• ベストアンサー

道徳規範は 愚の骨頂

bananasandの回答

  • ベストアンサー
回答No.32

ちょっと基本事項を整理します。 まず、法律及び道徳規範の外面性と道徳の内面性、 法律の国家による強制と道徳規範の強制がない部分を図にしてみました。 A部分は、内面的道徳だけ、Bは、強制力を伴わない道徳規範だけ、 Cが法律の実体法、Dは法律の中で道徳とは関連のない手続上の決まりなどの部分で、 Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。  法律Cはよく言われる最低限度の道徳とされ、行為が現実に行われたことを問題として, それを評価の対象とするのに対し,道徳は,人の心理の内側を問題として行為の動機を 重視します。法律C部分は、「人間がいるところ争いが起こる」がその存在理由です。  動性道徳は、道徳における「行為の動機」を形成する非常に帯域の広い内面を 各個人が熟成させることであって、この広がりによって結果として究極的にBC部分が 形骸化されることです。  国家による強制力の発動は、そういう意味では形式上最低限に抑えられている ことにはなっていて、国家対個人の関係では自由の保障がされてもいます。  そして、一階と二階では、憲法で一階が主体であることが謳われているわけですが、権力は 実質的に二階に存在します。法律Cを最低限度の道徳としながら、二階の詔勅等E部分を一階に強制すると 上記の形骸化がなされないどうしようもない部分ができることにはなりますね。でも、一階には これを排除する力が法律Cによって与えられています。  なにが言いたいかというと、法律、規範には、究極的に形骸化できるものC部分と なしえないものE部分があるということであり、なしえないものは排除しなければならないという ことですね。  そして、前回、規範の存在を意識することのない人間が存在していると記載しましたが、 単に気ままな暮らしをしていると言うことではなくて、やはり、気づきが重要で、 排除すべき規範への気づき、規範の限界への気づき、及び帯域の広い内面の熟成によって、 規範BCから自由になります。  あと忘れてはならないのは、この全体が時間経過に伴って変化するということに対して、 規範も、法律もその静的態様からCがEに変質することがあると言うことですね。  結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 動性道徳の不存在がその理由となります。つまり、それがあるなら、BCは自然と 形骸化するということで、二階からのEの強制は排除、Cの強制は即形骸化します。  規範という帯域の狭い情報に、帯域の広い動性が縛られてしまうのは、内在する道徳の不存在 ということでしょうか。二階にいる人の言葉には弱いということも、宗教の話もこの二つで 説明できるように思います。    

noname#80116
質問者

補足

 bananasandさん とうとう 佳境に入ってきましたね。ご回答をありがとうございます。  ▲ 《ハドソン川の奇跡》 《ハドソン川の英雄》  ☆ の話が しきりです。最後に いま一度機内を見まわって 残った人はいないかを確認してから この機長は 脱出したそうです。Bravo !  ところで このとき 危機管理のマニュアルとしての対処法と そして 道徳上の対処の仕方とが あるかとも思われます。《機長や船長は 飛行機や船と 生死をともにするのだ。危機を脱出するのは とうぜん 乗客乗員すべての最後である》という考え方を 規範ととるか もっとも合理的な対策として考えられたものととるか。  こう考えると どうも 帯域の広い《道徳》というときに わたしは 動性道徳とさえ言わずに もしくはその枠をも超えて 思想または生活態度あるいは行為形式と呼んで捉えたほうが よいように思うようになりました。  例の将来の歴史に向けての行為形式を 方程式と呼びましたが そう呼ぶ限り まだ 規範に近い感覚が残ります。思考実験を煮詰めたあとに残る合理的な形式も 規範のにおいがしないでもない。  ですから ちょうど 法律を 実体の部分と手続きの部分とに分けて捉えたように 基準や原則として扱われる行為形式については 規範の部分と手続き上の規則の部分とに 分けてみるとよいかも知れないと思ったのです。  言いかえると A・B・C・D・Eの全部を包含する X なら X を 思想哲学あるいは生活態度ないし行為形式として さらに 設定してみると どうですかね。あるいは こう言えるかも知れません。つまり 《思惟・内省=生産・行為形式》です。いちど こういう用語を作ったことが じつは ありました。帯域が広いでしょう?  その利点は たとえば 《動機》を 必ずしも 扱わなくてもよい。あるいは 規範化の問題について 特別のかたちで 《気づき》として おしえ合わなくてもよいかも知れない。  ★ Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。  ☆ このEも いかに 不合理なものであろうと 広く人間の思惟=行為の形式であるとして その基礎の上に乗っけておくと そのEを持ち出してきて取り立てようとする相手に対して それもそうだがうんぬんと言って切り出していくことができる。  あとは 二階族の言語習慣の問題になるでしょう。その方言の特徴や 表現形式の特徴などなどを 基本的に押さえて認識しておくと きわめて便利になると考えられます。  ひとつ 最初に思い浮かぶのは 何でもかでも 相手の思想(思惟=行為形式)を 先取りすることです。おれは おまえの考えや思いを知っているぞ あるいはおまえの心をちゃんといつも思っているのだぞと 思わせようとするその手法のことです。先取りと言っても 時間的なあとさきであるよりは 考え方において おまえの思考や思いを包むほどの思いを おれは 持っておるぞと思わせるものです。  世間の誰が 分からなくても おれだけは おまえの気持ちが分かる ようく分かるという態度を 持ち続け たとえ勘違いが 途中で 見つかっても 絶対的に 初めから 分かっているのだぞという姿勢を崩さない そういう方言形式です。(アマテラス語とは 誰かが 言っていました)。(これだけでは ありません。いろいろ あるはづです)。  ★ 結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 / 動性道徳の不存在がその理由となります。  ☆ ですから 別の角度からみつめつことも出来るわけです。《気づき》については アマテラス語方言の表現形式を知らないゆえ 気づかないのだとすれば その表現形式の特徴を分かれば そうとう 効を奏す可能性がある。あるいは 《動性道徳の不在》という観点から見るほかに 別様に 最大限に広い帯域としての思想(思惟・内省=生産・行為形式)が あいまい・あやふや・はにかみやの傾向を持ち ともかく 思考の訓練が まだまだ なされていないという観点から 捉えていくなら いいかも知れない。つまりは 《動性道徳》を旗印にして掲げつつ 説いていくと またまた 規範として間違われるおそれがある。――以上のごとくです。    * 今回は 試行錯誤でよいと思って 荒削りのままです。

関連するQ&A

  • 道徳って何ですか・・・

    カテ違いだったらすいません。 大人になってみて、ふと疑問に思います。 道徳って何ですか? ちなみにgoo辞書だと以下のようになってます。 ---------- 1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい行為へと促す内面的原理として働く。 2 小・中学校で行われる指導の領域の一。昭和33年(1958)教育課程に設けられた。 3 《道と徳を説くところから》老子の学。 ---------- 知りたいのは、1と2についてです。 (3から派生されているのでしょうけど) 道徳を「身につける」?にはどうしたらいいのでしょう。 義務教育時代に習ったことは覚えていません。 きっとちゃんと身についてるのだと思います。 明示的なものでなく、感覚的なものなのか。 大人になったら、社会から学ぶものでしょうか。 何か、参考になる本とかあるのでしょうか。 倫理と関係していますか。 考えれば考えるほど分からなくなってきます。 いろいろなご意見頂きたいです。

  • 道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)

     ○ 感情をあらわにするのは なぜ いけないのでしょう?  ☆ という問いです。    趣旨説明です。  《心が傷つく》ということは 次のようだと考えます。それによると 気持ちを明確に表に出したほうが よいと 一般的に言って 思うのですが いかがでしょう?  1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ない。あり得ない。  * 《悪は 存在しない》――すなわち 内面において おのれの自由意志が へそを曲げることによって 心のゆがみとして 悪は起きるが ならば 悪は 少なくとも 外面には 存在していない――ゆえ。   cf.《Q: 悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html  2. 外から来るその何か(悪のようなもの)をめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分の心をあざむくやましさを持っていたとすれば そのときには その歪みによって 傷つく。  3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合がある。それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるというに過ぎない。  4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになる。  5. 存在は 独立存在であると同時に 社会的な関係性よりも成り立っているからである。  こうして (2)の場合を除けば ひとは 感情をあらわにして 相手に対して 問い質すのが ふつうであると考えますが いかがでしょう。なぜ 常識は そうではないのでしょう?  * この《なぜ》のほうは 《Q:道徳規範は 愚の骨頂》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4607794.html において みなさんから  ご回答をいただき――ありがとうございました―― かなりのところまで 迫ることが出来たと考えております。  * そのつてでは 《〈羞恥心〉現象》――この内容については 上の質問のNo.24&26を参照されたし――が はにかみ屋のおとなしさから 明るい開いたおとなしさへと 世界の窓を開け道を拓いたという見方が出ています。続編としての質問ですから そのあたりについても どうぞ 自由なご見解をご教授ください。

  • 思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが

    思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?  ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。  亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。  前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。  後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。  ご見解ご批判をお寄せください。

  • 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?

     哲学として定義してくださいませんか?  宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。  質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。  1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。  7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。  10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。  12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。  15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。  16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。

  • キリストは勝手に人間となり 磔に遭って死んだのだ。

     =( a )とします。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に成った。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( b-1 ) 原罪をあがなってやったなどと言うはずがない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。  ( f ) つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( g ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( h ) 思考の対象である教義を 《非思考としての 信じる》と言ったり その教祖や組織の長への崇拝のようなかたちにおいて やはり《信じよ》と言いがちであったりして 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( i ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( j ) 神はその名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( k ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?

  • キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭ったのだ。

     ( a ) キリストは勝手に人間イエスとなり 磔に遭って死んだのだ。  ( b ) もし人びとの罪を取り除くために〔のみ しかもそれを人びとにうったえようとして〕やって来たというのなら それは 当世流行りの《自己主張》である。  それのみである。ただ人間としての自己主張であるに過ぎない。  ( c ) 弟子たちを初めとする人間から見れば 自分たちの原罪をあがなってくれたと受け取ったであろうけれど  ( d ) キリストの側から見れば すべては勝手にイエスというふつうの人間となって 勝手にふるまった。振る舞った結果 人びとの手にかかりその手によって十字架上の露と消えた。  ただこれだけの話である。  ( e ) だから 思考にあらずという意味での《非思考》として 人間にとっては 《信じる》があるということを知らしめた。つまり 信じるのは何かといえば 神(もしくは 無い神)であるというその神を――言葉や思考を超えて――指し示した。  これだけのことである。  ――ご教示ください。   *   ( f ) クリスチアニズムなどなどの組織宗教は 問題ではないということです。  ( g ) 思考の対象である教義を その教祖や組織の長への崇拝とともに 絶対的な規範とする《宗教体制》は 屁の河童であるということです。  ( h ) キリスト・イエスが そのこと・つまり宗教は要らないということを指し示したのだと。  ( i ) 神の名前は違っても 人間にとって信仰の類型としては けっきょくひとつであるのだと。  ( j ) わが心に非思考の庭が成るということ そしてその持続過程が 信じるという動態だと。  さて是非は いかに?  

  • 「罪に服する」は、おかしな日本語ですか?

    土屋道彦という人の書いた「おかしな日本語、正しい日本語」という本を読んでいたら、 「『すべてを申し上げて、罪に服したいと思います』はおかしい。服するとは、納得して従うことである。納得して罪に従うなどというのはおかしなことである。恐らく『刑に服する』の間違いであろう。」 というお話が出ていました。 辞書で【罪】を引きますと (1)法律的・道徳的・宗教的な規範に反する行為。「―を犯す」 (2)(1)に対して負うべき責任。また、それに対して科される制裁。刑罰。「―に服する」 と出ていて「罪に服する」の用例までキッチリ出ています。 それでも土屋先生の仰るように、『すべてを申し上げて、罪に服したいと思います』はおかしいのでしょうか? 教えてください。 Goo辞書↓ http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BA%E1&kind=jn&mode=1&kwassist=0

  • 《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?

     《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?  ( a ) おそらく信じる対象は 《非経験の場》だと考えられるが 信じる行為は この現実における経験行為である。  まづは こう考えますが きちんとした哲学としての定義を問い求めます。      *    宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのと言うことを聞きますが それはマチガイでしょう。  ( b ) 《おしえ》は あくまで経験思考の対象です。それは 《考える》です。  ( c ) 考え思っていることを つよく念じてその内容をつねに心がけるといったこと これも 《信じる》ではありません。それは 信念とか信条とかと言います。  あたまや感覚ですでに知覚し認識していることを《信じる》気遣いはあり得ません。  《心がけ》などをめぐる信念は それを《信じる》という言葉で表わすこともあるのは あくまで文学的表現ないし修辞学の問題でしょう。《強く思う》と言いたいところを 《信じる》と表わしてみた。こういうことでしょう。  ですから 信念や信条とそして《信じる(信仰)》とは 別です。  考え思うことは 経験合理性にもとづき何らかの根拠のあるものです。もしくは 根拠がそのいま科学的に問われているものごとです。  根拠が問われていること――因果関係や相互の作用関係などについてその根拠が問われ得るものごと――については たしかに一方で仮説を信じるというふうに表現したりしますが それも言葉のあやであるに過ぎず いっさい《信じる》とは別です。《考える》です。  言いかえると   ( d ) 無根拠――もしくは 根拠について分かるか分からないかが人間には分からないものごと・さらにあるいは 因果関係から自由な《非経験の場》―― これについて人は 《信じる》と言うのだと考えられます。  ( e ) この《信じる》は 包括概念であり そこに《信じない》をも含みます。この《信じない》と《狭義の信じる》とは 互いに同等でありその選択は 人にとって自由です。       *  さらに質問者の考えをたたき台にしてしるします。  1. 《信じる》は 思考に非ず つまり非思考という行為である。  2. 思考は 経験合理性にもとづき――その非合理性をも人間の境地において引き受けることさえありつつ――考えをすすめることである。  3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を 無根拠として 心に受け容れるということになる。  4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明け これが《非思考の庭》である。思考はいっさい無い。しかも行為は 経験行為としてある。  5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもこの無根拠を心に受け容れるという時点では じつに人間のそして《わたし》の経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。  6. 《信じない》という賭けのばあいは 領収証を発行しないという領収証を切ったことになる。それが 人にとって 《信じる》という普遍的な経験行為である。これは おそらく万人にとってその存在にかんする 人間の条件である。  7. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。したがって《神を信じない》のは 《〈無い神〉を心に受け容れている》ことであり それは 無神論としての《信じる》である。  8. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。  9. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばにして言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。  10. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとして取り上げそのうえ教義や道徳規範として押し戴く場合がある。組織宗教である。  11. クリスチャンやブディスト――それが有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげる場合がある。これは 信仰ではありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。  12. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》よりほかのことではない。  13. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合にも社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。  14. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。  15. 現行の憲法では 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰〔の姿勢〕を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自由への殺害行為であり 違法行為である。  16. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。それしかない。人びとのきづなしかない。  17. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は そのヒエラルキアにおいて信仰の自由を侵すならば 欺瞞である。

  • 宇宙と人間は偶々生じてきたのですか?

     http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail.php?qid=1285468867 に人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)と宇宙の森羅万象, 万物に関する規範的関係性について質問があります。  要するに、人間の存在と行為(思考や生理作用、並びに感覚活動や受感構成、そしてそれらのreactionを含む)も、そして宇宙の森羅万象, 万物も偶々、勝手に生じてきているのではなく、当為規範的に存在するのではないか、という質問です。  皆さんにおかれては、この辺り(あたり)のことはいかがご批判されますか?  人間の宗教や哲学は宇宙万物に基盤を持ち、宇宙万物に価値的に関与する必要を意識しなければいけませんよね。