  ☆ やっぱり 中途半端だからなぁ。  ★ で、時を合わせたかのように『欲望という名の電車 』がランキングにあがってきてる。偶然なのか必然なのかそりゃどっちでもいいけど、  ☆ この映画を見ましたが――めづらしい―― 悪の問題ですよ。悪との共存。悪をひっさげている人の善の回復。心が癒やされることをとおして 悪を克服する。うそのデパートなる人のお話。  ★ 名が在ることで時に称えられ、名が在ることで批判の矢面に立ち蔑まれもする。名がないことで時に忘れられ、名がないことで批判する側に立ち憂いもする。  ☆ あぁ 《もっと頭を使いたまえ》とのご命令は このことにも当てはまるのだったかぁ。  過去の悪の処理の問題。過去の悪を受け容れ それと共存し そのあと 存在の善の回復をとおして 故人も遺族もみんなも 癒やされ 《旧い人》を脱ぎ 《あたらしい人》を新たに着て 前へとすすむ問題。  もし仮りに 人間存在が 肉(つまり 身体=精神)をなぞの霊が包むというあり方で生まれて来ているのなら 〔霊を たましいと言いかえますが〕 戦争時に何らかのかたちで戦闘にかかわってたましいを遺して去った人びとについては それぞれの家・それぞれのふるさとに 必ず 帰えしてやらねばならない。そこで やすらかに生きてもらわねばならない。  《靖国で会おう》ということばが それでこそ 実現するのではないだろうか? 悪の受容およびそれの清算の まだなお 遺されたわれわれのなすべき仕事として。  シュウキョウもへちまも ない。生まれ故郷に居てもらうのが いちばんではないか。《われわれは よくやった。いくら理不尽であろうと よく国の要請に応えて たたかった》とかれらは 胸を張って 言っているのだから わたしたちは 同情をするべからず。あらためて おごそかに ふるさとの地におほうむり申し上げるのみ。

noname#80116
質問者

補足

 補います。  お礼欄の最後に  ○ どぢゃ。  ☆ と添えるのを忘れました。

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回答No.13

こんばんは、brageloneさん。 まえに歯医者さんの待合でたまたま隣り合わせた年配のご婦人から聞いた話なんだけど… 当時(戦時下)ご主人は、造船会社のエンジニア。民間人ながら会社からの派遣で戦艦に乗ってのお仕事をされていたとか。その際、爆撃にあい亡くなられたとか。34歳で未亡人。軍人ではなく民間会社からの派遣であったから、遺族へは会社からの保障は幾らかはあったものの軍人ではなかったことで遺族に国から弔慰金・恩給等はなく子どもを三人抱え大変だったと。親がいてくれたことでそこに身を寄せどうにかこうにか三人の子を育ててこれたけれどね…いまじゃ、その子どもたちにも孫がいる、と。 今の時代、『民間軍事会社』と活字になると戦争に荷担する軍需産業よからぬと眉をひそめる方もおられるだろうことだろうが、その当時は是が非でも国を守ることが最優先事項だったことだろう。それにともない、日常業務用途から戦時用途へとつくりかえを必要とされ軍需産業が生れた。当時『民間軍事会社』に勤務し仕事に携わっていた者は、悪人か?悪人ゆえに悪は闇に葬られるかのように誰知られることなく、戦死者という名も与えられなかったのか? 『桜』 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND34811/index.html

noname#80116
質問者

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 置かれた伝票に目をやれば、鉛筆で書かれた手書きの文字…「毎度ありがとうございます。」と  ☆ なんで 手書きなの? なんぱとか?  ★ 造船会社のエンジニア。民間人ながら会社からの派遣で戦艦に乗ってのお仕事をされていたとか。  ☆ NHKBS《兵士たちの証言》 先日は 人間魚雷・回天 つまり 海軍の特別攻撃隊ですね の乗組員で その魚雷が故障で出られなかったとか あるいは 順番が 敗戦までに回って来なかったとかで 生還することができた軍人たちの証言記録だった。精度がわるく 百何回の突撃のうち 三個 命中したのだとか。むろん 帰って来ることはないのだが 米艦に対する・潜望鏡やコンパスでの位置確定は 至難のわざだったとか。えらいさん方は 最後まで 勇ましいことを言い続けていたそうです。  ★ 34歳で未亡人。  ☆ えっ? いま 九十歳を超えてるということですね。  ★ 『桜』  ☆ 過去のことか 今のことか 未来のことなのか。よく分からなくないですか?  ● 《Q:この世界は わたしたちのものではないのか》  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4634124.html  ☆ このときは あまり 話が進展しなかった覚えがあります。まだ展開していかなくてはならない。  赤福は 信頼を取り戻しつつあるとか。

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  • masa2211
  • ベストアンサー率43% (178/411)
回答No.12

> ですから (δ)の賞味期限の問題は ひとえに 善意か悪意か(法律の意味の善意悪意で)で 評価は 分かれる >のではないでしょうか。しかも 本人の問題が 第一次の情況であり 基層です。 >本人とは 工場の担当者を持ってくることは 事情としては 酷でしょうね。 とりあえずここに反応。 えええ??? 世間の常識から大きくずれていますよ。あまりにも自分勝手な解釈をしないでください。 自分勝手な考えをしてもいいけど、その場合、一般はこうだけど私はこう考える、という主張方法にしてください。 これ、法解釈でもめる余地はないところです。偽造を指示した経営者は論外。実行した社員も共犯で、処罰の対象。 命令されたからといって実行してはダメ。少なくとも抵抗しないとなんない。内部告発も抵抗のうちに含む。それでクビになってもいたしかたない。 倫理的にはそうなります。なかなか、実行できる人はいないけど。(爆) で、法律上の善意・悪意(=知っているかいないか)ですが、 賞味期限を改竄した商品をスーパーに出荷したとして、 改竄したことをスーパーは知っていません。だから、当然、改竄していることなど 夢にも思わず、表示をそのまま信じて売ります。これを善意と称します。 で、スーパーの経営者が、「実は...」と、当の食品会社の社員から改竄していることを 告げられ、それにもかかわらず表示偽装のまま売ってしまった場合を悪意と称します。 (社員からのタレコミが信頼できるだけの情報であるとします。) 買ってしまった消費者は、通常では偽装表示のことを知らないから善意。 偽装表示を知っていて買ったのなら悪意。 で、確かに、善意と悪意で評価は分かれますが、それはあくまで、当事者でない場合。 偽装した行為は、知っているからこそやったわけだから、やった本人は悪いと知りつつやった、としか解釈しようのないことなんだけど..... 一方、スーパーは、偽装表示かどうか知る方法が無いから、スーパーにも責任を負わせるのは 明らかにやりすぎ。だから、善意の場合責任免除されます。 食品メーカーの社員と、条件がまるで違うのですよ。 知らなかった、で済むかすまないか。そこに線を引くための、善意・悪意です。 ※念のため、偽装表示が法令違反であることを「知らなかった」 で済ませるのは無理。  業務で行う以上、知っていて当然のことだから。 >連帯者間で、責任を多く負担する者の自由度が増大するでしょうから、 >みんなが連帯責任を負えば負うほど全体として自由度の高い世界が創造されることになりますね。 ある意味そうですが、これ、欠点も巨大です。 この方法の欠点:皆で選んだ方向に突っ走ったが良くない結果に終わったとき、 誰も責任をとらない。いや、誰も責任を取らなくて済むための意図的なシステムである。すなわち、破滅に向かって突っ走る可能性があるときこういうシステムで行う。 また、自由度が大きいというのと、なかなか物事が決まらないというのも、事実上同義なんだけど....

noname#80116
質問者

お礼

 ☆ 《誰れもが責任を負い 結果が良くなかったときにも 誰れもがみなで 責任を取る》というのは 《誰れも責任をとらない》ことなのだという見方ですね。いわば戦前の体制のことのようですね。  それに対する反論は 二点あります。(a) 戦前の国家体制では その長が 《神聖にして侵すべからず》でした。(b)《自由な市民による自由な連帯》というときには 《長》の問題ではない。指導者がどうであるかは へのかっぱです。みなが それぞれ 自己経営する指導者です。(社会における第一の《三分の一》の人びとのことです)。  (い)は たぶん 大きな問題になるでしょうね。民主主義というのはそういうものだと思われます。  大いなる井戸端会議になることを 願います。  (質問者は 楽ですね。回答者に振ることができますから)。

noname#80116
質問者

補足

 masa2211さん ご回答をありがとうございます。ようこそ 哲学の井戸端会議へ。  ★ 〔賞味期限かいざんなる犯行をめぐる〕工場の担当者〔の問題〕  ☆ まづは その次の一文も いっしょに 引用して欲しかったところです。  ☆☆ (No.8補足欄) 基本的に 法人としての会社だと考えられます。  ☆ ここでは――くるしい弁解をおっぱじめますが―― さらに前提として 次の事項を想定しています。  (1) 法律問題を 基調としては 扱っていない。  (2) 《法人としての会社》が――したがって 哲学の視点から考えて―― 第一次の本人つまり犯行者だということは とうぜん 工場の担当者も 入っています。  (3) いわば法律を超えて 会社は 従業員らの主たる生活(つまり 仕事)の場であり あたかも切っても切れないその仕事場だとすれば 《会社》に すべての役員も従業員も 入ります。  (4) 《切っても切れない》というのは 最後まで 責任を負うという気持ち(生活態度)のもとに 自由に 共に 仕事や経済活動をおこなうという内容を意味します。  ☆ つまり以上は  ★ 自分勝手な考えをしてもいいけど、その場合、一般はこうだけど私はこう考える、という主張方法にしてください。  ☆ に答えたものです。  さて 法律問題 もしくは 一般の考えと処理の仕方 これを おしえていただきました。どう――さらに どう――考えていけばよいでしょうか。具体的な事例に即して考えると なかなか 一筋縄では 行かないようですね。違った意味のむつかしさが あります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  命令されたからといって実行してはダメ。少なくとも抵抗しないとなんない。内部告発も抵抗のうちに含む。それでクビになってもいたしかたない。  倫理的にはそうなります。なかなか、実行できる人はいないけど。(爆)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この点について まづは みなさんから いくつかの見解を出してもらったら いいかも知れませんね。いろんな角度から 捉えていけるかと思われます。上のご見解については 必ずしも 《倫理的には》という視点に忠実だとも限らないのではないでしょうか?   もしそうだとしても それなら 《クビになったあとの就職を保障してこそ その倫理的な見解は 完結する》と考えます。それなら やはり うっすらと ゆるやかな連帯責任制をも 視野に入れて考える必要もあるでしょう。どうでしょう?  賞味期限の問題をかかえた商品の流通および消費のいくつかの過程をとおしても 善意悪意などの問題を吟味していただきました。  この際 茶の木畑に入るのを警戒しなければなりませんが 一たん この問題を さらにしっかりと押さえておくのも よいかも知れませんね。くわしい方のご教示をお願いしたいところです。  masa2211さんに対しては 上に少し補足要求をしましたし あとは スーパーがどうだ消費者がこうだというとき その責任免除が当てはまる当てはまらないの問題であるよりも 社会全体として見て どうであるかについて ご見解を示していただければと考えます。  つまりその商品をめぐる川上・川下を含む全体の生産消費の過程として どのように 安全保障を措置し あるいは 付加価値の分配をしていけばいいのか。そのときその責任体制は どうするか。連帯責任の考えを入れたほうがよいのかどうか。などについて ご見解を寄せて欲しいと思いますね。つまり 現行の制度を――哲学ですから―― 一たんご破算に戻してさえ 考えて欲しいのです。  ただし 連帯責任については ご意見を示していただいています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) この方法の欠点:皆で選んだ方向に突っ走ったが良くない結果に終わったとき、 / 誰も責任をとらない。いや、誰も責任を取らなくて済むための意図的なシステムである。すなわち、破滅に向かって突っ走る可能性があるときこういうシステムで行う。  (い) また、自由度が大きいというのと、なかなか物事が決まらないというのも、事実上同義なんだけど....  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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noname#117439
noname#117439
回答No.11

またまた、オコリザルです。 ちなみにA9の善人ぶりに関して私は以下のように世の中に反撃します。 基本は「自らの悪と向き合え」これです。 会話術で亡者の奴隷売買を持ちかけられると、商談に乗る悪党の振りをして、実際はその内心の悪が同一性と乖離した悪意なのか自らの悪なのかを売り手に自問させます。 そしてまるで悪魔のような私が実は悪で無いことを知らしめます。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  今回は 単純に合意を表明します。  ★ 基本は「自らの悪と向き合え」これです。  ☆ ですから これも 《欠陥を憎む》問題です。欠陥は 他者のでも 自己のでも 同じことです。まったく 差別がありません。  ★ ・・・そしてまるで悪魔のような私が実は悪で無いことを知らしめます。  ☆ これは まづ 《わたしが 悪魔ではないこと》は 初めから 分かっています。問題は   ○ 自己申告制  ☆ にあります。相手が うそを言っていると こちらは 分かっていても そのまま ひとまづ 受け止め ふつうに 応対します。うそであることが分かるまで 言いかえると 新たに言ったことが 前に言ったことと 矛盾を生じ それに相手が気がつくまで 何もなかったかのように 応対し続けます。  これが 自己申告制です。自主申告 あるいは 自首 ですね。  ★ 会話術で ≫亡者の奴隷売買≪ を持ちかけられると  ☆ この事柄が はっきりとは理解し得ません。  《心の悪にもとづき 詐欺をはたらこうとしているようだ。そのような話をもちかけられると》 でしょうか?

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noname#117439
noname#117439
回答No.10

オコリザルです。 仮に神と語られる現象を私は意志を持った光と表現します。 これらは現象として見取るだけでなく、心象として自らが内包しています。 その意思は自らは人間と同じく愛である(全てが愛である)との証明のため私を案内します。 このような、絶対の愛が有るとするならば、知性の善性も確固たるモノになるでしょう。 善性の側面だけを分割するような試みだとそれは煩悩といいえます。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・このような、絶対の愛が有るとするならば、知性の善性も確固たるモノになるでしょう。  善性の側面だけを分割するような試みだとそれは煩悩といいえます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これはですね。飽くまで   ○ 非思考=信仰 の問題  ☆ です。非思考ゆえ 《光・意志・現象・心象》といった表象は ありません。これが 原則です。  ただし 信仰は 心の明け・開けまた伸びでもあります。信じる対象(つまり 非思考ゆえ じつは 非対象)が 非経験であっても それとの関係としての信仰は 人間の側における経験行為です。《絶対》なる対象(=非対象)を受け容れるという経験行為です。  それゆえ この経験行為の側において この世の現象として あるいは 心象として たしかに 絶対ないし神が 介入していると捉えられるかの事柄が ただし飽くまで 主観内において 起こるようです。  いわゆる信仰体験でもあります。  けっきょく いまのところ この信仰体験は やはり おのれの主観の内に持っているものだと考えます。つまり 表現するのも自由ですし ひとに披露しても かまわないわけですが その取り扱いは まったく 定まらない。こう見ておく必要があると考えます。

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noname#117439
noname#117439
回答No.9

オコリザルです。 今回の主題として善と違うかもしれませんが、相対的な善と言うならば、前回のご質問で披露した、亡者として伝播する思念としての悪について、この亡者を他者に押し着せるのは善人ではないかとの見解も成り立ちます。 あいつは悪いやつだ。 この一言のそしりです。 自らの善のへそ曲がりを他人が悪いからであると決め付ける事で押し着せて、自らはへそ曲がりお安泰にさせて善人を決め込む。 命題「悪は存在しない」を了解しないで、それでも自らの心に悪を見出せないまま、自らが関わった悪の現象を全て他人なり世の中なり政府なりマスコミなりに、「あいつは悪いやつだ」と決め付ける行為です。 被害者にも身に覚えがあればこの濡れ衣は成功します。 テレパシー現象としてこのような事例は身近なところからテレビのニュースまで蔓延していることお目の当たりにします。 礼節をわきまえてこのようなけがれた行いに耐えると、自らを悪人と認めることになります。このような悪人は悪意を内包した悪の体現者ではありません。ただ、正直になりたいだけです。 善人の無自覚とうそぶいての悪行です。 俺は善人だから悪さをしない。とか何とか言いながら仏ではないので他者のあくを咎める正義を持つ。とごまかし、内心の悪を全て他人のせいにする善良な市民です。そして世に愚痴をこぼす。その内心では悪魔が笑っています。 キレイ事だけありがたがる一般人というのは所詮この程度です。 ちなみに私は悪党に肩入れしても平気です。 悪魔そのものの振りをする悪ふざけまでこなせます。 善人ほど奈落へ突き落とすべきです。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  今回取り上げられた問題は 問題のあり方としては 簡単なことです。  ○ われわれは ひとを愛し欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえにひとを憎んではならず ひとゆえに欠陥を愛してはならない。  ☆ この命題によって 分析することができます。  ★ 「あいつは悪いやつだ」と決め付ける行為です。  ☆ これが 《欠陥ゆえに ひとを憎む》場合です。  ★ 亡者として伝播する思念としての悪について、この亡者を他者に押し着せるのは善人ではないかとの見解も成り立ちます。  ☆ 少し微妙な内容をはらんでいますが 問題は  ★ 推し着せる  ☆ にあります。《亡者なる状態とししての欠陥》を指摘することは ふつうの言論活動です。対話です。しかも それは すべての人が 自然本性としてその存在は 《善人》であるからです。善人が 善人に対して 互いの欠陥を指摘し その思惟や行動を 批判し合います。互いの向上のためです。  そして 仮りに  ★ 悪人  ☆ という言葉を用いるとするなら それは 《善の完全な欠如である悪魔を つまり この観念を みづからの思念として 全面的に抱く人》という定義に従います。  完全な善人〔として 自然本性を 生まれて来てから あらためて 確立した人〕が 稀れであるように 完全な悪人も 稀れであると思われます。ですが 一時的な状態(もしくは 一定の期間)としてなら いないわけではないと考えます。人に対して 自分の意識や感情を 《自由に》 吐き出すなら その者は 悪人という状態にあるように思います。つまり いくら指摘しても 取りつく島もない状態の場合です。  このように 《悪人》扱いを 稀れにでも 積極的にするのは   ○ ひとゆえに 欠陥を愛すべきではない。  ☆ と考えるからです。《ひとを愛し 欠陥を憎む》のは 徹底的に おこなうものと聞いています。批判を受け容れる態勢をも保ちつつ いまは この命題に従っています。どうでしょう。  人と行為とを 分けて 扱うべきです。存在とそこから繰り出される表現とを分けて 扱うべきだと考えます。  《悪人》と言うことばを用いるときにも 存在を愛すゆえです。いわば善人である――互いに 善人である / 誰れもが 善人である――と信じるゆえに 批判の表現として そういう言葉も出てくる場合があると考えます。そしてそれは 話が通じない場合ですというのが 簡単な説明です。もっとも めったに使いませんが。   ★ 自らの善のへそ曲がりを他人が悪いからであると決め付ける  ☆ これは まったく間違った認識によって 起こることです。《へそ曲がり》は 飽くまで みづからの意志によるものです。ほかの人から いわば伝染することがあるかも知れませんが あっても それは 自分の意志行為であるほかあり得ません。それなのに 善人ぶるとすれば それは そのこと自体が おかしなことです。

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回答No.8

赤福は好きでしたね。 この話の見方ですが、まず客観的に、結果としての賞味期限の不一致が正誤が判断基準であって、 判断した人の心の善悪は、基準に含まれませんね。 次に、判断した人の主観ですが、賞味期限の不一致が当局にばれて、公表された事実がその時の正誤の判断基準です。賞味期限改ざんの結果的失敗を知ったときですね。 賞味期限を改ざんすると判断したときの様子は、 賞味期限を改ざんすることは法令違反である。 改ざんがばれた場合、行政指導を受ける。 改ざんが公表された場合、売り上げが激減する。 賞味期限を改ざんすると儲かる。 多少改ざんしてもお客が食中毒を起こす可能性は低い。 商品を大量に廃棄することは環境に良くない。 などなど、を総合して、賞味期限を改ざんすることをその時点で★主観的善★としたわけです。 brageloneさんがいわれる、「普遍性をもった道徳規範」☆主観的善☆(上述の★主観的善★と異なる意味)を彼は認識はしていたでしょう。へそを曲げたわけです。 でも、彼は知らなかったのです。賞味期限改ざんの結果的失敗をです。誤をです。 「たった、一杯のつもりで飲んでいつの間にやら梯子酒~体にいいわきゃないよ~  解っちゃいるけどやめられねぇ~」  梯子酒という具体的行動をするなら解っていない、しないなら解っていると  いこうことで、本当に解ってはいる(知ってはいる)にもかかわらず具体的行動に走る  ことはないですね。  梯子酒好きなおっさんが、肝硬変から肝癌になったとき、奥さんから  「だから、やめなさいと言ったじゃないの。」  と言われる。言われたからといって「本人は知っていた。」にはならないんですね。  結局、本人は、肝癌になってしまうことを知らなかったということです。 そこで、繰り返しになりますが、我々は真実は知り得ないかもしれないけど、妥当性を検証し続けているから、 ホテルカリフォルニアから離脱できるわけです。 ダイナミックな動態過程→普遍妥当性→善とするなら、知ろうともしなかった安直さ、怠惰、苦悩からの逃避、責任逃れに悪があります。 で、前述の★主観的善★と☆主観的善☆の違いが存在の善、自由意思の善そしてそこから導かれる動態過程の存否にかかるのですけど、この★善★と☆善☆は性格を異にしますね。 >社会的動物にとっては 連帯という社会生活の切り口のほうが 連帯責任を負い合うことにおいて 自由を増すかにも思われます。ううん。どうでしょうか。 あ、そうなると思います。連帯者間で、責任を多く負担する者の自由度が増大するでしょうから、 みんなが連帯責任を負えば負うほど全体として自由度の高い世界が創造されることになりますね。 寄付行為とかボランティアではなくて、ある意味求償権を持つ責任を果たしたわけですから、他の連帯者への履行請求権を持つわけですね。

noname#80116
質問者

お礼

 けっきょくは これらの事例や問題を たしかに おっしゃるように 自由な意志行為によって成り立たせるところのゆるやかな連帯責任制をとおして 解決・処理していくという施策が にわかに(?) 脚光を浴びて来ました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  連帯者間で、責任を多く負担する者の自由度が増大するでしょうから、 / みんなが連帯責任を負えば負うほど全体として自由度の高い世界が創造されることになりますね。    寄付行為とかボランティアではなくて、ある意味 求償権を持つ責任を果たしたわけですから、他の連帯者への履行請求権を持つわけですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 求償権や履行請求権といえば いくらか 功利主義の思想が匂います。CO2排出権のごとくに 響きます。逆に そのほうが 無理なく 秩序ただしく 動態的な自由が得られるかも知れません。  いまは そうですね。それと そして 寄付行為やヲ゛ランチアとの《中間》は 求められないでしょうか。たぶん   ★ 責任を多く負担する者  ☆ は その履行も 率先して おこなっているでしょうから しかも その請求権を ゼロにされても――すすんでではなく 好んででもなく―― 止むを得ないと考えるかも知れません。そこのところを 塩梅よくやるには どうすれば よいか。(質問者は 楽ですね。回答者に振ることができますから)。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん この質問にしては 思ったより 話がすすみ しかも 深くなって来ているように感じられ うれしい限りです。ご回答をありがとうございます。  (1) 基層としての《善悪の判断》と上層としての《適正不適正の判断》という二層構造なる見方  (2) これらあらゆる判断にとっての 時間的経過をともなうことによる結果に対する無知(未知)の問題  ☆ (2)のほうから書き起こします。  ▲ ( ヰキぺ:民法での善意・悪意)~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%84%E6%84%8F  (α) 法律上の用語としての《善意》は、《ある事実について知らない》という意味で用いられる。  (β) 対義語の《悪意》は、《ある事実について知っている》ということを示す。  (γ) どちらの場合も法学的に使われる場合、そこに善悪の判断はない。ただ事実を示す言葉として使われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ (δ) でも、〔商品の賞味期限問題を担当する当事者たる〕彼は知らなかったのです。賞味期限改ざんの結果的失敗をです。誤をです。  ★ (ε) 〔梯子酒〕・・・解っちゃいるけどやめられねぇ~」  ☆ まづ (ε)は だめでしょうね。最終的な結果を 詳細に予め知ることは 無理であっても ともかく 本人は 《解っちゃいる》のですから 法学的に考えても 《善意》ではありません。つまり 《善なる心とその判断を曲げている》ことになります。うっすらと予見しうるというなら すでに 《悪意》の問題であり 《一次的な判断としての善悪》の問題にかかわります。  ちなみに 症状が出たとき どういう処理をするか。ここに 二層の判断基準ないし重層的な判断があるはづです。理論および臨床としての医学による判断 あるいは 社会ないし会社における職務遂行のことにかんがみての判断 そして ただの《わたし》や家族としての・それでも人格的な判断。  最後が 基層としての・第一次的な善悪判断です。しかも 前二者のばあいにも この初発の契機としての善悪判断は とうぜんの如く 基礎となります。そのようにして そのあと たとえば手術が 適正かどうかを 判断します。  その結果を予見することは できる部分と出来ない部分とがあると 言わざるを得ないと思われます。《予見できない部分》については 《善意》です。そうでなければ 《悪意》になり 多少とも へそ曲がりを伴なうということでしょう。  悪意が 思わぬ好結果をもたらし 善意が その逆の結果を生んだという場合もあり得ます。このような不合理は 当人の主観および社会的な共同主観において われと世界との和解を問い求めることをとおして 癒やされることが 望まれます。一言に言ってしまえば 意志行為をおこなう時点で その結果をも みづからの身に 引き受けているという考え方です。それが 《善》という――ただし 相対的な善である――問題だと考えます。この善悪観が 基礎として ないのならば 世の中は 成るように成ると捉えられて来ます。力のつよいほうが 善であり正義であるとなります。善は悪 悪は善 善の裏にも悪があり その悪をしのぐ大悪もなお控えているというような情況が 考えられます。  ですから (δ)の賞味期限の問題は ひとえに 善意か悪意かで 評価は 分かれるのではないでしょうか。しかも 本人の問題が 第一次の情況であり 基層です。本人とは 工場の担当者を持ってくることは 事情としては 酷でしょうね。基本的に 法人としての会社だと考えられます。そうした上で 社会の思潮・風潮も 或る程度は 関係しているのではないでしょうか。その意味で 連帯責任であるように思われます。  ○ ★主観的善★と☆主観的善☆の違い  ☆ すなわち 会社としての第一次判断としての善が 問題なのですが そのとき もしその善の選択に けっきょく やましさや 後ろめたさがあったのなら それは 《悪意》であり 《知っていた》ことになります。ただし この場合は 《規制》が 明確なわけですから そして それに反する改ざんだとも知っているわけですから 《不適正》であることは はっきりしています。一般に 不適正であるのは 第一次の判断においても 善ではなく 悪のほうを選択したことを意味するのではないでしょうか。

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回答No.7

今における、正誤、可否等の判断基準が主観的善悪判断であるということでしょうか。 これだと、またしても、時間論と認識論の非線形罠に嵌ります。 そうではなくて、ここでの話は、正誤、可否は結果が合目的か否か、目的の達成か未達かで捉えています。 とはいえ、 >かなりの普遍妥当性を持った動態過程を繰り広げることができるのではないか。 としていますので、我々は真実は知り得ないかもしれないけど、妥当性を検証し続けているから、 ホテルカリフォルニアから離脱できるわけですね。 その現実を具体的に検証し続けている、「動いている」動態過程をもって普遍妥当性と するならよく解ります。 >へそを曲げることが 少なくないというのが 現状ではないでしょうか。したがって そういう消極的な悪いかたちではありつつも 基礎は 主観による善悪判断が 担っていると見方は 生きているのではないでしょうか? 現実のものごとそれぞれの善悪とは別に、ダイナミックな動態過程→普遍妥当性→善とするなら、「責任」と表現した負うべき継続した苦悩、痛みから、連帯と自由が生まれる 即ち、それは、確かに主観による善悪判断が担うこととなります。

noname#80116
質問者

お礼

 No.24にて 訂正があります。  中ほどの箇所で 次の中の ≫ (δ) ≪ が誤りでした。  これを  (ε)  に直してください。  ☆☆ (No.24補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの思惑は  ○ (α) 《主観による第一次の善悪判断》     =≫(δ)≪ 《信頼原則=悪友(悪を互いに包みこむ善の共有)原則》  ☆ を主張するにあります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 澄みませんでした。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  どうも 例の毒入りギョーザ事件が まだ 話題として 追って来ているようです。別の事例で説明します。  すでに 改善し評価を得ているようですので 赤福事件を取り上げます。あんころもちの赤福の賞味期限を 不当に 書き換えたというものです。で すでに 結論です。  ○ 賞味期限の規制にしたがうことは 善良な市民の義務であり 生活一般のための権利でもあり 普通の生活態度として 常識でもあります。(規制が まちがっていたり不備であったりすれば 改正すれば いいわけです)。  ○ 法令遵守は 善であり 正であり適正なおこないです。  ○ 規則じたいに即して言えば 適正・不適正ないし合法・違法の問題です。その規制の内容や 規制をつくるということ自体に即してみれば これは 生命存在にとって 善いか悪いかの問題になります。  ○ 二層もしくは重層なら成る。その基礎は つねに 人間存在の問題であり その存続か否かという善悪が 判断基準になっている。  ☆ こうではないでしょうか?  しかも その基礎として いわば初発の契機は  ★ 主観的善悪判断  ☆ なのです。なのですが 社会にあって この主観は――もともと 潜在性において 関係し合っているという認識もありますが―― 共同性を持ち得て 経験合理性から見てのみであっても 普遍性があるかないかをも 判断するに到ります。  そして この初発の(第一次的な)意志行為としての 善悪判断から 派生して 適当・不適当 適正・不適正などの二次的な基準をも持ちます。人びとの総意としての取り決めである法律をも作り上げますし 第一次的な善悪判断――つまり つねに 動態的である意志行為――の中から 普遍性をもった道徳規範をも たしかに 掲げるというならわしを持っています。〔規範には 論証抜きで妥当であると受け取られる公理と 経験上の法則のようなものとしての方程式規範(変化しうる)があります〕。  したがって 結論として  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  現実のものごとそれぞれの善悪とは別に、ダイナミックな動態過程→普遍妥当性→善とするなら、「責任」と表現した負うべき継続した苦悩、痛みから、連帯と自由が生まれる 即ち、それは、確かに主観による善悪判断が担うこととなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで 最初の  ★ 現実のものごとそれぞれの善悪  ☆ を《善悪》ではなく そこから派生する《適正・不適正》と言いかえれば めでたし めでたしとなりませんか?  ミソは 主観による善悪判断が 基礎であるとすることによって 《責任》の方面 しかも おっしゃるように 《苦悩や痛み》の問題 これをも 棚に上げていない・棚に上げるわけには行かないという実態が 同時に リアルタイムにおいて 伴なわれていることにあるのではないでしょうか。  《自由》と言うなら ここまで 見とおして 意志決定をおこなえと言えますし そこから さらに 《連帯》ともなれば 存在にかんする一次的な善悪判断に加えて 社会事象に即した具体的な適正不適正の判断をも きちんと こなして行かなければいけないと言って行けます。  おそらく ですが こう考えて来ると むしろ 社会的動物にとっては 連帯という社会生活の切り口のほうが 連帯責任を負い合うことにおいて 自由を増すかにも思われます。ううん。どうでしょうか。ラリーが続きますね。

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noname#117439
noname#117439
回答No.6

オコリザルです。 A1に関してお問い合わせです。 >他者を生かすためです。 これを自己犠牲と表現されましたね。 自己犠牲といえば一般には愛です。 A1では実行可能な善性に基づく知性について語ったつもりですが、それらは既に愛に基づく知性と解釈されたのでしょうか。 もし、「そうだ」と言ってくれるなら嬉しい所です。 ちなみに私は自己犠牲のつもりはありません。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。  ★★(No.1)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自由でもあり自立してもいる自由な意思が連帯するなら、それは自らが生きるためではないでしょう。他者を生かすためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように 《他者を生かすため》が  ★ それは自らが生きるためではないでしょう。  ☆ とつながっていると見て  ○ 自己犠牲  ☆ と表現しました。今回は  ★ 実行可能な善性に基づく知性について語ったつもりです / ちなみに私は自己犠牲のつもりはありません。  ☆ とお聞きして 落着しました。  かんたんに その趣旨を確認します。  ▲  (ヨハネ福音12:25)  自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。  ▲ (同上15:13) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  ☆ なのですが これらは 人間のはからいによっては 無理だと考えます。人間の意志行為によってのみでは かなわないと捉えています。その意味で 基本的に言って 《自己犠牲》をかかげることは しません。  ▲ (マタイ福音19:19) 〔父母を敬え、また、〕隣人を自分のように愛しなさい。  ☆ 《自分と同じように》という意味が 人間の意志行為においては 重要だと考えます。《生命・存在》は 人間の意志行為にとっては 善ですから 自己のであれ 他者のであれ 同じように この善なる存在を愛します。あとは みちびきがあるかも分かりませんし ないかも分かりません。  かくして  ★ 他者を生かすため  ☆ とは 自己を生かすためであると同時に そのように表現する段階では まだ きわめて その内容が あいまいであると考えます。  もし あいまいでないとすれば それは  ★( a ) 実行可能な善性に基づく知性  ☆ というように 人間の知恵や知識を活用した経験思考として〔のみ〕 確定しているのだと考えます。  ★( b ) それらは既に愛に基づく知性と解釈されたのでしょうか。  ☆ そのあと それは 望むところだとおっしゃっているのですが 今度は 《愛》が 《知性》と同じように 人間の能力と努力の問題なのか それとも 非思考=信仰をからめたかたちで すでに《知性》を超えているというものなのか これが あいまいです。  ( a )のあとに ( b )が来ているからには ここでは  ○ 愛 ≧ 知性  ☆ という表現内容になっていましょうか? ただし ふたたび・みたび ただしなのですが この意味での《愛》であれば そこには 結果としての《自己犠牲》を あたかも予定していることになると捉えられかねません。どうでしょう?  たぶん ここでは 人間の知性と感性と心とで行ない得る愛と それを超えた非思考=信仰にみちびかれたなぞの愛とを 区別するとよいと考えますが いかがでしょう?  後者の愛を この連帯の問題では その前提に出してくることは しないほうがよいと考えます。とは言っても 人間の生にかんしては 《なぞの愛》も 人間の表象や意識を超えたところで 大前提となっていると見て 普遍的に妥当だとは思っております。

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     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 究極の悪とは――存在について――

     《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。  ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。  ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。  悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。  ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。  つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。  さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。  これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。  言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。  ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。  ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。  これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。  果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。  * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 《わたしがわたしである》わたしがわたしする

     1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。    2. もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。    3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。  4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこと(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。    5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。    6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イツハリをおこなう。光も曲がる。    7. つまりは 善なる存在は その存在としての善をも損傷する自由のもとにある。    8. ウソが それを 思惟しただけではなく実行したなら そのぶん もともとの(自然本性としての)善を傷つける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。    9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。    10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 善のうちにしかない。  11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在である。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけではない。善がひがみ ゆがむのみ。  12. 人びとの中には やけを起こす《わたし》がいるだけのことだ。  13. 善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へその曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる存在を自治する。自己経営する。    14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つまり人間の行為関係を共同自治して生きる。    15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよばれる。悪の共同自治ゆえ。  16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛はあるか。    17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。  18. これだけのことであるのに 世の中には――自由意志ゆえに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがある。  成否・当否を問います。  あるいは (18)以降を ご自分の見解で展開して行ってください。

  • 情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか

     この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。  それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。  趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。  人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。  さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。  この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。  だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。  さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。  その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。  現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。  長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?  以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。