• ベストアンサー

道徳規範は 愚の骨頂

arayata333の回答

回答No.38

>相手との関係では 問題点を しっかり 処理しておくことこそが あるいは それだけが 重要だと考えます。< この冷静なご判断には、もう少し対応すべきかなと思え、  「先送りされてる」とおっしゃられる問題から ともかく書いてみます。 * >はっきり言えば 何の価値もないという評価をしています。世の中成るように成る これだけの思想です。これだけが 思想です。まったくとるに足りないものだという評価です。それを あなたは 良く評価するところもあると言うのですから 真っ向から対立しているのです。そういう問題が 尾を引いています。< 「Kiさん」のことに絡むわけですが、そちらの問題とされている「世の中成るように成る」という思想との対立点は、 この質疑の問題とも関るものと思えますので、 筆を伸ばしておきます。 *まだ、完全にはOKウェブを去るとは決めていませんが、 それによってその地点を再び考えてみます。  OKウェブを去るのは、ともすれば激しくなってしまう私の筆に 自粛の意味もあるのですが、 もし、ほんとうに問題点を冷静に処理できるのであれば、  そのへんにももっと柔軟に対応すべきかとも思えます。 それは、  おそらく 価値的論議の大きな進展につながるかとも思うところです。(勝ち負けは関係ないです。でもそこに心が傷つく人がいれば、 私には、それは ともかく 出来ないことです。)* まず、その問題に入る前に確認しておきたいことが2点あります。 その問題へと入る前に、 何故? 何故そちらは >何の価値もない<という意見の世界の人が 論争から無責任に逃げたからといって、それをあえて他の質疑の中に持ち出してまで問題としようとしたのでしょう。 そんなに価値の無い意見ならば ほおっておけばいいのではないでしょうか? 規則違反をしてまで、それを問題としたのは、まさに、 《世の中成るように成る》との思想が、深い間違いだとの指摘をしたいということなのでしょうか? 感情的な対立とはいっさい関係ないわけですね。 2点目は >>はっきり言えば 何の価値もないという評価をしています。世の中成るように成る これだけの思想です。これだけが 思想です。まったくとるに足りないものだという評価です。< というところまでの 文章についての疑問ともなりますが、 この文章ですと (A)“「世の中成るように成る」という思想をKiさんが持っている、それは問題だ“ とも読めますし 反対に(B)“「世の中成るように成る」という思想こそ、思想の中の思想と言えるものであり、いやそれだけが思想なのだ。 Kiはそのへんを全く認識していない”というふうにも読み取れてしまいますが、 (A)(B)どちらが言いたいのでしょうか? まったく間逆の二つの解釈が出来てしまうと思うのです。 わたしは、 私の数少ないKiさんとの質疑にては、まったく「世の中成るように成る」という言葉を読んだわけでもなく またそのように解釈したり、そう推理できるようなことは読んでいませんでしたので、 あるいはそう理解できるような理解力が無かったということなのかもしれませんが、   それで余計に 二つの解釈が頭をよぎってしまうのだろうと思います。 たぶんですが、(A)の“「世の中 成るように成る」は おかしい、間違ってる” という方の 考えをbrageloneさんは持たれてるのだとは思うのですが、 神というと 運命予定説のようなものもあるかと思いますので、「成るように成る」という言葉は そのようにも思え、またまた疑いですが、 文章としては そう思えてしまいかねない文となってしまっているわけです。つまり 間逆に(B)の方である という場合も想定できてしまうということです。 ほんとうに そのように疑っているということではありませんよ。 でも 言葉とは時として むごいほど微妙ですね。 はっきりと これは(A)(B)二つに読めてしまうところだと思います。 * では、ともかくここでは(A)の場合を想定して 話を進めておきます。 ↓ 「世の中成るように成る」という文は 運命予定説にもつながる文としても読み取れますが、 もう一つ「世の中成るようにしか成らない」といういう文の裏返しとしても読み取れる文とも思います。 そして、この「世の中成るようにしか成らない」という文自体もまた いろいろ解釈が出来てしまうものなのです。 「だから どうにでもなれ どうでもいいや 世の中なんて」という発想にもつながる解釈が あるう一方、 でもこれは 人間の小ささの自覚の問題を訴えるものとも言えます。 明日 私の命は無いかもしれない。 あるいはそういう命であるということの自覚です。 そしてその自覚からは “世の中 「賭けでしかない」”というこれも2つにとれる考えも生まれます。 “価値なんて言うものはこの世には無いんだ”という 投げやり性にも受け取れますし、 一方は“ 何事もやってみなければならない、 そのうえで限界を見極め ことを決定すべきなのであって ともかく相対的な存在である人間はそうやって前に一度進んでみるしかないのだ”という真反対の科学愛や実験精神の必要性を訴えている良心の叫びとも受け取れる言葉なんです。 どういう人が言っているのかによっても まったく異なってしまいますし、 その微妙な判断は 文だけですとよほど総合的にその人の文をよく読みこなしてからでないと はやとちりして逆の読んでしまう場合もある言葉であり文だと思います。 そのように、二重にも三重にも読み取れてしまうそちらの問いかけ、 その部分が引き伸ばしになった因の一つです。 * あの文だけでは、Kiさんの何が深く問題なのか はっきりわからなかったので  何も答えることは出来ませんでした。 * しかしながら、 この文明の世の中の 「成るようにしか成らないさ」その混迷さの深さは、深いです。 そう思ってしまう人が 大勢いたとしても不思議ではないかと思います。 それでもなお闘うのが いえ出来ないと解ってさへ前に進み続けようとするのが人間の良心だという主張ならば、 それは私の考えと同じであり、 その意味で「成るようにしか成らない」という考えを否定する気持ちも同じです。 しかし、そのあまりにもの根深さを考えると、心虚無の暗闇にあえぐ、あえぎ苦しむだけの人の心にも  もっともっと、まず寄り添うところから 説得したい気持ちになるのが私の  気持ちなのですが、  そのへんが理論的にどこか甘かったりするのでしょうか? もし、私がKiさんの心に虚無の闇の中のあえぎをみたのならば、 私ならば対立する形は出きるだけまず避けます。    そこを あのように取り上げたのは、やはり  そちらが人間の弱い姿の一つとして何か、攻撃により感情的になってしまい 時としては傷ついてしまうのかな、 と今は思えてしまっているということなのです。 いや、そうではなくて、 愛がゆえに、Kiさんに“重大な思想の地点にて論議なので逃げないようにと促されている”のだとしたら、    これは、 言葉 表現の世界の難しさの問題が ここに大きく立ちふさがっている問題なのでしょうか? * ここにても 「成るようにしか成らなさ」の混迷は深いです。 そしてその「成るようにしか成らない」とい考えを否定してあげるとしてその場合の対応法も また難しいはずです。 簡単に その考え(思想)により添っていっしょに考えてあげる優しさが必要とも言えませんし、 つまりそういう道徳規範だけでは考えられない地点ですし、 かと言って そういう考えをずばり否定してあげる厳しさという 道徳も同じように簡単に     たしかに道徳規範だけでは考えられない難しさを持っていたりします。 両方とも 愚の骨頂とまでは言えないでしょう。   ならば何が 必要なのか?   私は それを 感性の進化による説得の道筋として 主としてその面からとらえます。 この場合、 寄り添うしかない という考えとなります。 そこを そちらは信仰の理論として考え、対立は対立とするのかもしれません。 でも それのみでは それ自体解決しない、 あるいは 両方の考えがここには必要というのが私の考えです。 その道はきびしい。 しかし希望はあり 希望はすててはならない。 これが私の考えです。 あくまで「世の中成るように成る」は ここにて否定します。 あるいは、今となっては そんなこと言う資格の無い人間なのかもしれませんが、 Kiさんのことであれば そんな感想をここに回答しておきます。 * ★蚊論争 については、 違い自体は やっと私も解ってきたきがします。 法学理論のあたりは わかりませんが  言葉の意味合いの違いはです。 しかし、    これは、   感性のあたりの違いから来てると思いました。 と、これもまた 表現の違いの問題にすぎないのかもしれませんが、 感性の専門家が論争してはならない地点と認識せざるを得ません。 * では、 もしかしたらですが、 しばらくお会いできないかと思いますが、  ご活躍お祈りしております。(とくに、この論議の発展をねがっています。) 反省と勉強と そして実践と 生活の建て直しにしばし、集中させていただきます。

noname#80116
質問者

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。    まづ 《ひとを傷つける》ということについて 質します。  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ありません。あり得ません。  2. 外から来るその何かをめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分をあざむくやましさを持っていたときには それによって 傷つくということだと考えます。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合 それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるという意味になります。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになります。存在は 関係性より成っているからだと考えます。  ★ 《ケ・セラ・セラ》の思想問題を なぜ 持ち出したのか。  ☆ あなたとの間で その内容をめぐって 対立しているからです。その対立が この際 持ち上がったからです。  ★ 二点目  ☆ は (A)(B)どちらでもありません。《ケ・セラ・セラ》の考え方を arayata333さんが 今後 部分的にでも 肯定しつつ 持つとなると この際 行き着くところまで 論議を尽くしておかないと 話が 何も進まないという意味です。このくらげのような思想が どこからともなく 勝手に 入ってくると(という意味は arayata333さんが その思想に 突然 逃げ入るようであるなら) いちいち そのつど 議論を余儀なくされます。    ○ 神を抱くことと 運命予定説とは 何の接点もありません。仮りに 運命があるとすれば それは 神が決めます。だったら 運命によって成るように成ることは いっさい ありません。  ★ 世の中 「成るようにしか成らないさ」〔と見えるとき〕・・・〔成らない・〕出来ないと解ってさへ前に進み続けようとするのが人間の良心だという主張  ☆ ではありません。有効な思想が 現実に《成らない》のは 既成事実としての有力が 前に たちはだかっているからです。有効だが 無力であり 既成事実は ほとんど無効だが有力なのです。ただ それだけのことです。  歴史を ご破算で願いましてはというように 元にもどして 始めるわけには行かないというただそれだけの理由です。有効は どこまでも 有効でありつづけます。  ★☆ 寄り添う寄り添わないは 理論とは 別です。自由です。  ☆ kiさん自身の問題は ここで 扱いません。その意味は わたしとkiさんとの関係としては もうじゅうぶんやり取りを尽くしているという意味です。馬を水飲み場まで連れていくことは出来ますが 水を飲ませることは出来ません。もう 何の問題もありません。  ひとこと言っておけば 神話の神々と信仰の神とのちがいを分からないし分かろうとしないのですが この問題については 学習効果はゼロです。このように ここでも 触れておけば 何らかの効果は出るかも知れません。ただし この場は arayata333さんとのやり取りの問題です。余計な口を差し挟んだことになります。余分なことに触れることによって arayata333さんの理解がすすむと考えるからです。(この前のごとく 勘違いはあります)。  ★☆ 再度 寄り添うのは 自由です。この場合には 相手が 去って行ったわけですから 追わないというのも ふつうの対処の仕方になります。  ★ 蚊論争と感性  ☆ 《無効》の問題をめぐっては 違います。別です。  要するに ものを盗んだとすれば その品物を 持ち主に返します。つまり 盗みという行為は 無効であって すべてのものごとを 原状に復帰させるのが 絶対要請です。それだけのことです。  時間を元にもどすことなど出来ないのですが 考え方の上では 無条件に 原状復帰です。  行為は 有効であり 一般に認められる。ただし その行為は 蚊が刺したようなものだとたとえる。これは つまり 一種の気休めですね。なぐさめです。  無効の宣言によれば なぐさめる必要が ないわけです。なかったことになるからです。人情の問題として 《蚊が刺しただけ》という表現を採ってみるということです。

関連するQ&A

  • 道徳って何ですか・・・

    カテ違いだったらすいません。 大人になってみて、ふと疑問に思います。 道徳って何ですか? ちなみにgoo辞書だと以下のようになってます。 ---------- 1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。 2 小・中学校で行われる指導の領域の一。昭和33年(1958)教育課程に設けられた。 3 《道と徳を説くところから》老子の学。 ---------- 知りたいのは、1と2についてです。 (3から派生されているのでしょうけど) 道徳を「身につける」?にはどうしたらいいのでしょう。 義務教育時代に習ったことは覚えていません。 きっとちゃんと身についてるのだと思います。 明示的なものでなく、感覚的なものなのか。 大人になったら、社会から学ぶものでしょうか。 何か、参考になる本とかあるのでしょうか。 倫理と関係していますか。 考えれば考えるほど分からなくなってきます。 いろいろなご意見頂きたいです。

  • 道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

     ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いです。    趣旨説明です。  《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう?  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。  * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。   cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。  5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。  こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?  * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから  ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。  * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。

  • 思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが

    思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?  ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。  亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。  前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。  後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。  ご見解ご批判をお寄せください。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • 「罪に服する」は、おかしな日本語ですか?

    土屋道彦という人の書いた「おかしな日本語、正しい日本語」という本を読んでいたら、 「『すべてを申し上げて、罪に服したいと思います』はおかしい。服するとは、納得して従うことである。納得して罪に従うなどというのはおかしなことである。恐らく『刑に服する』の間違いであろう。」 というお話が出ていました。 辞書で【罪】を引きますと (1)法律的・道徳的・宗教的な規範に反する行為。「―を犯す」 (2)(1)に対して負うべき責任。また、それに対して科される制裁。刑罰。「―に服する」 と出ていて「罪に服する」の用例までキッチリ出ています。 それでも土屋先生の仰るように、『すべてを申し上げて、罪に服したいと思います』はおかしいのでしょうか? 教えてください。 Goo辞書↓ http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BA%E1&kind=jn&mode=1&kwassist=0

  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

  • 宇宙と人間は偶々生じてきたのですか?

     http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1285468867 に人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)と宇宙の森羅万象, 万物に関する規範的関係性について質問があります。  要するに、人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)も、そして宇宙の森羅万象, 万物も偶々、勝手に生じてきているのではなく、当為規範的に存在するのではないか、という質問です。  皆さんにおかれては、この辺り(あたり)のことはいかがご批判されますか?  人間の宗教や哲学は宇宙万物に基盤を持ち、宇宙万物に価値的に関与する必要を意識しなければいけませんよね。