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悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか

 ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。  ☆ これが 問い求めの主題です。  趣旨説明です。  (1) 《悪は 存在しない》を みづからの主観において 保つ人びとは 果たして この主観を社会的に共同化しうるか。いかにして しうるか。  (2) 《悪は 存在しない》という命題は 次の内容を言います。  :《悪は 善の欠如した状態であるから そのものとして 存在しない。あるとしても 〈善の完全な欠如〉を想像裡において 絶対化したところの観念である〈悪魔〉のみである。世代から次の世代へと 人それぞれの思念において 受け継がれていくと あたかも この悪魔は 永続しているように見える。だが それだけのことだ》。  (3) もし人生が たたかいであるとすれば この悪とのたたかい すなわち 自分とのたたかい これは 個人の内面における孤独なたたかいであると わたしは 思っていました。あるいは 個人・対・個人 すなわち 一対一の或る種のたたかいであると。  (4) しかも 社会の一定の単位体における情況についても 考えていました。それは 先の(1)の主観共同化 ないし 共同主観(コモンセンス)が 確立できた人びとが 全体の三分の一を占め 次の三分の一が 共感派を形成し 残りを 《お呼びでない》派が占めるという構図です。  (5) しかも この社会としての構図についても 飽くまで わたしたちの成すことは 日常生活におけるふつうの個人としての・(3)に言う一対一での対話であると考えていました。  (6) 果たして 連帯は 必須のことでしょうか。自由に 為し得るでしょうか。協力と言うとすると いったい どういうことが 考えられるでしょうか。(これは いまは 団体や組織を 前提としない場合です)。  このような問いです。自由なご見解をおおしえください。趣旨の中の前提事項について 異議を唱えてくださる場合も 歓迎します。  * 何か ただ 自覚の問題だけだというようにも 思われて 愚問かも知れないのですが 次のようにも 考えてみました。  (7) 《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》という命題を持つとすれば その《麦と毒麦との混合状態を いかにして 平和裡に 保つか》 こういう問いになろうかと考えます。よろしくどうぞ。

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回答No.33

《わたし》とクオリア でさんざん非線形について語ったと同じ話になってきました。 《わたし》は、知っている。は確かに動性道徳の立場でもありますし、そうでなければなりませんが、 このコンピュータメタファーでは、《わたし》は狭帯域なメインルーチンにすぎません。 この手の話は、専門の書籍や論文を読んだ方がいいのかも知れませんが、 井戸端会議ということで好き勝手に記載してみます。 非線形の何らかの出力を受け入れた後に善でなかった場合は、無いと思うのですが、 これも《わたし》の位置づけによって変わるので、概ねまとめて頂いた通りかと思います。 ○ 感覚善が わたしの最終判断のきっかけになっているようだ。 感覚善からの先を考察すると 感覚善→効果意思→行動意思→行動 リンゴを食べたい。→食べることを決心する。→リンゴに腕を伸ばす決心をする。→腕を伸ばす。 感覚善→効果意思の間にもいずれの「→」にも非線形がありますね。飛躍があるのです。 当たり前すぎて解りにくいのですが、 リンゴを食べたいと感じている状態と食べることを決心した状態は全く異なりますね。 この状態の相転移は、実はメインルーチンがやっていません。 直感とは異なりますが、突然変化します。 日常生活で意思を持つと言っているのは、「感覚善」の存在のことを言いますね。 食べたい から よし食べよう へなぜ変化したのかは、メインルーチンから見ると 当然「食べたいから」ですが、「よし食べよう」の状態にしたのは、サブルーチンですね。 この考え方で言えば動性道徳は、狭帯域のわたしからはみえない広帯域のわたしに存在する沢山の サブルーチン群を健全に発達させ続けるということになりますかね。ありきたりですが・・ ここで菊田医師事件(医師法違反、公正証書原本不実記載罪)を考えます。 菊田医師は、当時の常識、規範、法律を、意思をもって犯し、胎児の命を助けるという行動を とっています。 結果として法律改正、新制度発足とはなったのですが、明らかに犯罪を犯しています。 http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-002-8.htm 菊田医師自身の葛藤と支援の波、迫害の波がどのようにして起こったのか。 感覚善、妥当善、行動の波紋、共同作業同士があたかも全体として1個の生物のように つまり、メインルーチンとサブルーチンの如くに動いて、最終結論である法改正へ 導かれています。たった一人の行動が、如何に大きなうねりを作り出すがわかります。 もともと、既に、非常に帯域の広い現実が常に動いていて、そこに持ち込まれる行動の波紋は、 常に無数の感覚善、妥当善サブルーチンに晒され、判断され、次の行動を生み出す 新たなきっかけになっているということではないでしょうか。この鈍いようで非常に鋭い 動きのサブルーチン側を動性道徳の対象と言っているんですよね。

参考URL:
http://www.ningen-rekishi.co.jp/details/4-89007-002-8.htm
noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん かなり煮詰まって来ました。ご回答をありがとうございます。  ○ 人間の成す判断および意志決定なる行為としての《身体=精神》の現象論  ○ それは ひとりの人間である《わたし》の自己表現であり その動態である。  ○ 基層は 主観的な第一次の善悪判断として成る。これに付随して ものごとの適正・不適正という基準による判断が 第二次として 起こっている。  ○ このとき 基層の判断過程は あらゆる参考資料および自己の傾向を総合して 最終的に判断をくだすメイン・ルーチンが 受け持つ。  ○ その際 資料やみづからの癖のいくつかが 一般に 意志決定のきっかけになると考えられ それらは サブ・ルーチンを構成する。  ○ 第二次の適正・不適正の判断も それが 直接に生命存在の善悪にかかわらないことを除けば 同じように 過程されると思われる。  ○ サブルーチンには 例として 経験合理性にもとづく妥当性を追究する《妥当善》や 逆に 妥当性に合致するかたちでだが 論理的な整合性から自由なかたちででも 感性をはたらかせようとするというべき《感覚善》が 挙げられる。両方が 大事である。  ○ 妥当善は B.パスカルの言う《幾何学の精神》であり 感覚善は 《繊細の精神》であると言えるのではないか。  ○ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  〔菊田医師の採った行動が 《実子特例法》という新たな法律を生みだしたという事例についてかんがみるに〕 もともと、既に、非常に帯域の広い現実が常に動いていて、そこに持ち込まれる行動の波紋は、 / 常に無数の感覚善、妥当善サブルーチンに晒され、判断され、次の行動を生み出す / 新たなきっかけになっているということではないでしょうか。  この鈍いようで非常に鋭い動きのサブルーチン側を動性道徳の対象と言っているんですよね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ ☆ ただし これらサブルーチン側の動きを統括して 最終的な判断をくだすメインルーチンとしてのはたらき もしくはつまり 《わたし》の意志決定 これを見失ってはいけない。  ○ さらに ひるがえって ただし ★ ~~~~~~~~~~~~  感覚善からの先を考察すると    ◆ 感覚善→効果意思→行動意思→行動    : リンゴを食べたい。→食べることを決心する。→リンゴに腕を伸ばす決心をする。→腕を伸ばす。  感覚善→効果意思の間にも いずれの「→」にも非線形がありますね。飛躍があるのです。・・・  この状態の相転移は、実はメインルーチンがやっていません。  直感とは異なりますが、突然変化します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   * ★ 非線形の何らかの出力を受け入れた後に善でなかった場合は、無いと思うのですが、  ☆ この《非線形の飛躍を介して 判断に及んだ結果が 善でなかった場合》として思ったことは むしろ 《あとから 飛躍があったと言い張る場合》です。つまり たとえば 《神を見た》とかあるいは《悪魔の声を聞いた》とかいうふうに その非線形の部分を 言い繕う場合です。    * 愚の骨頂たる道徳規範から自由な動性道徳 という主題。あるいは 自己表現の動態としての《文体》という主題。文体が帯びる《クオリア》の問題。あるいは 妥当善が帯びる感覚善。それらをとおしてのコミュニケーション過程という主題。(これが 次の課題かも知れません)。

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その他の回答 (35)

noname#117439
noname#117439
回答No.5

オコリザルです。 長らく懸案の3バカトリオを欲、罪、悪、と表現してきましたが、正しくは、嘘、罪、悪、ですね。 嘘の対極、真実。 罪の対極、栄光。 悪の対極、善。 この対極の光は肯定できる意味を持ちながらも煩悩です。 煩悩として否定するのでなく、道具のように使う概念です。 A1のコメントでお披露目した存在善性に基づく連帯の私なりの条件は共感を呼ばないようですね。 私にとって一人でいることは孤独ではありません。 自己の同一性の完成としての一人です。 善の王国にはどうも入国しにくいです。

noname#80116
質問者

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。今夜は まだ 起きています。  ★ 共感  ☆ は まだ 意志決定をしていない状態を言うようで もし意志決定をしている場合には その判断は   ○ 同感(つまりは =同意・賛同・賛成など)  ☆ と言うようです。連帯は こちらのほうに基づくことになるのでしょうね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・〔真実・栄光・善なる〕この対極の光は肯定できる意味を持ちながらも煩悩です。  煩悩として否定するのでなく、道具のように使う概念です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは だいたい 善と言えども 飽くまで 《相対的な善》だということと同じだと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  私にとって一人でいることは孤独ではありません。  自己の同一性の完成としての一人です。  善の王国にはどうも入国しにくいです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 独特の位置におられるようですね。  ○ 孤独  ☆ ということばは 必ずしも 《さびしい》という意味を含みません。含む場合もあるわけですが 《人間存在》にかんして 《社会的な関係性》とともに持つと考えられるところの 《独立性 あるいは 〈個〉であること》という意味でも 孤独と言えると考えます。  したがって 孤独関係といえば ふつうに一般の人間関係を指し示すことができると思っているのですが。  理論上は   ★ 自己の同一性〔としての《わたし》〕  ☆ に 同時に 《孤独性》と《関係性》とが 潜在しているという見方です。  ですから  ★ 善の王国に入国  ☆ しなくとも その住民であるとは 見ています。ただし このいまの《連帯》に際して 一定の目的を共有して 組織立って 活動するとすれば それは 別の具体的な《結社》の形態になります。  まぁ 考えてみれば primeapeさんは おひとりでも 《麦と毒麦との共存 もしくは 毒麦の扱い》を おこなっておられるようですので あとは そのときの連帯として 特に どういう考え方が あるとすれば 出てくるか。こういう問いになるかと思います。

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回答No.4

ダイナミックに動いているのだということが根底にあります。 例外はありません。宇宙、自然、存在、生命、愛、善・・・あらゆるもの、そして、ことです。 唯一の例外は「動いている」という こと だけです。 存在は無に転じ、生は死に転じ、善は悪に転ずる。 正、誤もおっしゃる通り、状況によって、時間によって変わります。 動性道徳は、常にダイナミックでなければなりません。 だから、善悪でなく、正誤と言いたいですね。 善悪と正誤は異なります。違うことを言っています。主観であってもです。 今の行動に対して、善悪は今判断できますが、正誤は結果です。未来にあります。 転じると、 自由意思の存在自身を善とするのは結構ですが、それを問わない立場となります。ダイナミズムの存在のみを認めています。 あるA行動から、正の結果が得られ、それを踏まえB行動したら、誤った。 次にどうするか。自由意思です。その選択は善でしょう。しかし、結果は、正か誤のいずれかです。 判断基準は判断するときの基準にしかなりようがありません。この基準さえ、動いています。そして、行動時が如何に慈悲深く、愛に溢れる善であっても結果が誤であれば誤です。 自由意思は結果系から常にフィードバックするというダイナミズムを本来的機能として持ち合わせています。そして、その結果系は善悪ではなく正誤と呼んだ方がふさわしいです。 連帯についてですが、意識して手をつなぐのは共感であって、共感がなくても連帯が成り立ちます。達成すべきある目的でお互いに主観的に結合関係が生じることが連帯です。 「子供は地域みんなで育てる。」で言えば、育てる共同目的に対して結合し、連帯者相互間で結合し合うことになります。目的が一致する必要はありますが、連帯者相互で共感し合うことは要件ではありません。 「子供は地域みんなで育てる。」で言いたかったことは、地域で連帯が必要だということではなくて、この立派な題目の割に、連帯者が責任を果たさないのだから、連帯などしていない例を示したかったのです。また、お題目がなくとも目的、志を同じくし、責任を果たす者同士ならば、連帯しているということですね。そこにこそ共同主観があるといえるのではないでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。  ★ 意識して手をつなぐのは共感であって、共感がなくても連帯が成り立ちます。  ☆ おっしゃるとおりです。  ◆ 手をつなぐ  ☆ は 歌詞の中にあったので せっかくなら使ってやろうと思ったのが 裏目に出ました。意志によって心の手をつなぐと採ってください。と言うか 忘れてください。  ★ 達成すべきある目的でお互いに主観的に結合関係が生じることが連帯です。  ☆ これも おっしゃるとおりです。つまり やはり 一定の目的を持った・緩やかなものであっても 組織立った行動ということだと考えられますね。  ということは   ★ 「子供は地域みんなで育てる。」  ☆ という目的であれば およそ 永続すると思われますが おそらく 目的を きちんと 明確にすることが 重要であるように思います。そして 目的によっては その達成によって 解散すると規定されているというのが よいように思います。  もっとも 結社の自由にもとづき 政治団体あるいは文化団体の活動あるいは生活協同組合のような経済運動をいとなんでも いいとは 思っています。いまは そのような組織活動のためにも 基本的な連帯のあり方を問い求めたいとは考えました。  地域単位での子ども・高齢者あるいはふつうの生活者などなどの 生活安定や向上のための活動は 自由にさまざまに広範囲におこなって行なってよいと考えます。  それで 《自由と責任・義務履行》の同時性についてです。善悪などの問題にもなります。  このご回答に対しても なお 《主観による善悪判断》を基礎としたいと考えます。その意味は   ○ 一人の人による主観的な善悪の判断とその善の選択・実践が 基礎となれば したがって同時に 人びとおのおのが そのように 判断を明確にして実践していれば 一般に 社会的な交通ないし経済活動においても 《主観にもとづく善を内容とする意志行為を 互いに 合意して実践しあう》ことになる。  ☆ が ねらいです。もちろん   ★ 今の行動に対して、善悪は今判断できますが、正誤は結果です。未来にあります。  ☆ ということも 一般的な事態であり 情況であり 或る種の仕方で 方程式です。  ところが  ○ 合意した〔共同〕行為の結果についても その成・否が出て 否の場合の評価や 成った場合でも なおその当・否 ないし 適・非を判断するのであって それも じつは 各自の――その時点での――主観による判断である。  ☆ のです。当否・適非あるいは正誤の判定も じつは 基礎としては そのつど 善悪の判断を行なっているはづなのです。存在とその持続にとってよいかどうかの判断です。しかも 一人ひとりが その主観において 意志決定するかたちであり 討議を経て それらの総合というかたちを作ります。  ★ 自由意思は結果系から常にフィードバックするというダイナミズムを本来的機能として持ち合わせています。そして、その結果系は善悪ではなく正誤と呼んだ方がふさわしいです。  ☆ つまり 基礎に 一人ひとりの主観による善悪の判断があり その上に立って 実際の――どちらかと言えば 二次的・派生的な次元において―― 良・不良 合格・不合格 適当・不適当 正誤を判定するのではないでしょうか。  ★ 動性道徳は、常にダイナミックでなければなりません。  ☆ のですが そして 主観などというものは つねに あやまつものであるのですが 互いに 合意を持つに到り 社会的に広い範囲に 妥当性のある主観内容を共同化していけば 昔ならいざ知らず 現代においては かなりの普遍妥当性を持った動態過程を繰り広げることができるのではないか。こう考えるのです。(あやまちがなくなるという意味ではないわけですが)。  あるいは ちょっと弱腰になれば まづ 心では そのような普遍妥当性のことを知っているわけです。それに対して へそを曲げることが 少なくないというのが 現状ではないでしょうか。したがって そういう消極的な悪いかたちではありつつも 基礎は 主観による善悪判断が 担っていると見方は 生きているのではないでしょうか?

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回答No.3

善悪 というのはかなり難しいと思ってましたが、それがなぜかが少し解ってきました。 絶対性と相対性とは別に、さらに、正 誤、良 不良、可 否 と 善 悪 が、 似て非なるものだということをです。 誤っている(行動)が善(善意)であるとか、悪いことだが正しい ということ があって、善悪は、なんといいますか幾重にも重なる基準があるので さらにそこに主観を持ってくると非常に変化し易いです。 存在の正当、自然本性の肯定は、善で結構ですが、その善の欠如、へそ曲がりという本人が肯定可能な主観的善を 再度、悪に仕立てようということになっています。これはどちらにも傾きます。  善悪?相対?絶対?主観?客観?  結局のところ、目的によって、いかようにも論理構成できるため、如何に存在は善であることを前提としても、主観(心の領域)の善悪から発するかぎり、目的ある客観的善悪を判定する根拠にはならないと思われます。   この話は、善悪ではなくて、正誤で捉えるのがよろしいように思えてきました。 主観の中で心は、さらに広い全体の中の機能の一部であって、心がどのように機能したかは、心の善悪の基準になり得ても、事態の正誤の基準にはならないと思われます。 以上は前置きで、本筋ではないので、放置して頂いて構いません。  そして、連帯ですが対をなすのが責任です。自由-義務と同じことですが、具体的行動では逆から責めるのが正しい姿勢だと思っています。 つまり、先に責任を果たす、義務を負うということで、そうすると、連帯と自由がついてきます。 同時なら構わないのですが、連帯してから、自由を獲得してから、その後に責任を負うとバランスを崩しやすいですね。  身近な教育現場の例で、「子供は地域みんなで育てる。」という連帯性があります。 ところが、どの子供がやったか分からない非行の損害は、みんなで負担しようとはしません。結局地域ではなくて税金が負います。 犯人の子供の親、又は学校の責任としてとらえるので、連帯債務の無限責任を負っている意識などないのです。そうみると、この連帯性は、単なる共感にすぎません。(否定しているのではありません。) しかし、ある子供がいたずらをした(例えば落とし穴)結果、大けがをした人が発生した場合、その地域(学区)がその損害を賠償したら、その連帯は単なるお題目ではなくなります。  連帯、自由-責任、義務は、分離できない必須なものです。  ものごとは本来こうあるべきだという姿に対して責任を果たす者同士がそのものごとに対して連帯しています。 考え方に共感しているのは、共感しているのであって、もちろん力にはなりますが、それだけで連帯しているかどうかは計れません。 (7)《麦の中に毒麦が生えて来ても その混じったままにして 実るのを待つ》 は、実るのを待たざるを得ない状況がある。ということだと思います。 これは、毒麦でない麦が如何にそのままの麦でいるかに掛かります。 我々は、毒麦が育っていたことに気づきもしなかったと思っています。知ろうともしなかった。 同じ回答になりますが、平和を保つ為には、麦が先にその責任を果たせということでしょう。その苦悩以外に毒麦の解毒はできません。 余談の「世界が一つになるまで~♪」は、歌としては結構ですし、「愛が明日を守っている~♪」こともいいのですが、世界を一つにするが為の自らの苦悶や痛みがひとごとの愛に置き換えられているようで、ホテル・カリフォルニアの勘違い楽園への盲目的誘いに聞こえてしまいますね。 元に戻って、「われわれ現代人は、協力しうるか」ですが、具体的行動が責任を果たす限りにおいて、それに応ずる自由と連帯を獲得するということではないでしょうか。その責任がなければ、自由、愛、善など社会性において意味をなさず、まして、連帯など形成されようもありません。

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  正直に申しますが 共同作業は いやではないですし すすんで やりますが あまり やったことがなく 成功したというのも 少ないです。ですから きわめて 手探りの質問です。  また その複雑さを いまは 避けて 組織的な行動は 扱わないことにしています。それでも 《連帯》ということがあるか。あって 必要ならば どうすればよいかです。  まづ   ★ ホテル・カリフォルニア  ☆ という言葉で 世界の全体を捉えてはいけなかったですか? 世界には そうでない部分もあるというようなところでしょうか。でも その部分をも合わせて 全体の世界を 出口はあるのだが・自由に出られるのだが 或る意味で自由な運命共同体であるというような意味で ホテル・カリフォルニアとも言ってみました。  そして その自由の内包するところに関しては  ★ 連帯、自由-責任、義務は、分離できない必須なものです。  ☆ という主題を bananasandさんは 一貫して 主張なさっています。  これはですね。前置きとも関連していて その点 単純な理屈を述べてみます。  ○ 善は やはり 《へそ曲がりではない内容を 意志によって みづからの思惟や行為とすること》  ☆ としたいと まだ 思っています。  ○ へそ曲がりには 或る種のやましさが 感じられる。これが 基準となり得る。  ☆ ですから まったく単純に 主観の問題として 定義しています。それでも この主観が 社会的に 共同化されうるとも考えられます。常識=コモンセンス=共同主観です。そして 時代や単位社会に応じて 違いや変化があります。相対的なものです。  共同性ないし普遍性を持つかどうかの判断基準は 経験合理性に照らして 妥当であるかどうかです。民主主義は この妥当性の普遍妥当性を かなりの程度 担保するでしょう。  ★ 客観   ☆ は 問いません。(それが あるとしても 自然科学の成果として 現実性を持つ理論くらいです)。  ★ 絶対  ☆ は これまで触れても来ました。《絶対》という想定のもとに その絶対と《わたし》との関係 これを 非思考=信仰として 規定しています。ここでは あまり触れません。  ★ 正 誤、良 不良、可 否  ☆ これらは みな 一つひとつの主題・課題にかんして その目的に応じて もしくは その課題を提出しているたとえば学問なら学問の性格に応じて 判断基準が決まってくると思われます。言いかえると 存在(自然本性・自由意志)の基礎の上に つまり別の言い方をすれば 《わたし》の主観判断としての善悪問題なる基礎の上に 成り立つことがらではないかと考えます。善悪は 生命ないし生活にとって 一次的な問題として起こり その他は 二次的・派生的または部分分野的であるように捉えます。  ちなみに 《正義》とかいう場合には ややこしいです。先の《絶対》にかかわらせて規定することもありましょうし ただ単に経験的なこととして 社会秩序の上で 善良であるという意味合いを持つこともあるでしょうから。  言いかえると ひとりの主観が 善と判断した思惟や行動が 社会的に共同性を持って 共同主観となっているときには それこそ 《動性道徳》としてのように 答責性=責任=義務をも伴なっていると考えるのです。という意味は  ★ 同時なら構わないのですが、連帯してから、自由を獲得してから、その後に責任を負うとバランスを崩しやすいですね。  ☆ と分析しうるときの《同時性》が 一般に 基本ではないかと考えます。主観の判断した善悪にもとづくその行為にかんしてです。  ただ――ただ です。ただ―― これが 《連帯》と言えるのかです。したがって  ★ つまり、先に責任を果たす、義務を負うということで、そうすると、連帯と自由がついてきます。  ★ 平和を保つ為には、麦が先にその責任を果たせということでしょう。その苦悩以外に毒麦の解毒はできません。  ☆ ということで ある程度の仕組みをもって・一定のゆるやかなまとまりを持って 活動することにならざるを得ないでしょうか。  ★ 「子供は地域みんなで育てる。」という連帯性があります。 / 連帯債務の無限責任を負っている意識  ☆ といった事例 そのようなつながりを持つ必要があるでしょうか? つまり 連帯というからには ある程度は 手をつなぐ必要があるでしょうか?  ◆ 「世界が一つになるまで~♪」  ☆ の歌詞は ゆめ・希望といった主題であるように思いました。

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  • o-sai
  • ベストアンサー率19% (199/1001)
回答No.2

政治学的に考えてみれば、善悪を判断するのは司法で、司法の基礎は憲法です。 真に平和的で民主的で全人類の幸福を願う憲法、というものは残念ながらどの国にもありません。 日本の場合でも、最高裁判所の判事を政府スタッフが任命できる点など、真には三権分離していないので、 資本家の政治献金で国政が動き、国家の成り立ちそのものが資本家優先に構築されます。 資本主義国家というのは、言い換えれば「資本家のための国家」ということですね。 彼らは宣伝媒体のメディアも掌握していますから、磐石の状態と言えます。 では社会主義国家とは何か、といえば「社会の権力者のための国家」ということです。 ですからメディアも権力者が掌握します。 どの立場を代表する集団が政治を掌握するかによって、それぞれの国家の中で善悪が判断されます。 最近でも、ロス疑惑での日本の最高裁の判断を米国が無視したように、善悪の判断は各時代の国家ごとに異なる、というのが事実です。 余談ですが、「世界が一つになるまで~♪」という歌詞がありましたが、誰も「世界がイスラムで一つになるまで」という意味には捉えなかったようです。 たぶん「世界がアメリカ教で一つになるまで」という意味に勝手にイメージしたのでしょうね。 もしくは何も考えずに「いい歌詞だ」とでも感じたのでしょう。 絶対的な真の善悪判断が存在し得ない以上、「自由な市民による自由な連帯」という真の定義も難しくないですか? 自由=自由経済=資本家主義 ? もしくは 自由=集団による権力掌握の自由=社会主義 ? 資本家第一主義も、最近は欺瞞が露呈して人気が破綻しかかっています。 超高級車や超高級住宅の需要は落ちてはいないらしいので、国家権力の中枢にいる資本家や華僑貴族や石油王たちは健在です。 その他の人類に対して、資本第一主義に替わる新しい世界秩序イメージのプレゼンを研究中、といった過渡期なのでしょう。 そういう視点であれば、権力の中枢にいない側から新しい世界秩序イメージを提案するのはとても意義あることです。 資本家の息のかかっていないメディアを使って広く提言できるかどうかが鍵ですね。

noname#80116
質問者

補足

 o-saiさん ご回答をありがとうございます。  なるほど。巨視的な見方に立つことも忘れるなかれ ですね。歴史も あるいはまた ただいまの現実をも 直視して 進まれよですね。  これまで じつは ひとりの《わたし》という主題 あるいはいわゆる《存在》という問題 これを 考えて来ましたが おそらく そのときすでに マクロもミクロも 両視点は 地続きであったし 同時に 入り組み合いつつ かかわっているということだったのでしょうね。  資本主義に関してなら 《社会的分業による製品とわが生活との疎外 / モノの商品化 / 貨幣という媒介物による人びとの交通という生活様式をとおしての ひとの心のモノ化(物象化)》についても じつは すでに適切な回答をいただいています。  ● 《Q:あなたは すくわれていますか》  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4685837.htmlそのNo.4=yukkinn66さん  ☆ あるいは マクロによる詳細な分析こそなけれ ひとの現実生活における《善の持続の困難さ》を指摘した回答(同上の質問でのbananasand さんを初めとして多くのみなさん)があり そこでは この世界が 《けっきょくは 善も悪も 人びとそれぞれの意志による自由な選択によって成り立っている〈ホテル・カリフォルニア〉》であると喩えています。そうして 帯域を広く持って 注意を怠らないという姿勢です。自由意志に訴えよ・自由に訴え合いなさいという含みがあります。また 井戸端会議とも言っています。  これまでにおいては  ★ イスラーム世界 / アメリカ教 / そして 社会主義社会の歴史  ☆ については まだまだ あいまいにして やって来ました。わたし個人は 《イスラーム》については あきらめていますが ほかについては どうなんでしょう?  ○ アメリカ主義については 簡単に 《勤勉資本主義》とその自己目的化した《ガリ勉資本家主義》とは 別だと捉えられる。前者が 基礎であり その基盤を 後者の嵐によっても 揺るがないものにしてゆくことが 肝心である。《上げ底》の部分 つまりは 多少色眼鏡で見れば《毒麦》の部分 これを きちんと捉え 取りあえずは 共存を図るその方策を考えていく。うんぬん。  ○ 社会主義の歴史については そもそも かれらコミュニストらは 《〈義人〉同盟》の組織化から出発しています。自分たちは みづから 《善人》であると宣言していました。つまり 問題の分析視角で じつは われわれと 或る意味で 同じくし その方策やなかんづく理論において 違っている。とも考えられます。  まっ 実際には o-saiさんも 或る意味で とうぜんのごとく 同じ方向を向いておられ 同じ内容のことを 示唆しておられるとさえ 思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そういう視点であれば、権力の中枢にいない側から新しい世界秩序イメージを提案するのはとても意義あることです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうして その方途 すなわち この質問への解のあり方をも 提言してもらっています。  ★ 資本家の息のかかっていないメディアを使って広く提言できるかどうかが鍵ですね。  ☆ たぶん ここでも 広告が あちこちに出ていますから むつかしいかも知れませんし それでも 自由に 進めて行っても かまわないかも知れません。だめで もともと。当たってくだけろ。とでも 考えましょうか。  まとめて受け取ってみますと けっこう 賛同していただいているのではないかと ひそかに 感じました。心強く思いました。これが 自由な連帯でしょうか。  ★ 余談ですが、「世界が一つになるまで~♪」という歌詞がありましたが、  ☆ これについては(また 歌謡曲や芸能全般につきましては) 明るくないので 注目しておくべき事柄があっても 見逃しているかも分かりません。みなさんからも 指摘していただいて よいと思います。

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noname#117439
noname#117439
回答No.1

オコリザルです。 あくの話をしても面白くないので今回は「善」についての意見交換です。 愛が上、善が下、ということは無いと思います。 生命として存在する人間は自らが生きていくために他者(他の生命)を生かします。その行いが純粋な母性のように、これはむしろ、老い先短いおじいちゃんおばあちゃんが、生きているうちに恩返し出来る筈のないお孫さんをかわいがるように、まあともかく見返りを求めないで、はぐくむならそれは(行いとして)無償の愛でしょう。人間同士を想定して対等な関係で、お互いが生きるために有益な交流を結ぶのなら、愛は感情でもありますが、心理学的に感情に分類する見解の無い善の場合は、その共生のための智慧が善性ゆえに成されていると言えるでしょう。知性が善性を帯びていることとなります。自らの存在の実感は生物的に人間ですら感情によって起こりうるでしょう。そこで知性を後回しにするなら「善は下」とも言いえますが、それではいかにも独りよがりです。 ココまでが準備体操です。 ○ 自由な市民による自由な連帯は 果たして 可能か。いかにして 可能か。 まさに自由である市民は、自らが意思を備えているという自覚が強く、優柔不断さが無いので烏合しません。そのような心の強さがあるでしょう。自由でもあり自立してもいる自由な意思が連帯するなら、それは自らが生きるためではないでしょう。他者を生かすためです。 愛はイコールで愛情ではないです。 善はイコールで知性なのでしょうか。 そして意思はどのように表現するのでしょう。 愛の意思?善性のはからい?

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  まさに自由である市民は、自らが意思を備えているという自覚が強く、優柔不断さが無いので烏合しません。そのような心の強さがあるでしょう。  自由でもあり自立してもいる自由な意思が連帯するなら、それは自らが生きるためではないでしょう。他者を生かすためです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは いわゆる《自己犠牲》というような精神をおっしゃっているのでしょうか?  ううーん。もしそうだと 《連帯》は 無理ですね。そんなことを 誰も すすんで する人はいないでしょう。やむを得ず 結果として そうなるような行動を 自己の意志によって えらぶ人また場合は あるでしょう。  たぶん 《右のほほを打たれたなら・・・》の思想を 部分的に 誤解しておられませんか。  ● 《Q:〈左の頬をも向ける〉とき 抵抗を排除していますか》  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4094847.html  ☆ で問いましたが わたしは 《抵抗を排除していない》説に立ちます。(これは いままでのわたしの振る舞いで じゅうぶん ご存じのことです)。ですが  ○ 《左のほほをも向ける》のは 同じ一節に説明されているように 《千里を行けと言われたなら ≫いっしょに≪ 二千里を行ってやれ》なのです。通俗的に言いかえるなら 《とことん おつきあいしてやれ》なのです。  〔* この直前および直々前のわたしの質問では そのやり取りにおいて わたしのほうから 初めて 《お手上げです。根気が続かない》と言って わたしは音を挙げました。  〔 この初めての経験の意味するところは 今まで会わなかった人間類型を相手としたという初体験のことです。まぁ もっと おおざっぱに言えば 《おつきあいを続ける意味がない / もうすでに 行けと言われた千里を超えて 二千里もあるいは五万マイルも 行った。これ以上は 意味がない》という判断でした〕。  ところが 《抵抗を排除しない》とは言うものの けっきょく そういう場合にも 《犠牲》が出ないとも限らない。たしかに 事故は 予見し得ないでしょうから 《犠牲という考えを 排除し その危険がある場合には いっさい その選択を避ける》と言っていても それは 必ずしも 賢明な方策でもない。普遍性に欠けるようだ。  いまは 団体・組織をつくらないで 活動するかたちでの連帯ですから けっきょくのところは どうなるでしょう? 一人ひとりの自由な判断にゆだねられる。と なるのでしょうか?  付随する課題は こうです。いわゆる善人にも悪人にも 等しく 雨を降らすごとく 麦も毒麦も 社会にあって 共存するには どういう《連帯・協力》が あるかです。愛情とは反対の嫌悪を抱くその相手とも 共存するという《愛 あるいは 善・善性・善意》とは どういう現実であるか。《知性》を どう活かすか。  * 存在とその存続(維持向上)が 善ですから 存在の愛は 善です。存在・自然本性・自由意志(こころ・まこと)の愛は 善です。  * むかし 合理的な多数決原理よりも 《情感の共同性》による共同自治という側面を考えたことがあります。この情感の共同性は 合理性においても妥当な内容をもつ共同主観を かたちづくり 自由な連帯へとみちびくでしょうか?

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     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

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  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 悪に片向くことは 煮詰めて言えば 愛である。

     この詭弁におつきあいください。そして その当否について吟味・検証しつつ ご教授ください。        *  ひとは なにゆえ うつろいゆくことになるのか?  なにゆえ うつろいゆく側に心を置いてみようとするのか?  その心の片向きは 弱さから来るのか?  思うようにならないことにやけを起こすことからか?  ひとと心をかよわすことが出来ずにくじけてしまったからか?  けれどもその片向きをえらび取るのは おのれの意志である。  おのれの心の・おのれの存在のうつろいゆくことを おのが意志が欲する。ということが起きる。  やがて朽ちるそのことをえらばざるを得ないかのように おのれの心の腐る側へと おのが意志が向かう。  はっきり言えば おのれの死〔への道行き〕を意志がえらぶ。  けれどもこれは タナトスなどという死の本能などではない。  愛である。  社会に生きるというその存在の互いの関係性にもとづく愛である。  おそらく生きることを欲するゆえに 生きることとしての善を損傷させるかたちを取ってでも 世の中の人びとのうつろいゆく姿を見て見なかったことにはできない。という愛 からである。  世の悪を 《わたし》は 引き受けるのである。  なぜなら 《悪は存在しない》とそのおのが自然本性において信じているから。  愛が そこに すでに起こってしまったそれだけのこととして そういう生き方をわたしたちはえらんでいる。    知らなかったけれども 《わたし》はそれを欲したようなのである。悪を引き受けるという選択を。        *  《うつろいゆく・朽ちる・腐る》といった――つまり要するに ひとは時間的な存在であるから 死を死ぬというさだめにある――性質がある。  この《うまれて来て 生きて やがて寿命をまっとうして死ぬ》という《わたし》の時空間のウゴキに問題はない。  それは 言うなれば善であると思われる。  その善なる基礎としての自然本性・そしてそのうちの自由意志には この朽ちるウゴキをみづからが早めたりわざと欲したりする向きへも片向きそのように出来上がったヱクトルとして作用することが起きる。  これを 負の善 つまり 善の損傷と捉え 悪と呼ぶと考えた。  さらにはこの《悪》としてのウゴキ あるいは《悪》を――すでに身の周りや世界には起きているのを見てそれらを受け留め さらに――みづからが引き受けるという〔言ってみればコジツケのような〕《愛》のチカラおよびそのハタラキがある。のか?  悪に同調することと悪を引き受けることと。    考えてみれば 前者のよわいハタラキも すでに言うなれば愛である。ひとの存在をめぐって社会性ないし関係性の関数だという意味である。       *  《悪は 存在しない》という命題は 《悪に同調すること および 悪を引きうけること》といった《愛》の問題であった。  愛は すでに理屈抜きで 自然本性にあって――この自然本性なる心にさからって作用した自由意志にも対抗するかのように どん底より持ち上がり湧き上がって――その底力なるハタラキを表わす人間のチカラであるらしい。  《善に根差しつつ悪をも引き受ける》ところの《愛》  悪につき合う悪。  それは 死のほうへ寄って行くようなことだが  しかも愛だ。        *  愛とは何だ? と言われるでしょうから さしづめ おのれを活かし相手をも活かすハタラキでしょうか。

  • 《わたしがわたしである》わたしがわたしする

     1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。    2. もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。    3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。  4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこと(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。    5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。    6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イツハリをおこなう。光も曲がる。    7. つまりは 善なる存在は その存在としての善をも損傷する自由のもとにある。    8. ウソが それを 思惟しただけではなく実行したなら そのぶん もともとの(自然本性としての)善を傷つける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。    9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。    10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 善のうちにしかない。  11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在である。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけではない。善がひがみ ゆがむのみ。  12. 人びとの中には やけを起こす《わたし》がいるだけのことだ。  13. 善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へその曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる存在を自治する。自己経営する。    14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つまり人間の行為関係を共同自治して生きる。    15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよばれる。悪の共同自治ゆえ。  16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛はあるか。    17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。  18. これだけのことであるのに 世の中には――自由意志ゆえに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがある。  成否・当否を問います。  あるいは (18)以降を ご自分の見解で展開して行ってください。

  • 情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか

     この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。  それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。  趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。  人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。  さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。  この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。  だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。  さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。  その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。  現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。  長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?  以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。 

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

このQ&Aのポイント
  • ノートパソコンのWifi接続が他のネットワークに比べて遅い問題についてご相談です。
  • 会社のWifiに繋げている場合、他のWifiに接続するとネット速度が極端に遅くなり読み込みが完了しないという問題が発生しています。
  • 他のタブレットやデバイスは問題なく接続できるため、ノートパソコンに何らかの設定上の問題がある可能性があります。
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