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悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

 ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

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回答No.33

《わたし》とクオリア でさんざん非線形について語ったと同じ話になってきました。 《わたし》は、知っている。は確かに動性道徳の立場でもありますし、そうでなければなりませんが、 このコンピュータメタファーでは、《わたし》は狭帯域なメインルーチンにすぎません。 この手の話は、専門の書籍や論文を読んだ方がいいのかも知れませんが、 井戸端会議ということで好き勝手に記載してみます。 非線形の何らかの出力を受け入れた後に善でなかった場合は、無いと思うのですが、 これも《わたし》の位置づけによって変わるので、概ねまとめて頂いた通りかと思います。 ○ 感覚善が わたしの最終判断のきっかけになっているようだ。 感覚善からの先を考察すると 感覚善→効果意思→行動意思→行動 リンゴを食べたい。→食べることを決心する。→リンゴに腕を伸ばす決心をする。→腕を伸ばす。 感覚善→効果意思の間にもいずれの「→」にも非線形がありますね。飛躍があるのです。 当たり前すぎて解りにくいのですが、 リンゴを食べたいと感じている状態と食べることを決心した状態は全く異なりますね。 この状態の相転移は、実はメインルーチンがやっていません。 直感とは異なりますが、突然変化します。 日常生活で意思を持つと言っているのは、「感覚善」の存在のことを言いますね。 食べたい から よし食べよう へなぜ変化したのかは、メインルーチンから見ると 当然「食べたいから」ですが、「よし食べよう」の状態にしたのは、サブルーチンですね。 この考え方で言えば動性道徳は、狭帯域のわたしからはみえない広帯域のわたしに存在する沢山の サブルーチン群を健全に発達させ続けるということになりますかね。ありきたりですが・・ ここで菊田医師事件(医師法違反、公正証書原本不実記載罪)を考えます。 菊田医師は、当時の常識、規範、法律を、意思をもって犯し、胎児の命を助けるという行動を とっています。 結果として法律改正、新制度発足とはなったのですが、明らかに犯罪を犯しています。 http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-002-8.htm 菊田医師自身の葛藤と支援の波、迫害の波がどのようにして起こったのか。 感覚善、妥当善、行動の波紋、共同作業同士があたかも全体として1個の生物のように つまり、メインルーチンとサブルーチンの如くに動いて、最終結論である法改正へ 導かれています。たった一人の行動が、如何に大きなうねりを作り出すがわかります。 もともと、既に、非常に帯域の広い現実が常に動いていて、そこに持ち込まれる行動の波紋は、 常に無数の感覚善、妥当善サブルーチンに晒され、判断され、次の行動を生み出す 新たなきっかけになっているということではないでしょうか。この鈍いようで非常に鋭い 動きのサブルーチン側を動性道徳の対象と言っているんですよね。

参考URL:
http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-002-8.htm
noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん かなり煮詰まって来ました。ご回答をありがとうございます。  ○ 人間の成す判断および意志決定なる行為としての《身体=精神》の現象論  ○ それは ひとりの人間である《わたし》の自己表現であり その動態である。  ○ 基層は 主観的な第一次の善悪判断として成る。これに付随して ものごとの適正・不適正という基準による判断が 第二次として 起こっている。  ○ このとき 基層の判断過程は あらゆる参考資料および自己の傾向を総合して 最終的に判断をくだすメイン・ルーチンが 受け持つ。  ○ その際 資料やみづからの癖のいくつかが 一般に 意志決定のきっかけになると考えられ それらは サブ・ルーチンを構成する。  ○ 第二次の適正・不適正の判断も それが 直接に生命存在の善悪にかかわらないことを除けば 同じように 過程されると思われる。  ○ サブルーチンには 例として 経験合理性にもとづく妥当性を追究する《妥当善》や 逆に 妥当性に合致するかたちでだが 論理的な整合性から自由なかたちででも 感性をはたらかせようとするというべき《感覚善》が 挙げられる。両方が 大事である。  ○ 妥当善は B.パスカルの言う《幾何学の精神》であり 感覚善は 《繊細の精神》であると言えるのではないか。  ○ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔菊田医師の採った行動が 《実子特例法》という新たな法律を生みだしたという事例についてかんがみるに〕 もともと、既に、非常に帯域の広い現実が常に動いていて、そこに持ち込まれる行動の波紋は、 / 常に無数の感覚善、妥当善サブルーチンに晒され、判断され、次の行動を生み出す / 新たなきっかけになっているということではないでしょうか。  この鈍いようで非常に鋭い動きのサブルーチン側を動性道徳の対象と言っているんですよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ ☆ ただし これらサブルーチン側の動きを統括して 最終的な判断をくだすメインルーチンとしてのはたらき もしくはつまり 《わたし》の意志決定 これを見失ってはいけない。  ○ さらに ひるがえって ただし ★ ~~~~~~~~~~~~  感覚善からの先を考察すると    ◆ 感覚善→効果意思→行動意思→行動    : リンゴを食べたい。→食べることを決心する。→リンゴに腕を伸ばす決心をする。→腕を伸ばす。  感覚善→効果意思の間にも いずれの「→」にも非線形がありますね。飛躍があるのです。・・・  この状態の相転移は、実はメインルーチンがやっていません。  直感とは異なりますが、突然変化します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   * ★ 非線形の何らかの出力を受け入れた後に善でなかった場合は、無いと思うのですが、  ☆ この《非線形の飛躍を介して 判断に及んだ結果が 善でなかった場合》として思ったことは むしろ 《あとから 飛躍があったと言い張る場合》です。つまり たとえば 《神を見た》とかあるいは《悪魔の声を聞いた》とかいうふうに その非線形の部分を 言い繕う場合です。    * 愚の骨頂たる道徳規範から自由な動性道徳 という主題。あるいは 自己表現の動態としての《文体》という主題。文体が帯びる《クオリア》の問題。あるいは 妥当善が帯びる感覚善。それらをとおしてのコミュニケーション過程という主題。(これが 次の課題かも知れません)。

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その他の回答 (35)

回答No.25

おはようございます、brageloneさん。 【戦後補償】 http://www7b.biglobe.ne.jp/~senden97/sengo_hosyo_1.html 【~人を祀るということ~】 http://kaminagara.s27.xrea.com/yasukuni-sinkou.html 【遺骨】 http://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido01/index.html 【南方熊楠】 http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/525.html 【第6章】 1.対中援助の多面性 http://www.iips.org/bp/bp318j.pdf 『変わる前提条件』<中部科学技術センター CSTCニュース巻頭言より抜粋> 古い話で恐縮ですが、ある海外での合弁会社の工場が稼働し始めた頃に訪問する機会があり、当地で立ち上げに苦労なさった方から「日本人は百という目標に対して百二十を実現するが、こちらでは百が実現することはまず期待できず、そこを指摘すると“なぜ目標を百二十としないのか?”という返答が戻ってくる」と言うお話を聞き、国民性の違いについて考えさせられた事があった。お話し頂いた方からは「日本人には言葉で言わなくても通じているものがあるのですよ。それが大きな日本の財産なのですよ。きっとそれは日本の初等教育の成果なのですよ」という思いが強く私に伝わってきた。 この巻頭言をお読み頂いている方々は、具体的な取り組みの中での立場の違いはあっても、何らかの形で「ものづくり」に携わっておられ、従って、多くの方々はある程度は工学的思考法に馴染んでおられると思う。申すまでもなく、工学では幾つかの前提条件のもとで整理された考え方が共通に理解され、その考え方やそれに基づく行動は、誰に対してもその前提条件の下では「真実」であり、「再現性」がある。逆に言えば「真実」、「再現性」は前提条件が崩れれば、一部、あるいは全体が同時に崩れてしまう。 ものづくり論議が各方面で活発ですが、「ものづくり」とて所詮はそれに携わる人間の問題に集約される。そこで、私たちはどんな前提条件をもって、周りの人たちとものづくりについて考えているのだろうか? 私を含めてある年代以上の人たちの間では、以下に挙げる事柄は「当然」と捉えられているように思う。日本人としての共通の生活感とまでは言わないけれども、何となく共通の理解、つまり、世の中の色んな問題を考える時の「前提条件」としている。 日本は地球儀のここに位置していて、国土の広がりの中で北から南にわたって様々な気候、風土の違う地域があり、だから農産物、海産物、産業、人の暮らしも違う。 異なる気候、風土の基で人々の暮らしの歴史も違い、おらの家系、おらの町、おらの国、おら達の歴史がある。 人は一人で成長できるものではない。周りの人、気候、風土、歴史の恩恵と制約の中で成長する。 人は一日三回食事をし、一回の排便。朝早く起きて、夜は早く寝る。食べ物の好き嫌いは駄目。食材の背後にある労働に感謝しながら色んなものを食べる。地域の生態系と共生した食材、旬のものがある。 字が書け、読める。特に漢字には筆順と固有の意味というものがあり、音読みと訓読みがある。暗算が出来る。 老人、幼児に対してはいたわりの気持ち。花、木、動物に対しても同じ。「もの」も生き物と同じようには大事に使う。 人は向上心によって成長する。努力する事、挑戦することの大事さ。結果は個々に違った結果となる。 年代を超えて共通に歌える歌がある。誰もが義務教育を終える節目としての卒業式で「仰げば尊し」を歌う。この歌の一節「身を立て、名を挙げ、やよ励めよ」を心に刻んで。では、国歌は?国旗は? さて、私が日常的に見聞する中で、例えば都道府県の位置と名前が言えない、だから戦後の沖縄の変遷を知らない、それどころか第二次世界大戦を知らない、最低限の食事のマナーとその背後にある考え方を教わっていないので知らない等々、前提条件がまるで違ってきている事を強く感じる。にもかかわらず、あたかもそれらの条件が生きているかのように当たり前としての議論が為されているのでは無いだろうか? ものづくりを推進する為の方策が人材養成を中心に進められている中で、同様の危惧を感じられておられる方々が多いのではないだろうか?すなわち、「前提条件」が変わってきていることを前提として議論を進めていくのか、それとも前提条件そのものの是非を議論するところから始めるのか?私が大学の工学部という組織の教員時代に、十名前後の学生を研究室に預かり、彼らと日常的に語り合いながら生活していた頃は、それなりの自分の考え方を具体的に反映した形で若者と暮らしてきていた。今、学長職という立場を変えたところで、悩ましい問題に引き続き悩んでいるのが私の昨今である。

noname#80116
質問者

お礼

 ▲ (山上憶良 五・893) 世の中を憂しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば  ☆ これが アマテラス語を体得したスサノヲ語です。つまり さとりの言葉です。  そうして 聖徳太子は 歌では ただ かわいそうに!と言っているだけです。  しかるに 人麻呂は 早く 家のある自分のくにに帰りなさい! と すでに死んだ人に 声をかけています。早く 立ち上がりなさい! とさえ言っています。これが 英霊とともに いっしょに共生するわたしたちの取るべき態度ではないでしょうか。  経験思想を超えた言い回しになってもいますが そういう場合 では 人麻呂は どう表現しているかですが。  ▲ (人麻呂 万葉集 巻三・235番)~~~~~~~~~~~~~~  おほきみは神にしませば 天雲の雷の上にいほらせるかも  皇者 神ニ四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《いほ iFo ≒ いへ iFe 家》です。つまり この場合 二階建てです。その第二階――と言っても 雷の上のですが――にお住まいであるのかな そうかもね と言っているようです。  野暮で無粋なことを言ったでしょうか?  現代に ひとりの人麻呂もいないというのぢゃあ 世の中 おもしろくないでしょう。  《世間(よのなか)を憂しと恥(やさ)しと》の憶良も われらがスサノヲ市民です。  連帯と言えば――そう言えば――   ○ インタスサノヲイスム  ☆ を忘れていました。市民社会の連帯としては  ○ インタムライスム(第一階の市町村連合) そしてさらに インタナショナルなインタムライスム  ☆ でした。ただし ここで なお具体的にくわしく 探究してまいりたいと存じます。

noname#80116
質問者

補足

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。ただし その回答内容については 的確には汲み取り難い述べ方をなさっています。ので 勝手に受け取って 反応します。  ▲ (万葉集・第一番歌)~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち           籠毛与 美籠母乳  堀串(ふくし)もよ み堀串持ち     布久思毛与 美夫君志持  この丘に 菜摘ます児          此丘尓 菜採須児  家聞かな 名告(の)らさね       家吉閑 名告紗根   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そらみつ 大和の国は          虚見津 山跡乃国者   おしなべて われこそ居れ        押奈戸手 吾許曾居   しきなべて われこそ座せ        師吉名倍手 吾許曾座   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  われにこそは 告らめ          我許曾歯 告目  家をも名をも                家呼毛名雄母  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 巻一・1番)  ◆ (中西進訳)  籠もよい籠を持ち 堀串(へら)もよい堀串を持って この岡に菜をお摘みの娘さん。  あなたはどこの家のひとか。名は何という。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そらみつ大和の国は すべて私が従えて支配しているのだ。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしには おしえてくれるでしょうね。あなたの家をも名をも。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この中西によると 次のように知られます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首。その際    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そらみつ 大和の国は   おしなべて われこそ居れ   しきなべて われこそ座せ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  が挿入された。  (中西進:万葉集 1  1978)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 単純に受け取り 単純に言えば このようなかたちで 平屋建ての古代市民社会が 二階建ての国家形態になったということではないでしょうか? もともとは スサノヲ市民どうしの交通であるものが アマテラス公民とその相手との人間関係になった。  こうして 《〈アマテラス圏‐スサノヲ圏〉から成る二階建て連関体制》が出来たと考えられます。  ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠もよ み籠持ち 堀串もよみ堀串持ち         この丘に 菜摘ます児  家聞かな 名告らさね              われにこそは告らめ 家をも名をも   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが 人間の主観を交通させる原型です。しかも その他者との二角関係が 両性の関係ないし対(つい)の関係に始まると言ってもいいかも知れません。  それは 《身体=精神》なる自然本性を表わしていると思われます。これが スサノヲ人間語です。ここから 普遍概念を認識して そのアマテラス人格語をも身につけ ひとりの市民たる《わたし》を 確立していくことでしょう。  ただし それは 基礎のスサノヲ人間語から浮き上がることではないでしょう。また アマテラス人格語つまり――それの単独分立なら あたまの問題です その――あたま(コギト)によって立つという逆立ちも いただけません。              コギトつまり 考えておれば かしこいというわけには行かない事例を 示します。  ▲ (万葉集 巻三・415) ~~~~~~~~~~~~~~~    上宮聖徳太子 竹原の井に出遊(いでま)しし時 龍田山の死(みまか)れる人を悲傷(かなし)びて作りましし御歌一首  家にあらば妹が手巻かむ 草枕 旅に臥(こや)せるこの旅人あはれ  ▲ (万葉集 巻三・426) ~~~~~~~~~~~~~~~    柿本朝臣人麻呂 香具山の屍(かばね)を見て 悲慟(かなし)びて作る歌一首  草枕 旅の宿りに誰(た)が夫(つま)か 国忘れたる 家待たまくに  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 聖徳太子は そのあたまでっかち振りを示していないでしょうか? かれの掲げた《世間虚仮 唯仏是真》などという標語は どう見ても 単独分立したアマテラス人格語です。浮き上がっています。

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回答No.24

>主観的な第一次の善悪判断 ~ もはや現代では 人びと一般の判断力のあり方――つまり 《常識》とは ほんとうには このことですね(知識の問題ではなく)―― これを すでに身につけていると前提しても よいのではないでしょうか。共同性そして普遍性をもった主観判断を しかも 第一次の特徴としての《うそか まことか》もしくは《やましさの有無》を伴なった善悪判断のかたちで 前提としていて よいと考えるのです。  ここは難しいですね。核心のようにも思えますし・・動性道徳と言っていたことを脇において進めます。  「動機」は確かbrageloneさんの嫌いな言語でしたね。  Wikiでは、   ○人が心を決めたり、行動を起こしたりする直接の原因、または目的。   ○行動・意欲を規定する根拠となるもの。   ○倫理学で、対象または目的の観念に導かれた衝動や欲望。   ○心理学で、行動を引き起こす意識的・無意識的原因。  などだそうですが、こんな簡単ではないでしょうね。  人が行動する原因?というより、人を突き動かすのは、行動することの快、行動しないことの不快、  知らないままにしておける快(楽)と、知らなければならない不快(苦)なんです。  そして、「信じている」は、知らないままにしておける無責任と同義。   《やましさの有無》には、「信じている」幼気さも含まれなければなりません。  信じたものはしょうがない、知らないものはしょうがない・・と言えない部分ですね。  人は快と楽で動き易い。不快と苦を怠って、数え切れない失敗を繰り返してきた。  逆に、行動しないことの快、行動することの不快、そして、知る快と、知らない不快の  意味を良くわきまえなければなりません。  そうであっても、知らないものはどうしようもありません。  しかし、知ろうとしない無責任と事後に横展開しない無責任は同質です。 >《靖国》問題に触れています。いかがでしょうか。  靖国に限らず、先の大戦は、非常に大きな教えを与えています。 新生日本の礎となった英霊に心から感謝しますし、特攻したのは自分自身でもあるように 思わなければならないでしょう。 教えられるのは軍国主義の欠陥を知ろうとしなかった愚劣を民主主義、自由主義、平等主義 で再び犯さないことですね。 軍国主義も決して全てが悪ではありません。国を守るために銃を持つ人間は善です。 なんにしても欠陥を知ろうとすることですね。 >二階族による主導ではなく 一階人の一階人による一階人のための共同自治ですね。  霞ヶ関を一階に持ってくるというのが、一番でしょうね。こればかりは戦前から ずっと残ってしまった「失敗」を知らない種族ですからね。  でも、もっと責任を負えば良いと思うんですけどね。 無限責任にはほど遠く、株式会社の役員よりも責任が回避できるところがおかしい。    米国でのアスベスト被害拡大を知りながら、国内を放置したを担当官曰く、 「こうなってしまったことは残念。でも、当時、国内で被害は報告されていなかった。」  こうして、アスベストの次の失敗が繰り返される。  こういう役職は、公務員試験をスラスラ解けるお利口さんよりも、民間等で失敗を多く実体験した人間が必要なのかも知れません。

noname#80116
質問者

お礼

 かくして こうです。  (β) 好悪原則≒快楽原則  ☆ これは もし善悪判断という基礎からみれば 埒外です。  (γ) 偽善原則=建て前原則  ☆ これは こちこちに固まった善悪判断です。  (δ) 演技原則=演技をしてでも共生を追い求める原則=ウソ原則  ☆ これは これも 一次的には 善悪判断をおこなっているのです。そのあとに さらに第二次の主観判断をかぶせるもののようです。  どうでしょう。   

noname#80116
質問者

補足

bananasandさん ご回答をありがとうございます。  ○ 戦後処理 / 戦争の教訓   ☆ 基本的な考え方で 同感します。あとは 具体的な問題の処理に移ったときのことです。  ○ 二階族 / 一階人の問題  ★ 霞ヶ関を一階に持ってくるというのが、一番でしょうね。  ☆ いまの政府をそのまま継ぐとすれば ひとまづ そういうことになるでしょうね。民間人の当番制になれば――遠い話です―― 霞が関を使いこなしていくというかたちになるでしょうね。逆立ちを直すという形にて。  あと アマテラス方言の問題も 視野に入れていただくと 分析が おもしろくなるのではないかと思います。  さて 大問題の様相を呈している課題です。  ★ 動機  ☆ は 扱いづらいはづです。主観ごとに違った場合や あるいは そこに 意志決定を済ましていない心理の動きを持ち出してくると 収拾がつかなくなると思うからです。ここでは 《きっかけ・契機》という語を使わせてもらいます。  さて 次が ここで追究する課題の見取り図です。  ★ 意志行為の基層は いかにして 成り立っているか。~~~~~~~~  (A) 選択肢から選び決定するという判断を成すときの基準は いかに?    (α) 主観による第一次の善悪判断ではないのか?  (B) 一たん判断基準を措いておいて その取捨選択を決めるのは どういう契機だと考えられるか。  (B-1) それも やはり大きくは判断であり意志行為であると思われるが 《うそ(悪)か まこと(善)か》の基準とは別であるとすれば それは 何か?  (B-2) 快楽原則(これは フロイトの言ったことだと思います)だろうか?  (B-3) ほかには    (β) 好悪原則≒快楽原則   (γ) 偽善原則=建て前原則   (δ) 演技原則=演技をしてでも共生を追い求める原則=ウソ原則   (ε) 信頼原則=悪友(悪を互いに包みこむ善の共有)原則  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの思惑は  ○ (α) 《主観による第一次の善悪判断》     =(δ) 《信頼原則=悪友(悪を互いに包みこむ善の共有)原則》  ☆ を主張するにあります。そうして わが意志行為の自由についての答責性ないし責任は 前回の次の公式が 大前提です。  ★ *******************************************************  全員が、そのものごとの無限責任を負うということです。・・・ /  端的に責任を果たすか果たさないかです。  ************************************************************  (β) 好悪原則≒快楽原則  ☆ これについて 触れてもらっていますが わたしの見方では 要は 勤勉か怠惰かで決まるというものです。  快・不快という動機を どれだけ取り上げようが また 分析しようが 嫌なものは嫌であって したくないものは やらない。という問題であり 心的現象だと考えます。もし こころの動機であるとか 心理的な分析を交えよと言うなら そういうことになると考えます。  きわめて 単純に これにも 仮りに 善悪基準を当てはめるなら こうです。怠惰に やましさを感じているか否かです。そうではなく これを快とするとか あれを不快とするとか言うと どこまで行っても らちが開かないのではないでしょうか? 主観の浮動性ゆえです。  言いかえると もし自分の怠惰について やましさを感じないと答えたなら もう放っておくしかありません。適当に 話相手になってやる係を置いておいて 適当に 日々を過ごしていただくほかありません。生活を保障したかたちでです。  (γ) 偽善原則=建て前原則  ☆ これは 道徳規範に忠実に生きるという処世術です。決して しっぽを出さないで 一生を過ごすという行き方です。おそらく 放っておくしかないでしょう。お友だち係を置いておくでしょう。  (δ) 演技原則=演技をしてでも共生を追い求める原則=ウソ原則  ☆ これは 偽善原則に似ていますが それに忠実になるというそれは 道徳規範ではなく そうではなく みづからの主観的判断のことです。  おそらく 善悪判断を 或る種の仕方で超えているかたちを持ちます。善であっても そのときその場で 不適切ないし不必要だと思えば やらないし 悪であっても 適宜性という基準からして必要だと考えれば やる。しかも 演技を持ち出すというその意味は 善・悪いづれの意志行為をも 見かけだけでも 善意だという主張をもって あえておこなう。こういう原則であるように考えます。

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noname#117439
noname#117439
回答No.23

オコリザルです。 つぶやきです。 仏教は信教にあらず道であった。 仏道であった。 ココからはギャグですが娑婆世界は北斗の拳のイカレタ世紀末未来でした。 「お前は既に死んでいる。」 これが通用するんですよ。 生命に内包した精神世界ですから本当は死にようが無いんですよ。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 仏教は信教にあらず道であった。 / 仏道であった。  ☆ 直前(No.22)の補足欄にて わたしは さんざん 減らず口をたたいています。仏教のわるくちです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ココからはギャグですが娑婆世界は北斗の拳のイカレタ世紀末未来でした。   「お前は既に死んでいる。」  これが通用するんですよ。  生命に内包した精神世界ですから本当は死にようが無いんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 最後の一文を合わせて 言ってやると いいのではないでしょうか。  わたしも  ○ ほろびなさい。  ☆ と言ったことがあります。  ○ ほろびなさい。旧き人が 滅んで あたらしき人を着なさい。  ☆ という同じような意味になります。  つまりは 損傷を受け 部分的に欠如した善が もとの存在のそなえる自然本性いっぱいに 回復するという動態ですね。悪の共同自治の醍醐味です。《わたし》は その動態過程において 触媒にはなるとわたくしは捉えています。それゆえの また その意味での 醍醐味です。

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noname#117439
noname#117439
回答No.22

オコリザルです。 昨晩の連続投稿に本格的哲学のご返事をいただいたのでそれに答えます。 判り易く解釈したつもりです。 ☆ これは いわば第一次の意志とそこから派生しがちの第二次の意志との区別の問題だと考えます。  意志行為にあたって   (a) 第一次の意志(――もしくは 思い・考えとして いまだ内面にある意思――)が まことであることと そして  (b) そのまことであることの善が 観念として――たとえば 自尊心や虚栄心をとおして―― 追求されるようになることと  これらが 識別されなければならない問題ではないでしょうか。(b)も 善は善であるのでしょうがねぇ。 aの真心なり動機に対してbの邪が忍び寄ると言うことですね。 識別しないと邪は欲望と解釈されるでしょう。 経験的結論では邪は欲望をそらす、又ははぐらかす、煩悩です。 一般向けのコツの類ですがこれだけでも欲望と煩悩の違いが判別できるようになります。邪はそのような栄光(無罪告知)をつかめば昇華できます。 存在――自然本性なる《わたし》――の自同律(アイデンティティ)と 意志判断の結果内容――それは 何らかの観念ですね――の同一性の追求とは 微妙に ちがうのでしょうね。後者には それでは 《うそ》があるのでしょうか? どうなんでしょう? そうなんですよ。過去(人生経験)を肯定できない心の瑕の問題です。 かつてbrageloneさんの回答した言葉に「振り返ってみれば常に神に包み込まれていた」といった表現がありましたが、いわばそのような行程です。心理学では過去を矯正しないと現在がわからないという感じの試行がされていますが、順路として正しくてもやはり何よりも「今」「現在」がわからなければ無利でしょう。一人の内観では無理なんです。 この辺のコメントも「邪」の蘇生の問題です。 個人的なぼやきですが仏教観念とは世話が焼けますね。 アマテラスとスサノオの話は心身が一致しない状態を心の二重構造として葛藤に持ち込んだかのような印象です。この葛藤は和解のための話し合いであるべきです。 処方箋を引用するならば、「慈悲」の「慈」に隠された「お友達」の意味。記憶にある他者の言動のことです。ここに自らと行いの動機や結果が違う事に悩むでしょう。「価値観とは何ぞや」なる悲鳴の悩み相談室も質問として散見したことがありますが同じ悩みです。個と個がバラバラの状態の証明が心に居座る(起草する他者の意見)「お友達」ならばそれは自己の同一性が完全ではないことです。しかし暗闇をお友達扱いするのは処方箋の一種です。そのお供だちと和解して自分自身の影であったと悟るのも一人として自分を探す作業の一部です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  悪〔* という観念〕が悪行を成すのでは無いのと同じように、善〔* という思念が どれだけ 純粋でとうといものであったとしても その観念をめぐる思念〕が善行を成すのではないと考えます。  そのように誤解の上に思考するならそれは煩悩としての善だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《煩悩》とは 一般に《無知》と説明されますが わたしの理解では 上のように 《派生的な第二次の意志判断において あたかも鼻の先にぶらさげた観念の美に酔い痴れて その思念を優先させるという・一次と二次との間の逆立ちによって起こる》と捉えます。善行をなすのは いつもbananasandさんが言うように 責任をともなって つまり 責任をあらかじめとしてでも すでに引き受けて わたしが為すのだということですよね。《わたし》が 意志判断を為し 意志行為をおこなうのでしょうね。《善》ないしその貴さや美は わたしの価値判断に属しますから。 解釈の仕方は正解であり、ご意見も同感です。 A19の(1)から(9)までは悪人のとらえる世の交通であって悪人正気説同様です。 >8. 意志は 愛である。(α)=(ω)。 その意思のみの交通に余計な手続き入らないのではないかと考えている私です。それが伝心(テレパシー)です。 10から13までが、そのような戦いを挑む姿勢です。 意思は、愛は、死なない、滅びない。 A20のご返事は私の内観に合わせた心の中の小説めいた物語です。 それを世の現象と解釈して自分だけの真実としている人も多いでしょう。一言で言って全部空想上の事で現実に適応できないんですよ。 世界を構成する全ては愛である。 それはかなたの世界ではない。 よって人間は絶対の愛を内包出来る。 神様を持ち出すまでもありません。 それが私の意見です。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  今回は お聞きするだけでよいようです。  細かい点で 思うところを 述べます。すり合わせを願います。  ★ アマテラスとスサノオの話は心身が一致しない状態を心の二重構造として葛藤に持ち込んだかのような印象です。この葛藤は和解のための話し合いであるべきです。  ☆ このとき  ○ 存在の愛 意志のまこと 愛の真実 こういった本心としての善に どこか・なぜか さからってやろうというやはり意志がはたらく問題  ☆ が あります。つまり  ○ ことをおこなうに当たって いくつかの選択肢を吟味する 言いかえると これらを取捨選択する。そうして いざ これに決めたというまでの一連の過程がある。この過程において どこかで うそをつくという転換点があるだろう。  ☆ という問題です。  ★ 心身の二重の問題  ☆ であるよりは このように うそつまり悪という契機のほうが 分かりやすいようには思います。  ★ aの真心なり動機に対してbの邪が忍び寄ると言うことですね。  ☆ これも ですから 上の《うそ》をえらぶという転換点の問題だと思います。これを 《邪》と言ったわけですね。  ○ 善を内容とすると言ってよい観念は――すなわち 利他・慈悲・正義・隣人愛・自由・平等などなどは―― そのまま これらの観念をこころに思い その思念のまま 行動に移せば 善行であると考えられがちである。  ☆ のだと思います。おそらく このとき もし問題があるとすれば それは 相手の存在やそのときの情況を しっかりと 捉えないまま 実行に移すことではないでしょうか。あるいはまた 実践の問題ではないとすれば そのような観念なる言葉を 話の端々に 差し挟めば 相手は 納得するだろうと思う浅はかさではないでしょうか。  もっとも その相手も 納得してしまうという浅はかさを持ち合わせていることが しばしばです。アメリカ人が フェアだとかディースンシーといった言葉(その観念)に弱いのと同じように 日本人は 慈悲なり思いやりなりの言葉に いちころのようです。この印籠が見えぬか とでもいう幻想共同が なきにしもあらずですね。さとり あるいは 空 この語を出せば 自分は 仏教に通じていると思われるだろうとでも 思っているのでしょうか。そう受け取る人びとも 多いのでしょうか。  ○ 善なる意志判断内容の 観念化。  ○ その思念を持てば 自分は 善であるという錯視。  ○ 《言葉では 言い表わせないほどのブッダの境地》と言えば ひとは みな ひれ伏すだろうという思い込み。  ☆ こういった善意の酔っ払いが なんと 多いことでしょう!!! むろん この質疑応答で散見しうると言おうとしています。ブッダになるとは 目覚めなさいという意味ですから 二日酔いから早く 目覚めてもらいたいものです。  それには 身体=精神としての人間のいとなむ生活に根ざすスサノヲ人間語を基礎としていなければいけないでしょうね。スサノヲ語を磨いて その中から アマテラス概念語を駆使するようになる。あるいはアマテラス人格語を みづからに合わせて 確立させてゆく。アマテラス恰好つけ語は あくまで スサノヲ本人つまりわたしが 使うのですから。その逆の アマテラスがスサノヲを振り回すのではないわけですから。逆立ちしていては いつまで経っても さとり・空・慈悲・仏性・・・といった呪文が 絶えないでしょうね。

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回答No.21

(1) 基層としての《善悪の判断》と上層としての《適正不適正の判断》という二層構造なる見方 (2) これらあらゆる判断にとっての 時間的経過をともなうことによる結果に対する無知(未知)の問題  二層構造は賛成ですが、基層を「善悪」と呼ぶかどうかは、違和感がのこります。  他利の善と我利の善を区別、分析、判断するのが主観ですから、基層は相当複雑な処理をしている  と思います。★善と☆善をはっきり区別しないと訳が解らなくなりますね。  無知(未知)への注視、監視が、一方の善と関係が深いとは思います。 >☆ 求償権や履行請求権といえば いくらか 功利主義の思想が匂います。CO2排出権のごとくに 響きます。逆に そのほうが 無理なく 秩序ただしく 動態的な自由が得られるかも知れません。  それを行使するかは別です。請求権が自然に発生するということで、支払者が一人でもいて、他の連帯者に求償した場合、被求償者が支払わなければ  連帯していないことがはっきりするということですね。だれもその判断から逃れられません。 戦前の体制がとりあげられてますね。 一億玉砕、これが、連帯でしょうか。単なる強い連帯感でしょうね。責任ある連帯をしていたとは思えません。 司令官が、最後に「一死をもって大罪を謝し奉る。」、これも、連帯ではありません。 精神論としては良く解りますが、責任逃避となります。 命をかけてものごとに取り組めば責任を果たしていると思ったら大間違いですね。 精神論だけで突き進もうとして、状況を知ろうともしなかった姿勢にもともと責任の欠如があるんですね。 連帯とは、責任の分散ではありません。全員が、そのものごとの無限責任を負うということです。 命をかけるかけない、職を辞する留まるなど関係がなく、端的に責任を果たすか果たさないかです。 責任とは何かですね。静的な責任は簡単ですね。賠償、支払い、義務、刑事責任ですね。 もっと重要なのは、事前において、失敗の予見と合理的対策立案と事前の実施及び無知(未知)の注視、監視、事後においては、過ちを二度と起こさないシステムの完成と維持だと思いますね。戦後で言えば、民主主義、自由主義、平等主義、それぞれの愚劣、欠陥を知ろうとしないこと、そしてそれを埋めようとしない責任のことですね。 そうでないと、また失敗するということです。その責任は、責任の欠如にあるわけです。 責任によって自由が増大するのは、ものごとを合理的に妥当性を検証しながら決めることで、単純にいえば過ちを犯さないであろう行動が見出される、あるいは新たにそれをすることができるからであって、好き勝手ができるようになるわけではありませんね。 >★ 責任を多く負担する者は その履行も 率先して おこなっているでしょうから しかも その請求権を ゼロにされても――すすんでではなく 好んででもなく―― 止むを得ないと考えるかも知れません。そこのところを 塩梅よくやるには どうすれば よいか。  責任ある連帯がどれだけ広がっているかに尽きますね。  責任を果たした者に共感しても、自分が責任を果たさないなら、連帯しているとは言えませんね。  彼がやったなら、私もやる、私もできる・・・という緩やかな履行促進でしょうか。  既に責任を果たした者は、その履行促進の力、発言力等を自然に獲得しているということでしょうね。  

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 責任ある連帯がどれだけ広がっているかに尽きますね。  ☆ 責任ある社会の第一集団(つまり 最初の三分の一の人びと)が その共同性を確立したあかつきには 社会の権限や権力の地位に就くのは――つまり 広く一般化して 公務員となるのは―― 民間人からの当番制にするとよいのではないか。こうも考えます。裁判員制度での抽選によるかたちですね。  二階族による主導ではなく 一階人の一階人による一階人のための共同自治ですね。  * これは 日本が始発になるのでしょうが ほかの国ぐににも 同じように おこなうように 交渉するか もしくは この考えと制度を輸出しなければならないでしょうね。只ですけれど。おしつけに見られがちでしょうか? いやがられましょうか?

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 《連帯責任》  ☆ について かなり つっこんで 明らかにしていただきました。ありがとうございます。いいことを言いますね。うまく言いますね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  命をかけてものごとに取り組めば責任を果たしていると思ったら大間違いですね。  精神論だけで突き進もうとして、状況を知ろうともしなかった姿勢にもともと責任の欠如があるんですね。  連帯とは、責任の分散ではありません。全員が、そのものごとの無限責任を負うということです。  命をかけるかけない、職を辞する留まるなど関係がなく、端的に責任を果たすか果たさないかです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もう ただただ 引用するだけですが その前に  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   二層構造は賛成ですが、基層を「善悪」と呼ぶかどうかは、違和感がのこります。  他利の善と我利の善を区別、分析、判断するのが主観ですから、基層は相当複雑な処理をしている  と思います。★善と☆善をはっきり区別しないと訳が解らなくなりますね。  無知(未知)への注視、監視が、一方の善と関係が深いとは思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この問題です。たぶん   ○ 主観的な第一次の善悪判断  ☆ は あまりにも 素朴で相手や社会が見えていない段階での意志決定であるように たしかに 採られますね。ただ自分の心に やましさが感じられなければよいという幼稚な判断であるように映りますね。  ただし ここで 子どもの場合は除きます。そして おとなの選択行為を前提とするのですが 時代が時代ですから もはや現代では 人びと一般の判断力のあり方――つまり 《常識》とは ほんとうには このことですね(知識の問題ではなく)―― これを すでに身につけていると前提しても よいのではないでしょうか。  共同性そして普遍性をもった主観判断を しかも 第一次の特徴としての《うそか まことか》もしくは《やましさの有無》を伴なった善悪判断のかたちで 前提としていて よいと考えるのです。どうでしょう。ですから  ★ 基層は相当複雑な処理をしている / と思います。  ★ 無知(未知)への注視、監視が、一方の善〔* だけではなく 幼稚な善をも含めて 社会におけるみづからの位置関係をも勘案した善の判断〕と関係が深いとは思います。  ☆ と見通すのです。  ★ *******************************************************  全員が、そのものごとの無限責任を負うということです。・・・ /  端的に責任を果たすか果たさないかです。  ************************************************************  ☆ どうも このことに尽きるようですね。どういうかたちの責任制をとろうと これに尽きますね。そして これが   ○ 《自由意志とその行使》 でありましょうし まだ単なる文学的な色合いを持った言葉であるに過ぎないと見られがちながら   ○ 《愛》 という動態なのでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  責任とは何かですね。静的な責任は簡単ですね。賠償、支払い、義務、刑事責任ですね。  もっと重要なのは、事前において、失敗の予見と合理的対策立案と事前の実施及び無知(未知)の注視、監視、事後においては、過ちを二度と起こさないシステムの完成と維持だと思いますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《愛》は 《経営》というふうに言いかえてもよいかも知れません。けっきょく 《共同自治》に行き着くことにもなります。  ★ 戦後で言えば、民主主義、自由主義、平等主義、それぞれの愚劣、欠陥を知ろうとしないこと、そしてそれを埋めようとしない責任のことですね。  ☆ No.14お礼欄で 《靖国》問題に触れています。いかがでしょうか。

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noname#117439
noname#117439
回答No.20

またまたオコリザルです。 考えをまとめるのに時間がかかって連続書き込みになってお恥ずかしいです。 >そもそも悪行をなして罪となった時点で、漫画の北斗の拳ではありませんが「お前は既に死んでいる」です。予め勝利を宣言するのが許すことです。その結果言われた本人は罪を自覚してあくを捨てるまで七転八倒するんです。 これだけだとまだ初心者向けの解説です。 このような許しであれば、罪となったならば、そこでまたさらに許すと言う必要がありでしょう。 罪すらも無いとです。 もはや危機は私を避けて通るので重大な犯罪に巻き込まれる心配は不要ですが、私はおもちゃ屋さんなので、万引みたいなのはめったにありませんけど、狼藉ぶりぶりの悪がきは毎日面倒見ています。この手の「許す」は、百戦錬磨です。罪もあくも無いと、(こちらで)嘘をつかないで告げるんです。それは懸案の三馬鹿トリオにとって許される奈落です。存在理由がなくなるんです。

noname#80116
質問者

補足

 《悪》と《罪》と《ゆるし》。  1. 意志ないし心のまこと(善)を ねじ曲げようとするやはり意志は 善のへそ曲がりであり 善の損傷としての悪です。  2. この悪を 人間は その存在の善が じつは 相対的な善であるに過ぎないので 完全に克服することができない。  3. 善をおこなおうとする意志はあるのに これをおこなうことが出来ず そうではない悪をおこなってしまう。この情けないわたしは 絶えない。  4. このとき わたしは ひとに対して 迷惑をかけ 申し訳ないと思うのも然ることながら 人間を超えたところに 和解と癒やしと解決を問い求める。存在ないしその生命の神秘を知って この相対的な経験世界を超えたところを介して 究極のやすらかな生を願い求める。  5. そうすると 悪をなお繰り返してしまうとき その最終のときほぐしを この謎の存在に 問う。悪行について この不思議の存在に対して 《罪》を負ったと感じる。  6. これらは すべて ひとりの人の主観の内面でおこることである。罪の自治 悪の自治が わたしの自己表現の内容であり 過程であり 人生である。  7. もし相手に迷惑をかけてしまった悪ないし〔主観内面としての〕罪があった場合 その相手から 《ゆるす》と言われて わたしたちは どう感じ どう捉えるか。  8. 片やひとつは 互いの赦し合いが 和解につながるのかなぁ・そうなんだろうなぁです。片やひとつは 《おまえは じぶんが悪行をおかすことから もはや 自由になったのか。そうではないことを わたしは知っている。罪をおのれの内面にて 感じないのだろうか。罪を自分で自分にゆるしているのだろうか。そんな自分勝手な心の持ち主なのか おまえは?》です。  9. 相手がからんでいる悪行にかんして 罪が 外面においても・つまりは 互いの人間どうしの関係においても 感じられ共有されるとするなら その罪=悪行に対するつぐないが必要だと考えられるようになります。  10. そのようにひとりの人間の《罪の内面における自治》が 外面においても社会全体にとっても 《悪行=罪の共同自治》という課題として 共有されるとき では 《ゆるし》とは どういう事態であるのか。刑法などの法律の規定から自由になって 哲学として捉えるなら どうなるか。(自由になるということは 法学の考えを含み得ます)。  11.★ 《「お前は既に死んでいる」〔と・・・〕言われた本人は罪を自覚してあくを捨てるまで七転八倒するんです》。  ☆ 要は 自己との和解でしょうね。意志行為の結果を すべて 引き受けて しかも 存在の善を取り戻し わたしは癒やされたというわたしの地点に立つことでしょうね。  試行でした。修正・展開をお願いします。みなさんにも 期待します。

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noname#117439
noname#117439
回答No.19

オコリザルです。 ご返答がまだですがA18で思い至った点に関してbrageloneさんにお問い合わせです。 以前に「つながりが愛である」と言うようなコメントお拝見しましたがキレイ事でいい人ぶっては悪人を作るだけなのに、そうならないのは、つながりが愛であるとの認識からでしょうか。 確かに無自覚に善行を積んでも結果が良しと出るなら、その交通には愛があり、それは神のはからいにも見えるでしょう。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん まだまだ 《悪》の問題 悪そのものの問題を きちんと 処理しておくべきでしょうね。  ここでは 悪を次の(1)の観点から 分析し把握することが 目的です。  1. ひとの存在は その自然本性において (α)孤独であると同時に (ω)孤独関係である。  2. 言いかえれば (α)社会的な独立存在であると同時に (ω)社会的な関係性をそなえた存在である。  3. その根拠は 実態として 自然本性の備える三つの行為能力のうち 特にその意志行為にある。  4. 意志決定は 飽くまで 《ひとり》の人間が その主観において 自由に 為す行為である。=(α)。  5. しかも同時に ひとは 社会にあって ほかのひとをも想定しているのだし 実際 交通し合う。その意味は 相手との関係(かかわり)が すでに存在している。=(ω)。  6. 相手と 交通(まじわり)を持つとき 互いの具体的な関係性が決まり しかも意志行為におよぶときには その好き嫌いなどの正負の向きも決まる。意志は 向きを持った力・ヱ゛クトルである。  7. この意志を それが 交通関係という局面において まじわりが つながりになるほどであるとき 正負の向きをひっくるめたかたちで 《愛》とよぶ。  8. 意志は 愛である。(α)=(ω)。  9. おそらく 存在じたいに 孤独と孤独関係とが 同居するなら 初発の意志においても 意志=愛である。あるいは そもそも 意志行為ないし自由意志ということそのものが 愛である。愛は ひとの自然本性である。  10. 意志に まこと(善)とうそ(悪)があるように 愛には 譲歩と利己とがある。共生と排除とがある。  11. 利他というものは 存在の善を・またその愛を それとして 観念化し美化し その段階で すでに 二次的な善であるのに これを 《自由に 一途に 〈純粋に〉 追求しよう》という酔っ払いでしょうね。たいていは そのような道徳規範を話しの中に 添えるならば かっこうええと思われるという思念から来るのでしょうね。つきつめるなら 利己ではないしょうか。(この点など 批判を待ちます)。  12. 利他の思想について述べた内容に対して 批判を待つと言ったのは その利他行為が みづからのはからい(意志)を超えて おこなってしまったという場合が あるのではないかと思われるからです。  13. ちょっと ちがう観点からおっしゃっているのでしょうが  ★ 確かに無自覚に善行を積んでも結果が良しと出るなら、その交通には愛があり、それは神のはからいにも見えるでしょう。  ☆ という指摘が当てはまるかにも 思われます。  直前(No.18)で保留した課題――悪と罪などの問題――は さらに 次のご回答(No.20)へのお応えで 触れたいと思います。

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noname#117439
noname#117439
回答No.18

オコリザルです。 たとえば成功体験などの経験的思考で、善行をなすことを目的に考えて判断に及ぶと、それは成功した場合には自分だけが気持ちいい独りよがりにしかならないのではないかと考えが及びました。 いわゆるきれい事です。 悪が悪行を成すのでは無いのと同じように、善が善行を成すのではないと考えます。そのように誤解の上に思考するならそれは煩悩としての善だと思います。 A17は敵を愛するとでも言いましょうか。 そもそも悪行をなして罪となった時点で、漫画の北斗の拳ではありませんが「お前は既に死んでいる」です。予め勝利を宣言するのが許すことです。その結果言われた本人は罪を自覚してあくを捨てるまで七転八倒するんです。これは自らの意思を正しく伝える自信なり確信なりがあれば真実となります。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば成功体験などの経験的思考で、善行をなすことを目的に考えて判断に及ぶと、それは成功した場合には自分だけが気持ちいい独りよがりにしかならないのではないかと考えが及びました。  いわゆるきれい事です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは いわば第一次の意志とそこから派生しがちの第二次の意志との区別の問題だと考えます。  意志行為にあたって   (a) 第一次の意志(――もしくは 思い・考えとして いまだ内面にある意思――)が まことであることと そして  (b) そのまことであることの善が 観念として――たとえば 自尊心や虚栄心をとおして―― 追求されるようになることと  これらが 識別されなければならない問題ではないでしょうか。(b)も 善は善であるのでしょうがねぇ。  存在――自然本性なる《わたし》――の自同律(アイデンティティ)と 意志判断の結果内容――それは 何らかの観念ですね――の同一性の追求とは 微妙に ちがうのでしょうね。後者には それでは 《うそ》があるのでしょうか? どうなんでしょう?  たとえば人助けという善行にかんして その善を 観念として頭の中に保ち その頭によって 大事にし行動にも移すということは そもそも第一次において 存在を大事にすることと 同じであるかどうか なのでしょうね。たぶん 《観念を介する》ことは いわゆる頭でっかちになることなのでしょうね。その意味では 逆立ちしています。  アマテラスが精神で スサノヲが身体であるとするなら――両者は とうぜん 一体であるのですが そうではないへそ曲がりのほうへ傾いて―― わたしが アマテラスをして 意志判断のすべてを 独占的に 主導せしむるなら それは逆立ちすることになります。そのほうが 時には 世間において かっこういいのでしょうね。ええかっこうをしたくなるのでしょうね。  そういうたぐいの投稿が ここでも 散見されますね。衒学趣味――要するに ひけらかしですね。わたしも ひけらかそうとするつもりになる場合が あります。ただし それも 血となり肉となった知解内容のみです。聞きかじりは 聞きかじりだとことわります。  アマテラス公民圏は じっさいには 市民スサノヲの市民スサノヲによる市民スサノヲのための市民政府のはづです。昔はいざ知らず 市民スサノヲ主権制に立つ国家形態です。いまだに 頭でっかちで 両者は 逆立して 連関していると言うべきでしょうね。それにしても われらがスサノヲ庶民は おとなしい平和の民であるようです。  しかるがゆえにこそ  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  悪〔* という観念〕が悪行を成すのでは無いのと同じように、善〔* という思念が どれだけ 純粋でとうといものであったとしても その観念をめぐる思念〕が善行を成すのではないと考えます。  そのように誤解の上に思考するならそれは煩悩としての善だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《煩悩》とは 一般に《無知》と説明されますが わたしの理解では 上のように 《派生的な第二次の意志判断において あたかも鼻の先にぶらさげた観念の美に酔い痴れて その思念を優先させるという・一次と二次との間の逆立ちによって起こる》と捉えます。善行をなすのは いつもbananasandさんが言うように 責任をともなって つまり 責任をあらかじめとしてでも すでに引き受けて わたしが為すのだということですよね。《わたし》が 意志判断を為し 意志行為をおこなうのでしょうね。《善》ないしその貴さや美は わたしの価値判断に属しますから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A17は敵を愛するとでも言いましょうか。  そもそも悪行をなして罪となった時点で、漫画の北斗の拳ではありませんが「お前は既に死んでいる」です。予め勝利を宣言するのが許すことです。その結果言われた本人は罪を自覚してあくを捨てるまで七転八倒するんです。これは自らの意思を正しく伝える自信なり確信なりがあれば真実となります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これに関しましては 次のNo.19のご回答へのご返事のほうで まとめて お応えします。

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noname#117439
noname#117439
回答No.17

オコリザルです。 A16のご返事はわかりやすかったです。 無意識をあくまで無意識として、二度と暴走しないように寝かしつけるために、非思考とはいい表現だと思って思索の対象にし始めたところでした。 良い参考となりました。 (2) そのような悪との共存を さらに しっかりと われわれは 考えていかねばならない。 1年以上前だったかと思いますが以前に「許し」の問題でコメント差し上げたことのあるエピソードの紹介です。 私の母は暴漢にナイフで刺されて大事件になったことがあります。 テレビなどで被害者の遺族のコメントとして「犯人を殺してやりたい」とか何とかいっているのがありますが、私の場合なら仮に母が殺されていてもテレビの前で「犯人を許す」とコメントするつもりです。 悪に染まった人間の悪意に共振せずにその善性なり真の人間性なりを確信できるのならそのように出来ます。 このように犯人が改心する前に予め許すと、犯人の自らの人格に対する認識に矛盾が生じて七転八倒の末、実際に改心できます。 ヤクザ型の自らが悪であると方便の言う職業的犯罪者の場合はカタギに徹すると付け入る隙を与えません。 そうではない悪の初心者、自らが悪人でなく悪意に狂った普通人の場合は、むしろ今回の例えのように許すと言うのが処方箋です。 実のところ人情のつながりの深い日本人同士は長いことあくと共存してきました。そのような情のつながりの通用しない現代はむしろカタギとして理性的に振舞って悪と決別すべきだと考えます。 このあたりは人生経験の浅さもあって軽率かもしれませんが。 人情、感情の働きの源泉は愛であるとの認識も必要です。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回は むつかしいです。主題は 分かっているのですが その判断あるいは結論を出すのは むつかしいです。  (1) ★ 「犯人を許す」  ☆ という問題。以前にも 話題になり わたしの考えも 述べたことと思いますが わたしの場合は 人間が人間を赦すという行為は きちんとおこなうのがむつかしいと思っております。その悪行ないし犯罪行為を許さない つまり 憎む このことは 決まっていますし そうし続けます。  やはり ひとを愛し 欠陥を憎むという方針は ここでも つらぬくと思います。《ひとを つまり その存在を愛する》。ただし 《赦す》という表明を 明言するということは しない。《更生するように促す》。といったところです。つまり 煮え切らないかっこうです。  犯人が あやまりに来る場合 受け容れてその言葉を聞くと考えます。その言葉を聞いて 判断すると思います。心がかよったかどうかです。  (2) ★ このように犯人が改心する前に予め許すと、犯人の自らの人格に対する認識に矛盾が生じて七転八倒の末、実際に改心できます。  ☆ これも 煮え切らない態度で受け留めます。積極的に賛同するまでには到りません。と言うより 分からないと言ったほうが 当たっているかも知れません。(1)が 《赦す》とは 表明しないのですから そのまま 同じ筋道の上で 考えることも むつかしいです。  ★ そうではない悪の初心者、自らが悪人でなく悪意に狂った普通人の場合は、むしろ今回の例えのように許すと言うのが処方箋です。  ☆ というように 《職業的犯罪者》でない場合のことだそうですが まだ 決まりません。《赦す》と表明しないと思っていること これだけが はっきりしています。その犯行について 徹底的に憎むでしょうし その存在については 更生できるように できるだけ 努めるというかたちで 愛する。いまは これだけですね。わたしの場合 分かっていることで こういう判断を持っていますとお伝えできることは。  (3) ★ そのような情のつながりの通用しない現代はむしろカタギとして理性的に振舞って悪と決別すべきだと考えます。  ☆ これも むつかしい。《欠陥としての悪を憎み 存在については その存続のために こちらも努力する》 この方針に 尽きます。いえ そうであるかは 分かりません。いま言えることが それに尽きるという意味です。  澄みません。今回は こういう状態です。

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noname#117439
noname#117439
回答No.16

オコリザルです。 思念の伝播に煩悩が(鬼神)答える現象を別にすれば「非思考」といっても、そもそも全てが非思考です。放って置けば私は何も考えません。 心理学的解釈では「水面下の出来事」とでも表現したほうがいいでしょう。 言行不一致なる悩みを自らお持ちの方も多いと思いますが、「煩悩」イコール「考え」であれば、そもそも言行は一致しなくて当たり前です。 この場合の一致とは欲望への恭順なり烏合と勘違いされます。 勘違いは分別の無さの現われです。概念のごった煮状態です。 異なる概念を無理解のまま結びつける状態をコンプレックスといいます。

noname#80116
質問者

お礼

まちがいましたとあやまるほか ないのです。これが 出来なければ 意志行為を滞らせるいわゆる心理的なコンプレックスになります。  でも これも あくまで 心理的な問題です。心の海の表面での動きです。心ないし 精神=身体の自然本性には なにも 問題はありません。善であり 自由のちからが 健全のままです。  しかしながらこの場合 それでも 重症だとするなら それは 水面下でも何かが起こっているのでしょう。おそらく その健全な自然本性の三つの能力が 滞って 海底にまで 沈んでしまったのでしょう。しかも 基本は 《たゆたえども 沈まず》というのが 人間の栄光ある知性です。知性が だめなら 非思考の信仰があります。ここに 《なぞ》があります。不思議です。ゆえに 《霊》というようです。しかも 霊のなぞに到ったなら また そこから この時間的な知性に戻って来なければなりません。霊は ひとに 知性の放棄をさせないので なぞなのですから。知性の放棄をさせるためのなぞは スピリチュアルと言うようです。  * ここで 下品な言葉をあえて使いましょう。《心理学ほどくだらない学問はない。精神分析など くそくらえだ。何がスピリチュアルだ》。そもそもの初めに わが精神の緑野の存在を 言いたまえ。コンプレックスも へちまもありません。魂プレックスとでも読むとよいかも知れません。哲学よ 起これ。しかも 大幅に感情丸出しになるなら 起こって 怒れ。  * 三つの行為能力のはたらきが 海底にまで沈んでしまって はたらかないというとき 科学的に 神経の作用などが どうなっていて それに対して どう対処するか――物質的な処理として どうするか―― これが 探究に値することは 言うまでもありません。しかも そもそもの初めに   (1) うその管理をしようとすることが まちがっているのに そうしようとしている。ゆえに 糸のこんがらがりが出来る。  (2) そのような悪との共存を さらに しっかりと われわれは 考えていかねばならない。  これで 質問のねらいに戻りました。わたくしも手探りです。さらに ご回答をよろしくどうぞ。

noname#80116
質問者

補足

 ★ そもそも全てが非思考です。放って置けば私は何も考えません。 / 心理学的解釈では「水面下の出来事」とでも表現したほうがいいでしょう。  ☆ いいえ 違います。定義の問題でもありますが   ○ 非思考は 思考にあらずですから 思考がないという無思考とは 明らかに 別です。  ○ 思考がある・ないを超えているという意味を 非思考と言い その非思考の・しかも人間による経験的な 行為を 《信じる》と規定します。  ○ 人間の成す行為であるのに 人間を超えたところのなぞ(つまり 絶対)を 受け容れる行為として 信じると定義するものです。  ○ 言いかえると この《絶対》と《わたし》との関係は――つまり それが 《信仰》ですが―― 人間のことばで 《信じる》と言っても 《信じない》と言っても 互いに 違いは ないのです。  ○ 有神論=無神論なのです。ただ 両者は 言葉による表現としては 有るか無いかの違いから始まって たもとを分かちます。  ○ 人間の共同主観として 歴史を経て 民主主義を形成してきたのは 人間の栄光ですが この栄光を――なぜなら 人間の善は 相対的な善であるに過ぎないからですが―― 神に帰すのも 無神に帰す(つまり 神には帰さない つまり およそ 人間の能力のたまものなのだと見る)のも ともに 自由であります。  ○ 神を信じるというのも 自由であり 無神を信じる・つまり神を信じないというのも 自由であり どちらも ともに 互いにまったく対等な《信仰》です。つまり 非思考の行為です。  ○ つまり 非思考の行為=信仰は 自然本性の記憶・知解・意志の三つの能力行為を 超えています。それでいて なおかつ 人間のおこなう行為です。  ○ わづかに こころの明け・開け あるいは 伸びとして しかも はからい(意志)を超えて――あたかもひつじたちが よき羊飼いの声を聞いて 集まるように――わが生命がなびくのでしょうね。  ☆ かくて 非思考=信仰は 水面上の出来事でもなければ  ★ 水面下の出来事  ☆ でもありません。超えています。  ★ 言行不一致  ☆ は うその問題です。言ったときには うそでなかったのが 行ないに際して 違ったことをやるという場合のウソをも含めれば いいわけです。  ★ 勘違いは分別の無さの現われです。概念のごった煮状態です。  ☆ いいえ 違います。記憶ちがい あるいは 記憶からの知解作業での認識間違いがある選択肢であるにもかかわらず 意志は それを まこととして えらんだという場合です。  注意不足だと言えば それまでですが ひとの知性には そして 心にも それくらいのあそびがあって いいと思います。分別があっても 勘違いは 起こると考えます。概念の整理は まちがって しっかりと 出来ている状態で 起こるのです。  ★ 異なる概念を無理解のまま結びつける状態をコンプレックスといいます。  ☆ これは まったくのでたらめです。《無理解のまま》ないし《知解作業のあいまいさやその放棄によって 未認識のまま》 何らかの事柄を 意志行為として選択することは やぶれかぶれと言います。果ては 知性の放棄につながるかも知れません。  ★ コンプレックス  ☆ というのは 基本的には  ○ 《複数のわが意志行為の時間過程性における複合》  ☆ のことです。この複合が 乱雑であるときに 悩みをもたらします。  意志行為が 時間行為であることは 善(意志の善)が相対的であるということと同義です。存在が 時間的なるものです。(しかも 非思考=信仰においては 時間を超えたところのなぞを受け容れています)。  したがって ひとは生きるとき いくつかの意志判断を 連続して 行為に表わしますが これらの意志行為が 時間的な過程にあって 複雑に絡み合うことを 《コンプレックス》と言います。たとえば 化学コンビナートが いくつかの製品の製造過程を 複雑に連結させて 一箇所にあつめて生産行為を行なう場合も コンプレックスなわけです。  しかも コンビナートが いくら複雑であっても 知性によって きちんと 識別され 運営されているのと同じように 人間の 始点と終点とに時間差のある意志行為とその連続であっても 知性にもとづいて 経営していけるはづです。問題が起こるとすれば それは 意志行為におけるウソ・へそ曲がりにあります。  ウソをつくたびに 存在ないしわが意志の善が減少します。わが自由意志の自由が 損傷を受けます。これらの善の損傷つまりは悪は とうぜん みづからが 経営管理しなければなりません。うその管理など 出来るわけがありません。

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     この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。  それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。  趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。  人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。  さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。  この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。  だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。  さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。  その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。  現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。  長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?  以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。